台湾の原住民運動

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 12月6日、Mさんと一緒に国立民族学博物館に行って、特別展「先住民の宝」関連のウィークエンドサロン「台湾原住民運動40年――『高山青』から移行期正義まで」(話者 野林厚志)に参加しました。ウィークエンドサロンは、ふつう展示会場で展示物を解説しながら行われることが多いですが、今回は2階の第5セミナー室で、先着順で定員をしぼって、講演会形式で行われました。
 まず最初に特別展会場に行って、台湾原住民のタオの展示をMさんに説明してもらいました。(台湾では、「元から住んでいる人たち」という意味で「原住民」という言葉が使われている。)タオの人たちは、台湾に住んでいる十数のオーストロネシア系の先住民の1つで、台湾の南端から100kmほど南東沖にある蘭嶼(ランスー)という面積50平方キロメートル弱の小さな島に住んでいます。人口は5千人くらいで、6つの村に別れています。台湾原住民の多くでは狩猟や焼畑農工が中心でしたが、この島は30度を越えるような急峻な土地が多く、漁猟も重要なようで、長さ3mくらいの小船が展示されていました。丸木船かと思っていましたが、調べてみるとこの船は「チヌルクラン」と呼ばれ、20枚くらいの板を組合せて作られているそうです。この船が出来上がると壮観な儀礼が行われるということです。その他、儀礼に使う金属製の兜や刀、オームガイを細工した貝の装飾品なども展示されていました。
 
 講演会は45分ほどの短い時間でしたが、とても内容の濃い、こちらがエネルギーをもらうようなお話でした。以下、私のメモや配布資料、ネットで調べたことなども加えてまとめてみます。
 まず、台湾の概要について。正式名は、中華民国。人口は 2300万人余(2019年は23,590,744人)。面積は約3万6千平方キロメートルで、九州やオランダと同程度(やや小さい)です。人口密度は、1平方キロ当たり650人で、山地が多いにもかかわらず、九州やオランダの2倍前後もあります。住民は漢族中心と思われがちですが、多様な民族構成で、配布資料によれば、漢族(福ろう人、客家、中国大陸各省)、少数民族(中国大陸)、オーストロネシア系先住民族、新移民(婚姻移民、労働移民)、湾生(日本人)です。
 
 次に、台湾の歴史について。もともと台湾にはオーストロネシア語族系の言語を話す人たちが住んでいました。たぶん、中国南部に住んでいた人たちが数万年前以降から東や南の島々(現在のフィリピンやインドネシアなどの島々)に拡散し、その一部の人たちが台湾に来たものと思われます。中国の文書には少くとも隋代のころから記録があるようですが、注目されるようになってきたのは16世紀以降です。最初に台湾を見つけたヨーロッパ人はポルトガル人で、水平線に緑に覆われた島を見て船員がその美しさに思わず「Ilha Formosa」(「美しい島」の意)と叫び、それがもとになって台湾のことを Formosa とも表記することがあるとか。また、16世紀には倭寇が台湾でも活動するようになり、さらに1600年前後には日本が台湾から大量の鹿皮を(オランダや中国を介して)輸入し、そのため台湾では鹿がほとんど絶滅したとか。
 17世紀になると、まずオランダの東インド会社が1624年に台南付近を制圧して要塞を築き、また1626年にはスペインが北部の基隆付近に要塞を築いて進出します。1642年には東インド会社がスペイン勢力を駆逐してオランダが台湾を統治することになります。ちょうどそのころ、中国では明が滅び満州から異民族の清が進出、これに対し鄭成功ら明朝の遺臣たちが反清復明を掲げて各地を転戦しながら抵抗しますが、大陸では清軍に鎮圧され、鄭成功の軍勢は清への反抗の巨点とするべく1661年に台湾にやって来てオランダ勢力を駆逐、漢民族として初めて台湾を支配します。(鄭成功(1624〜1662年)は、父が中国人、母が日本人で、平戸で生まれ、7歳の時に父のいる福建省に行く。近松門左衛門の『国性爺合戦』は鄭成功の事績を題材にしたもの。)これに対し、反清勢力の一掃を目指す清朝が1683年に台湾を制圧して福建省に組み入れます。しかし清朝は台湾を「化外の地」(中華文明の圏外)とみなして積極的に開発することはしませんでした。それでも対岸の福建省やその南の広東省などから暮らしに貧窮した二男・三男等が多数流入します。清朝が台湾への女性の渡航を禁止していたため、彼らは現地の女性と結婚して混血が進み、現在福ろう人・びん南人と呼ばれている漢民族の一派が形成されることになりました。また、平地の原住民で文化的に漢民族に同化された人たちは、現在平埔と呼ばれています。
 19世紀半ばになると、台湾周辺でも欧米列強とのトラブルも多くなります。そんななか、1871年、宮古島の船が台湾近海で遭難し、上陸して山中をさまよっていた船員50人余が原住民に殺される事件が起こります。これにたいして明治新政府は、琉球は日本領だという主張のもと、清朝に強く抗議しますが、清政府は台湾原住民は化外の民だとしてまともに取り上げません。そこで日本は1874年、清朝に代わって討伐するとして台湾に3600人もの遠征軍を派遣します(初めての海外派兵)。1885年、清朝は台湾を福建省から分離して台湾省としますが、日清戦争後の1895年、下関条約で台湾は日本領になります。日本は台北に総督府を置いて統治しますが、最初のうちは何度も激しい抵抗運動が起こり、そのたびに日本は武力鎮圧をします。いっぽう、農業開発、水利事業、インフラ整備、教育の普及など着実に植民地経営をします。とくに1930年代になると徹底した日本語教育が行われ、原住民もふくめ優秀な人たちは医師や教師などとしても採用されます。(台湾は砂糖など農産物のほか、セルロイドの原料となる樟脳の産地としても重要だったそうです。)また、総督府は詳しい住民調査もしていて、福(福建:福ろう人)、広(広東系:客家)、中(それ以外の中国系)、熟(熟蕃:主に西部の平地に住んでいて漢文化に同化した原住民)、生(生蕃:山地に住んでいて漢化していない原住民)に分けていたそうです(これは台湾の人口構成をよく反映している)。日本の統治について台湾の人たちは好意的に語っていることが多いですが、それはその後中国からやってきた国民党政府による過酷な支配・弾圧と比べてのことだと理解するのが妥当なようです。
 1945年、日本の敗戦後すぐ、南京国民政府軍が台湾に進駐、台湾を中華民国に組み入れます。中国本土からやってきた新来の外省人が要職を独占し、役人の汚職、軍人の狼藉などが続き、本省人の不満が爆発して、1947年二・二八事件が起こります。これにたいして蒋介石は大陸から援軍を派遣し徹底的に弾圧、戒厳令の下、多くの知識人や左翼的な人たちを投獄・一部を処刑するような体制が続きます(戒厳令が解除されたのは 1987年)。敗戦当時、台湾には軍人・民間合わせて50万人くらいの日本人がいて、民間人の中には残留を希望する者も多かったようですが、中華民国の方針でほとんどが日本に送還されます(軍人・軍属約16万人、民間人約32万人が日本に引き上げたと言う)。その中には台湾で生まれ育った人たち(「湾生」と呼ばれる)も20万人くらいもいて、ごく少数ですが現地に残留した人もいるようです。
とくに彼らは台湾への
 
 次に、台湾の原住民運動について。日本統治時代の前半では、生蕃・熟蕃というように蕃人扱い?でしたが、後半になると高砂族として一般にも知られるようになり、第二次大戦では皇民化教育を受けた人たちが志願して高砂義勇隊に参加、山地での伝統的な暮し方を生かして、南方戦線での食料や物資調達、道案内や偵察などに活躍したなど、本で読んだことがあります。中華民国政府の統治になってからは、高山族、山地同胞(山胞)、山地人と呼ばれ、各民族グループの言語に代って北京語を強要するなど同化政策を進めます。これに対し、1980年代になって民族自覚運動・権利を求める運動が始まります。
 運動のきっかけとなったのは、1983年5月1日の、台湾大学の原住民学生のガリ版刷りの『高山青』という回覧雑誌だったそうです。当時はまだ戒厳令下で、このような言論はとても勇気のいること、実際翌日には中心になった学生が教官(学生を監督・監視するために軍から各大学に派遣されている軍人。この制度は今も残っているようだ)に呼び出され強く指導を受けたとか。翌年にはキリスト教長老教会の支援を受けて「台湾原住民権利促進会(原権会)」が結成され、この会を中心に、「正名運動」(正当な呼称をとりもどすこと)や「還我土地運動」(土地の権利をとりもどすこと)など原住民運動が進められます。1985年には、民進党の陳水扁が台北市長になったことをを継起に「台北市原住民事務委員会」が設置されます。1987年には原権会が「台湾原住民族権利促進会」に改称、88年17条からなる「台湾原住民族権利宣言」(「原住民」という正しい名称の使用、土地の返還、人権、教育権、政治的・経済的・文化的権利など)を発表、その後の原住民運動の指針となります。そして同年から、第1次台湾原住民族土地返還運動も始まります(後第2次、第3次の運動も)。1980年代は台湾でも、厳しい規制のなか、公害や環境問題、女性や障害者、住宅問題などで広範な運動が起こっていて、原住民運動もそのような様々な動きとあいまって盛り上がったものと思われます。
 このような原住民運動の成果の一つとして、中華民国憲法でそれまで使われていた「山胞」という言葉に換えて、1994年の追加修正条文では「原住民」、さらに97年の追加修正条文では「原住民族」と明記されます。第10条の第11項で「国家は多元文化を認め、原住民族の言語と文化の発展を積極的に擁護する。」、第12項で「国家は民族の願望により、原住民族の地位および政治参加を保障し、その教育、文化、交通、水利、衛生、医療、経済、土地および社会福祉に対し保障と扶助を 行うとともにその発展を促進し、その方途は法律をもってこれを定める。澎湖、金門および馬祖地区の国民に対しても同様とする。」となっています。そして1996年には、行政院に「原住民族委員会」(たんなる委員会ではなく、原住民族を所管する省庁)が設置されます。
 さらに、2005年2月、全35条からなる「原住民族基本法」が公布・施行されます(同法には、土地の権利に関して、「自治の実現」「伝統的な地名の回復」「原住民族による土地の管理」「土地開発の際に原住民族から同意を得る必要性」「強制立退の禁止」などの条項が含まれているという)。また同年には、時間ごとに各民族グループの言語で放送するテレビ(原住民族電視台 Taiwan Indigenous TV)が開局しています。
 2016年、就任間もない民進党の蔡英文総統は、原住民族の日である8月1日、原住民族に正式に謝罪します。その冒頭で「私は政府を代表し、原住民族全体に対し、われわれの心の底からのお詫びを申し上げます。過去400年来、皆様が受けてきた苦痛と不公平な待遇に対して、私は政府を代表して、ひとりひとりにお詫びいたします。」と謝罪し、続けて「今になって、私たちがこうして生活しているのに、お詫びは必要ないと思う人もいるでしょう。しかしこのことこそが、私が政府を代表してお詫びせねばならない、最も重要な原因なのです。『過去のさまざまな差別視は当然のことだった』、あるいは『過去の自分が所属する以外のエスニック・グループの苦痛は、人類の発展の必然の結果』――これらが、私が今日ここで、変化させ転換させたいと意図する、第1番目の観念です。」と述べています(台湾・蔡英文総統の「先住民族に対する謝罪」全文)。ここには、原住民も含め差別の問題を、その根本にまでさかのぼって問い正すという姿勢が鮮明にあらわされています。心打たれる文章です。引き続き、「原住民歴史正義和転型正義委員会」の予備会議を開催、過去にさかのぼって歴史的に正義を救命し、奪ってしまった様々なものを返還し修復し再構築して和解しようとする(実際にはきわめて困難な)作業をはじめています。「転型正義」は、一般には「移行期正義(Transitional Justice)」と呼ばれているものです。
 
 最後に野林先生は、台湾の原住民運動は、1980年代からほぼ10年ごとに次の段階に確実にステップアップしているとおっしゃっていました。私もなるほどと同感です。このような着実な動きの背景には、共産党一党支配の中国とはまったく別の、多様な人たち・価値観を包含する多元社会を目指すことで、中国とは別の国家としての存在理由を国際的にも明らかにするといった面はあると思いますが、蔡文明の基本的な姿勢には大いに力づけられるものがあります。過去の歴史にまともに向き合わず責任もうやむやにしてきた日本にとっても(そして中国やアメリカなどにとっても)、学べきところが多いのではと思います。
 
[補足]政府認定16民族 (台湾原住民 より)
各民族の人口は2016年6月
 アミ族(アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 204,614人
 パイワン族 98,243人
 タイヤル族(アタヤル族とも) 87,601人
 ブヌン族57,086人
 プユマ族 13,716人
 ルカイ族 13,041人
 ツォウ族 6,617人
 サイシャット族 6,507人
 タオ族(ヤミ族とも) 4,505人
 サオ族 773人 ※2001年認定
 クバラン族(カヴァラン族) 1,426人 ※2002年認定
 タロコ族 30,603人 ※2004年認定
 サキザヤ族 863人 ※2007年認定
 セデック族 9,538人 ※2008年認定
 カナカナブ族 284人 ※2014年認定
 サアロア族 341人 ※2014年認定
 申告なし 13,921人
 総計:549,679人[7]。
 (以上のうち、サオ族とクバラン族は平埔に属していた。)
 
(2020年12月17日)