金沢小旅行 生活に行き渡った文化を感じる

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 2月16〜18日に、家族で金沢に行きました。宿泊したのは、東茶屋街にある「ほやさけ」。たぶん以前はお茶屋さんだったのでしょうか、2階のよく整った3室を私たち家族だけで使わせてもらいました。(私たちがくつろぐ部屋の床の間には大きな壺と掛け軸、その隣りには長方形のテーブルに組み込まれた火鉢(長火鉢でしたね。小さな引き出しもついていました)とその上に鉄瓶、ほかにも人形や手毬などがそれとなく配されていました。ちょっと驚いたのは、朝になると押し入れの上のほうからほのかに明るい光が。よく見ると、天窓のようになっていてさらにその下に和紙が張られているとか。)東茶屋街は、国の重要伝統的建造物群保存地区にもなっているとのこと、風情のある古い建物にいろいろな店があり、一部にはお茶屋さんも残っているようです。昼は観光客が多いですが、朝や夜はとても静かな所です。夜には軒灯がともり、よい雰囲気のようです。東茶屋街は、1820年に加賀藩から廓として公許された所で、東の廓と呼ばれたそうです。明治・大正・昭和の東の廓の様子は、『廓のおんな 金沢名妓一代記』(  井上 雪著、新潮社)に詳しく書かれているとのこと、今読みかけています。
 東茶屋街を散策しながら私が注目したのは、黒く光っているという瓦。近くのお寺の低い屋根の瓦を触ってみました。表面は、一見漆塗りしてあるかと思うほど、ツルツル、テラテラです。その日はよく晴れていたので、このツルツルの黒い面に太陽が反射しているのでしょう。これは、黒の釉薬をかけて2度焼きした瓦だとのこと。でも、木造家の瓦屋根は藩政時代からのものではなく、主に防火のために明治末以降勧められたもののようです。また、屋根街の古い建物には、「きもすこ」と呼ばれる格子窓?のようなのがありました。ベンガラ塗りだとのことですがだいぶ色は落ちているようです。格子の幅はかなり狭くて5cmくらいだったでしょうか。このきもすこは、中から外はよく見えるが外からは見えにくくなっているとのことで、それは格子の幅が内側が狭く外側が広くなっているためだそうです。なお、きもすこは木虫籠と書き、形が虫籠に似ていることから付けられた名らしいです。
 以下、金沢小旅行のまとめです。金沢21世紀美術館は金沢駅からバスで行きましたが、その他は東茶屋街から徒歩で向かいました。

●金沢21世紀美術館
 16日の午後、雨の中、まず行ったのが金沢21世紀美術館。2004年に開館して以来しばしば話題にのぼることが多いこの美術館、私もとにかく一度は行ってみたいと思っていました。
 芝生の中に、直径100m以上もある大きな円い建物(「まるびぃ」と呼ばれる)。そして、外周の壁も内側の展示室などを区切る壁もほとんど透明のガラスで、とても見通しのよいつくりになっているようです。外からも美術館内が見え、美術館内でも、外側の無料ゾーンから中央部分の有料ゾーン(いくつもの立方体や直方体の点示室からなる)がちらちら見えているようです。見える人たちは、どこを向いてもいくつも作品があちこちに見える状態、またあまり順路もはっきりしないようで、初めはちょっと戸惑っているようです。
その日は雨だったので、館外の作品は見ず、まず無料ゾーンへ、そしてやはり有料ゾーンの展示も見ようと入館権をと思うのですが、その人並みの多いこと、私たちは1時間近く並んでようやく権を買って中に入りました。(受付で触れるような作品はないのか、また点字のパンフレットなどはないのかたずねてみましたが、とくにそういう配慮はないとのことでした。)今でも年間の入館者は200万人を越えているとのこと、これくらいの人並みはそんなに珍しくないかもしれません。ただ、私にとっては、ちゃんと触れられるような作品はないし、また作品が大きくて全体がつかみにくく、説明してもらうにしても現代アートなのでなかなか理解しにくかったです。そんななか、私にも少し体感できたものをいくつか紹介します。
 中国人のチウ・ジージエ(邱志杰)の「書くことに生きる」展が開催されていました。チウ・ジージエは、1969年中国福建省に生まれ、幼いころから「書」を学び、書くことを通して世界のありようや人間の存在を問い表現するような作品群を生み出してきたようです。まず入ったのは、「印章の迷宮」の部屋。幅50〜60cmほどのじぐざぐの道が続き、その道の両側には古新聞をかためて煉瓦のようにしたものが積み上げられています(そっと触れてみると、ちょっとさらさらした手触りで煉瓦の様。一部にはまだ煉瓦のようなかたまりにしていない新聞そのものも積み上げられている)。そして、最近話題になったような記事もふくめ、いろんな記事が読める状態になっています。また、ところどころには上にミラーが取り付けられていて、全体を少し見渡せまた歩く助けにもなっているようです。迷路の全体の形は篆書の「通」の字になっていて、この作品は道教の護符の考えに基いているとのこと。道教で使われる文字はぐにゃぐにゃと折れ曲がった「九畳篆」と呼ばれる書体で、字そのものを迷宮のように迷わせ見失わせる形にして、鬼を防ごうとしているそうです。
 床に、 1字から数文字が彫られた大きな石がいくつもあります。これは、「一字一石・成敗」という作品だそうです。「一字一石」とは、仏教で経文の各文字をいくつかの石に分けて書いたもの。この作品では、梁啓超(1873〜1929年。清朝末期、康有為に師事して戊戌の変法に参加、その後日本に亡命して活動した知識人)が、近代化の過程で挫折に直面した時の勇気について述べたという文章「論成敗」の六百文字を、500個の石に1〜3文字ずつ刻み、あちこちに置いてあるそうです。なにか漢字の持つ力が感じられます。
 「遊技場」という作品も面白かったです。世界地図を分解して紛争地などの地図をあちこちにばらまいたような床面に、ガラス・金属・木・プラスチック?製のいろんな大きさの球が転がっています。各球の表面には、うろ覚えですが「希望」「平和」「善くない価値観」など、人の感情や関係、災害や政治などに関する言葉や文が刻まれていて、来場者がそれらの球に触って動かして配置を変えたりできます。球の並び方を変えることで、国際的な問題などについて自分なりの表現ができるかもしれません。また、ガラスの球を持ってみると、持っている手がとても大きく見えるとのこと、なにか人の手のはたらきの大きさが感じられるようにも思いました。
 その他、「世界庭園地図」「逆さ書きの書道」など、なんだかすごい作品がありました。パワーを感じる作品群・作家のように思いました。
 
 常設の展示(恒久展示と言うそうです)は、なんだかよく分からないものが多かったですが、「スイミング・プール」(レアンドロ・エルリッヒ、1973年ブエノスアイレス生まれ)は、体感的な作品でした。上から見ると、水面がちょっと波立ち、水が満杯の本当のプールのように見えますが、そのプールの中は水はなく空で、実際にその中に入ることができます。入ってみると、側面にプールサイドに上がるはしご、下のほうに水を循環させる大きな口、さらに傾斜した床面など、本物ソックリのプールです。上を見ると、透明なガラス面の上に10cmくらい水があって波立っているそうです。
 「世界の起源(L'Origine du monde)」(アニッシュ・カプーア、1954年ムンバイ生まれ)は、錯覚を利用した作品のようです。展示室に入るとちょっと薄暗いようで、壁面(少し傾いているようだ)にとても大きな楕円形の黒い部分が見えます。この黒の面は、大きな黒い穴のようにも見え、またときには平らな面にも、ときにはこちらにせり上がって来るようにも見え、ふしぎな感覚にとらえられるようです(実際は、大きな穴を青い顔料で塗りつぶしているとか)。私は、このような説明を聞きながら、ブラックホールを連想していました(ブラックホールはすべての光を吸収するのですが、ホーキングによれば、ごくわずかずつですが、ブラックホールもその温度(ブラックホールの大きさが小さいほど温度が高い)に応じて黒体放射をする→両面的な性格をもっている)。
 「緑の橋」(パトリック・ブラン、1953年パリ生まれ)は、「垂直庭園」という自然を生かした作品。トンネル状になったガラスの廊下を通り抜けながら、長さ13m、高さ5m、幅14cmの壁の両面に、金沢の気候に適した約100種類の植物が植栽され、4季の変化とともに、また各面に当たる日射量の変化などとともに、成育する植物たちの様子が変わっていくのが見られるそうです(春はウツギやシャガ、夏はギボウシやアジサイ、秋はハギ、冬はツワブキなどが主らしい)。自然の中にこそ美があると思う私にとっても、このような作品は好ましく感じました。
 
●兼六園
 17日は、朝方一時雨模様でしたが、その後はすっかり晴れて冬の北陸には珍しい暖かい陽射しを感じるほどでした。午前はまず兼六園に行き、その後隣接する成巽閣と伝統工芸産業館に行きました。
 兼六園には桂坂から入りました。しっとりと水を含んだ細かいきれいな砂利道を歩きながら、手近な所にあるコケやシダ?に触ったり、松などの木の枝に触れたり、あちこちの水音に耳をすませながらしばしば橋を渡ったり。梅林では梅の花が咲いていてそっと触ったり、ほのかな良い香を楽しんだりしました。
 ほとんど触れることはできませんでしたが、幾本かの大きな松について説明を読んでもらいました。「唐崎の松」は兼六園でいちばん大きく枝が広がっている松(高さ9m、枝張り20m、幹周り2.6m)で、加賀 13代藩主・前田斉泰(1811〜1884年)が近江八景の一つである琵琶湖畔の唐崎の松から種子を取り寄せて育てたという、由緒ある黒松だとのこと。「根上松」は、高さ約15mの黒松で、大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がった迫力ある姿のようです。これも、13代藩主前田斉泰が土を盛り上げて若松を植え、成長後に土を除いて根をあらわにしたものだとか。「ひねくれの松」は、兼六園では珍しい五葉松(高さ12m、幹周り3mの大木)で、風に吹かれて成長したためなのか、幹がねじねじにゆがんでいるそうです。その由来については、近くの鶺鴒島(せきれいじま)に立つ雄松と雌松の「相生の松」を妬んだからだという言い伝えがあるそうです。
 ところで、兼六園ではもちろん、金沢ではどこでも、道路沿いの木々や一般の民家の植木にいたるまで、木の大きさや性質などに合せていろいろな手法で雪吊りが行われ、その円錐形の放射状に広がる形は金沢の冬の風景になっているようです。松などの常緑樹の葉は冬になっても落ちないため、その葉の上に北陸の湿った重い雪が積もり、そのために枝が折れてしまう被害を防ぐために雪吊りが行われます。私が全体を触ることができたのは、宿の近くの道沿いにあった小さなかわいい雪吊りでした。ツツジでしょうか、1mくらいの低木に、ちょうどそれが入るように、2mほどの3本の竹を3角錐に組み立て、その頂点から縄を数本放射状に下の低木の枝に伸ばして結び付けています。兼六園では、たぶん上の唐崎の松だったと思いますが、2m近く上を横に伸びている太い枝を上から太い荒縄でしっかり引っ張り上げているのに触りました。これはリンゴ吊りという方法で、枝ぶりの大きな高い木の近くに何本も支柱を立て、その先端から縄を放射状に張って枝を支えます。(リンゴ吊りの手法は、1875年に西洋リンゴが日本に入り、20年ほどでたわわな実をつけ、その実の重さで枝が折れるのを防ぐために支柱を立て縄で枝を吊り上げたのを、雪国の植木職人が雪吊りに取り入れたものだそうです。)この他にも、大きな、幹のしっかりした木では、幹から直接縄を枝に張る幹吊りが行われ、また枝をまとめて縄で縛るしぼりなど、雪吊りの方法はいろいろあるようです。
 
●成巽閣
 実は偶然に昨年末『姫君たちの明治維新』(岩尾光代著、文春新書)を読みました。その第四章は前田家で、成巽閣とその女主人・真龍院隆子についても取り上げられていて、成巽閣について「ガラス戸を額縁に見立てて室内から眺める庭園の雪化粧は一幅の絵のように美しく…」などと紹介されていて、金沢に行くなら、触れられるものはないだろうがやはり成巽閣にも行かなくてはと思っていました。
 成巽閣は、国指定重要文化財。1863年、13代斉泰が母真龍院(12代斉広の正室・鷹司隆子)の隠居所として建造されたもの。真龍院没後、主要な建物と庭園が残された。私たちが訪れた時は運よく特別展「前田家伝来 雛人形雛道具特別展」開催中(毎年2月から4月にかけて行われているようだ)。各種の雛人形の表情はとても豊かで皆さん見惚れているようでしたし、とくに精巧に作り込まれたミニチュアの道具類たち(お化粧道具や食器類、碁盤?やなにかのカードなど、遊び道具までいろいろ)には私も魅了されそうです(もちろん触ることはできませんが、町中の店では九谷焼のミニチュアの食器類も売られていて触れた)。前田家には御細工所という工房があり、最大24職種、70余人を有し、調度品ばかりでなくこれらのミニチュアも作ったのでしょうか?
 いろいろな部屋がありましたが、ご対面の場として使われた謁見の間では厚さ2cmくらいの絨毯に触りました(当時絨毯は国内では作られておらず、インドやパキスタン方面から取り寄せたものなのでしょうか?)。またこの謁見の間は大正天皇の宿泊所としても使われ、そのためにアメリカからシャンデリアを輸入したとかで、和洋折衷の雰囲気になっているようです。
 2階に上がって、広縁?から外を見ると、きれいに晴れていたこともあり、金沢市街が展望され、多くの雪吊りを上から見下ろし、すぐ下には水の流れや五葉松・キャラボク・ツツジなどが配された庭が見えます(雪はほんのわずか見えるだけ)。そして、屋根からはなにか湯気のようなのが立ち上っているように見えるとか。この屋根は、こけら葺だとのこと。こけら葺は板葺の一種で、厚さ数mm、長さ20数cm、幅10cm弱の短冊形の薄板を少しずつずらしながら竹釘で木舞の上に葺き重ねていく方法のようです。たぶん、これまでの雪や昨日の雨の水分をたっぷり含んだ薄板から、暖かい陽射しのために水蒸気が蒸発しているのでしょう。
 
●石川県立伝統工芸産業館
 1階がショップ、2階が展示室になっています。1階のショップは無料で、多種類の工芸品に触れることができましたので、ショップだけで十分に楽しむことができました。
 入ると、ロビーの吹き抜けになった壁に大きく「技」の漢字が描かれ、目をひくようです。ちょうど蒔絵の実演が行われていて、担当の職人さん(清瀬一光さんという方で、1942年金沢生まれ、1995年に伝統工芸士にも認定されている有名な方のようです)が、制作中の作品をふくめ数点、実際に触れさせてもらいながら説明してくださいました。
 最初に触ったのは、長さ20cmほどもある、鼈甲製の大きな簪。根元のほうは6〜7cmくらいあり、すうっとすぼまっていって、中央くらいから2つに別れて、2本の先がすうっととがっています(2本の幅は2cmくらい)。全体に湾曲した曲面がとても心地よいです。根元の縁辺りは黄色味がかった白の象牙になっていて、さらにその回りに5個ほど5mm余の真っ白な真珠が付いています(真珠の中心は勾玉のようにきらっと光っている)。そして、根元付近のゆるく湾曲した表面に蒔絵で、直径4cm近くもある大きな花模様が高く盛り上がっています(牡丹の花で、触って5、6枚ほど花びらのようなのも分かりました)。この蒔絵は、肉合研出(ししあいとぎだし)蒔絵と呼ばれる手法で、漆を塗り、金粉を蒔き、さらに漆を塗って木炭で研ぎ出す研出蒔絵と、金粉を盛り上げて立体感を出す高蒔絵の二つの技法を組み合わせたものだとのことです。この手法は、江戸時代初め、前田家が京都から蒔絵師五十嵐道甫を呼んで伝えられたもので、清瀬氏はその伝統の技術を継承している方です。ワシントン条約もあり、材料の鼈甲、とくに象牙は今は入手が難しいそうです。
 次に大きな貝合せを触りました。幅8cmくらい、厚さも5mm以上はある大きなハマグリで、こんな大きなハマグリは最近はなかなか入手できないのではときいてみると、近江町市場で手に入れたとのことでした(翌日午前に近江町市場に行ったら、千葉県産のハマグリでほぼ同じくらいの大きさのものがありました)。伊勢物語を主題にしたもので、片方の貝の内面には笈(リュックサックのようなもので、荷物を入れて背負う箱型の竹・木製の道具)と紅葉の形が浮き出し、もう一方の貝の内面には男(業平)と着物姿の女の人の輪郭が浮き出しています(まだ制作途中のようです)。そして、それぞれの貝の表面には、「伊勢物語」という文字や、ここに描かれている場面(具体的にどの場面なのかよく理解できなかった)に関連した歌が刻まれています。
 まだ制作を始めたばかりの物のようですが、直径4cmほどの円盤状の鼈甲製の帯留めにも触りました。表面には、ごく薄くて細長いヤコウガイ(貝殻の内面の真珠光沢のある部分を超薄く剥いだものだと思う)がくっついていました。これから蒔絵をほどこすのでしょう。また、蒔絵に使う純金の板にも触りました。5、6cm四方くらいで厚さは0.05mmくらいしかないとのことですが、持ってみると3〜4gくらいはあるのでしょう、しっかり重さを感じました。(ちなみに、金箔の厚さはこの100分の1以下で、薄いものではわずか0.1μmくらい。金箔製作の最終工程では、和紙に上澄みとよばれる厚さ2μm程度の金を挟んで束にし、それを革で包んだものを箔打ち機で打って金箔にしているそうです。また、金沢で国内の金箔の98%が生産されているそうです。)
 清瀬氏は私よりも10歳近く年長の方、今でもルーペを使ってあの細かい作業をし、こうして実演もしておられ、私にたいしてもなにか経緯をもって対応してくれている印象でした。伝統を継承する職人として、人間としてすごい方だと思いました。
 
 ショップではいろいろな工芸品に触れることができましたが、私がとくに驚いたのは、木の折紙です。材質は能登杉、15cm四方で、ふつうの折紙よりちょっと厚いくらい(5枚セットで売られていて、2〜3mmくらいの厚さでした)。触ってみると、けっこう柔軟に曲がり、実際にこれで折った鶴やかぶともありました。木目もちゃんと見えているとのこと、ごく薄く剥いだ後なにか処理をしているのでしょうか?(翌日午前に立ち寄った金沢駅近くのショップでは、黒柿の木のブックカバーもありました。厚さは1〜2mmくらいあるでしょうか、まるで軟かい皮のような手触りでした。)
 その他、いろいろな人形やだるまのような置物、でんでん太鼓、漆器、陶器類など様々ありました。有名な九谷焼では、小皿にいろいろな小鳥の形が浮き出したのがあって、気に入りでした。珠洲焼は初めて触ったのですが、ちょっと変っ田印象でした。何の器か分かりませんが、幅十数cm余、高さ6cmくらいのちょっと細長の曲面で、厚さは5mmくらいしかなく、さらさらしたような手触りで釉薬は使っていないようです(備前焼のちょっとやわらかな感じかなあ)。説明によれば、現在の珠洲焼は、長らく途絶えていた珠洲焼を昭和51年に復活させたもので、須恵器の系統を継ぎ、釉薬を使わずに穴窯で焼き締める技法でつくられているもの。珠洲の土は鉄分が多く、1200度で焼くと薪の灰が溶け、それが自然の釉薬となって渋い黒灰色になるとのことです。
 
●金沢蓄音機館
 昼食を兼六園の近くで取った後(私は甘えび丼を注文したのですが、なんとえび3尾の頭に金箔が付いていました)、金沢蓄音機館に向かいました。ここも、いろいろな蓄音機を聴くことができるということで、以前から行ってみたい所でした。金沢蓄音機館は、初代館長・八日市屋浩志(ようかいちや ひろし:1925〜2003年。山蓄レコード店を創業。山蓄は2009年閉店)が収集した蓄音器540台、SPレコード2万枚ものコレクションを金沢市に寄贈し、2001年に開館しました。
 館に入ると、ピアノの音がします。ちょうど自動再演ピアノの演奏が始まったところのようで、私たちは途中からそれお聴き、また解説も聞きました。何の曲なのか分かりませんでしたが、ピアノの音質は現代のピアノほどではないものの、リズムがとても正確で、1つ1つの音がクリアで心地よかったです。このピアノは、紙ロールに記憶された名ピアニストの演奏を再演するというもので、1927年米国製のメイソン&ハムリン・アンピコだとか。
 このピアノの音は、空気の吸引力(そのために電気モーターを使っていてちょっとその音がする)によって鍵盤を引き下げて出しているそうです。ピアノの鍵盤の下の引き出しに、トラッカーバーという、100個ほど穴(その内80個は各鍵盤に対応し、その他は音の強弱やペダルの動作などに関係するもの)のあいた金属のパイプのようなのがあって、そのトラッカーバーの各穴からは空気を吸引するための太さの異なるゴム管がのびています。トラッカーバーの上をピアニストの演奏を穿孔で記録した紙ロールが通過すると、紙ロールの穴とトラッカーバーの穴が一致した時にだけ空気が吸引されそれに連動して打音されます。(紙ロールは、クッキングペーパーのような感じの巻き紙。例えば、音符の長さに応じて紙ロールに穿けられる穴の長さが変る。)
 このようなピアノは、20世紀初めに開発され、ラフマニノフやガーシュインなど当時の名ピアニストの演奏をそのタッチもふくめそのまま聴くことができるということでかなり人気になったようですが、1920年代以降蓄音機の性能が上がり音質の良いレコードが安価に大量に出回るようになって、廃れていったそうです。
 その後2階で蓄音機の聴き比べがあってそれにも参加しました。狭い会場に20人くらいは入り、10台近く蓄音機が並んでいるようです。蓄音機の歴史などの解説とともに、各種の蓄音機から流れる曲を聴きました。(当日聴いた曲の大部分は、蓄音器聴き比べコーナーで聴くことができます。)
 蓄音機は、エジソンが1877年に、銅製の円筒に錫箔を巻き付けたものを回転させ、振動板に直結した針を錫箔に押し当てて音の振動を錫箔に刻まれる溝の深さの変化として記録、またこの溝を針でふたたびたどらせることで音を再生し、録音・再生機を発明したことに始まります。
 その後、銅管に錫箔を巻き付けたものに代って、円筒形の厚紙の上に蜜蝋を塗った蝋管が用いられるようになりました。まず初めにこの蝋管を使った蓄音器の音を聴きました。(この蝋管にそっと触れさせてもらいました。直径5cmくらい、長さ20cm弱で、するするした手触りでした。)
 エジソンは音の振動を円筒に溝の縦方向の変化として記録したのですが、1887年、エミール・ベルリナー(Emile Berliner: 1851〜1929年)は、音の振動の変化を、円盤上に螺旋状に続く溝の横方向への振れの変化として記録するグラモフォンを発明します。この円盤状レコードは、原盤からプレス型をつくり、これを用いて同一のレコードを多量に複製することができ、音媒体として蝋管に比べて圧倒的にすぐれていました。これにたいして、縦方向のほうが音が良いと確信していたエジソンは、音の振動を溝に縦方向に刻んだ円盤レコードを開発します。厚さは6mmで、実際にそのレコード盤に触ってみましたが、ふつうのspレコードの2、3倍は厚く、また重いです。さらに再生にはダイヤモンドの針を使い、音質はかなりよかったようです。ハードとしては優れていたと言えますが、ベルリナーの横方向のほうが安価で、また当時の演奏者や作曲家の大部分がベルリナーの側について、なによりもコンテンツでエジソンの側は負けたとのことです。
 当時の蓄音機は、針で振動板を振動させて出る音をそのまま聴いていたわけですが、そのままだと音がとても小さいので、音を大きくするために形状が工夫され、とくに先が広がったラッパをつけることでかなり大きな音が出るようになりました。ラッパには金属製のものばかりでなく、木製のもの、紙製のもまであり、そのラッパの違いも含めて聴き比べました。私は紙製のラッパから出るやわらかい感じの音が好みでした。(蓄音機のすぐ近くで聴いたこともあり、ちょっと耳障りなほど大きな音に感じることもありました。また、ラッパを取り外した時の音も比較のために聴き、やはりかなり小さいかわいい音でした。)こうして、アメリカやイギリス、それに国産のいろいろな音合いの蓄音機を体感できました。なお、SPレコードという名称ですが、1948年にLP(long playing)レコードが開発されて後、LPレコードと区別してそれまでのレコードをSP(standard playing)レコードと呼ぶようになったそうです。
 
*翌日は午前9時過ぎに宿を出、街の風景を楽しみながら、ちょっと店をのぞいたり、近江町市場に寄ったりしながら金沢駅に向かいました。陶器店?の店先では、大きなブロンズの女性の像と馬の像(鞍もついていた)に触りました。駅近くでは、ざらついた大きな鉄の塊の一部に触りました。小さな鉄の球体?をたくさんくっつけたようにぼこぼこしていて、全体もたぶん大きな球体になっているのでしょう。解説によれば、これは、金沢街中彫刻作品国際コンペ2004で優秀賞に選ばれたもので、フィンランドの彫刻家J・Kヴィルックネンの「CORPUS MINOR#1」という作品だそうです。ざらついているのは錆で、鉄が時とともに錆びてくるのを織り込んで造られた作品らしいです。
 途中で人形などを置いている中島めんやという店に入ってみました。職人さんが黙々と仕事をしています。いろいろな大きさのだるまさんのようなもの(加賀八幡起上りと呼ばれ、全体に丸っぽくて赤い姿で、松や梅や竹も描かれているとか)や人形のようなもの、小さな動物のようなものに触りました。中でも私が興味を持ったのは、動物(十二支かもしれない)の木型です(和菓子の木型も連想しました)。この木型に粘土のようなのを詰めて形を作っているようです(それぞれの木型に対応したかわいい品も一緒にありました)。材質は紙粘土のようにも思いましたし、また以前使ったことのあるおがくずから作った粘土のようにも思いました。これに丁寧に胡粉を塗り重ね、さらに彩色しているのでしょう。ほかにも、米食いねずみという、からくり人形のようなのもありました。別の店だったと思いますが、刀を口にしっかりくわえた獅子もありました。
 2泊3日の小旅行でしたが、小都金沢を大いに楽しむことができました。観光客も多くしばしば並んだりするのですが、あまり騒然とした感じはなく、どこかゆったりしています。食べ物屋さんやセンスのいいカフェが多く、私たちが入った店はどこも美味しく、カフェも選ぶのに迷うほどでした。全国展開のドトールやスタバまで見紛うほどとてもオシャレだとか、金沢のよいセンスの文化が伝染しているかのようです。道はどこもきれいで、緑もよく配されているようです(垂直の壁面に、陽が当たるようにたくさんの鉢植えを縦に少しずつずらして並べている工夫もありました)。おそらく市民や企業の、細かく気を遣って、住みやすい町、外から来る人たちにも気持ちのよい町をと、不断の積み重ねがあるように感じました。地方都市は今はどこも同じような雰囲気になってしまいがちですが、伝統と最新がこまやかに融合して金沢らしさが出ているように思います。そのうちまたぜひ行ってみたい町になりました。
 
(2019年3月2日)