五箇荘地区ミニ見学

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 4月13日、東近江市の五箇荘に家内と2人で行きました。見学先として近江商人博物館は決めていましたが、その他は現地に行ってから適当に回ってみようということで、結局、観峰館と近江商人屋敷・藤井彦四郎邸も見学しました。
 9時前に家を出、jrで能登川へ、そこから近江鉄道バス八日市駅行に乗り、10分ほどしてぷらざ三方よし前で下車、そこから少し迷いながら20分ほど歩いて11時前に近江商人博物館に到着。jrはとても混雑していましたが、五箇荘近辺はのどかで、五箇荘の雰囲気をしっかり味わえたように思います。バス停の「ぷらざ三方よし前」という名前からも、この辺が近江商人の里だということが伝わってきます(三方よしは、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の3つで、売り手と買い手がともに満足するのはもちろん、商売で社会に貢献もしなければという近江商人の心得を示すもの。ただしこの表現は後に作られたもの)。バス停から少し歩くと、小さな堀?が流れていて子どもたちの声も聞こえます。堀にはたくさん錦鯉がいて、近付くとパシャッと飛び跳ねる音や、ブク ブクというような口をぱくつかせるような音がします。この辺りは、国の重要伝統的建造物群保存地区で、白壁と舟板塀に囲まれた屋敷が続き、また立派な神社も多いようです。(舟板塀は、古くなった舟を解体して水に強い舟板を再利用したもので、ここにも倹約を旨とする近江商人の精神があらわれていますね。)
 
●近江商人博物館
 入館してまず最初に、てんびん棒を担ってみる体験をしました。長さ2m弱のやや平たい棒の両端に荷物が下がっていて、棒の真ん中の下に肩を入れて立ってみます。荷物が多くないこともあって、そんなに重くはありませんでしたが、このてんびん棒を担いで近江商人は年間に4千キロも歩いたとか!荷物が少ないように思いましたが、当時もすでに、実物を運び歩くのではなく、取り扱う商品のサンプル付きのカタログを持ち歩いて注文を取り、後で店から商品を取引先に送っていたそうです。(体験できるものとしては、千両箱などありました。)
 その後、展示場を見て回り、近江商人についての解説のビデオや、松居遊見(3代目松居久左衛門1770〜1855年。五箇荘商人。農業のかたわら生糸・綿布・麻布類を全国に行商し、やがて江戸・京都に出店。日常の生活は質素倹約に徹したが、貧民をはじめ社会のためにはお金をおしまなかった)の逸話のドラマを聴いたりしました。
 琵琶湖東岸のこの辺は、古来から交通の要所でありいろいろな産品が行き交った場所のようです。この辺の遺跡から見つかった日本各地の土器が展示され、また和同開珎(中央の穴は四角。土器に100枚ほど収納された状態で発見されたそうです)などもありました。近江商人のルーツは、鎌倉時代から室町時代にかけて、東山道などの道沿いに設けられた市庭にさかのぼるそうです。塩魚を扱う五箇商人や、海産物・塩・布などを扱う四本商人(鈴鹿山脈を越えるため山越商人とも称される)が活躍したとのこと。なかでも五個荘の地を本拠とする小幡商人は、東山道沿いに位置する利点を生かして、四本商人と五箇商人を兼ねる商人団(当時は集団で隊商を組んだ)で、江戸時代から活躍する近江商人の原型となったそうです。
 近江商人は、地域別に、高島商人(琵琶湖の西)、八幡商人、日野商人、湖東商人(以上は琵琶湖の東)に分けて説明されていました。高島商人は近江商人のなかで最も早い時期から活躍した商人で、江戸初期に高島の小野家が南部藩に進出してその商権を握り、酒造業などで城下町盛岡の礎を築いたそうです。さらに、京や江戸にも出店し、糸・絹の問屋や両替商で財を成し、明治維新後は、新政府の公金出納に関わり、また生糸貿易、製糸業、鉱山業などで新政府の経済基盤を支えたとのことです。なお、百貨店の高島屋は高島商人の飯田新七飯田新七(初代:1803〜1874年)が1831年に開業した古着木綿商「たかしまや」にさかのぼります。
 八幡(はちまん)商人は、近江商人の中でも早くからもっとも広範囲に活躍した人たちです。豊臣秀次が設けた八幡山城の城下町八幡町には、本能寺の変で焼失した安土城下の人たちや近隣の商人が集まり、楽市楽座や諸役免除などの政策で活発に商業・交易が行われ、朱印船貿易までする者もあらわれます。江戸時代初期には、江戸の日本橋に八幡商人の大店が何軒もでき、さらに京都・大坂をはじめ北海道から東北、関東、中部、中国、九州まで、日本各地に出店を出して活動します。
 横道にそれますが、つい最近利尻島について調べていて、利尻島に遭難を装って上陸したラナルド・マクドナルド*と彼から長崎で英語を教えてもらった森山栄之助をあつかった『海の祭礼』(吉村 昭著、文芸春秋、1989年)などを読み、北海道のアイヌの人たちの生活と松前藩の場所請負人になった八幡商人などとの関係を知りました。初代 岡田弥三右衛門(1568〜1654年)は、近江八幡に生まれ、初めは八幡山城城下で活動していたが、八幡山城廃城後町も廃れて、奥州、さらには北海道松前に進出、不足している衣料品や荒物などを売ります。さらに松前藩の信任を受けて、蝦夷地の海産物を北前船で上方に運んだり蝦夷地での漁場経営を請け負ったりして、蝦夷地での近江商人の基盤をつくります。1765年には 6代目岡田弥三右衛門が利尻と礼文の場所を請け負い、さらに10代目の時には23箇所もの場所請負をしたそうです。また、八幡商人の初代西川伝右衛門(1627〜1709年)は、17世紀後半に松前に出店し、藩の御用商人として大坂方面に産物廻しをして巨利を得、場所請負をして新漁場も開発したそうです。
  * ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald: 1824〜1894年): ハドソン湾会社の毛皮交易商のスコットランド人を父に、チヌーク族(アメリカ北西部太平洋岸の、コロンビア川河口付近を中心に住んでいた先住民)の首長の娘を母として、オレゴン州(当時はイギリス領カナダに属す)のアストリアに生まれる。ハドソン湾会社の本社のあるレッドリバーの寄宿舎学校で4年間教育を受け、父の手配でオンタリオ州の銀行の見習いになるが、インディアンないし白人とインディアンとの子孫(メティ Metis と呼ばれる)にたいする差別的なあつかいに耐えきれず、1840年、16歳の時に出奔。子どものころに聞いた、インディアンのルーツは日本人だという話を信じて日本にあこがれ、日本で英語を教える役ができるかもと夢見て船乗りになり、1845年末捕鯨船プリマス号に乗船、48年6月27日、ボートでまず北海道焼尻島に上陸、その後利尻島付近でアイヌに助けられる。密入国者として利尻で軟禁された後、宗谷、松前を経て、10月半ばに長崎着、大悲庵の座敷牢に軟禁される。ここで、翌年4月アメリカ船プレブル号に引き取られて帰国するまでの半年間、森山栄之助ら14名のオランダ通詞に英語、とくに発音や会話を教える(自らも利尻にいたころから日本語の発音をノートに書きとめて単語帳をつくっていた)。
 松前藩の直轄の領地は、松前を中心に渡島半島の南西部の一部に限られ、それとともに1604年徳川家康により蝦夷地(=アイヌ)交易の独占権が認められました。当時の経済の基礎である米がまったく取れなかったため、松前藩の財政はこのアイヌとの交易によって成り立っていたと言えます。北海道および択捉島などもふくめ周辺の島々を、海岸部を中心に100近い場所(アイヌとの交易地)に分け、各場所でのアイヌとの交易独占権を上級家臣に知行として与えました。しかし、各場所に藩や藩士が実際に船を派遣して交易し利益を上げ続けるのは難しく、そこに近江商人などが入り込むことになります。彼ら商人たちは一定の運上金を納めることを条件に藩や藩士から各場所の交易権を得るようになり、18世紀前半には蝦夷地の大部分が場所請負制になります。商人たちは網漁など新しい技術を教えまた新たな漁場も開拓して、ニシン、サケ、ホッケ、クジラ、コンブ、ナマコ、アワビやその加工品などを扱って大きな利益を得ます。アイヌの人々はそれまでは主に生活に必要な範囲で狩猟や漁猟をしていたわけですが、こうして自分たちの必要とは関係のない物の生産に使役・酷使されるようになり、生活は大きく変わります。また、和人との接触によって、免疫のないアイヌの人たちに天然痘などの病が流行し、人口がしばしば大きく現象します。(利尻・礼文では、300人余の人口が、1803〜05年の天然痘で100人余に激減したそうです。)場所請負制のもとでの酷使にたいしてはしばしば反乱を起こしたり、一時期幕府が松前藩を転封したりしましたが、アイヌ文化の衰退は止めようがありませんでした。
 日野商人は、高島商人や八幡商人にやや遅れ、17世紀末から、日野椀、「萬病感応丸」などの売薬、小間物などを全国に行商し商圏をつくって行きました。とくに、関東地方を中心に、原料や技術なども提供して、酒や醤油などの地場産業も育てました。
 湖東商人(五箇荘商人も含む)は、遅れて江戸後期から、特産の近江麻布を行商し、また呉服類などを産物廻しして富を蓄え、京・大坂・江戸の大都市に出店しました。屋号から丁吟と呼ばれ、彦根藩の井伊直弼の金庫番としてその政治活動を支えた小林吟右衛門(1800〜1873年)や、伊藤忠商事・丸紅の基礎を築いた伊藤忠兵衛(1842〜1903年)等が有名です。
 このように、近江商人と言っても、背景や活動の仕方などはいろいろのようで一概にはいえませんが、概していうならば、近江地方に本宅を置いて、初めはてんびん棒などで近江国外で行商をしてお金をため、江戸・京都・大坂や各地の中心地に出店し、さらにそこから多くの枝店を出して広域の商圏を確立、主に産物廻しで利益を得ます。そして、ある者は藩や大名と強く結び付き、またある者は各地域の小商人や業を志す者に資金や原料・技術を提供して地場産品をつくらせたりします。近江商人は、江戸時代から明治にかけて活躍しますが、今日まで商社ないし企業として残っているのはあまり多くはなく、明治以降の急激な変化に対応できず破産ないし廃業していったものが多いようです。
 
●観峰館
 近江商人博物館から10分近く歩くと、変った建物(先が細くなっていて、5層くらいになっている建物。回りに高い建物がないのでとても目立つようです)が見えてきて、それが観峰館でした。隣接して、淡海書道文化専門学校がありました。観峰館の敷地は広くて、なかなか入口が分からないくらいで、途中、きれいに整備されている庭の雪柳や満開の桜にも触りました。
 館に入ってみると、来館者は私たちくらいのようで、とても歓迎されているような感じ。展示スペースは1階から5階までととても広く、展示物も多岐にわたっていて、なんか混乱しそうでした。
 観峰館は、日本習字の創設者、原田観峰(本名 孝太郎、1911〜1995年)が収集した数万点にもおよぶ書道資料や数々の文化教育資料を展示公開するため、「書道文化と世界を学ぶ」をメインテーマにして、1995年10月に開館した博物館だそうです。日本習字や書道と言われても、私にはあまりぴんときませんし、とにかく展示物が多くて、展示の全体の輪郭はつかめませんでした。
 私が実際に触れたもので、まず驚いたのは、復元石碑。中国・西安碑林博物館の協力で原寸大で復元したという石碑8基が立ち並んでいます。厚さは20cm前後、大きいものは高さ2m以上(高くて手が届かない)から、小さいものは数十cmのものまで、石面にはっきりと漢字が整然とくっきり彫られています。そして、大きい石碑2つは、なんと1.5m近くもある大きな亀(大きな頭を長く前に出していた)の背に乗って立っています。表面はすべすべしていて、きれいに文字が上から下に並んでいます。陶の時代の碑が多いようで、ちょっと聞いたことのあるような、唐初の王羲や欧陽詢、唐中期の顔真卿の作というのもありました。書体については私はまったく分かりませんが、今の漢字とあまり違っていないようで、かなり読めているようでした。
 清朝の康熙帝から乾隆帝にかけての離宮だったという避暑山荘も復元されているようで、玉座のような椅子、扁額、いろいろな彫刻や文様など見えているようです。(避書山荘のものではないと思いますが、椅子の前の面がゾウの頭になっているものにそっと触れました。牙や巻いた鼻がよく分かりました。)他にも本当にいろいろな物がありました。中国の獅子(狛犬?)にも触ってみました。高さ60cm前後あったでしょうか、雄は足の指で大きな鞠をしっかりつかみ、雌は子供を仰向けにして足で踏みつけていました。触れてはいませんが、中国最古の石刻文が書かれているという石鼓(大きな太鼓のような形だそうです)、清朝時代の大きな硯たち(大きいのは70〜80cmくらいもあり、とにかく装飾がこっているようだ)、瓦当(軒先の瓦の文様)、それにもちろん中国の書や日本の書、さらに墨画まで、とにかく多種多様です。
 さらに、この博物館には、中国のものばかりでなく、西洋の家具類、グランドピアノやアンティークオルゴール、蓄音機やレコードなどまであり、また日本の教科書類も展示されていました。「ニッポノホン 20号」という蓄音機のラッパ部分にそっと触れてみました。ニッポノホンは、日本コロムビアの前身日本蓄音器商会の製品で、20号は調べてみると明治45年から大正3年の3年間販売され、価格は当初は20円、後に15円だったそうです。ラッパの全体の長さ60cmくらい、先の開いた部分の直径50cmくらい、根本のほうは径が2cm余くらいの細い管が30cm弱ほど U字形にくにゃあっと曲がり、その先で花びらが開くように9枚の薄い羽根が広がり1つの大きなラッパ型になっています。表面はさらさらした手触りで、金属になにか着色しているのでしょう。(金沢蓄音機館ではいろいろな蓄音機の音の聴き比べをしただけでラッパの部分など触っていませんでしたので、触れてよかったです。なお、ラッパの羽根の数が偶数よりも奇数のほうが、音が前に出て音量も大きくなるとか。)
 観峰館はとにかくすごいという印象、1週間前までに予約すれば学芸員が説明してくださるとのこと、テーマを決めてもう1度見学できればと思います。
 
●藤井彦四郎邸
 観峰館をでて10分ほどで、藤井彦四郎邸へ到着。藤井彦四郎(1876〜1956年)は、3代目藤井善助の二男。(兄の4代藤井善助(1873〜1943年)も、農業・貿易商・織物商などを営み、また多くの会社の社長や重役などを兼務し、また生地北五箇荘村の村長となり、衆議院議員に3回当選した実業家・政治家で、さらに私立の天体観測所や東洋美術館を創設し、中国古美術骨董収集家としても知られ、そのコレクションは京都市にある藤井有鄰館に展示されている、と、これまたすごい人です。)藤井家の祖は享保年間(18世紀前半)の宮荘の篤農家で、3代後の初代善助が文化12年(1815)に布屋の商家として独立。彦四郎は明治35年に兄と呉服・太物を商う藤井西陣店を開きます。父の死後分家して、明治40年糸商「藤井彦四郎商店」を創業、フランスで発明されて間もないレーヨンに注目して「人造絹糸」として宣伝、「小町糸」や「スキー毛糸」のブランドで成功します。
 藤井彦四郎邸は、300坪近くある広い敷地。最初に入った所は豪華な客殿のような所でした。畳を触ってみるととてもしっかりしていて豪華、幅も少し広いようです。床の間?にある小幡人形数点を触らせてもらいました。小幡人形は、300年前近く前からこの付近で作られてきた手製の土人形で、滋賀県伝統的工芸品だとのこと。私が触ったのは、30〜40cm前後の高さで、人形の表面はつるうっとした手触りで、鮮やかに彩色されているそうです。私が触ったのは、鯛を持っている戎さん(鯛の尾の先が割れていて中を触ることができた。粘土の厚さは1cmもなく薄かった)、鯉にまたがっている金太郎さん(金太郎には銀のきらきらが見えるそうです)、それに触ってよく分かりませんでしたが魔除けの鍾馗様だとのこと(五月人形らしい)。
 客殿には広い廊下があって、そこからはよく庭が見えるとのことです。この庭は、彦四郎自身の構想で、琵琶湖を模した池の回りを廻るようになっているとのこと、琵琶湖の形が分かるかも?と思って、庭に降りて1周してみました。変った松などの植物や石、灯篭や道標?などが配され、瀬田の唐橋?に見立てたという小さな橋などありました。
 客殿に隣接して、山荘風の洋館があります(外壁はログハウスのように丸太で、骨組みも木造だとのこと)。暖炉があり、グランドピアノ、天体望遠鏡、オルガン、蓄音機などがあり、中央には凝ったテーブルと椅子があります。これら客殿と洋館は、すでに京都に本拠を移していた彦四郎が昭和8年から9年にかけて、貴賓客や皇族を等を迎えるために造ったもので、後に五個荘町に寄贈したものだそうです。
 さらに、洋館の反対側?に、質素倹約に徹した先祖の生活ぶりを忘れないようにと、200年以上前に建られた主屋が移築されていて、そこにも入ってみました。帳場があり、居間には囲炉裏があり、広い土間、竈、大きな甕などありました。また、なつかしい編み機やミシン、糸繰り機、砧、パッチワークの座布団など、日常の生活用具も置かれていました。
 
 五箇荘付近の散策は天気にもめぐまれ、のどかで、でも充実したものになりました。東近江市にはまだまだよさげな所がたくさんありそう、機会をつくってまた行ってみようと思っています。
(2019年4月24日)