10月16日、安曇野市豊科近代美術館に行き、学芸員のSさんの案内と説明で高田博厚の彫刻を鑑賞しました。
この美術館では高田博厚の彫刻をおそらく100点くらいは常設で展示しています。そして学校向けの鑑賞支援として、彫刻作品を触って鑑賞したり、学芸員による対話型鑑賞をしていて、見えないなど障害のある方も事前に相談すれば彫刻作品を触って鑑賞しながら詳しく説明してもらえます。今回はコロナ対策ということで、手袋を着けて触りました。
高田博厚について私はまったく知りませんでした。フランスの文化・精神性の影響を強く受けた彫刻家・文筆家のようです。1900年石川県生まれ、幼少期を福井県で過ごす。小学生のころから本好きで、12歳でクリスチャンの母の影響で洗礼を受ける。中学に入って哲学や文学・語学に専念、中学をなんとか卒業後東京に出て高村幸太郎などと知り合い、最初イタリア語の翻訳をするが、彫刻にも目覚め、1927年に大調和展、29年に国展に出品。1931年、妻と4人の子供を残し単身渡仏、その後1957年までなんと27年間もフランスで暮らします。渡仏後間もなく、スイスにいたロマン・ロランに肖像制作のために招かれ、ロマン宅を訪れたマハトマ・ガンジーもスケッチします。その後も、アラン、ポール・シニャック、ジョルジュ・ルオー、ジャン・コクトー等と幅広く交流します。第2時大戦中もパリに留まりますが、パリ解放の直前、ベルリンの大島駐独大使の命令で他の在仏日本人とともにベルリンに移動、翌年ソ連軍に収容されますが、日本への送還を断りフランスに向かおうとし、今度はアメリカ軍に収容されて1年余過ごし、ようやくフランスからの要請でパリに帰ります。彫刻家として、記者として、またカンヌ国際映画祭日本代表を勤めるなど活動して、1957年に帰国します。そのさい、フランスで入手した数千冊の本を持ち帰るために、アトリエにあった彫刻をすべて壊してしまったそうです。(
彫刻家 高田博厚 〜その生涯と高坂彫刻プロムナード参照)。帰国後は東京で、その後鎌倉で制作を続け、1987年に86歳で亡くなります。その間、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師などにもなっています。
最初に触ったのは「カテドラル」という作品。高さ20数cmの女性のトルソです。背を反らし(腰の辺りの背骨の部分がぎゅっとくぼんでいる)、大きなお尻の部分で堂々と立っている感じです。胸はやや小さ目で、左側が少し高くなっていて身体がやや傾いているようです。手触りはちょっと石っぽいですが、さらさらと粉のような感じもしてなにかと思ったら、セメントだそうです(パリに行って間もなくのころで、ブロンズにするだけのお金がなかったのかもとのこと。表面は白っぽいが少し黄色く着色しているようだとのことです)。この女性のトルソと「カテドラル」というタイトルが結び付かず尋ねてみると、高田がランスの教会を初めて見たとき、跪いて天を仰いで祈っている女の姿に見えて感動したからだとのこと。後で知るのですが、トルソはたんにそのままの形でなく、そこから全身の像の姿が見えてくるはずのもののようです。なお、鑑賞の終わりのほうで、高さは60cmくらいと2倍ほどもありますが、形がまったく同じブロンズの「カテドラル」(1937年)にも触りました。材質が違うだけですが、私はなぜかセメントのほうが好ましく感じました(腰の後ろのくぼみがセメントのほうがなにかぎゅっと深いように感じましたし、また、セメントのほうが建物を連想しやすかったからかも知れません)。
次に「ロマン・ロラン」。高さ30cm弱の頭部の像です。制作年は日本に帰ってからの1961年で、ロマン・ロランに1931年に会ってから30年後に作られたもの。鼻が狭く高く、目はわずかに開いて下を向き、眉の上あたりが突き出、頬は凹凸が多く、耳が四角っぽく、全体にきびしい感じがします。
次は「マハトマ・ガンジー」(1965年)。高さ50cm余の、胸から上の像です。大きな顔。目を開き、しっかり前を見つめている感じ。耳は三角っぽくて上がとがり下に長く伸びています。左手を胸に当て、右手は服の中に隠れているようです(服はゆるく波打つようになっている)。全体に堂々と静かに落ち着いた感じがします。1931年11月、高田のもとにロマン・ロランから旅費が届き、マハトマ・ガンジーが1週間滞在しているロラン邸に招かれます。スケッチをもとに何度も肖像を作ろうとしますがなかなか完成には至らず、結局帰国後に制作します。救ライ事業にも共感し、インドにガンジー像を何点か送っているようです。
次は「裸婦立像」(1963年)。高さ60cm余の全身像。顔を上に向け首の辺りに巻いた布?に、両腕を広げて両手を当てています。顔はちょっと平たく小さいようです。お腹から下がどっしりとした感じ。
次は「男のトルソ」と「女のトルソ」(ともに1973年)。ともに高さ30cm余ほどで、サイズもポーズもほぼ同じです。最初に「男のトルソ」を触って、これは「女ですか男ですか」と訊かれて私ははっきり答えられませんでした。「女のトルソ」を触って、お腹のぼこぼことした肉付きから女だと分かりました(胸の所は男も大きかった)。お尻の横の部分にはともに少しくぼみがありました。(「男のトルソ」は古代ギリシアの「ベルヴェデーレのトルソ」と呼ばれるものが参考になっているらしい。)
次は、セメントの像で「ぽーれっと」(1968年)。胸から上の女性(少女?)の像です。服の部分は茶色、顔の部分は人肌の色だとか。首がすっと長いのが印象的でした。
次は「踊り子」(1957年)。全体の高さ50cmくらいで、高さ10cm弱の立方体の台の上に細身の女性が立っています。両肘を外側にぎゅっと広げて両手を首の後ろで組み、顔をやや上に向け、少し背を反らした感じです。(両肩の上に、腕と首でつくられる外側にとがった3角形の空洞ができている。)立方体の台座から右足の外側がはみ出ていて、親指でぎゅっと台座をつかむような感じになっている(右足の外側は台の上から1cmくらい下に落ちかけている)。そして、左脚が少し外側にふくらんだような曲線になっていて、その形がきれいに感じました。この像のポーズはマチスの絵に出てくる踊り子に似ているそうです。
次は「宮沢賢治」(1971年)。胸から上の像。高さは40cmくらいで、横幅も奥行もかなりあります。大きな頭が肩の上からぐっと前に突き出ているような感じです。とても猫背で、このような姿になっているのでしょう(私もそうかもしれないと思いました)。全体にほぼ左右対称で、整った姿のように感じました。顔はなにかきびしい感じです。他にも肖像では、「高村光太郎」(1959年。胸から上の像)、「マルセル・マルチネ」(1931年)、「アンリェット」(1938年)などありましたが、よくは覚えていません。
渡仏前の作品にも触りました。「古在由直」(1927年)は、高さ20cm弱の頭部の像で、細かく複雑な表現のように感じました(左右の目がずれていたのが印象に残っています。古在由直は、農芸化学者で、東京帝国大学の総長)。「小山冨士夫」(1928年)も高さ20cmくらいの頭部の像で、顔はやさしい感じがしました(小山富士夫は、岡山県生まれの陶芸家・陶磁研究家)。「男の首」(1928年)という小さな像もありました。
「エチュードT」(1972年)のポーズには驚きました。奥行は30cm余ありますが、高さは10cm余、幅も15cmくらいの平たい小さな女性?の全身像です。座った状態で前脚を伸ばし、上体をぎゅっと前に曲げて頭を膝下に付け、両腕も前に伸ばして両手を頭の前で交差させています(私にはまったくできないポーズ。バレリーナはこんなポーズをするのでしょうか?)。「エチュード[」(1977年)もあって、これはあぐらをかいたような姿勢だったように思います。
トルソと全身像の関係がよく分かる作品にも触りました。「腰掛ける女」(1975年)は高さ50cm余の腰かけた姿の全身像。高さ20cmほどの台に腰かけ、下を向き、右足はふつうに下に下ろし、左足は内側に曲げて右膝の下に入れ、右手はその左足首辺を支えるようにし、左手は下に下ろして台に置いています。「腰掛ける女のトルソ」(1975年)は高さ30cmほどで、この全身像から胴部分と左腕だけを残し、頭は首の付け根で、右腕は胸のあたりで、両足は太腿辺で切り取った形です。制作者は確実な全身像のイメージがあって、そこからトルソを作っているのだということが分かります。逆に、鑑賞する者は、トルソからその全身像を明確にイメージできるかも知れないということでしょう。古代ギリシアの時代から、彫刻でなぜこんなにトルソの形式が多いのか、納得しました。
サイズや形はほぼ同じで、素材が異っているものにも触りました。「裸婦立像」は木製とブロンズのもの(いずれも1971年)があり、高さ70cmくらい、両脚をそろえていますが、右足のかかとを上げて立っています。木のほうは、一部木目?のようなもの(あるいは着色の仕方なのでしょうか?)が感じられて、私はブロンズのほうが好ましく思いました。「着衣の女」はテラコッタとブロンズ(いずれも1979年)があり、高さ70cm弱で、右手は胸の辺を押え、左手は下に伸ばしています。テラコッタは服のひだのようなのが触ってよく分かって、私はこちらのほうが気に入りました。見た目も色合いなどが異なり、かなり違う印象のようです。
*美術館からの帰り、豊科駅前に高田博厚の「地」と「空」がありました(「空」は汚れていたようなので触りませんでした)。「地」は、座った姿勢で上態を曲げて右手を地に突き、左腕で頭をかかえこむようにして左手を右肩の上に置いています。なにか深く考え込んでいる様子でしょうか?。「空」は、両手を頭の後ろに当てて少し顔を上に向けているようです。
常設の高田博厚の彫刻を鑑賞したあと、同館で開催中の安曇野の作家展「近くに在るものへのまなざし」も案内してもらいました。安曇野の山や田園などの風景、子供や家族など、身近なものを描いた安曇野ゆかりの10人の作家の展覧会だということです。最初に、等々力巳吉の油彩画「鹿島槍ケ岳」(空の青と雪渓の白が印象的のようだ)。飯沼一道(1940〜2008年)の「安曇野A」は、稜線や道・川をデザイン風に描いて安曇野の田園風景を表わした絵のようです(子どもたちは、稜線を見ただけで、それがどこの山なのか分かるとか)。彫刻も数点展示されていて、小林章(1903〜1977年)の「花を持てる少女」「リボンを持てる少女」に少し触れました。
とくに印象に残っているのは、小川大系(1898〜1980年)の「初夏の漁」という石膏像。胸の所まであるゴムなが?のようなのを着け(胸の所にはその紐の結び目があり、さらに肩から背に向かって綱のようなのが伸びている)、右手に下が広がり上が狭くなった筒状の何かで編んだようなもの(おそらく「うけ」と呼ばれる漁具?)を持ち、左てでその筒状のものから伸びる綱を持ち、背には大きな、下のほうが広い台形の籠を負っています。むかしの川漁師の姿が目にうかんでくるようです。
今回の高田博厚の彫刻の鑑賞は、私にとっては忘れがたい体験になりました。高田博厚の彫刻はすべて人物の形をとっていますが、たんに肖像にとどまらず、人物を通してあらわれるなにか深いもの、内面から伝わってくるなにかを表現しようとしているもののように思います。また、トルソと全身像の関係、同じ像で素材の違うものの比較などは、とくに印象深かったです。
[補足]安曇野の道祖神
安曇野は道祖人で有名で、数百点は点在しているようです。美術館の帰りに、Fさんの案内で4箇所ほど回って触りました。「双体道祖神」と呼ばれるもの4点に触りました。男女が並んで立ち(正面を向いていたり、向かいあっているものもあった)、手を取り合っていたり、中には互いに肩に手を回しているものもありました。多くは江戸時代の年号が彫られていてかなり古そうですが、1点最近設置された新しいのもありました(観光用?)。その他単体で、合掌しているもの、半跏思惟像のような姿勢で右手を右頬に当てているもの、また大黒さんのようなのもありました。文字だけ刻まれているものもあり、「二十三夜」と彫られているものもあります(二十三夜は、旧暦二十三日の夜の月待行事で、講の仲間が当番の家に集まったと言う。これはそれを記念する二十三夜塔だと思われる)。
(2020年10月23日)