カナダ北西海岸先住民の生活とトーテムポールについて学ぶ

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 10月3日、Yさんと一緒に、みんぱく友の会の講演会「トーテムポール―カナダ北西海岸先住民の宝」に参加しました。この講演会は、10月初めから開催されている特別展「先住民の宝」関連で行われたもので、講師は岸上伸啓先生です。
 会場に行く前に、今年新たに設置されたトーテムポールを触りました(もちろん手の届く範囲の下の部分だけ)。下のほうの直径は1.5m近くあるでしょうか、かなり大きそうです。高さは8mだとのこと。一番上が翼を広げたワシ、その下に双頭のオオウミヘビ(シシウトゥルと言われるそうです。双頭の下には人の顔らしきものが見えているとか)、その下がクマで、クマはしっかりと爪?でサケをつかまえています(この辺は触ることができた)。木肌は全体に滑らかで、小さなノミ痕がきれいに並んでいて、これも手触りがよかったです。
 
 講演では資料が配布され、その資料をYさんがテキストにしてくれましたので、そのテキストも参考に私が気付いたことなども書いてみます。(超お手軽!! トーテムポール大紀行トーテムポール大辞典 カナダインディアンの不思議な芸術なども参考にしました。)なお、資料には北西海岸先住民の居住地の位置を示した地図もあり、それを点図にしてもらいました。それによれば、北(アラスカのほう)から順に、トリンギット、ニスガ、ツィムシアン、ベラベラ、キャリア、ハイダ(旧名クィーンシャーロット島、現ハイダ・グワイ)、クワクワカワクゥ(バンクーバー島北東部とその対岸)、ヌーチャーヌヒ(バンクーバー島南西海岸)、セイリッシュ
 
 今回のテーマの北アメリカ北西海岸地域の先住民は、トーテムポールとそれに関連したポトラッチという儀礼で有名です。まず、私は「トーテムポール」の「トーテム」という言葉にひかれて、トーテムポールになにか宗教的な意味があるように感じていましたが、紋章ないし家紋といった程度で、私が思っていたような宗教的な意味合いはほとんどないことが分かりました(大学のころは、デュルケームの『宗教生活の原初形態』やフロイトの『トーテムとタブー』を読んだり、フレーザーやラドクリフ=ブラウンに少しふれたりしていたので、トーテムと宗教・呪術を結び付けて考えていました)。
 アラスカからアメリカ北西部の間のカナダ太平洋岸には、ハイダやクワクワカワクゥなど13から17の先住民が住み、その人口は合わせて17万人、そのうち半分は彼らの故地=先住民保留地(リザーブ)に住み、半分は近くの都市に住んでいるそうです。この地域は高緯度(北緯50〜60度くらい)にもかかわらず、海流(黒潮続流からさらに東流する北太平洋海流とアラスカ海流。いずれも暖流)の影響により温暖多雨な気候で、水産資源にも森林資源にもめぐまれているそうです。[この地域の気候は一般的には、偏西風や暖流などにより大陸西岸にあらわれる西岸海洋性気候と呼ばれるもの。西ヨーロッパの気候がこの気候の典型的なもので、北アメリカ北西海岸のほか、南半球ではチリ南部やニュージーランドなどもこの気候区に属する。]
 4月ごろから10月ごろは天気がよく、春から秋にかけての7ヶ月間5種のサケ(シロザケ、ベニザケ、ギンザケ、カラフトマス、マスノスケ)が次々に川を遡上してくるそうです。その他魚類ではオヒョウ、ロウソクウオ(candlefish。脂肪分が多く、乾燥させて蝋燭のように燃やして照明用に使ったとか)、ニシンなど、海獣ではトド、アザラシ、ラッコ、クジラなど、食糧資源は有り余るほど豊富だったようです。また、レッドシダー(ベイスギとも呼ばれるが、ヒノキ科に属す)など針葉樹林も広がり、家屋をはじめ木の文化(トーテムポールもその一部)も発達したようです。そして、サケをはじめとする漁猟・狩猟を基盤とした生活だったとは言え、定住性の高い集落をつくり、中にはロングハウスなどと呼ばれる大型の家屋に住むこともありました。さらに、富が十分に蓄積できたのでしょう、首長・貴族・平民・奴隷という階層社会になっていたそうです(奴隷は、戦いなどで他の村から連れ去られた人たち)。[このあたりの話を聴いていると、サケを重要な食糧資源としただろう縄文時代後期の東北地方や北海道の人たち、さらにその後のアイヌの人たちの生活とも、大まかなところでは、似た点がかなりあるのではと感じます。]ハイダやニスガは母系制、クワクワカワクゥは双系らしいです。例えばハイダはワシクランとワタリガラスクランに別れ、クラン内では原則結婚できず、葬儀は別のクランが行ったとか。
 
 続いて、カナダ北西海岸先住民の歴史についてです。以下、当日の資料より引用します。([ ]内は私の補足)
 1万4000年以前に北西海岸地域に人が移住し、生活を開始。
 現在の文化の原型となる水産資源に基づく生活様式は約2500年前に成立
 1778年にジェイムズ・クック船長の船員がバンクーバー島でラッコ皮を入手。寄港先の広東において高値で売れる。ラッコ皮の交易が始まる。[このクックの第3回目の航海には画家のジョン・ウェバーが参加していて、バンクーバー島の先住民の家屋の柱に施された彫刻を絵にしている。これが記録に残された最初のトーテムポール。なお、その後毎年おそらく1万頭以上のラッコが捕獲され続け、1830年ころまでには急減した。ラッコ皮と交換されたのは鉄片や銅板などで、後には銃も手に入れるようになる。]
 1840年頃ハドソン湾会社による交易と支配の開始(ラッコ毛皮からビーバー毛皮へ) [ハドソン湾会社は、1670年にイギリス国王チャールズ2世の特許により設立された貿易会社。1821年、それまで激しく競争していたフランス系の北西会社を併合、カナダでの毛皮交易を独占。]
1830〜1860年ごろにトーテムポールの制作とポトラッチ儀礼は最盛期を迎える。[これは、毛皮交易により先住民の首長たちに莫大な富が集中したことで可能になったと思われる。また、毛皮と引き換えに鉄器を入手したことで、巨大なトーテムポールの彫刻も可能になった。]
 1862年に天然痘が流行し、人口減。社会と文化の弱体化、植民化の拡大。[平均して北西海岸の先住民の人口は7割減、クイーンシャーロット諸島(今はハイダ・グワイと呼ばれる)に住むハイダの人たちで生き残ったのは1割にも満たなかったようで、廃村になった所も多い。ハイダの人たちは、冬には大型家屋に一族数十名が密に暮らしていたために、とくに犠牲者が多かったと思われる。]
 1867年のカナダ自治領(Dominion of Canada)成立
    土地条約の締結(1871年から1921年に11条約締結)と同和政策の開始 [例えば、子どもたちを寄宿学校に収容・隔離し、部族の言葉を禁じて英語を強制。]
 1871年にブリティッシュ・コロンビアはカナダ自治領に参加し、州となる。
 1885年から1951年まで国法でポトラッチなどの先住民の宗教儀礼の実施を禁止。これにより伝統文化が衰退。
 1950年代より伝統文化や言語の復興活動を開始。
 1970年代「インディアン・ルネッサンス」
 1973年にニスガの土地権に関する最高裁判所判決「コルダー判決」
 1974年にカナダ政府は先住民政策を大転換し先住権についての政治的交渉を開始。
 1999年にニスガはランド・クレーム協定をカナダとBC州を相手に締結。[ニスガは、カナダ太平洋岸、ブリティッシュコロンビア州北部のナス川流域に住む人たち。現在、ナス川流域の4つの村に約2500人、都市部に3500人。1999年の協定で、ナス川流域2000平方キロメートルの土地がニスガに属すると認められ、その領域内での資源開発にはニスガ自治政府が協議に加わることなどが定められた。]
 現在、多くのBC内の先住民グループが土地権請求問題を交渉中。
(引用ここまで)
 
 次にトーテムポールについて。
 トーテムポールは、アラスカ南部からアメリカ北西部までの北米北西海岸に住む先住民諸族が主にレッドシダーなどに動物などを彫刻した柱のことです。
 トーテムポールは、ヨーロッパの人たちが18世紀末に初めて見たころは家屋の中あるいは一部になっていましたが、19世紀になって家屋の外に大きなトーテムポールが設けられるようになりました。前者を付属柱、後者を独立柱と言うそうです。
 付属柱には、家の正面にはめ込んでいわば表札のような役目になっている「家屋柱」(ときには入口となる穴が開いていて、その場合は「入口柱」と言う)と、部屋の4隅の柱のように構造の一部になっている「家柱」があるそうです。
 独立柱は種類が多く、次のようなものがあります。(以下引用)
記念柱(Memorial Pole): チーフら高位の人が死んだ場合、その人を記念して後継者が建てることが多い。[その他、子供が成人する時や結婚などのおめでたい儀式、戦いに勝利した記念などにも建てられた。]
墓標柱(Grave Marker): 墓地に建てられるポール。日本の墓石に相当する。
墓棺柱(Mortuary Pole): 墓標と棺を兼ねているポール [ポールの上部に美しくデザインされた曲木細工(bentwood)の棺があり、そこに遺体を入れる。単柱式、双柱式の2種がある。墓棺柱もそのままにされて朽ちてゆくが、骨を取り出して再埋葬することもあるとか。ちなみに、秋田杉でつくられる曲げわっぱも曲木細工の1つ。]
はずかしめのポール(Shame Pole): 特定の人や家族集団に、義務の履行を請求するために建てるポール。 [請求先の家の前に建てるという。]
領域柱(Territorial Marker): 海浜などでの漁業権などを示すためのポール
歓迎者柱(Welcome Figure): ポトラッチなどへの招待客を歓迎するために村の入り口などに建てるポール。
(引用ここまで)
 とにかくいろいろな社会的な役割を果たしていたわけですね。生きていくためには当然なのかもしれませんが、自己主張・顕示欲の強い人たちのように思います。
 次にトーテムポールの紋章になっている像について、ワタリガラス、ワシ、クマ、オオカミ、シャチ、オヒョウなど、それらが持っている意味合いについて説明がありました。なんだか分かったような分からないような、でしたが、以下にいくつか引用します。
ワタリガラス: 太陽や月をもたらした文化的英雄、人間をこの世に連れてきた創造神、また、間抜けで好色といっただめな側面をもつ両義的な存在。
オオカミ: 忠誠心、強い家族の絆、コミュニケーションのよさ、教育、理解、知性を象徴している。陸獣の中でもっとも強力な超自然的力を持ち、もっとも成功したハンターと考えられる。
クマ: パワーと人間のような属性を持っていることから、親類縁者の長老とみなされている。
カエル: 陸上と水中の両方で生きている生き物である。適応力や知識、世界を横断し、自然界と超自然界の両方に住む力の故に尊敬されている。カエルはシャーマンの主要な補助霊と考えられている。また、銅板紋章や巨大な富としばしば関連していることがある。
サンダーバード: 力、守護、強さを象徴する。すべての霊魂の中でもっとも強力だと考えられている。時々、人間に変身することもできる。
シシウトゥル(双頭のオオウミヘビ): 守護、超自然力、復活を象徴する。人間や他の動物に変身できると考えられている。
(引用ここまで)
 異世界をつないだり、人間に変身したり、ときには両義的な性格を持ったり。これらの像がいくつか描かれたトーテムポールが示す意味合い、ものがたりを理解することはとても難しそうに思います。
 
 次に、トーテムポールの設置の時にもかならず行われるポトラッチについて説明がありました。私が大学のころは、贈与と関係付けて教えられたように思いますが、「ポトラッチの最大の目的は、主催者側が手厚い接待と大量の贈答を通して招待客を圧倒することによって、主催者の威信を社会的に認めてもらうこと」、つまりポトラッチを行う各首長の権威を誇示することだったそうです。とにかくより盛大に、何回も行うことが求められたようです(トーテムポールの上部にはポトラッチをした回数分のリングが示されていることがあるとか)。
 
 国立民族学博物館には、計5本もトーテムポール(そのうち2本は屋外)が展示されているとのことで、その説明がありました。
 まず屋外のトーテムポールについて。民博が開館した1977年に設置されて現在は色あせてしまっているのは、クワクワカワクゥのリチャード・ハントとトニー・ハントが制作したもので、モチーフは上部よりサンダーバード、シャチ、棒をくわえて支えているビーバー、ワタリガラス。もう1本は、私が最初に触ったもので、民博の創設50周年記念のために制作依頼したもので、クワクワカワクゥのビル・ヘンダーソンが制作したもので、一番上のワシは彼の父方の紋章、熊は母方の紋章だそうです)。
 展示場には3本トーテムポールがあります。左のポールは、ニスガのノーマン・テイト作で、モチーフは、カエルを持った巨人、ワタリガラス。中央は墓標で、クワクワカワクゥのリチャード・ハント作、モチーフはワタリガラス、アザラシを持つクマ。左のポールは、クワクワカワクゥのトニー・ハント作、モチーフは子グマ、親グマ、オヒョウ。
 
 最後に、現在のトーテムポールが持っている意義についてお話がありました。観光資源としてやアート作品として作られることも多くなっているわけですが、トーテムポールはそれを作ってきた民族の伝統のシンボルとして、また民族の存在を外の人たちに発信する機能も持っています。「トーテムポールを制作する知識や技法、技術が世代を超えて受け継がれ、作り続けられる限り、トーテムポールを作った人びとの文化は存在し続ける」ということです。
 
(2020年10月19日)