10月17日、雨の中、Fさん(以前南アルプスジオパーク関連の仕事をされていた方)の案内で、長野県伊那市にある中央構造線の露頭(溝口露頭)、および大鹿村の中央構造線博物館に行きました。
午前9時ころ、Fさんの運転する車で宿泊先の豊科駅近くのホテルを出発、南に向い1時間ほどで伊那市に入りました。天竜川を渡り、支流の三峰川沿いに進み、旧長谷村にある美和ダム湖に到着。国道152号線沿いに「美和ダム湖散策公園・中央構造線観察路入口」の表示があります。ここが「溝口露頭」と呼ばれている所です。
雨に少し濡れながら、とぎれとぎれに階段が続く道を下りて行きます。水音が次第に大きくなり、自分の立っている位置と水音のする高さがあまり変わらなくなります。足元はずるずるとしたような粘土質の感じです。ここで右側を触ってみると、表面がするうっとした堅そうな岩石で、60度?くらいでしょうか、急な勾配の壁のようになっています。左側を触ってみると、表面がざらざらした、泥が固まったような柔らかそうな石がごろごろしていて、ごく緩やかな坂のようになっています。両側の岩石の違いは明らかです。見た目でも色も異なり、はっきりと地層が違っていることが分かるそうです。
その後、さらに南下して大鹿村に向かいます。その途中に通過した分杭峠、北川露頭、鹿塩温泉などについて、Fさんに説明してもらいました。分杭峠は、中央構造線の断層線谷(断層に沿って地盤の弱い所が浸食されてできる谷)を利用した秋葉街道にある峠で、伊那市と大鹿村の境にもなっています。ここは、 2つのまったく異なる地層がせめぎ合っていることからでしょう、ゼロ磁場としてパワースポットになり、訪れる人たちも多いそうですが、もちろん科学的には何の根拠もなさそうです。地盤が脆いため、大雨のたびにしばしば崩れて通行止めになるそうです。
分杭峠から数分で北川露頭です。大鹿村には中央構造線の露頭として、この北川露頭とともに、さらに10km余南にある安康露頭の2つがありますが、いずれも天然記念物に指定されていて、今は近付いて触ったりはできないとのことです。北川露頭は、昭和36年(1961年)6月末の集中豪雨による土石流によってはっきりと見えるようになった露頭だそうです(この時の土石流に襲われて北川集落40戸弱すべてが離村してしまい、今はその跡が少し見えるくらいだとのことです)。伊那谷付近では、大きな洪水や土石流がしばしば起こり、そのたびにそれまで見えていた露頭がなくなったり、新たに露頭が見えるようになったりすることがあるそうです。
北川露頭のすぐ近くに、鹿塩温泉があります。この温泉は、山から湧き出す塩水を暖めたものですが、その塩水の濃度は海水と同じ3%以上もあるそうです(にがり分が少なく、べたつかない純粋な塩水に近い)。塩水の源としては、岩塩や化石海水(海に堆積した地層中に閉じ込められた海水)が考えられますが、日本には岩塩はないし、日本各地にある塩水泉のもとは新第三紀の2千万年以降の地層に含まれていた塩水で、大鹿村にはそういう地層は見られず、どこから来たものなのかはっきりしたことは分からないようです。
鹿塩温泉を通り過ぎて間もなく、道の駅「歌舞伎の里大鹿」に到着(なぜ「歌舞伎」なのかと思ったら、大鹿村には、神社の境内で飲み食いしながら観劇するむかしながらの歌舞伎が今に伝えられているとのこと)。そこで昼食をとったり、地元の産品をみて回ったりしました。野菜や木の実やきのこなどが豊富なのはもちろんとして、鹿肉の料理がいろいろあり、また鹿皮を使った製品も売られていました(大鹿村は鹿がとても多く、林床の草はほとんど鹿に削り取られてなくなっているそうです)。そして、この道の駅のすぐ近くに、目的地の中央構造線博物館がありました。
中央構造線博物館は、中央構造線沿いにあります(実際は博物館の少し西側を通っているようだ)。博物館では学芸員のKさんに説明してもらいました。館内には、北川露頭はぎとり標本、大鹿村の地形地質模型、切断された小さな岩石標本などが展示されています。岩石標本は、中央構造線を境に色分けされたカーペットの上に置かれていて、内帯に属する伊那山地側の岩石は赤いカーペットの上に、外帯に属する赤石山脈側の岩石は青いカーペットの上に配置されています。岩石標本は切断されてその表面はつるつるで、触って観察するのには不向きです。館外には岩石園があり、大鹿村の川底などから採集されたそのままの大型の岩石175個が、中央構造線をはさんで実際の地質配列にあわせて配置されています。外の岩石園のほうが触って観察するのにはずっと良いのですが、その日はずうっと雨続きでほとんど外での観察はできず、館内で浮き出しの地形図や一部岩石を触りながら説明してもらいました。
レリーフマップを触ってみると、伊那山地と赤石山脈の間にほぼ南北に伸びる谷があります。そして、伊那山地側は急な崖、赤石山脈側は緩やかな斜面になっていることも分かります。さらに大きなレリーフマップで確認すると、この谷は諏訪湖に達し、そこで糸魚川−静岡構造線(フォッサマグナの西の境界線)と交差して東に曲がり、群馬県下仁田のほうに向っているようです(諏訪湖から東は、新第三紀の厚い地層に覆われていて中央構造線はほとんど地表にあらわれていない)。また、谷の南のほうをたどると、水窪(静岡県の西北端、浜松市天竜区に属す)に至り、その辺りから南西方向に少しずつ方向を変えながら豊橋市付近に達し、三河湾を西に進んで伊勢市、松阪市方面へと続いています(そのあとさらに、五條市(奈良県)、紀の川、和歌山市、淡路島南岸沖、徳島市、吉野川北岸、石鎚山脈北麓、佐田岬北岸から九州に至る)。
[参考]中央構造線などの位置を地図上で示せればいいのですが、それは難しいので、各地の緯度を示します(Wikipediaを参照)。
中央構造線
群馬県下仁田町:北緯36度12分44.9秒 東経138度47分20.9秒
諏訪湖:北緯36度2分57秒 東経138度5分07秒
溝口露頭(伊那市):北緯35度47分29.5秒 東経138度4分56.7秒
分杭峠:北緯35度41分58秒 東経138度04分01秒
北川露頭:北緯35度40分36.5秒 東経138度03分50.5秒
中央構造線博物館:北緯35度33分22.5秒 東経138度2分18.5秒
安康露頭:北緯35度29分22秒,東経138度0分55秒
水窪:北緯35度9分48秒 東経137度52分8秒
豊橋市:北緯34度46分9秒東経137度23分29.5秒
伊勢市:北緯34度29分15秒東経136度42分33.5秒
月出露頭(松阪市飯高町):北緯34度26分18秒 東経136度11分23秒
糸魚川−静岡構造線
糸魚川市親不知:北緯36度59分35秒 東経137度41分42秒
諏訪湖:北緯36度02分57秒 東経138度05分07秒
静岡市駿河区:北緯34度57分38秒 東経138度24分15秒
日本列島は、地質構造上、大きく西南日本と東北日本に分けられ、西南日本はさらに内帯(大陸側)と外帯(太平洋側)に分けられています。この西南日本内帯と外帯の境界が中央構造線で、全体としては東西方向に1000kmくらいも伸びていますが、豊橋市を過ぎて水窪付近からほぼ南北方向になり、諏訪湖付近から再び東に伸びています。そして、内帯の一番南側の領家変成帯と外帯の一番北側の三波川変成体が中央構造線で接しています(大鹿村など中央構造線が南北になっている所では、西側に領家帯、東側に三波川帯)。なお、近畿から四国にかけての300kmほどでは領家帯の上に和泉層群が厚く堆積していて、和泉層郡が三波川帯と接しています(私は以前、加太海岸で和泉層群の砂岩・泥岩互層に触ったことがある)。
日本列島の基盤ないし土台とも言うべきものは、古生代末以降、海洋プレート(最初はイザナギプレート、その後は太平洋プレート。イザナギプレートは今は完全に大陸プレートの下に消えてしまっている)が海溝で大陸プレートに沈み込むことによって古アジア大陸の東縁部に蓄積した付加体と呼ばれる岩石です(付加体は、沈み込みによって海洋プレートの表層部がはぎ取られて大陸に付け加わったものが主で、これに大陸側からずり落ちてきたものも加わります)。中央構造線は、中世代白亜紀(1億年前ころ)に大陸内にできた長大なずれ目が始まりのようです。このずれ目の成因については、南西から北東方向の大陸縁にたいして南から北に向かう海洋プレートの圧力がかかることも一因と思われ、このずれ目=中央構造線の原型は、当時は現在とは違って、海溝とほぼ平行に南南西から北北東に伸びていました。2000万年前くらいから西南日本は時計回りに、東北日本は反時計回りに大きく回転し、中央構造線は今のように東西方向になりました(この時、西南日本と東北日本の間の折れ曲がった部分が深く落ち込んでフォッサマグナ地域となり、また大陸との間には日本海ができるようになる)。さらにその後、北上してきたフィリピン海プレートに押されて、静岡県から関東地方にかけて中央構造線が北方にずらされて、ほぼ今のような姿になります。(ちなみに、伊豆半島はフィリピン海プレート上にあって、南東方にあった島がフィリピン海プレートの動きに伴って本州にくっついたもの。また、丹沢山地はフィリピン海プレートの衝突によってできた隆起。)
[補足]日本付近には現在、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートが集中しており、東北日本では北米プレートの下に太平洋プレートが、西南日本ではユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが、伊豆半島から小笠原諸島ではフィリピン海プレートの下に太平洋プレートが、それぞれ沈み込んでいる。
中央構造線は1つの大きな断層ではなく、時代も場所も異なる多くの断層が連なったものです。活断層もありますが、多くは古い断層で、直接地表に断層面があらわれていることはほとんどありません。断層(多くは地震を伴う)が起ると、断層面の岩石は壊されて礫やさらに細かい粘土のようになり脆くなります(=断層破砕帯)。とくに横ずれ断層の場合は、破砕帯の幅が広くなり(たぶん数十メートルから数キロメートル)、脆い地質なので雨や川による浸食が進んで谷地形になることが多いです。大鹿村をはじめ中央構造線沿いに見えている谷地形はこのようにしてできたものと思われます。
中央構造線で接している領家変成帯と三波川変成帯は、白亜紀後期(1億〜7千万年前くらい)にさかのぼるようです。海洋プレートが大陸プレートの下に斜めに100km以上沈み込んでゆくと(地下深くなるほど地温が上昇するので)マグマが発生し、そのマグマが浅い所まで上昇してきます。領家変成帯の岩石は、このようにしてできたマグマが地下の浅い所(地下10〜15kmくらい)で陥入してゆっくり冷えてできる花崗岩類、およびそれらが比較的高温・低圧で変成した片麻岩が主です。私が溝口露頭で触った、右側の堅いするうっとした岩石は、Kさんによれば、この片麻岩だったようです(縞模様があるのが特徴)。三波川変成体の岩石は、地下15〜30kmくらいの深い所で、主に海洋側からもたらされた砂岩や泥岩、石灰岩やチャートなどが比較的低温・高圧で変成した結晶片岩類(砂質片岩、黒色(泥質)片岩、石英片岩。薄い層状になっているのが特徴)などが主です。領家変成帯と三波川変成帯はできる場所も深さも離れているのですが、それがどのような経緯で現在見られるように同じ地表面で接するようになったのかは、まだ十分には分かっていないようです。
私が訪れた伊那地方は、今は東から赤石山脈、伊那山地、稲田に、天竜川と、起伏の多い地形ですが、以前は東側から西側になだらかに傾斜した準平原であったものが、250万年くらい前から始まった隆起(東側ほど速く隆起。稲田に付近はほぼもとの高さ)によってできたものだそうです。そして、赤石山脈と伊那山地の間の中央構造線上の破砕帯の部分は脆いために浸食されて、現在見られるようなほぼ南北に伸びる谷地形になったわけです。(以上の中央構造線についての記述は、主に大鹿村中央構造線博物館の
中央構造線ってなに?を参考にしました。)
博物館の中では、片麻岩、花崗岩、泥質片岩、砂質片岩、チャート、石灰岩、マイロナイト、メランジュなどに触りました。石灰岩には、二酸化炭素を含む水によって溶けた小さな穴(小さな鍾乳洞?)がたくさんあるとのことでしたが、触ってはよく分かりませんでした。マイロナイトは、1辺が10cmくらいの平行四辺形で、堅そうで、表面に小さなつぶつぶが感じられる石でした。私はこれを触って、方向性のようなのを感じました。断層が起きると、地表や地下の浅い所では岩石は壊れてしまいますが、地下深くでは断層のずれの方向に伸ばされて鉱物組織が再編されて細粒緻密になります(長石などは大きな斑晶のまま残ることもある)。そうしてできたのがこのマイロナイトだとのこと。向い合っている面が横にずれているのですが、もしかするとこれは、横ずれ断層の力の影響を反映しているのかも知れません。メランジュは、10cm弱のごろんとした石。いろいろな種類の岩石が混在しているもので、私が触ったのは泥岩にチャートや凝灰岩?が入っているようでした。
博物館の外では、雨の中、大きな枕状溶岩に触りました。高さ1mくらい、周囲は2m以上はあったでしょうか、とても大きいです。うねうねと窪んだ線が走り、たくさんぼこぼことふくらみがあります。見た目にはいくつも枕を連ねたように見えるようですが、私にはあまりよく分かりませんでした。その隣りに、高さ20〜30cm、幅50〜60cmくらいの枕状玄武岩?(調べてもそういう岩石名はない。玄武岩質溶岩が海中に噴き出して急冷してできた直後の状態ではと思ったり)がありました。5cm四方くらいの柱を何本も束ねたような感じで、柱状節理のよい例のようにも思いました。雨がひどくて、残念ながらその他の岩石には触れませんでした。
今回の溝口露頭と中央構造線博物館の見学、これまでぼんやりとしか持っていなかった中央構造線についてのイメージが、実感を持ってかなり具体的なものになりました。中央構造線博物館の岩石園は、ぜひもう1度訪れて見学したいと思っています。
(2020年10月31日)