ボサマとイタコ
●記事の内容
最初に、中世の中国・朝鮮・日本では、各種の占いや語りやマッサージが盲人の間にもっとも広く普及していて、しばしばそれぞれのギルドを作るほどだったことが指摘されます。その中でも少くとも西洋の文化伝統からは風変わりに思えるのは、日本の若い盲女子の職業=イタコだとされます。
そして、10歳前後の少女がイタコになるまでのとても厳しい修行の過程や実際の口寄せの様子について、C. Blackerの『The Catalpa Bow:
A Study of Shamanistic Practices in Japan』(1986, 2nd ed.)に基づいてかなり詳しくまた具体的に紹介しています。(ブラッカーのこの本の初版の翻訳は、岩波文庫から『梓弓』のタイトルで出ています。私は読んだことはありません。)
このようなイタコの活動は、ブラッカーによれば1960年くらいまでは東北地方の一部の県ではなおも存続していたが、世俗化の進展や盲教育をふくむ近代的な教育の普及とともにほとんど消滅してしまった、と述べられています。そして、中国や朝鮮ではいまでもよく盲目の占い師に出くわすが、そのほとんどは日本の場合とは異なって男性であると指摘し、このような風俗の現状について読者の中でなにか新しい情報を提供できる者はいませんか、と記事を結んでいます。
私はこのような求めに直接応じ得るような情報はなにも持っていないのですが、青森県生れの1人として、1950〜60年代の私の身の回りの雰囲気を書いてみます。
●私の体験
私が自分の目が見えないことにいつごろから気付いていたのかよくはわかりませんが、両親が私の目が少しでも良くなればといろいろ話ていたり、直接私に「これ見えるか」とか問うたりしたのがきっかけだと思います。また、両親もふくめ周りの大人の会話の中にしばしば「ボサマ」という言葉を聞くこともありました。最初は何のことかわかりませんでしたが、どうも私のような目の見えない者を指しているらしく、それもとても哀れな雰囲気を感じました。当時(1950年代)しばしば回って来るホイド(「ほいと」のこと。「ほぎひと」(祝人)から来た言葉ともされるようですが、実際は米やお金などを貰いに各家を回り歩く乞食のような人)を連想させるほどでした。
客観的に見れば、当時すでに青森県でも、見えない人たちの多くは按摩や鍼灸で身を立てるようになっていて、実際にボサマとして各家を回り歩くような見えない人はほとんどいなかったように思います。しかし、少くとも私が生れ育った環境では、たぶん明治から昭和初期ころまでによく見かけたり伝え聞いたボサマの姿が、見えない人のイメージとして多くの大人の心にあったようです。
なお、普通「ボサマ」と言えば「盲人男性の旅芸人」などとされて、唄や三味線などの〈芸〉の要素もふくめて語られていますが、私が当時受けた印象は哀れな物貰いというものでした。もちろん中には芸に秀でたボサマもいたわけですが、例えば津軽三味線の始祖とか神様とさえ言われて人気のあった白川軍八郎(1909〜1962)でさえ一生唄会一座の雇われ人で、その死に立ち会った高橋竹山はその悲惨な最期を語っています(東奥日報の連載「魂の音色―評伝・高橋竹山」の3.師匠と弟子参照)。
さて、今も忘れられない出来事があります。小学校1、2年ころの夏休みでした。私が1人で家で留守番をしている時、父が数回声色を使って「ボサマいるかあ」と声をかけたことがあります。最初、何を言っているかはもちろん、誰かも分からず、戸口に出てみて父が居るのに気付き驚きました。そのうち「ボサマいるかあ」と言っているのだと分かり、何とも言い知れぬさみしいような思いをしました。父が何故そんなことをしたのか今となっては知る由もないのですが、おそらく父はどんなことをしても見えるようにならない私をどのように受け入れるべきかずっと悩んでいたのではないでしょうか。(父は私が7、8歳から14、5歳くらいまで私を直接手引するのをとても避けていました。)また、私にも他の兄弟とは違ってボサマとして、見えない人として別の道を歩まねばならないことを暗に知らせたかったのかも知れません。私のそれなりの自律の過程は、一面ではこのようなボサマあるいは按摩として見られることから何とか逃れたいとするものだったと思います。
「イタコ」という言葉も大人の会話の中でたまに聞いてはいましたが、死んだ人が出て来て話したとか、それを聞いて泣いてしまったとか、なにか得体の知れない遠い世界のことのように思っていました。イタコのことを実感したのは、高校になってからです。
高校2年の夏休み(1968年です)、私は10日足らずでしたが住み込みで按摩の仕事をしたことがあります。当時すでに私は按摩には厭きたらず、何か他にないのかなあと夢のように考え始めていたころでしたが、せっかく親が私の将来を心配して探してくれたものだし、また夏休み中家に居てもとくになにもすることがないので、まあ経験と思って行ってみました。(両親はできることなら十和田市内でそのうち開業してほしいと思っていたようで、そのための土地のことも心配していたようです。)
その家は、私の住んでいる熊の沢からわずか 4キロくらいしか離れていない、十和田湖町の法量にありました。ともに弱視の夫婦と、私より一つ上の女子高生の、とてもいい感じの和やかな家族でした。こんなにも近くに見えない人が生活していることにも少なからず驚きました。客は1日に多くても6、7人くらい、私は2、3人くらいの按摩をするくらいで、なんとものんびりしたものでした。夜の食事時にはビールを勧められたりして、けっこう家族の人たちと話したように思います。
按摩についてはどうということもなかったのですが、奥さんがしばしばイタコの仕事(はっきりとは分かりませんが、たぶん神降ろしによる託宣のようなものだったと思います)をしていたのにはほんとうに驚きました。そういうことについては何も知らされていなかったので、最初は何事が起ったのだろうかと聞き耳を立てたものです。
毎日というわけではありませんが時々客が訪れ、隣の部屋(神棚もあったようです)で小さな話し声がし、そのうち数珠の音なのでしょうかじゃらじゃらと大きな音がしはじめ、奥さんが普段とは違った大きな声でまるで何かに取り憑かれたかのようにしゃべり出し、5分くらいも続いたでしょうか、息遣いも荒くなってようやく静まり、しばらくひそひそ声が聞こえる、といった感じでした。さらに、私にはとても奇異に映るこういうことについて、ご主人はもちろん按摩の客も特にこれといった反応を示さないことにも不思議さを感じました。後でご主人に訊いたら、「あれはイタコだ」とあっさり言っていました。たしかに主な仕事は按摩でしたが、奥さんも近隣の人たちの相談や悩み事にイタコとしてごく普通に応じていたようです。
●高橋竹山・ナヨのこと
ボサマとイタコの素晴しい組合せの一例として、高橋竹山・ナヨ夫妻がいます。
高橋竹山(1910〜1997年)の歩みについては、『自伝津軽三味線ひとり旅』(高橋竹山著、新書館、初版1975年)やその映画化『竹山ひとり旅』(新藤兼人脚本・監督、1977年)などで一般にもかなりよく知られているようです。簡単にまとめると、北海道や青森、秋田、岩手の各地を門付けして歩いたりまた各地の唄会や興行に出たりした20年近くにおよぶボサマ生活から始まり、戦争のためどうにもボサマとしては食えなくなってやむなく八戸盲学校で按摩・鍼灸を習って短期間ですがそれらお業とした時期、さらに一転して
10数年間成田雲竹の伴奏者として次第に世に認められるようになり、東北の1地方の津軽三味線を日本全国ばかりか世界にまで広く知らしめるほどの独自の境地にまで高めた、と言えるのでしょうか。私が竹山の演奏をよく聞いたのはもう30年以上前のことですが、その演奏に込められた力強さ、情感の豊かさ、どんなことでも表現できそうな奔放さといったものを、今でも耳に感じることができます。
竹山の津軽三味線の才能を開花させまた世に広く知られるようになったのには、成田雲竹、労音関係者、また地元の良き理解者佐藤貞樹など多くの人たちとの出会いや支えがあった訳ですが、イタコとして30年間その生活を支えた妻ナヨの存在はとても大きかったようです。
高橋ナヨについてはこれまで断片的にしか知りませんでしたが、最近『高橋竹山に聴く』(佐藤貞樹著、集英社、2000年)を読んでみると、その中に「聞き書き・高橋ナヨ」が収録されていて、かなり詳しく知ることができました。(ナヨの立場から、竹山との生活のいろいろと辛くきびしい様子もよく描かれています。)
高橋ナヨ(1910〜1993年)は、青森市近郊の平内という所の、私からはかなり裕福とも思える半農半漁の家に生れます。15、6歳の時田の草取りをしていて藁で目を突いてしまいます。何度か入院したりもして治療するのですが、結局片目は摘出、もう片方もかなり見えなくなります。20歳の時、親は賛成ではありませんでしたが、将来完全に見えなくなった時のことを考えて近くのイタコに弟子入りします。普通うまく行けば、入巫式を経て、弟子入り後数年で独立できるのですが、その師匠はナヨに婿を取らせてその世話になろうともくろんでいて、やむなく婿を取り子供までもうけるのですが、その婿も素行が悪くて師匠の家から追い出され、結局その師匠が死ぬまで
9年半その家で辛い時を過ごします。(聞き書きの中には、3年間にわたるイタコの修行、とくにとても厳しい 1週間の入巫式の様子がかなり詳しく描かれています。最初に紹介した雑誌に書かれていた内容ともよく似ていて、興味深いです。)
師匠の死後子供を連れて実家に帰って来ます。ちょうどその時定蔵(竹山)との縁談が持ち込まれます。ともに29歳(数え)の時です。ナヨは子供1人くらいイタコの仕事で十分育てて行けると思うのですが、親たちの意向もくんで結婚します。
結婚後、生計を支えたのはナヨのイタコの仕事でした。もちろん竹山も浪花節の三味線弾きなどとしてあちこち仕事にも行くのですが、持って帰ってくるお金よりも仕事に行く時持って出るお金のほうが多かったと言います。また、戦争が激しくなって竹山の仕事が無理になってナヨの勧めで盲学校に按摩・鍼灸を習いに入るのですが、その高額の寮費・学費(毎月20円近くだったそうです)もすべてナヨが払います。戦後、成田雲竹の伴奏者として認められ、さらに労音のお陰で全国的に知られるようになってからも、暮らしの主な収入源はナヨのイタコの仕事で、竹山の収入が増しナヨがイタコの仕事から身を引くのは1970年代になってからだそうです。こうしてナヨはイタコの仕事で30年以上高橋家の生計を支え続けたわけです。それだけ、ナヨはイタコとして近隣の人たちからとても信頼されていたとも言えるでしょう。
ここで注目したいのは、ナヨのイタコの仕事の内容です。普通イタコと言えば、よくテレビで放映される恐山の大祭での口寄せを連想しますが、ナヨは恐山の大祭や金木町の川倉地蔵祭りなどに行って仕事をすることはありませんでした。佐藤貞樹はナヨのイタコの仕事を今風に「カウンセラー」と表現していますが、近隣の人たちのいろいろな相談事・心配事をよく聞き助言するというのがその実際の仕事だったようです。佐藤貞樹は、「人の心の奥の思いをよく聞いて〈心を癒す〉のがイタコの本来の仕事」とも言っています。そういう存在として、ナヨは地域の人たちから信頼を得ていたのでしょう。
なお、私の記憶では、ボサマが見えない男の人を指すのと同じように、南部地方だけかもしれませんがイタコにも広く見えない女の人たちを指す使われ方もあって、そういうイタコの中にはあちこちを歩き回って多少の芸らしきことをしながら物貰いしていた人たちもいたようです。「イタコ」と言っても、その意味するところ、生活実態は様々だったようです。
以上、私の知り得た範囲でボサマとイタコについてつづってきました。そこにはやはり哀れさを感じてしまいます。青森県(とくに南部地方)はとても貧しい地域で、江戸時代からしばしば凶作に見回れ、村の人口の半分以上が餓死するとか多くの娘が身売りするとか、今では考えられないような悲惨事が繰り返されました。栄養や衛生・医療の状態も悪かったため、失明する人の割合も他地域より高かったと思われます。江戸時代にはごく一部の盲人については藩からの保護があったようですが、明治以降そういう保護もなくなり、自足的な地域社会も弱体化するなか、家や村から締め出されていった障害者も多く出たと思われます。街には浮浪する盲児なども多くなり、それが盲学校設立の機運にもつながったようです。
そういうきびしい状況の中で、直接生産に携わることの難しい見えない人たちは、ボサマにしろイタコにしろ、人々の心の奥底にある癒し難い何かにうったえ共感し和らげるといったかたちで、それなりの生業、生きる方途を獲得していったのではないでしょうか(注)。恐山のイタコについてはすでに18世紀末の記録に残っていますし、ボサマの津軽三味線弾きについては神原の仁太坊(本名秋元仁太郎、1857〜1928年)にまで遡ることができるようです。
当時とは大きく状況は違いますが、今日でもなお、私もふくめ見えない人たちにも、言い過ぎかもしれませんが見えないからこそ、人々の心を深く洞察し共感できる能力の大切さは変わらないと思います。
(注)この〈心の世界〉は、直接目で見ることのできない世界、とも言い換えることができます。この〈見えない世界〉という点では、按摩・鍼灸治療にも共通した性質があったと言えるでしょう。(人間の身体の内部は皮膚に被われていて直摂見ることはできません。按摩・鍼灸では、見えない人は、触覚により皮膚を通して内部の身体の様子を探り、癒します。)
(2002年9月8日)