4月30日、Kさんと一緒に和泉市にあるいずみの国歴史館と久保惣記念美術館に行きました。
●いずみの国歴史館
天下茶屋でKさんと待ち合せ、南海電車で和泉中央駅へ、そこからバスで緑ヶ丘団地へ、ちょっと道に迷いながら10分余かかって歴史館に到着(バス停からちょっと戻って桃山学院大学に沿って坂を上っていくと宮ノ上公園があり、隣接して歴史館がある。ふつうは5分余で着く)。
いずみの国歴史館に行ってみようと思ったのは、そこに和泉層群の化石が展示されているかもと思ったからです。電話をしてみると、以前展示していたことはあるが、今は展示していないとのこと、それでも触れられる資料もあり、説明もしてもらえそうだったので行ってみました。
歴史館では、学芸員の方に常設の展示を案内・解説してもらいました。まず、私が知りたかった足跡化石は、以前常設で展示していたことがあり、また昨年夏のミニ展示で、足跡化石の石膏で型鳥したものと、個人所有の和泉層群から出てきた貝などの化石を展示したそうです。動物の足跡化石は、和泉市久井町の松尾川河川改修工事の際に見つかったものだとのこと。松尾川の河川工事ということですから、地層は和泉層群というより沖積層でしょうか?よくは分かりません。動物の足跡としては、アケボノゾウやシカマシフゾウ*、それに15cmくらいはある(小さな手のひらくらい)鳥の足跡だそうです(こんなに大きな鳥の足跡、いったい何の鳥のものだったでしょうか?3本しっかり指があったとのこと)。時代は、アケボノゾウと一緒に出ていますから、少なくとも100万年前くらいころだと思います。
* アケボノゾウの復元には多賀町立博物館とみなくち子どもの森で触ったことがあります。また、シカマシフゾウの復元は明石市立文化博物館にあって触ったことがあるようにも思いますが、よく覚えていません。シカマシフゾウ(鹿間四不象」という名が気になって調べてみました。古生物学者でこけし収集家としても有名な鹿間時夫(1912〜1978年)が、1930年代半ばに明石市の西八木海岸で見つかった化石の中にシフゾウ(四不象)の化石を発見し、鹿間四不象と名付けたとのことです。四不象という名は「頭は馬に似ているが馬でなく、ひづめは牛に似ているが牛ではなく、体はロバに似ているがロバではなく、角は鹿に似ているが鹿ではない」ということからだそうです。シカマシフゾウは、ゾウではなく、体長2m近くある大型のシカの仲間で、中国に広く分布していたようですが、19世紀中ごろにはほぼ絶滅、イギリスに持ち出された個体群が繁殖してイギリスはじめ世界の動物園で飼育されるようになり、1980年代には中国で野生化の試みが行われ、現在は野生で1000頭くらいに増えているようです。
以下常設展示の解説で記録しているものを記します。
旧石器時代では、先のとがった細長い角錐状石器(万町北遺跡)や大型の打ち欠いただけの打製石斧の一部を磨いた局部磨製石斧がありました。
縄文時代では、仏並遺跡の土製の仮面がありました。土製仮面は西日本では出土例が少ないとのこと、保存状態もよいようです。直径25cmほどの円形。生え際とこめかみから顎にかけてと目の周りと口の周りに赤い顔料が塗られている。眉と鼻が繋がった線として盛り上がっている。目は円形、口は横長の楕円形にくりぬかれている。
弥生時代では、弥生中期の池上曽根遺跡出土のいろいろな木製品や壺・甕類などがありました。木製品は、スコップのようなものの先、斧の柄、杓子、コップ、鉢の底の部分、高坏の上部など。池上曽根のあたりは水がわきやすく湿地なので、木製品がよく残っている。壺類では、イイダコ用の壺がたくさんあった。高さ10cmくらいのコップのような形で、上部に引き上げるために紐を通す穴がある。
古墳時代中期くらいまでのものでは、まずたくさんのミニチュアの土器類(5cm前後くらいのものが多いようだ)。これらは主に墓から発見されているので、祭祀用だと思われる。「靫(ゆぎ)形埴輪」(和泉黄金塚遺跡)は、円筒形で羽のような飾りがついている(靫(ゆぎ)は、何本も矢を入れて背に負った細長い箱形のもの)。同じく和泉黄金塚遺跡出土の「蓋(きぬがさ)形埴輪」もあった。
古墳時代後期では、「韓式形土器」の甑と「唐質土器」の壺。。韓式土器では表面に格子状のたたき目がついている(後で触った日本の甕では、線状のたたき目が付いていた。甑は米などを蒸す道具で、古くは古代中国にさかのぼるようだ)。「陶質土器」は、高さ60cm、胴の直径60cm、口径20cmほどの壷。胴の両側にへこみがある。
飛鳥〜平安時代では、須恵器が多かった。「へいびん」は、直径20cmほどで、10cmほどの首がついた須恵器。カツオの煮汁を入れる容器と言われている。長岡京や平城京でも発見されている。「製塩土器」は破片のみ。仏並遺跡からは、3〜4cmほどの須恵器の塔がたくさん出土している。佛廟や佛塔の形をしていて、仏教と須恵器のつながりを示している。古代寺院の瓦では、文字瓦(池田寺、信太寺)、人物が描かれた瓦(池田寺)があった。その他、銅椀(鉢)をまねた須恵器など。
鎌倉〜室町時代では、「松尾寺文書」。その中の、後村上天皇の綸旨(天皇の意向を受けて奉書形式で発行された文書)は、グレーの紙に書かれている(一度文字を書いた紙を漉き返した再生紙で、宿紙と言う)。「青磁の壷」は、直径30cm弱、高さ20cm弱で、胴にへこみはない。中国・元のもの。
江戸時代では、「座中銀御振くじ箱」。長さ20cm、高さ10cmほどの木製の箱。側面に1cm×5mmほどの細長い穴が開いていて、そこから長さ10cmほどの木の棒が出るようになっている。実際には箱の中に木の棒がたくさん入っていて、その木の棒50〜60本も展示されている。村の中で銀をどの割合で分けるか決めるためのくじだとのこと(その意味がよく分からなかった)。
昭和時代では、当時の村や町が合併して和泉市になる際の合意文書(個人の名が署名されていて、小学校の見学の時に、その中の名が、ある子どものお祖父さんだったことがあるという。和泉市は、1956年、和泉町と北池田村・南池田村・横山村・北松尾村・南松尾村・南横山村の6村が合体して成立、1960年八坂町・信太村を編入。)。
その後、受付カウンターで触れられる資料に触りました。
「高坏」 高さ10cm余、直径15cmくらいのもの2種
「杯身(つきみ)と杯蓋(つきぶた)」 直径10cm余の平たい器とその蓋。それぞれ 2種あり、杯身の蓋を受ける部分が、一方は高さ1.5cmくらい、もう一方は5mm余くらい。時代とともにこの受け部が低くなり、最後にはなくなってしまって蓋を乗せるだけになったという(実用品は、時とともに単純化するのかも)。
「提瓶(ていへい)」 赤茶色で高さ20cmほどの扁平な円形の水筒型。肩の両側に紐を通すような小さな取っ手が付いており、器の中に液体を入れて持ち運んだと思われる。
「すり鉢」 高さ20cm弱で、両横に少し広がったような形。中はざらざらしていた。その外形から、薬研を連想した。
「甕」 高さ30cm弱。側面にきれいに斜めの線状にたたき目がついている。
「はそう(漢字は「瓦+泉」)」 高さ15cm、口上部の直径10cmほど。胴に径1cm弱ほどの小さな穴が空いている。この穴に竹の節を除いてストローのようにしたものを差し込みんで、液体を注ぐのに用いたらしい。
「やよい土器」 表面に刷毛目がついていた。
石器としては、高さ5〜6cm、15cm余×10cmほどの砥石(表面がつるつるで、中央部が窪んでいて、よく使われていただろうと思われる。砂岩製?)、長さ10cm弱の石包丁(紐を通す小さな穴が2つ空いている)。
「勾玉のレプリカ」 長さ10cm余もある大きなもの(形はよく分かるが、手触りはあまりよくない)。展示室にある翡翠でできた小ぶりな勾玉の重さを再現したものだという。
●久保惣記念美術館
久保惣記念美術館で、6月2日まで「特別陳列 花鳥虫魚を描く 応挙・広重・シーボルト」が行われており、また常設の展示もよさそうなので、行ってみました。(私は5月12日にも久保惣記念美術館に行きました。この時は、少しですが、学芸員による作品解説の一部も聴きました。)
久保惣記念美術館は、Wikipedia によれば、泉市の綿織物業者久保惣の社長・3代目久保惣太郎(1926−1984)が、古美術品のコレクション約500点と、土地、建物(本館と茶室)、基金3億円を和泉市に寄付して、1982年に開館。さらに、1997年には久保惣5代目の久保恒彦(3代惣太郎の弟)により新館が完成し寄贈され、その後も音楽ホールや研究棟などが寄贈されています。所蔵品も、久保惣コレクションの寄贈が続き、また他のコレクターからの寄贈などもあって、現在は1万1千点にもなるそうです。浮世絵が約6000点もあり、その他、中国の陶磁器や青銅器・青銅鏡など、中国古美術品が充実しているようです。
いずみの国歴史館を昼ころに出て、急坂を下って10分近く歩いて久保惣記念美術館に到着。受付は新館で、そこから、よく手入れされた庭園を通って、特別展が行われている本館に向かいます。庭に入ると、水が流れ鳥が鳴き、別世界のよう、クロチクやカエデ・ヤツデなどにそっと触ったりもしました。本館では、最初に入った展示室は中国の石像類の展示、なんだかよく分からないまま次に進むと、ようやく今回の特別陳列です。動物や植物を描いた日本の浮世絵版画などばかりでなく、西洋の人たちが描いた日本の動植物の版画、さらには20世紀の日本の洋画家の絵まで、広範囲の展示でした。
以下、頂いた作品リストの順に、印象に残っているもの、ある程度理解できたものについて書きます。青銅鏡などについては、久保惣記念美術館の
デジタルミュージアムより一部引用しています。
第1章 浮世絵版画の花鳥虫魚
歌川広重の花と鳥の浮世絵6点:「梅に鶯」(間短冊判錦絵)、「海棠に鸚鵡」(大短冊判錦絵)、「藤に四十雀」(間短冊判錦絵)、「杜若に燕」(間短冊判錦絵)、「菖蒲に翡翠」(間短冊判錦絵。この菖蒲はアヤメのことらしい)、「薔薇に鶺鴒」(間短冊判錦絵。この薔薇は西洋のバラではなく、中国から伝わったバラ)。
歌川広重「月に雁」(中短冊判錦絵):短冊の右上に満月が半分描かれ、その下を3羽の雁が左下に向かって下降している。3羽の雁は丁寧に描き分けられているようだ。絵の下部には、右に鹿、左に馬の絵が見え、これは「馬鹿印」と呼ばれるもので、もとは福寿印(福→鹿、寿→馬)から来ている。なお、「月と雁」にははっきりと折り目が見えていて、折れた状態で長くあったらしく、そのため色が鮮やかに残っているとのこと。なお、多色の浮世絵は、1760年ころ鈴木春信に始まり、当初は藍などの染料が使われていたが、19世紀になって外国から輸入されたプルシアンブルー(ベロ藍)などの顔料も用いられるようになった。
* 短冊判について:大(おお)短冊判は、大奉書を縦3分の1にしたもので、約39×17.5cm。中短冊判は、大奉書を縦4分の1にしたもので、約39×12cm。小(こ)短冊判または細(ほそ)短冊判は、大奉書を縦8分の1にしたもので、約39×6cm。間(あい)短冊判は、小奉書を縦4分の1にしたもので、約33×11.5cm。
歌川広重の「魚づくし」より、「鮎」「黒鯛と小鯛」「鯔」「鯖と蟹」「鰒とさより」(いずれも大判錦絵)。どれも鮮やかな色合いで、特に「鯔」では鯔の背の青が印象的。このぼらの曲がった背は、いなせ(鯔背)という言葉の語源になっているとのこと(江戸日本橋魚河岸の若者や侠客髪を鯔背銀杏に結っていたことから、粋で威勢がよく男気のある気風をいなせ(鯔背)というようになった)
葛飾北斎「牡丹に蝶」(大判錦絵):右下から左上にかけて豊かに葉をつけ、満開の牡丹が画面いっぱいに描かれ、右上の隅に1羽の蝶。強い風が右上から吹いているらしく牡丹も蝶も風にあおられている。
葛飾北斎「鵙 蛇苺 翠雀 虎耳草」(中判錦絵、1834年ころ):緑雀はるり、虎耳草はゆきのした。植物は地を這うように下側に描かれ、翠雀は植物に頭が触れそうなくらいの位置に頭を下にして腹を見せて描かれている。鵙は頭を下にして背を見せて右上部に描かれている。鵙が緑雀を追いかけまわしているところだろう。
葛飾北斎「北斎漫画」(紙本墨摺 15冊のうち)かたつむり、ばった、かえる、へび、いもむし、蝶、トンボ、くじらなど:初編の序文によれば、気の向くままにあまねく描いたもの。初編は1814年、最後の15編は明治になって1878年、計4000近くの画数になる。
北川歌麿「画本虫撰」(紙本色摺 2冊): 1冊はかぼちゃの上にバッタ、葉にカタツムリが描かれたもの。もう1冊は横倒しになった筍に虫がついている絵。筍には根がついている。
歌川国芳「七浦大漁繁昌の図」(大判錦絵 3枚続):クジラ漁の様子。中央に大きくクジラが描かれている(ナガスクジラ?かも。奥にも3頭くらいクジラが見え豊漁がうかがえる)。波間には船(勢子船?)に乗った漁師の姿が描かれている。右手前が岸になっていて、女性たちや子どもが沖を見ている。「七浦」は特定の地域を指しているのではなく、1頭のクジラで七浦が潤うということわざからとったらしい。
第2章 円山応挙の写生図を中心に
円山応挙「写生図」(紙本着色 14面):亀の雄雌を側面と腹の側から描いたもの、鴨の雄雌、ウサギの正面・横・顔と鼻のアップなど。一見練習帳のようだが、見事だとのこと。
森狙仙「猿図」(絹本着色 一幅):森狙仙(1747〜1821年)は、動物画、とくに猿画を多く残している。体毛までやわらかに描かれているとか。
宮本武蔵「枯木鳴鵙図 (こぼくめいげきず) (重要文化財)」(紙本墨画 一幅):宮本武蔵(1584〜1643)は、墨画を善くしたという。長方形の掛け軸。左下から中央上部までわずかに彎曲した枯木が描かれ、その枝を虫がゆっくり這い上っている。枯木の先端には鵙がとまっている。鵙は右向きに描かれ、身動ぎもせず何かをにらみつけているかのように目つきがとても鋭い。武芸者としての精神が表われているのかもしれない。
「紅蓮鴛鴦図」(絹本着色 一幅 中国・元時代)
「青磁 鳳凰耳花生銘万声」(1口 中国・南宋時代):円筒形の胴に細長い頸がつき、口は漏斗状に開いている。頸に鳳凰形の耳一双が貼り付けられている。
(以下の青銅鏡3点は直径20cm余)
「青銅 梅樹檜垣飛鳥文鏡(重要文化財)」(1面 鎌倉時代):檜垣ごしに咲く梅の花の老樹に雀と見える小禽が群れるという図柄で、垣端には小松が植えられている。
「青銅 牡丹流水蝶鳥文鏡(重要文化財)」(1面 鎌倉時代):水辺に植えられた牡丹に二羽の鳥と蝶が舞う。土坡(どは:土の堤)は洲浜形に象られ、装飾的な点描によって地面を表す。
「青銅 菊花流水双鶴文鏡(重要文化財)」(1面 鎌倉時代):土坡に鳴きかわす二羽の鶴と、鈕を象る亀がいずれも長寿の象徴として吉祥を表している。また主文である一株の菊花が、菊慈童の伝説を連想させて、長寿を願う気持ちを強めている。
「青銅 蓬莱図方鏡(重要文化財)」(1面 室町時代):約17×15cmの方形の鏡で、蓬莱山を表した図。手前の岩に亀、岩山には松のほか槇と竹が描かれている。
第3章 西洋版画の博物誌と花鳥虫魚
医師で博物学者のシーボルトが日本から帰国後出版した『日本動物誌』と『日本植物誌』より、「ニホンオオカミ」「ニホンカモシカ」「フエフキダイ」「アイゴ」「イチョウ」「イヌマキ」「ナギ」「ハウチワカエデ」「ウリカエデ」「サワグルミ」(いずれも、紙に石版、手彩色)。「ニホンオオカミ」は、左向きに描かれ、耳は小さく立っていて鼻が長い。毛並までよく描かれている。「ニホンカモシカ」は、右向きに描かれ、まっすぐで小さい角が2本付いている。顔の周りにやや長めの毛が生えている。「フエフキダイ」は左向きの絵。尾びれと背びれの先端が赤い。鱗も細かく描かれている。「イチョウ」は、青々としたイチョウを大きく描き、下部に種のスケッチなどを加えている。
その他、『英国野生植物図譜』より数枚、カール・ツンベルク著『日本植物誌』(1784年)、ジョン・グールド著『アジアの鳥類』(1850〜1873年)。
高間惣七と熊谷守一の花鳥
高間惣七(1889〜1974年)は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家。鳥類をよく描き、また花の画も多い。「植物園の風景の(五)」「洋らん」「薔薇図」「窓辺の植物」「鉢植え」の5点。熊谷守一「芍薬」(1973年)は、色は鮮やか、やや抽象的。
この後、再び新館に戻って、常設の展示をざっとですが見て回りました。展示室が2つあり、1つは中国の青銅器などの古美術、もう1つは19世紀以降の西洋の美術でした。
中国の古美術は、私にはほとんど理解できませんでしたが、今回いずみの国歴史館で説明のあった甑の古い形といえる「ゲン」も展示されていました。3本の足があり、湯をわかす部分と蒸す甑が一体になったもののようです。時代は西周となっていますので、紀元前10世紀くらいかもしれません。器の側面は獣を表すような文様(饕餮文)になっているらしいです。その他、同じく3本足の青銅器で、主に肉を煮る「鼎」や酒を温める「爵」もあり、また酒を入れる「尊」という饕餮文の青銅器もありました。青銅の武器も展示されていて、「戈(か)」という、長い柄の先に直角に短い両刃が付いた矛もありました。青銅器の展示は豊富でしたし、他にもまだまだいろいろな展示がありました。
西洋の美術では、モネの「睡蓮」(1907年)、ルノワールの「カーニュのメゾン・ド・ラ・ポスト」と「花飾りの女」、モディリアーニの「イタリアの娘」ゴッホの「紡ぎ車を繰る女」(1884年ころ)ピカソの「タバコを吸う男」(1964年)、それにロダンの「考える人」や「永遠の青春」のブロンズ作品もありました。(音声解説もあり、借りてちょっと聴いてみました。)ルノワールの「花飾りの少女」は、赤いシャツの前をはだけてぼんやりとこちらを見つめる少女を正面から描いていて、胸元にはネックレスをし、カチューシャのような大きな花飾りをつけているとのこと。頬が赤く、肉感的らしい。モディリアーニの「イタリアの娘」(1916年)は、細長く描かれた少女の絵(とくに首が長い)で、色彩が暗いそうです。ピカソの「タバコを吸う男」は、正面と側面からの2方向から見た像が合わさったようになっているらしいです。また、西洋のものではありませんが、歌川国芳の「猫の当て字 うなぎ」という面白そうな作品も展示されていました。数えてもらうと、14匹の猫が絡み合って「うなぎ」というひらがなになっているそうです。
(2019年5月17日)