カンボジアの視覚障害者

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 10月19日、カンボジアから2人の視覚障害者を迎えて、「カンボジアの視覚障害者と生きる喜びを分かち合うために」というテーマで講演会がありました。私も参加しましたので、感想などもふくめ、その内容を紹介します。

 講演の内容を書く前に、まず少しこれまでの経緯を書きます。
 日本で唯一の点字の新聞「点字毎日」が創刊されて今年で80年になるのですが、それを記念して毎日新聞社が日本ライトハウスなどと連携して、カンボジアの視覚障害者支援に取り組んでいます。今年1月には、日本ライトハウスの職員が現地に調査に行きました。そして今回、大阪で開催されたアジア太平洋ブラインドサミット会議への参加や日本での研修のために、カンボジアから2人の視覚障害者を招き、この来日記念講演会も実現した訳です。また、もうすぐNPO法人「毎日新聞希望のネットワーク」も立ち上げ、来年初めには専門のスタッフを現地に派遣するとのことです。

 講演会は、まず初めに、現在「カンボジア盲人協会(Association of the Blind in Cambodia. 略称: ABC)の代表でもあるボーン・マオ(Boun Mao, 28歳、男性)さんの講演があり、次にいっしょに来日したタッタ・ニカ(26歳、女性)さんの簡単な挨拶、それから今年1月現地調査に行った時のスライドの説明があり、最後にフロアからの質問時間がもうけられていました。
 ボーン・マオさんの講演の内容は、マオさん自身のこれまでの歩みと、現在のカンボジアの視覚障害者の状況についてでした。
 マオさんは、生後すぐ、内戦の中両親を亡くし、孤児となり、ある女性にお姉さん代りとなってもらって育ったようです。1993年農業大学に入り、バイクタクシーの運転の仕事で生活費や学費を稼いでいました。ある時強盗にバイクを奪われてしまうのですが、その時顔に硫酸をかけられ、大火傷を負います。ドイツと日本の医師団の治療を受け、現在の状態まで回復しましたが、視力は失いました。(初めは、口や鼻がないような状態で、食物も摂取できないで、そのままだったらたぶん死んでいたでしょうと言っていました。治療で口が開くようになり、鼻は新たに整形してつくったそうです。)
 医師に視力は戻らないと言われた時、すっかり絶望して、「私を殺してくれるよう誰に頼んだらいいのでしょうか」と質問したそうです。医師からとにかく生きるよう励まされ、自分を生かしてくれた医師たちへの御恩返しのためにも強く生きることを決意したようです。
 1994年から96年まで、メリノール・リハビリテーション・センターで歩行、点字、英語、解剖学、生理学、そして日本式マッサージを習い、マッサージで生活できるようになりました。
 彼は、見えない人にとってとくに点字が大切なことを強調していました。20歳くらいになってから点字を習い始めたのですから、その修得までにはかなりの苦労もあったと思いますが、にもかかわらず彼が点字の大切さを強調していたのは印象的でした。日本では今日、読書をはじめ多くの情報は音声で得られるようになり、見えない人たちの間では点字は以前ほど重視されなくなってきていますが、やはりどんな所でも、電気が通じているかとかに関係なく、簡便に使うことのできる点字の良さを改めて知らされました。
 彼は点字の優れている点として、次の3点を挙げていました。
@自分で読み、書くことができる(読み書き能力)。A自分のアイディアや考えを発展させ、深め、まとめることができる。Bコンピュータを勉強し利用するのに必要。
 さらに彼は、各国の視覚障害者団体のリーダーや国際的にも有名な見えない人たちはほとんど点字を使っているとも言っていました。このような発言からは、カンボジアの視覚障害者のリーダーとして活動せねばというマオさん自身の責任感のようなものも私は感じました。

 さらに彼は、1999年には、日本財団が資金を出しアメリカのオーバーブルック盲学校が協力しているON-NETの訓練として、タイの盲人キリスト教財団でコンピューターを習い、Eメールやインターネットを使えるようになりました。コンピュータをマスターしたことも彼にとって大きな飛躍のようで、何度もそのことを話しておられました。
 その後、カンボジアに戻り、盲人を訓練したり盲人団体の結成のために活動し、日本財団の援助で事務所を準備して、2000年10月カンボジア盲人協会の第1回総会を開くことができました。
 現在はカンボジア盲人協会の活動やマッサージの仕事のかたわら、大学の夜間コースで英語も勉強しているとのことです。

 カンボジアには現在約14万4千人の盲人がいて、そのほとんどは教育を受けず、仕事もなく、何もしないで家に閉じこもっているようだと言っていました。
 まず、この盲人の数の多さには驚きました。カンボジアの全人口は1200万人くらいのようですから、見えない人の割合は約80人に1人ということになります。日本では、視覚障害者は30万人余ですから、約400人に1人の割合になり、カンボジアでの盲人の割合は日本の約5倍の高率ということになります。
 さらに、視覚障害児の多さにも驚きました。統計によれば、教育を受けるべき年齢の視覚障害児は7200人から9000人くらいいるとのことです。たぶん貧困のために、適切な医療が受けられなかったり栄養不足のため失明してしまう子供が多いのではないでしょうか。そしてそのほとんどは教育を受けられず、わずかに、プノンペン・バッタンバン・コンポンチャムにある盲学校3校に約150人が行き、またプノンペンでは約30人の盲児が一般の学校に行っているだけだそうです。
 このような状態のなか、すでにクメール語の点字への自動点訳のソフトもできているのですが、実際に点字を読める盲人はまだ100人くらいしかいないそうです。一般の子供でも貧困のため未収額の者が20%はいるような状況で、盲児の教育はまだまだ国レベルでは手つかずの状態なのでしょう。

 カンボジア盲人協会の活動の中で、とくに私の印象に残ったのはCBR(Community based rehabilitation)でした。それぞれの地域、村で、それぞれの実状に合せてそれなりに見えない人たちの自立を可能にすると言うような活動と考えていいでしょう。農業の手伝いや家畜の世話、家の手伝いなどはちょっとした理解や工夫があればできると思います。見えない人たちの自立への第一歩として大切だと思います。
 カンボジア盲人協会が見えない人が自活するための仕事として取り組んでいる日本式マッサージは、もちろん見えない人の仕事としてはとても良いと思います。ただ、今実際に行われているのはプノンペンなどの都市での観光客相手だとのことですので、それ以外の農村ではちょっと定着しにくいのではと思いました。

 タッタ・ニカさんの挨拶は、簡単な自己紹介でした。マオさんと同じく、メリノール・リハビリテーション・センターで日本式マッサージを習得し、仕事をしているそうです。ちょっと遠慮がちでしたが、彼女の英語はとてもきれいに私には聞こえました。質問に応えて、「観光客相手の仕事の中で、英語の訓練になっているかも知れません」と話していました。

 現地調査のスライドでは、カンボジア盲人協会の事務所、そこが運営している職場で日本式マッサージをしている人たち、祭りの時の楽器の演奏や呪いなどで僅かばかりのお金を得ている人たち、主婦、杖無しで2頭の牛を連れて田の畦をやって来る人など、いろいろな視覚障害者が紹介されていました。とは言っても、多くの見えない人たちは、障害を前世での悪業にたいする罰と見るような考えや視覚障害にたいする無理解から、何もすることもないまま家に閉じこもっているようです。とくに女性の場合は、なおさら外に出してもらえないとのことでした。

 講演会全体を通じて私がまず第1に感じたのは、前向きな生き方、自分のためだけでなく同じような境遇にある他の見えない人たちのためにも、何もないところからこれから色々なものを準備し創り上げようとする若い力です。カンボジアにおける視覚障害者の現状、とくに障害にたいする一般の人々の考え方などには、私が小さいころ田舎で味わったものと少し似たところもあるようにも思いましたが、もちろん内戦の傷跡もまだ大きいこの国の状況は詳しく知れば知るほどすごいのだろうと思います。しかしそういう厳しい状況にあっても、いやあってこそ、人は本当に強く成れる場合もあると思います。とにかく年金も整いそれなりに良い環境の中で過ごせるようになっている私たちには、とても多く学ぶところがあると感じました。

*この文章を書くに当たって、「東南アジアの盲人支援のための教育でのITネットワーク、ON-NET」(http://www.din.or.jp/~yukin/ONNET.html)を参考にしました。


(2002年10月24日)