12月5日、名古屋の美術ガイドボランティアグループ「アートな美」が企画したヤマザキマザック美術館での個別鑑賞会に参加しました。
参加者は、全盲が2名(私を含む)と弱視の方1名、アートな美の方3名の計6名です。初めに学芸員の方が、彫刻を中心に常設の展示を紹介してくださり、その後でアートな美の方と一緒に現在開催中の「アールヌーヴォーの伝道師 浅井忠と近代デザイン」を見学しました。さらにその後、午後2時からアンティークオルゴールの演奏もあるということで、それも皆さんとともに聞きました。
*2019年1月20日午前にも、個人的に再度見学しました。この時は、音声ガイド(無料)も借りて、その解説を聞いたり、一緒に行った人の感想なども聞きながら鑑賞しました。(音声の解説は、作品の背景だけでなく具体的な構図などもしばしば説明されていてよかったのですが、各作品の解説の前にその作品のタイトルが入っていなくて、困りました。)「アールヌーヴォーの伝道師 浅井忠と近代デザイン」展も、一部作品を入れ替えて開催中で、また今回は常設の展示も少しゆっくり見学しましたので、それらも加えて紹介します。
ヤマザキマザック美術館は、工作機械メーカーヤマザキマザックの創業者山崎照幸(1928〜2011年)が、1970年代から主にフランスで収集したコレクションを、一般に広く公開展示するために2010年に開館した美術館だそうです。(山崎照幸氏のブロンズの胸像もありました。1979年製作ということで、まだ働き盛りのしっかりした顔立ちのようです。)ちなみに、美術館に隣接して「マザック工作機械ギャラリー」があって、無料で見学できます(ちょっと立ち寄ってみました。実際に自動制御で機械が動いていて、義歯やしゃちほこ?の製作の様子が見られるようになっていました。いろいろな機械が自動で次々に入れ替わっていろいろな加工をし、また直接接触して削ったりするだけでなく、仕組はよく分かりませんが直接接触することなく加工も行われているようでした。工作機械は、機械を作る機械という意味でマザーマシンと呼ばれ、その国の工業力を左右するものだということです)。
常設では、5階は主にフランスの18世紀のロココから20世紀の印象派やエコール・ド・パリまでの絵が展示され、4階はアール・ヌーヴォー期の家具や工芸品、ガラス作品などが展示されています。作品はそれぞれの時代の雰囲気のある部屋に展示され、壁のクロスやカーテンなど内装はウィーンのバックハウゼン社のものだとのことです。ロココの絵画は赤(独特の赤のようです)に統一された部屋にあり、シャンデリアはマリーアントワネットのころと同じものを特注で作ったものだとか。ソファーには壁のクロスと同じ模様が使われているということで触ってみました。とても細かいですが、植物の花や葉と格子模様が組み合わさっているようです。赤の部屋のほかに、黄色の部屋(たぶん印象派)と青の部屋(たぶんエコール・ド・パリなど)がありました。また絵は、額装からガラス板やアクリル板をはずして直接見られるようになっているそうです。
触れられる彫刻作品も数点ありました。まず最初に触ったのが、シャルル・デスピオ(1874〜1946年)の「フォンテーヌ婦人」。高さ60cmほどの胸から上の像です。肩幅が広く、首が大きくしっかり表現されているように感じました。肩から下は、薄いブラウス?のようなのを着けているようです。鼻がとても高く鼻筋が伸び、目は大きく開いて前を見、口は少し開きぎみになっています。
ロダンの「カレーの市民」の6人の人物の中の2人、「ユスタシュ・ド・サン・ピエール司教」と「ピエール・ド・ヴィッサン」の像が展示されていました(ちなみに他の4人は、ジャン・デール、ジャック・ド・ヴィッサン、ジャン・ド・フィエンヌ、アンドリュー・ダンドル)。私はずっと以前、2004年に、静岡県立美術館のロダン館で「カレーの市民」第一試作に触ったことがあります。小さな作品で、前に3人、後ろに3人が、異なるポーズでいろいろな方向を向き、手を組み合ったり綱のようなので結ばれたりしていて、かなり分かりにくかったですがとても印象に残っています。
「ユスタシュ・ド・サン・ピエール司教」は高さ50cm余。長いガウンのようなのを羽織っていますが裸足です。両足をやや開き、右足は地面を蹴るようにかかとを上げてやや前のめりになっている感じ、これからやむなく行かなければという感じでしょうか。髭をはやし、背はやや丸くなり、かなり高齢のようです。顔は斜め下を見ているようです。両手は下げて軽く握っていますが、たぶんこの人が「カレーの市民」の群像では右手に城門の鍵を持っている人でしょう。(この作品は、1960年に鋳造ということですが、足先や髭などとても細かい所までよく表現されていて、鋳造技術がとても良いということです。)
「ピエール・ド・ヴィッサン」は裸像です。高さ60cm余、脚がとても長かったです。両脚を開いて、右足の爪先を地面に突き立てるようにしていて、なんとか踏み止まろうとしている感じです。顔を右にそむけ、右手を上げて顔の前にかざしていて、行くのは嫌だ、前を見たくないということが伝わってきます。
ロダンの作品がもう1点ありました。「オウィディウス『変身物語』」、なんともすごい、奇妙奇天烈な作品でした。大きさは、幅40cm、奥行と高さが30cmほど。楕円形の台(木の根元になっているかもしれない)の上で、2人の裸の女性が上下になって絡み合い抱き合って口付け?をしています。オウィディウス(Publius Ovidius Naso: 前43〜後18年)は、ローマ帝政初期の詩人で、『変身物語(Metamorphoses)』はその代表作、変身をモチーフに多くの神話を連ねた叙事詩です(岩波書店、中村善也訳が点訳本であります)。その中に、パエトンの姉妹が樹木に変わってしまう話があり、この作品はそれを題材にしているのかもしれません。上の女性は両膝を開いて台につけ、身体を大きく左に倒して下の女性の背を両腕で抱き上げるようにし、下の女性は上の女性の両膝の間にお尻をつけて両膝を立て、ほとんど仰向けになって両手を顔の辺に当て、2人は顔をぴったり寄せ合っています。そして不思議なことに、上の女性のお尻の上の辺りに、べったりとかたまりのようなのが付いています。女性の身体の内から出てきたなにか、尻尾とか木の枝の根元のようなものかもしれないし、あるいは血のかたまりのようなものかもしれません。変身のはじまりなのでしょう!
その他、エントランスには、ブールデルの「アダム」も置かれていました。高さ2メートルくらいもある男性像で、モリモリした感じの脚や腕が印象的でした(この作品は、半年ほど前に兵庫県公館の庭園で触ったことがある)。
1月20日には、ルノワールの「母の愛、あるいは息子ピエールに授乳するルノワール夫人」も鑑賞しました。ルノワール(Pierre-Auguste Renoir: 1841〜1919年)と言えば、印象派の画家とばかり思っていましたが、晩年には彫刻も手がけたようです(ただし、リュウマチのため実際の作業はあまりできず、マイヨールのアシスタントをしていた若いギノーに手伝ってもらったそうです。)高さ50cmくらいのテラコッタ作品です。制作年は1916年で、前年に亡くなった妻アリーヌをしのんでつくった作品だとのこと。帽子を被り、ふわあっとしたスカート?を着け、膝の上に大きな赤ちゃん(長男ピエール)を抱いて乳を与えています。母の頬がぷくっとしていて、なんか優しそうな感じがしました。30年も前の若き日の妻を思い出してつくったのでしょう。同じ形の「母と子」というブロンズ像もつくられているようです。
絵画では、ヴァトーの「夏の木陰」(1715年ころ)とブーシェの「アウロラとケファロス」(1745年ころ)について説明してもらいました。
ヴァトー(Jean Antoine Watteau: 1684〜1721年)は、フランスのロココ初期の画家で、「フランス絵画の父」と称され、フランスではとても大切にされている画家のようです(「ルーブル美術館が火事になったら、真っ先に持ち出すのはヴァトーの絵」だと言われているとか)。それまではイタリアが美術の中心でしたが、フランス宮廷に好まれる新たなロココ様式を生み出したということでしょう。「夏の木陰」は、麦の収穫をする農夫とともに、森の木陰で若い男女のカップルが愛をかたらう場面が描かれているそうです(画面左にはイルカとキューピットも描かれている)。そして、この画中のなかよくしている男女の様子がより詳しく見られるように、拡大鏡まで用意されていました。ヴァトーは、この絵のように、田園の中で愛を語る男女をよく描いているようです。
ぶーしぇ(Franois Boucher: 1703〜1770年)は、ヴァトーよりも1世代ほど後のロココを代表する画家で、若いころにはイタリアに滞在、王侯貴族に好まれるような甘美で華麗な絵を描き、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の庇護を受けて後には国王の首席画家となったそうです。この「アウロラとケファロス」は、縦横とも2メートル半近くもある大きな絵。アウロラが金色の馬車?から身を乗り出すようにして、左の男性・ケファロスを誘惑しているようです。(アウロラはローマ神話の曙の女神で、いつもは夜明け前に天空の門を開けて太陽神アポロンの先導役をしますが、しばしば人間の若者と恋に落ちてしまう女神だとか。)ケファロスは赤いマントのようなのを着け、画面下に猟犬が描かれまた獲物となるうさぎやキジも見えていて、狩人のようです。回りにはキューピットや妖精?のようなのが何人も見えていて、ケファロスのお尻辺にイソギンチャクのようにくっ付いてアウロラのほうに押し上げようとしているキューピットもいるようです。この絵で何を表現したいのか、なんだかよくは分かりませんでした。
1月20日には、シャルダンの「兎と獲物袋と火薬入れ」、グルーズの「犬と遊ぶ子供」、クールベの「波、夕暮れにうねる海」なども鑑賞しました。
シャルダン(Jean-Baptiste Simon Chardin: 1699〜1779年)もロココ期の画家ですが、主に静物画や風俗画を描いたとのこと。「兎と獲物袋と火薬入れ」は1736年ころの作品で、初期の静物画のようです。一緒に行った人は、この作品にとても感じ入っていました。狩りに行って、兎を射ち仕留め、兎を獲物袋に入れて持ち帰り、そして、獲物袋と火薬入れはそのへんに放っておいて、獲物の兎を壁にぶら下げています。その力なくだらんと吊り下がっている兎、死んでいるという感じがもろに伝わってくるようです。死んでいる動物を、なんの飾りも思い入れもなくそのまま描く、日本の画家では考えられられないように思いました。なお、この時代では貴族の間で狩猟が日常的に行われていて、獲物と獲物袋は画題としてもよく好まれていたようです。
グルーズ(Jean-Baptiste Greuze: 1725〜1805年)もロココ期の画家、その教訓性でディドロなどから称賛されたそうですが、晩年は人気を失ったようです。この「犬と遊ぶ子供」(1767年ころ)は、たぶん犬好きの人にはたまらない作品でしょう。木の椅子に女の子が座り、黒い小犬を抱いて遊んでいます。女の子は、飾りなどなにも着けず、白い寝間着のようなのを着ているだけ、その白い肌やふっくらした感じなど、とてもかわいいようです。この無垢な感じの少女の姿は、当時注目されていたルソーの『エミール』に書かれた、自然のままを強調する教育論と符合しているようです。
クールベ(Gustave Courbet: 1819〜1877年)は、 19世紀フランスの写実主義の画家。 この「波、夕暮れにうねる海」(1869年)は、ノルマンディの英仏海峡に面した、100mもの断崖で有名だというエトルタの海を描いたもの。大きくうねり荒れ狂う白い波頭の様は、北斎の「神奈川沖浪裏」の海を思わせるとのこと。ただ、その波はパレットナイフで切るようにして描かれていて、油絵の特徴がよくあらわされているようです。水平線付近にはオレンジ色がかった夕闇が広がり、水色の空が重く海にのしかかってくるかのような感じで、全体に重圧感のようなものが感じられ、怒り猛っている怒涛と言ってもよいようです。
その他、ピカソの「マタドール」、美術館のコレクション第1号だというボナールの「薔薇色のローブを着た女」など、詳しく説明してもらいたい作品がまだまだありました。
続いて「アールヌーヴォーの伝道師 浅井忠と近代デザイン」をアートな美の方とざっと見て回りました。(以下、1月20日に鑑賞したことも合わせて書きます。)
浅井忠(1856〜1907年)は、黒田清輝と並んで明治期の日本洋画を代表する画家です。1900〜02年に、アール・ヌーヴォー全盛期のフランスに「西洋画研究」のため留学、画ばかりでなくアール・ヌーヴォーのデザインにも影響を受けたそうです。この展覧会では、滞欧期及び帰国後に制作した油彩画、水彩画、フランスで蒐集したポスター・工芸作品、浅井忠絵付陶芸作品、工芸図案とそれをもとに制作された工芸作品などが展示されていました。
1900年にはパリ万博も開催されていて、ジャポニスムの影響を受けた作品もたくさん出品されており、それらをももちろん浅井は目にしただろうということです。そのような作品の中で印象に残っているのが、ガレ(mile Gall: 1846〜1904年) のペン皿「緑色の善良な小市民」です。長さ20cm余で、 反り返った水草の葉の窪んだ側にペンを置くようになっています。葉の右上辺にカエルがよじ登り、葉の反対側の左角にいる赤いイモムシ?に目をとめているようです。赤いイモムシは、狙われていることも知らずに無心に葉をかじって食べているようです。このカエルがイモムシを狙っているという一コマには、北斎漫画が強く影響しているだろうとのこと、当時日本から輸出された磁器の包装紙に北斎漫画が使われていて、その構図が広まったようです。この作品のタイトルノ「緑色の善良な小市民」はカエルを指しているのでしょうが、迫る危険になにも気付かずに無心にただ食べている虫のほうかもと思ったりします。
ガレの作品は他にも、「彫刻置台」、バナナを組み合せた木?のようなもの、トンボを組み合わせたテーブルのようなものなど、かなりありました。また、ショワジ・ル・ロワ社(Choisy le Roi)の陶作品、エミール・ミュラー社のガラス作品、ドームのガラス作品、ティファーニの手作りのガラス(虹色に光ったり溶岩のような輝きがあったりとか)、マジョレルの「飾り棚」(海藻や魚など海中の様子や植物文様が組み込まれているとか)など、19世紀から20世紀にかけての工芸作品が多くありました。(これらの作品の中には、植物や昆虫や人物が浮彫りないし立体的に表現されているものもあり、触ることができればとても良いのになあとうらやましいほどでした。)さらに、アルブレヒト・ミュラーが描いたという、当時ヨーロッパで人気だった川上音次郎一座の看板女優貞奴(現地ではマダム・サダヤッコと呼ばれた)のポスターもありました。丸髷で、青い着物を着、手のひらにはらはらと散る桜の花を受けている日本女性が、等身大でアール・ヌーヴォー風に細長く描かれているそうです。
展示されていた浅井忠の画の多くは、東京国立博物館所蔵の高野コレクションのものです。浅井は、コローやミレーなどバルビゾン派の人たちが好んだフォンテーヌブローのはずれにあるグレーの村が気に入ったのか、「グレーの柳」などグレーの風景の作品が数点ありました。その他、帰国の途中に立ち寄ったイタリアのナポリやローマ近くのノメンターノ橋の絵などもありました。中には京都国立近代美術館が制作した触図で触ったことのある「編みもの」も展示されていました。ちょっと印象に残っているのは、「聖護院の庭」(水彩画)です。帰国後浅井は京都に移りますが、京都の自宅の近くの聖護院から見た風景のようです。池の水面に3匹の白いアヒルが映えているとか、フランスで見た印象派の光の描き方が影響しているのかも知れません。
デザイン類は、浅井が帰国後教鞭をとった京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)所蔵のものが多かったです。浅井の画やデザイン類については、実のところ、説明してもらってもなにか手がかりがないようで、あまりよく分かりませんでした。
*オルゴール演奏会では、ドイツのポリフォン社の、20世紀初めに製造されたディスクオルゴールで、パガニーニの「ベニスの謝肉祭」やグノーの「アベマリア」、クリスマスが近いということで「聖夜」などを聞きました(このディスクオルゴールは、最初はぜんぜん動かなかったそうですが、ヤマザキマザックの技術者の皆さんが丁寧に分解して掃除し組み立てて動くようにしたそうです)。そして、演奏の合間にオルゴールの歴史などについての話を聞いたり、実際に直径60cm以上もあるディスクオルゴールの円盤を触ったりしました。(円盤には表から裏に多くの穴が空いていて、裏側にはその穴の突起が多数並んでいます。この突起物と櫛歯との間にスターホイールという星型の歯車のようなのが入っていて、ディスクの回転に伴う突起物の信号が櫛歯に伝えられて演奏されるようです。)シリンダーオルゴールは高価で一般には広く普及しませんでしたが、1880年代にディスクオルゴールが発明されて、ディスクが大量に生産されて安くなり、またジュークボックスのように、ディスクを替えることで1代のオルゴールで何曲も聞けるようになって、一般にも広く普及するようになります。しかし同時期に発明された蓄音機の影響、さらには第1次世界大戦でのオルゴール・メーカーの廃業などでオルゴールの生産は急減。第2次大戦後、1948年日本の三協精機製作所(現日本電産サンキョー株式会社)がオルゴールの生産を始め(最初は米兵のお土産品として人気になったとか)、今ではオルゴールの9割近くは日本製だそうです。
(2018年12月17日、2019年1月25日更新)