第五福竜丸と大石又七さんからのメッセージ

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 4月14日、都立第五福竜丸展示館で行われた触察ツアーに参加しました。第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんを迎えてお話を聞くこともできるという企画で、前回は参加できず、今回ようやく参加しました。とても印象深く、心動かされるものでした。
 以下の文章中[ ]内は補足的な説明です。また、『第五福竜丸とともに  被爆者から21世紀の君たちへ』(大石又七お話 川崎昭一郎監修、新科学出版社 2001年)、『第五福竜丸 ビキニ事件を現代に問う』(岩波ブックレット No.628、川崎昭一郎著、岩波書店 2004年)、『第五福竜丸から「3.11」後へ 被爆者大石又七の旅路』(岩波ブックレット No.820、小沢節子著、岩波書店 2011年)、『核の海の証言 ビキニ事件は終わらない』(山下正寿著、新日本出版社 2012年)、この触察ツアーの企画者から送られてきた「大石さんからのメッセージ」(2015.5.30.)、高知新聞に連載された「灰滅の海から」などを参考にしました。

 企画者から送られてきた案内文には、「1954年3月1日、北西太平洋沖・ビキニ環礁で行われた水爆実験は、近隣の住民や現地で操業していた無数の船を巻き込み、自然にも人の暮らしにも、今なお影を落とし続けています。第五福竜丸も、その瞬間を目撃した船のひとつです。数々の厳しい状況をくぐり抜け、現在は東京・夢の島公園で保存・公開されています。それから60年あまり後の2015年、当時乗船していた元乗組員・大石又七さんを展示館にお招きし、船と大石さんが制作された模型に触れながら、お話を伺うというワークショップを行いました。手と対話を通して過去と現在に触れ、ものと人同士が心を通わせる時間は、忘れがたいものとなりました。その対話と触察の時を、またいつかもう一度出来たら…と願い続けていましたが、今回、ふたたび実現の運びとなりました。前回の単なる再現ではなく、この時に集まった人たちだからこそ出来る、またとない時間にしたいと思います。」とあります。
 私は自宅を5時半に出て、新木場駅に10時前に到着、間もなく10人弱の人たちが集まり、夢の島公園にある第五福竜丸展示館に向かいます。私の手引をしてくれた方は私より数年年配の方で、小学校3年生の時に第五福竜丸事件のことや久保山愛吉さんのことが話題になったそうです。
 10分ほどで展示館に到着、早速手引している方が実物の第五福竜丸の船体を、船尾から船首のほうへと、次々と触らせてくれます。最初に、幅3mくらいはあるような大きな木の分厚い板のようなのがぶら下がっていて、これは舵だとのこと、その前には鉄のスクリューがあります。片側だけ触りましたが、たぶん直径は1.5mくらいはあるでしょう、中心には太い鉄の棒もあります。さらに少し進むと、錆びついた錨と鎖がありました。(触れられたものでは、スクリューと錨と鎖以外はみんな木製でした。)頭の上のほうには、船尾の船底が斜め上にひろがっています。さらに進むと、船の中央部の側面はほぼ垂直になっていて、箱のような形のようです。船首のほうへ進むと、だんだん細くなり上のほうにもカーブしています。船首をできるだけ確かめようと杖を伸ばして触ってみましたが、半分くらいの高さまでしか届いていないようです(たぶん全体では5、6mくらいの高さになるようです)。
  [第五福竜丸は、1947年に和歌山県古座町(現串本町)で鰹漁船第七事代丸として建造され、4年後に静岡県焼津市でマグロ延縄漁船として改造される(1952年4月にサンフランシスコ講和条約発効に伴いマッカーサー・ラインが廃止されて太平洋の遠洋でも漁業ができるようになって、遠洋マグロ延縄漁業が盛んになった)。木造船のため最大限度の100トンで許可されているが、実際は140トンだとのこと。焼津港から1953年6月に第1回目の延縄漁に出、54年1月22日、乗組員23人を乗せて第5回目のマグロ漁に出港。現地時間3月1日6時45分、マーシャル諸島のビキニ環礁の東北東160km付近で、14回目の投縄をした直後、アメリカの水爆「ブラボー」の実験に遭遇(ブラボーの爆発位置:東経165度16分19秒 北緯11度41分50秒、第五福竜丸被災位置:東経166度35分 北緯11度53分)。鮮やかな光と夕焼けのように赤っぽい太陽、10分後くらいに地鳴りのような轟音、天気が急変して2時間後くらいから強い風と雨、そして半日近く放射性降下物(fallout。日本では「死の灰」)が降り積もる。急いで投縄をして日本に向い、3月14日焼津に帰港。1956年に文部省が第五福竜丸を買い上げ、改造されて「はやぶさ丸」として東京水産大学の練習船になる。1967年には廃船となって解体業者に払い下げられ、エンジンやスクリューなど売れる部分は取り外されて、東京湾の夢の島に捨てられる。翌年からゴミとして捨てられている第五福竜丸を放っておいてよいのか、なんとか保存しておかなければと市民運動が始まり、埋立地に設けられた夢の島公園に1976年に開館したこの展示館に、ビキニでの事件を後世に伝え、党派を越えて平和を願うシンボルとして展示される。]
  [アメリカは1946年から1958年までマーシャル諸島で計67回(ビキニ環礁で23回、エニウェトク環礁で44回、爆発エネルギーは合せて108Mt)の原水爆実験を行った。ブラボー実験は、1954年3月1日から5月14日にかけて行われたキャッスル作戦と名付けられた6回の水爆実験の第1回目で、予想をはるかに越える15Mtの威力だった。3つの島がなくなり、直径2km弱、深さ100mくらいのクレーターができた。(その後、3月27日 11Mt、4月7日 110kt(失敗)、4月26日 6.9Mt、5月5日 13.5Mt、5月14日 1.7Mtと続く。2月半の短期間に約48Mtの水爆実験をしたことになる。)第五福竜丸は水爆ブラボー実験に遭遇してただならない異常事態だと判断して帰途に向かうが、当時この海域では多くの漁船が操業しまた貨物船なども航行していて被災した。水産庁に残されていた1954年11月30日付の資料には、被災漁船総数が1423隻になると記され、また「毎分100カウント以上の放射能が検出された漁獲物は廃棄処分とした」として、汚染魚を廃棄した漁船は992隻と記されていた(ビキニ核実験 被災は1423隻 文書に記載より。ただし、船名など多くが黒塗りされていたとのこと、60年以上も経っているのにどうしてこんなことをするのか、将来のために歴史を明らかにすることのほうがずっと公益性があると思うが)。1隻当たりの乗組員の平均を20人とすれば、延べ人数約3万人が被災したことになる。さらに日本の漁船などだけでなく、マーシャル諸島の住民たちも被災していた。ビキニ環礁住民は強制移住させられていたが、爆心地から東約200kmのロンゲラップ環礁の82人(その中の18人は近くのアイリングナエ環礁で被爆。また妊娠女性4人もいた)、東約570kmのウトリック環礁の157人(この中にも妊娠女性9人がいた)、東南東約530kmのアイルック環礁の400人以上をはじめ、マーシャル諸島のほぼ全域の住民が被災したと思われる。なお、爆心地から東約270kmのロンゲリック環礁には米軍の観測員が28人いて、彼らも被爆した。]
  [世界全体では核実験はこれまでに2000回以上行われている。判明している世界各地の核実験によれば、その中で、各国が行った大気圏での核実験の回数と合計メガトン数は次の通り。アメリカ:215回、141Mt。ソ連:219回、247Mt。イギリス:21回、8Mt。フランス:50回、10Mt。中国:23回、22Mt。合せると約430Mtにも達する。大気圏で広島原爆の約3万発分に当たる核爆発がなされたということで、近隣の住民だけでなく、大気や海洋、生態系を通して世界の人々への放射線の影響はけっして無視できない。]

 船首付近で皆さんが集まり、簡単な自己紹介です。ツアー参加者、展示館の館長はじめスタッフの方々、この企画をされた方や協力者、そして大石又七さん等、計15、6人くらいです。大石さんの自己紹介では(そしてその後のお話でも)、第五福竜丸について語るようになって、いろいろ調べてみるとアメリカだけでなく日本も協力して隠していたことがたくさんあって、腹が立ってならない、また、仲間たちが次々と亡くなっていくなかでこうして生き延びているのは神様が話すようにとさせるためかも、というようなことを話されていました。[大石さんは1934年、静岡県吉田町生まれ。14歳で、中学を中退して漁師として鰹船に乗る。5年後マグロ船第五福竜丸に甲板員・冷凍士として働くようになる。1954年3月に被爆後、1年2月間入院、55年5月に退院(この時乗組員22人が一斉に退院)するが、地元では見舞金として受け取った200万円にたいする妬みや差別がひどく、55年末には東京に移り、2010年までクリーニング店を営む。]
 その後は、大石さんが製作した第五福竜丸の模型をみんなで適宜触りながら、分からない所などを大石さんにおたずねし、また感想などもお互いに語り合います。この模型製作のきっかけは、1983年に展示館で町田市の和光中学の先生1人、生徒6人の前で初めて被爆のことを話した時です。生徒の中に目の見えないこ[高橋しのぶさん。東京外国語大学を卒業後、東京都内の盲学校で英語の教諭をしている]がおられて、その子にも他の生徒たちと同じように、船のこともふくめて分かってほしい、そのためにはどうすれば良いのだろうかと考えて、模型船を作ろうと思い、写真を見たりあれこれ思い出したりしながら半年余かけて作って中学校に持って行ったそうです(大石さんの心根がよく伝わってくる話ですね)。その後、なんと7隻、計8隻もの模型船を製作して、広島や長崎などに展示してあり、またマーシャル諸島にも持って行かれたとか。
 模型は長さ1mくらいで、両手を広げて触るのにちょうど良い大きさです。実物の30分の1だとのことですので、初めに歩きながら触った実物の船は前長30mくらいということになります。船体部分の高さは20cmくらいで、その上に2本のマストが50cmくらいの高さまで伸びています(実物では15mくらいの高さになりますね)。実物の船では片方の側面の下のほうだけを触っていたわけですが、模型では全体を触ることができます。
 船尾は反円形の曲線になっていて、下に舵とスクリューがあります。船の中央部は幅20cmくらいで箱のような形です。中央部から後ろの側面の両脇には幅3cmくらいの張り出しがありますが、これは最初の鰹漁船の時にはほぼ船全体をめぐるようにあったものを、マグロ船で必要な所だけにしたものだとか。船首の部分はすうっととがっています。船首と船尾近くにマストがあり、それぞれに右側から急な梯子が取り付けられています。この2本のマストの間には数本糸のようなのが渡されていて、これは無線通信に使われるものだとか。前のマストの後ろには幅10cm弱の薄いきれが張ってあって、これは船の速力を少しでも増すようにと風を受けて帆のような役をするためのものだとのことです。その後ろあたりには、延縄を巻き上げる機械があり、また引き寄せてきたマグロを突き刺して船に上げるための銛のようなもの、さらに直径1cmほどの何十個もの浮子などがありました。
 模型では浮子は直径1cmほどのビー玉をなにかで包んだようなものですが、実物の浮子も触りました。直径30cmくらいの、中が空洞のガラス玉で、回りは縄の網でしっかり包まれています。この浮子は1本300mの延縄に1個ずつ付け、また冷凍さんまなどの餌も付けて、それを170本連ねて、計50kmにもなる延縄を流すそうです。この投縄の作業に3時間以上、また揚縄しながらマグロなど漁獲物を冷凍処理するのに13時間かかるそうです。船体の前半分近くの10mくらいが冷凍室になっていて、船体の後ろ部分がエンジンルームになっているそうです。冷凍は氷だけを使っていて、ちょうどクーラーボックスのように、回りが発泡スチロールにコールタールを塗った?断熱材の中に細かい氷が入っていて、溶けた水を出しながら、パラフィン紙で包みさらに布で巻いたマグロの塊を入れたそうです。現在のマグロ船では -60℃で瞬間冷凍されて何年も長期保存されますが、当時は氷だけで0℃近くでしか保存できず、1回の航海も1月半くらいが限度だったようです(ただし、おいしさは、0℃くらいで保存された以前のほうがおいしかったとか)。最後となった5回目のマグロ漁は不漁で 9トンの水揚げだったそうです(50トンもの大漁の時もあったようです)。大石さんは、マグロを血抜きして処理しうまく冷凍することで定評があったようです(冷凍室から水を出す作業はたいへんだったと言っていました)。延縄にはマグロだけでなくいろんな魚がかかりますが、とくにサメが多くて、サメはしばしばマグロを食いちぎってしまい、残ったマグロの頭などは食べることもあったそうです。
 第五福竜丸の実物展示は、ビキニ事件を将来に伝えるシンボルとして重要ですが、造船史的にみても、現存する唯一の遠洋漁業用の木造漁船であり、また第二次大戦後に数多く建造された漁船の代表的な船型で、貴重なものだということです。(第五福竜丸のエンジンも、展示館前の広場に展示されています。廃船後、エンジンは貨物船第三千代川丸に移されますが、1968年7月濃霧のため三重県熊野灘で座礁して沈没、1996年12月市民の呼び掛けによりエンジンが引き上げられ、展示館に置かれるようになったとのことです。長さ6mくらいもあり、だいぶ風化してぼろぼろになっているようです。30cmくらいのレリーフがあって、それに触ってみました。)

 私は、大石さんが製作したとても精巧で細かい所まで1つ1つ手作りされている模型船に触りながら、そしてこれと同じ模型船を8隻も時間をかけて作っていったということに思いをはせながら、大石さんの心を強く感じました。きっと、というか間違いなく、1隻ごとに細かく作ってゆく過程で、ビキニのこと、それぞれの仲間たちのこと、とくに真実をほとんど知らされず何も言えずに亡くなっていった仲間のことなど、何度も何度も考え心に深く深く積み重ねていって、心を堅めて、その後の活動の方向を決めて行ったのではないでしょうか。また、よく調べてみると日米が協力して隠していたことがたくさんあったことも知り、腹が立ってしかたがない、そういう隠されていたこともなんとかしてみんなに伝えなければと、こうして活動を続けているようです。(そういう隠蔽体質は、その後もそして今も変わらない!)
 大石さんが模型船を製作していたのは1980年代です。それまでに亡くなった乗組員の年齢、および死因とされるものを以下に記します。
54年9月23日 久保山愛吉(無線長) 40歳(乗組員中最年長) 放射能症による肝臓障害 (大石さんは入院中久保山さんと同室だった)
75年4月11日 川島正義(甲板長) 46歳 肝機能障害
79年12月2日 増田三次郎(甲板員) 53歳 肝臓がん
82年6月18日 鈴木鎮三(甲板員) 57歳 肝硬変、交通事故
85年11月4日 増田祐一(操機手) 50歳 肝硬変・脳出血
87年3月6日 山本忠司(機関長) 60歳 肝臓がん・大腸がん
89年4月29日 鈴木隆(甲板員) 59歳 肝臓がん
89年12月8日 高木兼重(操機手) 66歳 肝臓がん
 乗組員ん23人中9人です(現在では生存しておられるのはわずか5人になっているとのことです)。40代から60代で、主に肝臓の病気で亡くなっています。その原因は私にはよくは分かりませんが、放射能の影響とともに、治療中に行われた輸血による影響もあるかもしれません。肝臓障害とともに、もちろんいろんな体調の不調をうったえていたはずです。大石さんはこのような何十年も経てからの病気や体調不良について、とくに内部被曝のことを強調されていました。

 ビキニ事件当時、アメリカは放射性物質は広くて深い海洋に拡散してしまって、爆心地から離れると影響は薄まりほとんどなくなると主張していました。第五福竜丸の持ち帰ったマグロでは表面の皮だけから放射性物質が検出されますが、4月になるとマグロのえらや胃内容物、さらには内臓からも検出されるようになり、さらに7月には血液や腎臓などからも高濃度の放射能が検出されるようになります。また、5月以降、ビキニから遠く離れたフィリピン東方域や沖縄近海などで漁獲されたマグロやカツオなど多くの回遊魚が汚染されていることが分かります。いっぽう、水産庁の調査線俊鶻丸が科学者22人を乗せて同年5月15日ビキニ海域に向けて出航、海水が予想に反して高濃度に放射能汚染されていること[ビキニ海域の海水では7000カウントを観測、海面から100m前後の深さから急に水温が下がっているので、放射能濃度の高い海水は暖かい表層に留まり深層の海水とはあまり混ざらない]、放射性物質が単純に拡散するのではなく、海流[北赤道海流。中米沖から北緯10度くらいから20度付近を西に向って流れ、フィリピン東方で南北に分かれ、南したものは赤道反流に、北上したものは黒潮につながる]に乗って放射線量の高い区域が広がっていること、さらに食物連鎖でマグロなどの大型魚の内臓に放射性物質が蓄積されて高濃度になっていることなどが判明します。
  [カウント:ガイガー-ミュラー計数管やシンチレーション計数管などの放射線測定器でカウントされる放射線の数。ふつう毎分のカウント数(count per minute: cpm)で表す。これはあくまでもそれぞれの測定器がカウントした係数であって、それぞれの測定器はある割合でしか放射線をカウントできないので、実際の放射線量(放射性崩壊の回数)そのものを表すものではない。放射線量の単位としては、ベクレル(Bq)がよく使われていて、1Bqは1秒間に1回の割合で崩壊することを表す。すべての放射線を測定器がカウントしたとすれば、100cpmは1.67Bqということになるが、実際の放射線量はその数倍から10倍前後になっているだろう。]
 当時は水爆で生じた各放射性物質について詳しく分析することはできませんでしたが、大石さんは27種類もの放射性物質が太平洋にまき散らされたと言っていました。その中から、内部被曝で主要因となると思われるいくつかの放射性核種についてみてみます。(内部被ばくなどを参考にしました。)
亜鉛65(原子番号29:これは核分列時にできる生成物ではなく、水爆に使われていた真鍮の中の銅63や亜鉛64に高速の中性子が当たってできる放射性物質です。半減期(物理学的半減期)244日でβ+崩壊して銅65になり、その時とても強いγ線を出します。[β+崩壊では、陽子が中性子と陽電子に別れて、質量数は同じで原子番号が1つ減る(この場合は原子番号30の亜鉛65が原子番号29の銅65になる)。このとき陽電子は瞬時にふつうの電子と対消滅するので、高エネルギーのγ線が出る。]上記の俊鶻丸の調査では、マグロなどの魚体内から海水中の1万倍もの亜鉛65が検出されていて、食物連鎖で高濃度に濃縮されたものと思われます。亜鉛は人間にとっても必要なミネラル分の1つで、成人の体内には約2gの亜鉛が含まれているそうです。亜鉛65もふつうの亜鉛と同じように吸収されて筋肉や骨のほか、肝臓や腎臓などにも蓄積され、肝臓がんや骨腫瘍に影響しているらしいです。
  [亜鉛65の生物学的半減期について調べてみましたが、933日とか400日とか、資料によってかなり差がありよくは分からなかった。生物学的半減期とは、生体に取り込まれた放射性物質などが代謝や排泄によって半分の量まで減る時間。ただし、生物学的半減期の値は、身体の各部位や年齢やその他の条件によってかなり異なるようだ。実際の生体内の放射性物質の量は、物理学的半減期と生物学的半減期を合わせた実効半減期で計算される。3つの半減期の関係は、(1/実効半減期)=(1/物理学的半減期)+(1/生物学的半減期)となる。]
ストロンチウム90(原子番号38):核分裂時の生成物です。半減期約29年でβ崩壊してイットリウム90になります(生物学的半減期は49年、実効半減期は18年)。[β崩壊では、中性子が陽子と電子に別れるので、質量数は同じで原子番号が1つ増す。]さらにそのイットリウム90は半減期64時間でβ崩壊して(この時強いβ線を出す)、ジルコニウム90になり安定します。ということは、ストロンチウム90を取り込んでしばらく時間が経つと、両方のβ崩壊が平衡して進むということです。ストロンチウムは化学的性質がカルシウムに似ているので(ともに周期表の2族)、骨中のカルシウムと置換して集積されます。そして骨腫瘍や白血病の要因になると思われます。
ヨウ素131(原子番号53):核分裂生成物です。半減期8日でβ崩壊し、強いβ線を出してキセノン131になります(生物学的半減期は138日、実効半減期は7.6日)。このキセノン131は高い励起状態にあり、強いγ線を出して安定した状態になります。人体のヨウ素の6割程度は甲状腺にあり、ヨウ素131も甲状腺に集積して、甲状腺がんや甲状腺の機能低下をもたらすとされます。
セシウム137(原子番号55):これも核分裂生成物です。半減期30.1年でβ崩壊してバリウム137の準安定同位体バリウム137mになります(生物学的半減期は70日、実効半減期は70日)。さらにバリウム137mは半減期2.55分で人体には害のない光子を出して安定したバリウム137になります。セシウムは化学的な性質がカリウムに似ている(ともに周期表の1族)ので、カリウムの代わりに全身の細胞内の電解質として取り込まれやすく、とくに筋肉や生殖腺に集積されるようです。そして白血病や不妊に影響するらしいです。
プルトニウム239(原子番号94):ウラン235の核分裂で放出された中性子をウラン238が捕獲してウラン239になり、それがβ崩壊してネプツニウム239になり、さらにそれがβ崩壊してプルトニウム239ができます。プルトニウムは天然にはほとんどないもので、それだけで猛毒です。プルトニウムは核爆弾として、また核燃料としても使われています。プルトニウム239は半減期24000年でα崩壊してウラン235になります。生物学的半減期については1年くらいから200年までと資料によってかなり値に幅がありますが、とにかく長いです。ある資料によれば、吸入摂取の場合、数十日から数百日の生物学的半減期で肺から出て、その一部は血液を介して主として骨と肝臓に移行し、骨からは生物学的半減期50年、肝臓からは20年で排出されるとなっています。肝臓がん、骨腫瘍、肺がん、白血病の発祥に影響するらしいです。プルトニウム239のα崩壊に関連して、フリーラジカルについて少し書きます(詳しくは放射線と環境を参照)。α線(陽子2個と中性子2個のヘリウム原子核)は、到達距離は極めて短いですが、体内では近接する分子(共有結合の分子。水分子であることが多い)にゆっくりぶつかって結合を切断し、共有結合に使われていた電子を回りに付けた原子や原子団を生み出します(これがフリーラジカル)。これは不安定で存在は短時間ですが、とても活性が高く、回りの細胞を作っている分子や遺伝子に損傷を与えるそうです。化
 以上5種の放射性核種についてみてきましたが、その他にも内部被曝を引き起こす放射性物質はたくさんあります。それぞれ影響が異なりますし、またそれぞれの放射性核種で複数の崩壊が同時に進行して影響を与えたり、ときにはフリーラジカルが出来て大きな影響を与えることもあります。さらに、高レベルの放射線量を1度にあびるよりも、低レベルの放射線を繰り返してあびたほうが影響がより大きくなるということもよく知られています。内部被曝についてはいろいろなことがあってとても書き切れませんし、また私自身十分には理解できないこともあります。内部被曝が直接の原因だと因果関係を明確にすることは難しいことが多いようですが、他のいろいろな要因とも重なって数十年後に影響が出るということは大いにあり得ることです。因果論的に証明できないからといって無視する立場もないとは言えませんが、確率的・統計的に可能性があれば、生命・生活の質にかかわることですから、しっかり見据えそれなりの対応・対策をしなければなりません。

 次に、ビキニ事件のいわゆる“政治決着”について書かなければなりません。
 日米両政府とも、当初からビキニ事件の影響をできるだけ広げない、日米の政策(とくにアメリカでは核兵器開発計画、日本ではアメリカからの原子力技術導入)に影響を与えないようにしようとし、そのために国民にはできることなら事実を隠そうとしました。
 まず、吉田茂の対米協調外交の忠実な推進者だった岡崎勝男外相は、ビキニ事件直後の1954年4月9日、日米協会でのスピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と述べたそうです。もちろん批判の声も多く、国会でも取り上げられています(例えば、1954年4月12日の参議院会議録情報 第019回国会 本会議 第32号を読むと、当時の状況がよく分かる。日本政府は現状にたいする対策はそれなりに行うが、政策としてはまったくアメリカ追随である)。
 また、Wikipediaの「第五福竜丸」の記事によれば、アメリカ政府は、第五福竜丸の被爆を矮小化するために、1954年4月22日、アメリカ国家安全保障会議作戦調整委員会 (OCB) は「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するためのアメリカ合衆国連邦政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする」と嘘の内容を明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていたそうです。そして、同年9月に久保山さんが死亡した時に日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、アメリカ政府は現在まで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けているとのことです。
 反核運動と原子力利用の関連についてみてみます。第五福竜丸で放射能汚染が確認されて以降、全国各地の港で汚染されたマグロなどが見つかるようになります。5月で水爆実験は終わりますが、その後も太平洋の広い範囲で操業していた漁船から汚染魚が見つかり、魚がほとんど売れなくなったりします(厚生省は魚や船体についての汚染は明らかにしているが、船員の放射能被害については明らかにしなかった)。また5月になると、強い放射能を含む雨が京都をはじめ全国各地で観測されて、不安が日本国中に広がります。さらに、9月23日には第五福竜丸の無線長久保山愛吉が亡くなります。日本は広島と長崎で原爆を経験しているのですが、全国の多くの国民が原水爆の恐しさを身をもって実感したのはこのビキニでの第五福竜丸被爆後のことだったと思います。5月には東京杉並で原水爆禁止を求める市民の署名運動が始まり、各都府県議会などでも原水爆禁止の決議がなされます。署名運動は全国各地に広がり、翌1955年8月6日に広島で開かれた「原水爆禁止世界大会」までに3000万以上もの署名が集まったと言います。
 反核運動はしばしば反米感情ともつながり、日米政府は対応を急ぎます。第五福竜丸事件と原水爆禁止運動内部被ばくはこうして隠されたによれば、1954年11月15〜19日に開催された「放射線物質の影響と利用に関する日米会議」(日本学術会議主催)で、米原子力委員会生物医学部のボス博士らが「ある基準に従って操作される検出器によって、魚から10センチ離れたところでガンマ計数管で毎分500カウント以下の放射能がある場合は、食糧として充分安全である」として、マグロの検査の打ち切りを求め、12月22日に原爆対策連絡協議会食品衛生部会が、マグロはもう大丈夫と発表します(当時はまだ各地の港で汚染魚はたくさん確認されていた。汚染魚の筋肉中の放射能は微弱で、また主要な汚染物質とされた亜鉛65の人体への影響はあまりないとされたようだ)。そして12月28日閣議が「放射能検査の中止」を決定し、厚生省が検査を同月31日で中止します。
 さらに政府はビキニ補償問題の交渉、解決を急ぎます。1955年1月4日、鳩山一郎内閣は初閣議で「ビキニ被災事件の補償問題の解決に関する件」を決定し、日米政府間で「交換公文」を交わします。内容は「アメリカ政府は日本国国民の損害の補償のため、法律上の責任の問題と関係なく慰謝料(ex gratia)として200万ドル[約7億2000万円]を支払う。原子核実験より生じた日本国及び国民の一切の損害に関する請求の最終的解決として受諾する」という、ちょっと唖然としてしまうようなものです。これに基いて、4月28日閣議決定でビキニ被災事件に伴う慰謝料の配分を決定、これでビキニ事件は完全な幕引きとされます。この間大石さんたち第五福竜丸の乗組員たちは入院していてあまり経緯を知ることもなく、一斉に5月20日退院、1人200万円の見舞金を受け取ります。退院後は、偏見や差別で居場所がないような感じで地元を離れる者もあり、再び船員あるいは漁業者となれた人は数人で、多くは別の道で生計をたてます。第五福竜丸の乗組員については定期的な診断が続けられましたが、ビキニの水爆で放射能をあびた多くの漁船については船名や乗組員の名前も明かにされず放っておかれます。数十年経って身体の不調をうったえる人が続出しますが、公にはビキニ水爆との関連は問題にされることはほとんどなく、ビキニ事件そのものも遠い過去のことになってしまいました。
  [慰謝料計約7億2000万円の配分は、治療費(主に第五福竜丸乗組員):2547万円、慰謝料(主に第五福竜丸乗組員):5426万円、漁獲物廃棄による損害:7929万円、危険区域設定による漁船の損害:5116万円、魚価低落による鮪生産者の損害:4億5420万円、水産流通業者に対する見舞金:4100万円]
 政府がなぜこのようにビキニ事件の幕引きを急いだのか、そこにはもちろん当時経済的にもアメリカに依存しなければならない状況がありますが、それとともに、政界や財界・電力業界がアメリカから原子力技術をなんとしてでも導入しなければという積極的な動きと強く関係しているように思います。(日米原子力研究協定の成立や、東海原子力発電所の誕生等を参照。)
原子物理学の分野では日本は世界のトップクラスにありましたが、敗戦後サイクロトロンなどが廃棄されて原子力に関する研究が全面的に禁止されます。1952年4月の講和条約発効後原子力研究は解禁されますが、当初はあまり大きな動きはありませんでした(電力中央研究所が1953年9月に設立され、傘下の電力経済研究所が新エネルギー委員会を設置するなどして原子力の勉強会を始めていた)。アメリカは第二次大戦後他国への原子力技術協力を禁止していましたが、1953年12月、第8回国連総会でアメリカのアイゼンハワー大統領が、人類が神から与えられた創造力・原子力を平和のために利用しようという「Atoms for Peace」という演説を行い、民事利用のみを管理する国際原子力機関(IAEA)の新設を提案します。この提案はソ連などに受け入れられなかったため、アメリカは2国間協定による原子力協力の方針を示し、54年11月の第9回国連総会で濃縮ウラン100kgを同盟国に配分すると表明します。このような動きに乗り遅れまいと、1954年3月2日(ビキニ水爆実験の翌日)衆議院議員中曽根康弘らが中心となり、自由党・改進党・日本自由党の保守三党が原子炉築造関連費用として2憶5,000万円の補正予算案を提出、成立します。第五福竜丸乗組員の被爆が読売新聞のスクープで公になり、次々に汚染魚が見つかり、死の灰を含んだ雨が降るなどして、国民の間にしばしば反米感情を伴って反核運動が広がります。日本学術会議も54年4月17日の総会で、原子力研究の原則として、自主、民主、公開の3原則を採択し、アメリカ追随の政府主導の原子力政策をけん制します。
 ここで重要な役割を果たしたのが、読売新聞社主で原子力導入を熱心に先導した正力松太郎(1885〜1969年)です(詳しくは「原子力の父」の称号を背に狙った総理の座 正力松太郎の大キャンペーンから政界引退まで参照)。汚染魚や死の灰で国民の間に原水爆への忌避、さらには原子力にたいする不安感が広がるなか、読売新聞は1954年から「ついに太陽をとらえた」という原子力の利用を訴える大型連載を始めます。さらに55年1月からは、前年末のアイゼンハワー大統領の「Atoms for Peace」のキャンペーンを受け、このプログラムを読売新聞のトップ記事で大々的に紹介し、放送やイベントを含む半年に渡る一大PR活動を始めます。さらに5月、正力の招聘で米国の「原子力平和利用使節団」が来日、鳩山内閣は使節団が滞日中に日米原子力協定の締結を閣議決定、11月に調印して、アメリカから研究用原子炉と濃縮ウランの供給を受けることになります。また正力は同月東京・日比谷で「原子力平和利用博覧会」も開催しています。正力は野望をかなえるために政界にも進出、55年2月の衆議院選挙に原子力の利用を訴えて立候補し当選、同年11月には鳩山内閣の国務大臣になります。同年年12月に原子力基本法が成立、それを受けて翌年1月に原子力委員会が設置され、その初代委員長に正力が就任します。そしてただちに、当時すでに稼働していたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉を導入して5年後には日本に原子力発電所を建設する構想を発表します。このような方針にたいしては、基礎研究の積上げによる自主開発路線を主張する湯川秀樹委員ら核物理学者が反対しますが、両者は折り合わず、湯川は結局辞任することになり、原子力開発にたいして基礎研究者たちの発言力が弱まります。
 私事になりますが、私が小学校に入学したのは1958年です。千羽鶴を送るとかで私もかなり折り鶴を折ったこともあります。また、上級生が歌っているあの「ふるさとの街焼かれ…」ではじまるなんとも悲しげな「原爆許すまじ」を聞き、自分でも意味もあまり分からずに一緒に歌ったりしていました。この歌詞をみると、ちゃんとビキニ事件のことも入っているのですね。以下に歌詞を掲載します。

1 ふるさとの街焼かれ   身よりの骨埋めし焼土(やけつち)に
  今は白い花咲く      ああ許すまじ原爆を
  三度(みたび)許すまじ原爆を   われらの街に
2 ふるさとの海荒れて   黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし     ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を   われらの海に
3 ふるさとの空重く    黒き雲今日も大地おおい
  今は空に陽もささず  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を  われらの空に
4 はらからの絶え間なき   労働に築きあぐ富と幸
  今はすべてついえ去らん  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を  世界の上に

 小学4、5年生のころだと思いますが、しばしば大気圏核実験のために死の灰が降ってくるというようなニュースを何度も聞いたり、学校でも先生から話を聞いたりして、なんだか怖そうに思っていました。一方、同じころ社会科の授業だったでしょうか、東海村に原子の火が灯り、原子力はみらいのすごいエネルギーだというようなことを教えられたように思います(東海村の原子の火=研究用原子炉が臨界状態になったのは、1957年8月27日)。ようするに、正力の一代キャンペーンは、政界や財界ばかりでなくマスコミや教育界も巻き込んで効を奏し、同じ核物質を使っているにもかかわらず、原水爆には絶対反対、原子力発電は被害をもたらさない安全なエネルギー源だと国民に思い込ませたわけです。私は中学3年の時に原子物理や素粒子に魅せられてちょっと勉強し、また高校3年の時には教育テレビの大学講座の物理学で核融合のことやプラズマなどのことを知り、1970年代になってしばしば聞くようになった原発事故についても、原発がだめなら核融合のほうが、と思ったりしていました(実際には、もし核融合炉が実現したとしても、装置自体が強く放射化してどうしようもない)。私のように多くの人たちは、原発で少しぐらい事故が起ってもなんとか技術的に解決できるのではと思い込んでいたのです。日本は世界にあまり類のない平和憲法を持っています。原子力開発についても、海外から単純に導入するのではなく、基礎研究をしっかりして自主開発するという選択もあったはずで、そうすれば原発を建設して行っても、安全性や危険性の評価に当たって、受け売りや神話ではなく、より客観的に自主的に判断して路線変更ができたはずです。今のようななし崩し的に原発が順に稼働していくというような状況は止めなければなりません。政治家が決断すればできることです。
 もうひとつ気付いてほしいことは、広島と長崎で原爆が投下されて多くの人たちが死に被爆したのですが、核実験によっても実際に核爆弾が爆発しており、それで被害を被った人たちは、広島や長崎の被爆者と同じく被爆者であるということです。大石さんは、広島や長崎の被爆者は国から被爆者として認定されているのに、同じ被爆者であるはずのビキニの被災者は被爆者として認められていないことに怒っていました。ちなみに、水爆ブラボーの爆心地から160kmくらいで被災した第五福竜丸の乗組員たちがあびた放射線量は、広島原爆の爆心地から1km以内の線量に相当しているそうです。ビキニの被爆者のほかにも、世界には被爆者がいます。核兵器を本当に禁止するには、核兵器の材料を生み出し続ける原子力発電を止めなければなりません。それで初めて他国から信頼もされて、日本の多くの国民の願いである核兵器全廃への道が開かれるはずです。

 今回の大石さんとの出会、私にとって衝撃的でした。自分のことを振り返り、日本のこと、世界のことも少し考えました。私に何ができるのかですが、伝えることくらいです。大石さんにはまだまだ語ってほしいですし、機会があればもう1度お会いしたいです。ありがとうございました。 (大石さんは、残念ながら、2021年3月、87歳で亡くなられました。)

(2018年4月30日、5月14日更新)