平和への願い、支え合う心―原爆被害者の会の仕事についての感想―

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 昨年12月7日、「ノーモア被爆者の集い」に参加しました。大阪市原爆被害者の会主宰で、第7回目になるとのことです。
 第1部「原爆犠牲者の慰霊のために」は、黙祷に始まり、ご挨拶、そして広島で被爆された方のお話でした。
 第2部「核兵器のない世界のために」は、30年程前、大阪市で被爆者、とくに被爆婦人の運動が始まって間もなくのころ、行政の側からその活動を積極的に支え、また各種の障害者施策にも関わってこられた、元大阪市民政局の方の講演でした。
 2時間近くのかなり長い講演で、戦時下の幼年時代から、戦後の新制度下での学生時代、そして就職してからの多彩な活動の様子をうかがい知ることができます。とくに、行政組織の中の一公務員としての制約の下にありながらも、障害者など弱い立場にある人たちを支えるための新たな仕事を作り出そうとする熱意とその方法論には感心させられます。実際のお話は多岐にわたっていて、聞き手・読者それぞれの立場で学ぶ所が多いのではないでしょうか。(私は、私の学生時代だった1970年代を思い起こしながら、記録を残すことの大切さ、障害者など当事者と専門家と言われる人たちとの関係、障害者主体の福祉の有り方などについて改めて考えさせられました。)
 以下、長文ですが、講演録を掲載します。(「資料」や「注記」は私が追加したものです。)

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平和への願い、支え合う心―原爆被害者の会の仕事についての感想―
      元大阪市民政局福祉部障害福祉課課長 辰巳毅

目次
はじめに
本論
《原爆被害者の会の活動の、3つの特徴》
実験的・開拓的事業
資料

■はじめに

●役所での仕事
 役所で実際に仕事をしていても、組織としての仕事なので、自分のした仕事というのはほとんど残っていないに等しい。そういう痕跡すらも残っていないのではという気がしてならない。自分が信念を持って取り組んだものが伝えられていれば、ひとつのモニュメント・記念碑のようなものとしてそれなりの意味があるが、そういうことはめったにない。
 障害福祉課に4年間在職し、その間施設の計画をかなり作ったが、在職中に完成を見たのは1ヶ所ぐらいで、いろいろ問題があって延び延びになった。施設は残ってはいるが、けっして私がつくったという気にはなれない。考えてみると空しいようなものだ。そんな私の名前を覚えておいていただくだけでも、私は感激このうえない。

●現在の仕事
 退職直前から、介護福祉士や社会福祉士を養成する学校の非常勤講師をしている。社会福祉は専門ではなく、仕事に就いてからの独学。
 もうひとつ、大阪簡易裁判所で民事調停の仕事をしている。金銭、交通事故、宅地建物などの紛争を扱っているが、最近とくに消費者金融の事件が急増している。

●戦争とともに
 昭和6年生まれで、私の育った時代は戦争と同居している。昭和6年は日本がフレームアップした満州事変、小学校に入った昭和12年は日中戦争が始まり、太平洋戦争が終った時は中学2年、さらに大学に入ると朝鮮戦争だった。
 戦争中は北陸の田舎町で育ったので爆弾に見舞われるということはなかった。子どもだったので親が庇護してくれて、あまりひもじい思いをしないで済んだ。戦争の大変さを肌身にしみて感じたというようなことは正直に言ってあまりなく、戦争にたいする私の考えは頭から入ってきたもので、自分の身体で覚えた戦争体験ではない。唯一の体験と言えるのは、軍医だった兄は無事に帰って来れたが、志願した兄は終戦の4日前ニューギニアで飢えとマラリアで死んでいる。
 戦争によって人命その他大きな犠牲を払って日本人は何を得たのか、それは一言で言えば私は「平和」ということだったと思う。

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■本論

 講演のタイトルの「平和への願い、支え合う心」は、大阪市原爆被害者の会の事業の一番中心的なテーマ。ひとつは平和運動。もうひとつの「支え合う心」は相談事業を意味する。よその専門家が入るのではなく、実際に被爆した人同士の相談事業で、ひじょうにユニークな存在だ。原爆被害者の会の主要な事業についての私の感想を述べる。その裏付けのために、私がこれまで考えてきたこと、してきたこと、教わってきたことにも少しふれる。

●新憲法の内容
 占領下、学制改革により私は中学5年の時新制高校2年に編入され、さらに1年後学区制により友達と別れて別の学校に転校させられた。さらに、そのころ教えを受けた先生方がレッドパージに遭った。左翼的とはまったく感じたこともないような先生が、何をもって追放になったか、新憲法を基に思想・表現の自由が保証されているのに、何故そんなことが同じ占領軍の下で行われるのか、不思議でならなかった。
 戦後私たちは受け身のかたちにしろ新憲法を国民のものとした。「与えられた憲法」と言われても仕方のないような制定のされかたをしているが、これは明治憲法の改制手続きによってつくられているので、いちおう日本が自主的につくったというかたちになっている。
 その内容は、第1に「平和主義」で、憲法の前文にも書かれている。
 第2は「国民主権」。旧憲法にも臣民の権利義務という言葉はあったが、それは「法律の範囲内において」ということで実質的には奪われることが多かった。国民が選挙によって代表を選び、そこで民主的に事を決めていく、これは国民の評価を受けた。
 第3は「基本的人権」。ところが私たちは「人権」というようなことはそれまで聞いたこともなかった。「人権」という言葉は、欧米で専制君主などが専横を極めた時に国民がそれを押し止めようと抗議して、権力者にたいして今後そんな人権無視はさせないと約束させた証文のようなものから育ってきた。「権利」という言葉は明治になってから出来た言葉。
 基本的人権の内容としては、表現の自由、思想の自由、信仰の自由、故なくして逮捕されないなどの人身の自由がある。「自由」という言葉も明治に作られた。それから百年余経っているが、基本的人権という観念は元々日本古来からあったものではないので、なかなか私たちの身に着かない、いつまでも貸衣装を着せられているようなところがある。憲法にもそういう面がある。
 占領軍がやって来て左翼の運動家なども解放されて米軍を解放軍のように賛美する者も出るほどだった。そのアメリカが、朝鮮戦争の前ころから、下山事件や松川事件など訳の分からないような事件が起こり、労働運動を抑えつけるような動きが出てきたが、それにたいし日本人は、戦時中よりはましだとか占領下だから仕方がないとか、あまり抵抗することなく諦めてしまっていた。
 講和条約が近付いてくると、米軍の撤退後に備えて、憲法9条で軍備は持たないと言っておきながら、警察予備隊という形で軍をつくった。
 さらに、大学3年の時だが、思想統制につながるような破壊活動防止法ができた。その時だけは、私は友達と語らい、これは戦前の治安維持法にも相当するようなものだということで、立命館の総長だった末川博先生に序文を書いてもらい、戦前の間違った道に戻るようなひとつのきっかけになるのではという警告を発するような啓蒙のパンフレットを作った。これが、私が学生時代にした唯一の活動のようなもの。

●組合活動
 大学時代を通じて私は何らかの社会の役に立つ仕事をしたいと思いながらも、自分で方向を見定めることができないまま大阪市に入った。大阪府も通っていたが、市民と直接接触する機会のある市のほうを選んだ。
 最初、建築局庶務係に入ったが、仕事らしい仕事はなかった。当時、局単位で労働組合(職員組合)の支部があり、その支部委員にあみだくじで選ばれた。何かをする足がかりを得たいと思っていたので、組合活動に興味を持った。支部で機関誌を出すことを提案、青年婦人協議会から機関誌を出すことになった。
 その第1号が8月15日に出ていて、そのトップ記事が原水爆禁止運動の動きを報じている。私が大学を卒業した昭和29年は、3月1日にビキニ環礁で水爆実験があり、第五福竜丸の久保山さんが犠牲になった年で資料1)、原水爆禁止運動が高まっていて、それを反映しているのだろう。さらに2号のトップ記事でも、組合の青年婦人部が署名運動をしていることを報じている。
 私はその機関誌で「文化サークル」をつくろうという呼びかけのアピールをした。建築局は出先も多く、三百数十名の職員が互いに手記などを通じて知り合うことが組織づくりの一番の基礎だと考え、月2回、2年余り機関誌を発行し続けた。

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《原爆被害者の会の活動の、3つの特徴》

1.婦人の役割
 そういう経験があるので、私は原爆被害者の会の機関誌を見た時、はっとした。まず婦人部のニュース、会のお知らせという形から始まったのは一番無理のないやり方だったと思う。さらに、第何集と通し番号を付けたことは、振り返って見たりするのにとても強みだったと思う。
 まず、婦人部をつくられたことを評価したい。被爆婦人の集いは、今から考えると会の運営の原動力になったのではないか。
 婦人が中心になることには、どういう意味があるのだろうか。まず、女性の場合、世の中のどろどろした、俗世間の常識にとらわれないで、純粋に理想を追求するということでは、男性に比べてどちらかと言えば優れていると思う。そういう、利害得失、打算を抜きにした、理想を基礎に置いた人たちの集まりが原動力になるならば、けっして組織は間違った方向には行かないのではないかと思う。
 もうひとつは、ボランティア活動としての意義。福祉の関係ではずいぶんボランティア活動が奨励もされまた現実にそれに依存してもいるが、福祉施設や団体にとって一番有り難くまたもっとも力になるのは、子育てを終わった主婦が中心になっている活動だ。(私の連れ合いも「いのちの電話」の電話相談を10年ほどし、また盲人のための声の図書づくりも10年ほどしていた。)

2.記録を残す意義
 婦人部のニュースとして出発した機関誌を、不定期にしろこれだけ続けてきたことは、とても大きなことだ。
 私は学生時代から市役所に入って間もなくまで「思想の科学研究会」に入っていたが、その時の中心的なライターが鶴見俊輔さんだった。この方が書くのは、今まで学者が書いてきた庶民には関係ないような難しい論文ではなく、大衆の思想だった。世の中を動かしている大衆の思想を掘り起こしてその中から生きていくための知恵のようなものを引き出し、それを体系化していくようなことを提唱した。お姉さんの鶴見和子さんは、私が大学を卒業する前後だが、『母の歴史』を著した。これは、三重県の女工たちがお母さんになって苦労してきた歴史を克明に綴ったもので、母親の苦労とその生活に耐えてきた生き方を子供が学び取るためのひとつの遺産としてまとめた文集。このような活動は、戦前の生活綴方運動の流れにある、日本独特の知恵だと思う。もうひとつ、鶴見俊輔さんが提唱されたものに、自分で書く力のない人たちのための聞き書きがある。「庶民列伝」ということで、書く力のない人たちにインタビューをして、それを文章化してその中から庶民の哲学を抽出するという作業をした。それが発展して、転向の研究などいろいろ実を結んでいる。こういうことは機関誌にも生かしていくことができるのではないかと思う。
 記録を残しておくと、それは自分で一貫性のある生き方をするためのひとつの歯止めになるのではないか。鶴見俊輔さんの言葉に「赤ちゃんは乳離れをすることによって成長していく。若者は理想離れをすることによって大人になる」というのがある。世の中のしがらみにとりつかれ、そういうものと妥協しながら生きていくと、自分の思わぬ方向、曲がった方向に行ってしまう、だから歯止めになるような装置を自分の中に持っていないとあらぬ方向に行ってしまうという警告でもある。
 ニュース、会の記録を残すということは、船が航路を間違いなく走って行くための軌跡を残すことになる。曲がってしまうと、それによって曲がったということが分かる。自分たちの運動を制御していくひとつの安全装置みたいなものが、機関誌であり会の記録だと思う。そういう意味で、私は原爆被害者の会の活動の仕方に興味を持つと同時に、感心もしていた。
 [注記: 大阪市原爆被害者の会の「平和への遺産」シリーズを中心とする全発行資料は、2002年8月に広島平和公園に開館した「国立原爆死没者追悼平和記念館」に収められ、永久保存されます。]

3.相談事業
 民政局(調査課)に入った時、私は自分が何をしたらいいのか、何を求められているのか、考え、勉強した。役所の中では、何もしなくても済まそうと思えば済むが、何かやろうとすると、いろいろな所に話しをつけ、方向付けをし、だれにでも認めてもらえるようなプロジェクトを作らねばならない。そのためには仲間が必要だが、仲間に恵まれ、また、ひっぱってくれた上司もいた。
 大阪市の戦前の社会部調査課には、輝かしい伝統がある。国の制度がほとんどない時代、大正7年の米騒動の前後から、大阪市は社会事業に取り組み、全国に先駆けて、保育所、産院、食堂、市場、児童相談所をつくるなどの仕事を次々と手掛けていった。戦前は国の制度がなかったからこういう仕事に自治体で自主的に取り組むことができたが、戦後、国の制度ががっちりと(穴だらけではあるが)出来てしまうと、新しい仕事を考え出そうと思っても、自主財源も十分でなく、国の制度にプラスすることは困難であった。
 しかし、国がつくった制度、例えば福祉サービスでも、国のお金だけでは不十分なものは自治体が中心になってやらなければならない。そこで私が一番最初に提案したのは、戦後25年経っていたが、制度の見直しだった。それまで漫然と続けていたものを、このさい改めて少しでも意味のあるものに変えていこうという試みだった。
 私が調査課に移る直前に、大阪市では、関西在住の福祉関係の先生方を網羅したような社会福祉審議会に制度の見直しの作業をしてもらっていた。ところが、福祉は実践の学問なのに、大学の先生は現場経験がない。日本では大学の先生は外国の本の翻訳や受売りだけで、現場と結び付いてそれを理論化していくようなことができるようになっていなかった。日本のオリジナルな思想はそういう人たちの作業の中からはさっぱり出て来ない。それで、私は一番遅れていた障害者対策を新しいプロジェクトとして出そうとした。
 もうひとつの問題は、職員が人事異動のためすぐに換えられてしまう、じっくり腰を落ち着けて仕事をやろうと思っている人がどこかに移されてしまう、そのため経験がなかなか蓄積されず、いつまで経っても素人の集団のままで、市民の中に積極的に入って行こうとする姿勢が出て来ない。それを改めるにはどうすればいいか、職員の専門職化の構想について審議会に諮問した。
 審議会には現場の第一線で働いている職員に出てもらって、現場での仕事の体験から自分の考えを先生方に説明し問題提起してもらった。大学の先生方はこれを非常に評価してくれた。第1次答申、第2次答申を出してもらった。それは、使命感を持った熱心な職員ができるだけ現場に定着するようにしようというものだった。同じような諮問にたいして東京都は資格制度を導入したが、大阪は中身が大事だということで、社会的な評価を受けるためにも、現場に長くいればいるほど職員の力量がつくような人事運営を目指すものだった。そのために、専門職を別に採用し、採用後は研修を深め大事に育てて力をたくわえていけるように、2年ほど人事課の協力で行なったが、残念ながらこれをシステムにまで高めることはできなかった。
 相談事業の話をしようと思って、当時の役所の現状について話しているが、もうひとつ、生活保護のケースワーカーの立場の問題がある。福祉事務所のケースワーカーは今は生活保護しかやっていないが、私は、生活保護のケースワーカーは、役所の中で親身になって市民の相談を受けることができるのか、その立場の問題を疑問に思っている。というのは、生活保護の場合は資産調査があり、収入や預金、財産、労働力などをとことん調べる。市民にとってはこれは鬼の仕事だが、同じ人がお金を出す仏の仕事もしているわけで、2つの面を自分で使い分けしなければならない、それは立場からいっても本物になりにくい、市民の信頼を受けにくいと思う。私は、本来は困っている人にたいして市の役人ではなく民間の人がそういう仕事をして、親身になっていっしょに行動できるようなシステムを作り上げることができないかと思う。外国にはそういう民間の組織がある。日本では、民間で組織をつくろうとしても、寄付金が集めにくく、お金の問題でなかなかうまく行かない。
 そういうなかで、原爆被害者の会が相談事業を始めている、それも会員の方々が直に相談に当たっている、これはひじょうに優れたシステムだと私は思った。また、会員自身による相談には、専門家ではできない仕事がプラス面としてある。
 アメリカの障害者運動の中から出てきたものに「ピア・カウンセリング」がある。「ピア」は「仲間、仲間同士」、「カウンセリング」は「相談」という意味で、仲間同士が相談にのるということ。これは、ロサンゼルスの郊外のバークレーではじまった「自立生活センター」(資料2)の活動に由来する。この活動は、エド・ロバーツという1人の重度の障害者(ポリオのため四肢はもちろん、首も動かせない)がカリフォルニア州立大学バークレー校に入ったのがきっかけ。
 アメリカの自立生活センターを視察した松兼功さん(脳性麻痺の重度の障害者)は、その主な機能として、介助人の紹介(登録している介助者とサービスを受ける障害者の橋渡しをする)と、ピア・カウンセリング(障害者のスタッフが同じ立場にある障害者のカウンセリングをする)を挙げている。このピア・カウンセリングは、自立生活センターの基本思想をダイレクトに反映したサービスだと言える。つまり、障害者の悩みや迷いを解決するためには、医学や心理学の専門知識よりも、障害者同士のアドバイスや対話のほうがより重要だという主張だ。障害者のことは障害者が一番よく知っている、だからよその専門家と名のつくような人よりも同じ悩みをもつ先輩が後輩に教えるようにやっていくのが良いとされる。
 松兼さんがエド・ロバーツさんの家を訪問した時の手記を一部紹介する。(以下引用)
 「家の中に入ると、まず『ハウ・アー・ユー』というはつらつとしたエドの声がした。彼はアイアンブレス(鉄の肺)という黄色い筒の中に仰向けで入っていた。首から上の部分だけが筒の外に出ている。彼は14歳の時にポリオ(脊髄性小児麻痺)になった。そのために全身の筋肉の力が極端に弱く、呼吸するにもアイアンブレスのような機械のサポートが必要なのだ。家にいる時は、寝ている時間をふくめて、いつでも筒の中に入っていなければならない。外出のさいにも電動椅子の後ろにポンプを積んで、そこから延びる管をいつも口にくわえている。アイアンブレスで仰向けになっているエドの顔の上には、大きな鏡がかけられている。それによって、話す相手の顔や外の景色を見ることができる。また彼の顔も真正面に座っている人にも見えるようになっているのだ。私たちとエドとの会話もこの鏡を通して進められた。『14歳で発病するまで、わしはフットボールからベースボールまでありとあらゆるスポーツをやっていたんだ。何をやってもうまくて、ずいぶん女の子にももてたよ。』エドはストローでコーヒーをすすりながら楽しそうに軽快な口調で話を始めた。目は輝き、額にはうっすらと汗が浮び上がっている。話しの合間をぬっては、アレン[介助者]に私たちのために指示をとばしてくれる。そのひとつひとつが、また実に的をえている。例えば、出されたコーヒーを前にして、ストローの角度をすこし斜めにしてほしいと思っていると、とたんにエドからアレンに『彼のストローの角度をちょっと変えてあげて』と指示をとばす。いかにエドが多くの障害者と接してきたか、そして自らの問題だけでなく常に仲間たちの幸せについて深く考えてきたかが、彼のそんな何気ない言動からもひしひしと伝わってきた。人間の幸福を追求する運動を展開していくリーダーというものは、大衆を引き付ける圧倒的なカリスマ的なパワーと、人々が共感し得る日常的なやさしさとが、同時に備わっていなければならないのではないか。エドは確かにその両面を自分の個性にしている。そんな彼でも、障害者になった当時は絶望の谷底に落ちたという。『自分の身体が自由に動かないなんて、とても信じられなかったよ。悪魔が乗り移っているようで、生きているのがいやだったね。何回も自殺を計ってねえ。そうそう、ハンガー・ストライキをしたこともあったっけ。なにしろ、医者から一生植物人間でおわるだろうと説得されていたんだ。』」
 この方は1995年3月に亡くなられているが、亡くなられた時の朝日新聞の夕刊のコラムの文章を紹介する。
 「カリフォルニア州政府のリハビリテーション局長[1975〜1983年、州知事の任命により、この職を務めている]が、1981年、空港に降り立った時に、出迎えの人たちは肝をつぶした。手も足も動かない、病院で一生を終えるしかない、重傷患者のように見えたからである。ポリオの後遺症で呼吸も自力ではできない。夜寝る時は、鉄の肺に入らなければならない。本当にこの人物が、230億円の予算の責任を持ち、2500人の部下を指揮している州政府の局長なのだろうか。だが、講演が始まると、疑いは消え、感動が広がった。……72年、自立生活センターを始めた。これは、施設生活から抜けだし、介助を受けながら地域で暮らすための拠点である。そのエド・ロバーツさんが先週バークレーの自宅で亡くなった(56歳)。『ニューヨーク・タイムズ』は3段抜きの記事でその死を悼み、こう書いた。『彼は、アメリカ人の障害者観を一変させた。』アメリカ人だけではない。日本にも続々と自立生活センターが誕生している。」
 日本でも現在自立生活センターが全国で100ヶ所くらいできている。このように障害者自身が自分たちの考え方で福祉サービスの主人公にもなるということは、このほかにもある。例えば、進行性筋ジストロフィーの山田富也さんは、国立療養所のような現在の受け入れ施設では自分たちの生活をするには満足がいかない、自分たちの施設をつくろうということで、寄付を集めるなど苦労して仙台ありのまま社をつくった。また、今では障害者団体の中では、セルフヘルプということでお互いにカウンセリングの当事者になる、障害者同士がカウンセリングをするというやり方が普及してきている。
 ところが、原爆被害者の会の相談事業は、こういう事を先取りしていたのだ。私は本当に感心をし、またその成果を見直した。このような活動が福祉の学会に報告され、福祉学会のほうからも相談事業の意味を評価してもらいたかった。もちろんこれからでも遅くない、そのためにもこうして残されている会の記録もいつかは注目されるようになるのではないか。

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●実験的・開拓的事業
 事務局長の高木さんには、実験的・開拓的事業の助成のことをずいぶん評価していただいたので、最後にすこしこれについて述べる。
 私は民政局に行った時に3ヶ月ほど欧米の障害者対策について視察した。アメリカの保健教育福祉省(日本の厚生省と文部省を合体したような組織)へ行って向こうの対策をいろいろ聞いた。リハビリテーションの技術を高めるために、組織的に取り組んでいた。そのためのスタッフをどうするかが一番問題だが、まず学生が集まるように大学の講座に補助金を出す、さらにその講座の中身をよくするためにその研究開発のためにも補助金を出す、その中のひとつに実験的・開拓的事業の助成というのがあった。私も、大阪にも民間の施設に熱心な職員がずいぶんいるが、この人たちが何か新しい事をやろうと思ってもお金がないと出来ないのではということで、そういう活動を助成する事業として予算要求した。ところが、もらえた金額は要求よりも一桁も少なくてがっくりした。それでも、初めに老人のための給食サービスを2ヶ所(老人ホームとコミュニティ・センター)で始め、それから、一般の保育所には障害児をなかなか受け入れてもらいにくいので、障害児を3人受け入れれば職員1人分の助成をしようというような事業をした。この事業の2年めか3年目、なかなか新しいテーマを探すのが難しいなか、原爆被害者の会の相談事業はどうかということで声をかけ、高木さんに評価していただいた。金額はわずかで恥ずかしいものだったが、とても喜んでいただき、記録にもこうして留めていただいており、ありがたくまたうれしく思っている。

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《資料1》
 日本では、ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸事件がよく知られています(政府の調べでも、死の灰を浴びた日本の船舶は683隻に上る)が、現地ではどうだったのだろうと思い、調べてみました。
 びきに環礁の住民は、1946年7月からの一連の核実験の直前に強制移住させられていましたが、そこから150km以上離れていて危険区域外とされていたロンゲラップ島などの住民は、激しい爆風に襲われ、強い放射線や死の灰を浴びて被曝します。2日後米艦船に収容され、200km以上離れた米軍のクワジェリン基地に隔離されます。3年余り経って「安全宣言」が出され帰島するのですが、食物などを通じて内部被曝し、異状児の出産や死産、甲状腺ガンや白血病が多発します。1985年離島を余儀なくされ、周囲の島に分散して住んでいます。(ビキニ環礁の住民は、1968年アメリカの「安全宣言」により帰島しますが、放射能汚染がひどく、1978年に離島しています。)
 ビキニ環礁周辺だけでなく、核実験や放射性廃棄物により、人間の生活には適さなくなった地域が、世界には散在しています。
参考:
大野俊著『観光コースでないグアム・サイパン』高文研、2001
「ビキニ水爆実験 被曝者はいま」<http://www.morizumi-pj.com/bikini/bikini.html>

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《資料2》
 バークレーの自立生活センターとエド・ロバーツについて、カリフォルニア州サンタバーバラ在住のKAさんという方が、バークレーの自立生活センター
<http://www.cilberkeley.org/index.html
のホームページから抜粋・要約して訳してくださいました。以下にその文章を転載します。

     『バークレーの自立生活センター』
 バークレーの『自立生活センター(CIL)』は障害を持つ人々が社会の一員として十分に社会に参加しながら自立的かつ生産的な生活をしていくのを援助する組織として、それまでにあったカリフォルニア大学バークレー校の「自立生活運動」と「身体障害学生プログラム」の二つを母体にして生まれました。その職員と運営委員のほとんどが障害を持つ人々で、現在は国内のリーダー的組織となっています。
 「自立生活運動」は大学のキャンパスにあるコーウェル病院に住む障害を持つ学生たちのグループで、 1962年からキャンパス内の学究および文化的、社会的生活への最大限の参加を試みはじめ、それは1969年まで続きました。
 障害を持つ学生と地元の障害を持つ人々は共に、≪可能な限りの自立生活≫という理念と精神、そしてその支援を続けてゆく必要を認めていました。「公民権運動や女性運動を推進してきた、我々が宿命的に持っているといえる、理念をうまく使わねばならない。 なぜなら社会変革なしに自立生活に必要なサービスを受けることはできないのだから」とフィル・ドレイパーが言ったように。
 ここに、その運動を推し進める原動力となった人物の存在があります。 それが、エド・ロバーツです。
 1939年にカリフォルニアで生まれたエドはカリフォルニア大学バークレー校で政治学の学士と修士を取得しました。 そして、その在籍中に「自立生活運動」を自ら始めたのですが、1970年にバークレー校が連邦政府の設立した障害者学生プログラムを持つ全国初の大学になったのは彼の業績といえます。
 彼は初期の「自立生活センター」の理事の一人として、 国内外に400以上ある、障害を持つ人々が彼等自身のために作った支援サービスセンターのセルフ・ヘルプ(自助)のお手本となりました。
 その後彼は、1975年から83年までカリフォルニア州機能回復訓練局の理事となり、その間に自立生活プログラムを州レベルで実施させ、かつ全国レベルでの採用を推し進めました。
 エド・ロバーツは“ハンディキャピズム(障害のために受ける社会的不利益)”を機会の公平と社会へのフル参加を通して排除していこうとする、障害を持つ人々が運営する「世界障害者協会」の共同設立者でもあります。
 とびぬけて暖かく楽観的で、先見性とユーモアにあふれたエド・ロバーツは1995年3月14日に亡くなりました。彼は、「私たちがかりに、一時的な健常者であろうが、障害を持っていようが、すべての人がリスクを覚悟で建設的創造的活動をすれば、自分たちの生活を改善できるのだ」と励まし、実際多くの人々の生活を改善してきたのです。

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(2003年2月20日)