日本人が乗り越えてきた感染症から学ぶ

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 7月19日から23日まで5日間にわたって、ラジオ第1放送の5時台のマイあさの健康ライフで、「日本人が乗り越えてきた感染症から学ぶ」(日本大学医学部・早川智教授)が放送されました。 1回の放送は5分余ですが、とてもよくまとまっていましたし、いくつか私が気付かなかった観点もありました。また、今回のコロナを考えるのにも参考になるかと思い、書き起こしてみました。[ ]内は私の補足的な説明です。
 
●7月19日 「日本で初めての疫病? 天然痘」
 聞き手:早川さんの専門は感染症だが、一方で歴史上の人物や事柄と病気の関連について研究している。歴史に興味を持つのはどうしてですか?
 早川:岐阜に生まれた。実家は江戸時代から続く医者の家系で、蔵に江戸時代の医療器具や古文書がたくさん残っていた。それを見て、医学の歴史、病気の歴史に興味を持った。
 聞き手:日本の歴史において感染症の影響は大きかったでしょうか?
 早川:歴史の上でたいへん大きな影響を与えている。むかしの病気の状況は、奈良時代以降では文書や記録で分かるが、記録が残る前も、遺体や遺骨で推定できることがある。[紀元前12世紀のエジプトのラムセス5世のミイラには、天然痘の痘痕が見られるという。また、約2千年前の鳥取市の青谷上寺地遺跡から発掘された人骨には、結核菌による脊椎カリエスの症例が認められるという。]私は、古文書からむかしの人の病気について調べている。
 聞き手:今日のテーマは「日本で初めての疫病? 天然痘」なのだが、天然痘はどんな病気なのですか?
 早川:天然痘は、今ではなくなってしまった病気だが、天然痘ウイルスというウイルスによる感染症。これは、世界的にも紀元前から存在して、非常に感染力が強い、しばしば死に至る病気として恐れられていた。治ったとしても、顔に痕が残るので、江戸時代には器量が悪くなるとしてたいへん忌み嫌われていたとされている。その天然痘が、仏教の伝来とほぼ同じころ(飛鳥時代、6世紀ころ)に、大陸から入ってきて日本で流行した。
 聞き手:天然痘は、海外から入ってきたということですね。
 早川:すでに朝鮮半島や中国大陸と人の往来があったが、そのころに病気が持ち込まれたとされている。[584年]朝鮮半島にあった新羅[正しくは、新羅ではなく百済だと思う]という国から日本に弥勒菩薩像が贈られて、敏達天皇が仏教の普及を始めたころとちょうど重なっている。「日本書紀」には初めて天然痘の症状について記録されている。[「日本書紀」では「瘡」として書かれ、「瘡を病む者は、身焼かれ、打たれ、摧かるるが如く、啼泣して死す」とあるという。]敏達天皇自身が585年に崩御しているが、その原因も天然痘だったのではないかと言われている。
 聞き手:当時は天然痘という病気の認識はあったのですか?
 早川:当時は天然痘ということは分かっていなかったから、日本古来の神々を蔑ろにしたための罰ではないかという見方が広がった。そして、大陸から仏教を受け入れることを推進していた曽我氏の影響が低下するということがあったのではないかと言われている。
 聞き手:天罰だと思われていたということですかね。
 早川:そういった誤解があったのだと思う。その200年後、735年から738年にかけて、西日本から畿内にまた大流行して、平城京で政権を担当していた藤原四兄弟(有名な藤原鎌足の孫の人たち)が次々に天然痘で亡くなっている。そのころ、日本には天然痘の免疫を持っている人がたいへん少なかったので、多くの人が感染して命を落したと言われている。実は、奈良の大仏造営のきっかけも、この天然痘だった。聖武天皇の皇后となった藤原四兄弟の妹(光明皇后)が、夫である聖武天皇にお願いして、病気平癒のために大仏を建立したと言われている。その大仏の効果があったかどうかは分からないが、この時の流行はその後ある程度収まってきた。ただその後も何度も流行っていて、戦国時代に有名な伊達政宗が左目を失明したのも天然痘が原因ではないかと言われている。
 聞き手:天然痘を予防するワクチンだとか治療薬はいつできたのですか?
 早川:天然痘がコントロールできるようになったのは、江戸時代の末期。種痘が西洋から蘭学とともに入ってきて、コントロールできるようになった。最初は、佐賀の鍋島藩の医師が取り入れ(1849年、楢林宗建]、それが藩内に広がり、その後緒方洪庵が種痘所をつくったことで民間に広がった。さらに、江戸幕府が江戸に種痘所をつくった。それが現在の東京大学医学部の始まり。
 聞き手:種痘は、いわゆるワクチンということですか?
 早川:これは、歴史の上で初めてのワクチン。種痘は、人の天然痘ほど危険でない牛がかかる天然痘(牛痘)の膿を、天然痘にかかったことのない人に注射して抗体をつくるという予防法。[ジェンナーは、乳搾りをする人はしばしば牛痘にはかかるが天然痘にかかることはないという事実をふまえて、1796年、サラという乳搾りの女性にできた牛痘の水泡から液体を取り出し、ジェームス・フィリップスという少年に何日にも分けて少しずつ接種し、その後天然痘を接種しても発病しないことを確かめた。]これによって、天然痘にかからずに済むようになった。
 聞き手:膿を注射するのですか?
 早川:膿と言っても、そのままではなくて、牛痘にかかった乳搾りの女性からボランティアの子供に接種して、かさぶたとして保存した。そして、これを水に溶かして皮下接種する。ただ、19世紀当時、割と現代に近い時代になっても、牛の天然痘のワクチンをうつと牛になってしまうのではないかと信じる人が多くいた。現在のメッセンジャーRNAワクチンをうつと遺伝子が変わるのではないかなど心配する人がいるが、人間は同じような心配を繰り返すのだなあと実感している。知らないものを怖がるのは当然ではあるが。
 
●7月20日 「元寇でロックダウン? ペスト」
 聞き手:元寇は、鎌倉時代にモンゴル帝国が日本に攻めてきた蒙古襲来のことですね。
 早川:13世紀にチンギスハンが即位して[在位 1206〜27年]、モンゴル帝国は大陸での勢力を拡大していた。さらに、13世紀の中ごろに孫のフビライハンが即位[在位 1260〜94年]した後に元王朝が成立した。元は海を越えて日本まで征服しようと2度にわたって襲来した。それが元寇。
 聞き手:その元の襲来とペスト、どういう関係があるのですか。
 早川:日本の歴史上たいへん面白い関係がある。まず、ペストについて簡単に説明する。ペストは、世界の歴史の上でたいへん大きな影響を残した感染症。ペストは、ペスト菌という細菌によって起こる感染症で、感染すると発熱や頭痛などの症状が起こるが、皮膚が内出血を起こして紫色あるいは黒い色になるので、中世のヨーロッパ(5世紀から13世紀ころ)に黒死病という名前でたいへん恐れられていた。
 聞き手:ペスト菌はそもそもどうやって感染するのですか?
 早川:これは、ネズミがもともと持っている病気で、ネズミには病気を起こさない。この宿主であるネズミに寄生しているノミが人を刺して発病する。さらに、咳や痰によって菌が排泄されて空気感染する、そして広がってゆく。非常に死亡率が高いのが特徴。ペストと言うと、ヨーロッパで流行した印象が強いが、何度か世界的に大流行を起こしている。第2のパンデミック、最大の流行が、14世紀の中央アジアから広がったものだった。1331年に中国大陸で発生したペストによって中国の人口は半減し、その後、ヨーロッパ、中東、北アフリカなどに拡大していった。[第1のパンデミックは、6世紀、エジプトの港町から始まり、東ローマ帝国内を中心に、地中海周辺に広がった。死亡率は30〜40%にも達したと言う。第3のパンデミックは、19世紀末、香港で始まり、中国大陸や日本にも広がった。]
 聞き手:どういうことですか?
 早川:13世紀は、モンゴル帝国が発展して、シルクロードが開通して東西交流がたいへん活発化している。初めて西から東へ、東から西へと人々の行き来がたいへん盛んになってきた。紙、火薬、綿類など[綿類については私はよく分からない]は、そのころの元からヨーロッパに行ったのではないかと言われている。いっぽう、ヨーロッパからはマルコポーロが来て、元の様々な情報を持ち帰ったと言われている。そのようなことで、人と情報が行き来したのだと思う。ただ、文明と同時に、ペストの波が東西に広がった。14世紀の終わりにはヨーロッパの人口が半減したと言われている。経済・人口ともに回復するのに、だいたい200年から300年かかっている。
 聞き手:その流れで、日本にもペストが入ってきたということなのですか?
 早川:いいえ。どの記録を見ても、14世紀に日本にペストが流行したという記録はない。
 聞き手:日本にペストが入ってきたという記録がない、それはどうしてなのですか?
 早川:世界中でペストのパンデミックが起きていた14世紀には、日本は元との交流をしていなかった。交流をしない理由が、元寇にあったと言われている。要するに、元寇があったために、当時日本ではペストの流行が防げたということになる。つまり、期せずしてロックダウンを行ったということだと思う。
 聞き手:なるほど、元の襲来を防いだだけでなくて、ペストが入ってくるのも防いだということなのですね。元寇前は大陸との交流はあったのですか?
 早川:元の前の宋の時代、日本では源平時代に当たるが、そのころは宋と貿易をしていた。とくに平清盛は盛んに宋と貿易をしていて、それが彼の経済的な背景にあったのではないかと言われている。その後、鎌倉期になってもある程度交流は続いていたが、ペストが大流行する直前に元寇があった。それをきっかけに、大陸との交流は途絶えた。朝鮮半島とも当然行き来はあったが、そのころは高麗という国があって、高麗は元と同盟国だったので、交流を断つことになった。その後、大陸では元に代わって明となり、日本では室町時代になると、足利義満が勘合貿易を始めた[勘合貿易:14世紀末から16世紀に、明とアジア諸国との間で、勘合船を通じて行われた公式の貿易。足利義満は1401年に明に使節を派遣し正式の通交を求めた]が、鎌倉時代から南北朝のころにかけてはほぼ鎖国に近い状態だった。このロックダウンによって、日本にペストが持ち込まれることはなかったと考えている。またこの時代に鎖国に近い状態だったことで、室町文化、現在の私たちの文化のもとになっている茶室、茶道、和風建築、能楽、こういったものが生まれたという点で特筆すべき時代だったと思う。
 聞き手:元に侵略されそうになったことはたいへんだっただろうが、一方で、ペストを持ち込まれずに済んで、日本特有の文化も築かれたという、面白い時代だったのですね。
 早川:グローバル化を避けるということは良いわけではないが、感染の拡大を防ぐと同時に日本文化を築くうえで意味があった、たいへん面白い時代だったと思う。
 
●7月21日 「菌をやっつける薬の登場 梅毒と抗菌薬」
 聞き手:日本で梅毒が流行ったのはいつごろの話ですか?
 早川:日本では戦国時代(15世紀末から16世紀末までの約100年間)に梅毒が流行した。室町時代末期から安土桃山時代に入るまで戦乱が続いた。
 聞き手:戦乱期にどうして梅毒が流行したのだろうか?
 早川:戦国時代は、戦乱が続くいっぽうで、ヨーロッパの人々が日本にやって来て西洋の文明を伝えた時代。フランシスコ・ザビエルがキリスト教を持って来たし、鉄砲も伝来した。また、西洋医学も来た。様々な西洋の文物が入ってきた。グローバル化の時代というのはやはり感染症のリスクを持っていて、その時代に梅毒も入ってきた。
 聞き手:梅毒は性感染症ですね。
 早川:はい、梅毒は、梅毒トレポネーマ[Treponema pallidum]という細菌に感染して起こる感染症。性的な行為で皮膚や粘膜から感染する病気だが、感染した女性が妊娠した場合、胎盤を介して子供に感染する母子感染も報告されている。
 聞き手:梅毒にかかると、どんな症状があらわれるのですか?
 早川:梅毒は、症状が現われては消え、を繰り返して慢性に進行していく。感染すると、感染した部位にしこりや潰瘍、それから鼠蹊部のリンパ節の腫れなどの症状が起きてくる。その後、手の平、足の裏、全身に発疹が出て、さらに3年以上経って症状が進んでゆく。当時は特効薬はなかったので、悪化して命を落とす人は少なくなかった。
 聞き手:そもそも梅毒は、どういう経緯で日本に入ってきたのですか?
 早川:もともとは南米[というより、中米の西インド諸島]の地方病だったが、1492年コロンブスが南米に上陸したことで、ヨーロッパに入ってきた。コロンブスの船団の船乗りが、旧大陸に持ち帰ったと言われている。乗組員が航海中に先住民の女性から梅毒に感染し、ヨーロッパに戻ってから感染源となったらしい。それ以前からあったという説もあるが、病原体の遺伝子を調べることで否定されている。15世紀末から16世紀初めには、ヨーロッパ全土で大流行した。
 聞き手:ヨーロッパで広がって、その後日本にまで持ち込まれたということですか?
 早川:はい、戦国時代、西洋で言えば大航海時代だが、この大航海の幕開けとともに、梅毒が世界中に、そして日本にやってきた。日本で最初の梅毒の記録としては、1512年三条西実隆という公家の記録が残っている[詳しくは、梅毒500年史]。ヨーロッパ人が初めて来て鉄砲を伝えた30年以上前に、すでに梅毒は日本に到達していたことになる。そうした記録から、西洋人が直接持ち込んだというよりも、梅毒に感染した中国人の商人が来日して国内の感染源になったのではないかと推測されている。そして戦国時代、非常に多くの人々が感染した。
 聞き手:梅毒が治療できるようになったのは、いつごろからですか?
 早川:江戸時代になっても流行はおさまらず、解体新書で有名な杉田玄白は外来の患者の半分が梅毒だったと言うことを書いている。梅毒は、ペニシリンという抗菌薬でほぼ完全に治るが、日本では昭和19年に生産に成功し、昭和22年からようやく全国で使用できるようになった。
 聞き手:日本では昭和になるまで梅毒の特効薬はなかったということですね。
 早川:そうです。第二次大戦後になって、ペニシリンのおかげで梅毒患者はほぼいなくなったが、実はこの10年くらい、日本では毎年患者が増えているので注意していただきたい。2019年には、8000人に達した。
 聞き手:最近また増えているというのは、どうしてなのですか?
 早川:いくつか説があるが、この10年ほどで梅毒トレポネーマの遺伝子が変異して、抗菌薬が効きにくくなっているのが原因の1つと考えられている。梅毒は先進国では男性同士の性的接触での感染が多い病気だが、日本では異性間の感染が増えており、とくに20代の女性の増加が目立っている。感染女性は性産業従事者に限らず、一般の主婦やOLにも拡大している。近年は、症状が口や喉にあらわれる人も多い。この治療には専門的な知識が必要なので、ぜひ感染症の専門医を受診してほしい。
 
●7月22日 「江戸時代に大流行 コレラ、麻疹」
 早川:250年以上続いた江戸時代は、たいへん安定した時代で文明的にも進んでいた。なによりも江戸の文化で評価できるのは大衆文化で、歌舞伎や浄瑠璃など庶民が楽しむ娯楽が生まれた。浮世絵なども非常にレベルが高く、一般の人たちが文学や芸術を楽しんだという江戸時代は、私はたいへん優れた時代だと思っている。すしやてんぷらなども江戸時代にできたもので、現代の生活をつくったのは江戸時代だと思っている。
 聞き手:そんな魅力的な時代に、また感染症に悩まされることになったということですね。
 早川:長く続いた江戸時代に、病気が何度も流行している。とくに江戸末期になると、様々な感染症が広がっていた。とくに人々を恐怖におとしいれたのが、コレラ。安静のコレラ大流行は有名。江戸時代と言えば、鎖国を開始して長らく外交は制限されていたが、安静5年(1858年)、日米修好通商条約が調印され、225年続いた鎖国が終わった。ただ、その1ヶ月前[7月初め]に長崎に入港した1隻の船がきっかけでコレラのパンデミックが起きてしまった。
 聞き手:鎖国の解除直前に、ということですか?
 早川:はい、ペリーが日本に連れてきたアメリカ船ミシシッピ号の船員がコレラに感染していた。船員が長崎の出島に上陸すると、またたく間に長崎に広がり、1ヶ月も経たないうちに江戸に広がり、そして2ヶ月後には東北にまで広がっている。
 聞き手:コレラはなにが原因で感染するのですか?
 早川:不衛生な環境にいるコレラ菌が口から入って感染する。当時主に生水からだったが、口から入ったコレラ菌は小腸の粘膜に定着して、非常にひどい脱水を起こす。
 聞き手:亡くなった人も多かったのですか?
 早川:はい。死人が続出したことで、江戸の火葬場には棺桶が山のように積まれたようだ。一家全滅した家も多くあった。正確な統計はないが、人口百万都市の江戸からおよそ3万人の死者が出たとされている。3〜4%がコレラで亡くなったことになる。
 聞き手:コレラにかかるとどうなるのですか?
 早川:嘔吐、腹痛、そして激しい水のような下痢が起きてくる。2、3日も経たずにころりころりと亡くなることから、「三日ころり」あるいは「ころり」と呼ばれた。当時は有効な薬がなかったので、生ものや生水を摂らないといった予防につとめるしかなかった。衛生を重んじるという西洋の思想が入ってきたことで、状況は徐々に改善されていった。
 聞き手:ほかにも江戸時代に流行った感染症はありますか?
 早川:麻疹(はしか)が大流行した。今ではたいした病気ではないが、免疫がないと非常に多くの方が命をお落とす。江戸時代だけで、13回の大流行が記録されている。5代将軍徳川綱吉も[1709年、66歳で]麻疹で亡くなったと言われていて、日本の歴史の上で麻疹の犠牲になったもっとも有名な方だと思う。症状が出て、7日間で亡くなった。
 聞き手:麻疹の江戸時代の最後の大流行は、どんな状況だったのだろうか?
 早川:この大流行は、開国の年のコレラの大流行の4年後[文久2年、1862年]だった。[文久2年は、麻疹とともにコレラも流行して、江戸だけで両方合わせて、7万人以上あるいは23万人以上亡くなったという数字がある。]コレラと麻疹という2つの輸入感染症[日本国内には存在せず国外から持ち込まれる感染症]が、外国人への不安を高めたのだと思う。実際に、コレラの流行によって外国人を打ち払うという攘夷の機運が高まったとされているし、麻疹大流行の5年後に幕府は崩壊した。
 聞き手:感染症というのは、時代の曲面に大きく関係しているということですね。
 早川:はい。非常に面白いのは、明治維新のころは、西洋医学の革命の時代、つまり消毒とか麻酔が導入された時代に当たっている。それがそのままリアルタイムに日本に入ってきて、戊辰戦争のころには刀傷や鉄砲傷などにたいして安全な手術が可能になった。ケガだけでなく、お産の時の感染も予防できるようになった。
 [江戸とその周辺の事柄を記した『武江年表』には、江戸時代に、以下の14回の麻疹流行があったとされている(『江戸の流行り病 麻疹騒動はなぜ起こったのか』鈴木則子著、吉川弘文館、2012年より)。
慶長12年(1607)
元和2年(1616)10月
正保3年(1646)5月
慶安2年(1649)3月
寛文10年(1670)2月
元禄3年(1690)3月上旬〜4年5月
宝永5年(1708)秋〜6年春
享保15年(1730)9月〜16年正月
宝暦3年(1753)4月〜10月
安永5年(1776)3月まつ〜初秋
享和3年(1803)3月下旬〜6月
文政6年(1823)11月〜7年3月
天保7年(1836)7月〜8年正月
文久2年(1862)6月〜閏8月]
 20年から30年に1回は流行していたことになる。おそらく、免疫を持たない人たちが人口の過半を占めるようになると、大流行するのだろう。]
 
●7月23日 「進化するワクチン 大正デモクラシーとスペイン風邪、結核」
 聞き手:大正は1912年から1926年までの15年間、短い時代ですね。
 早川:大正は時代としては短いが、明治時代の富国強兵から、ある程度余裕が出てきて自由があった時代らしい。その短い時代の中に、感染症に関るできごとが二つあった。一つはスペイン風邪の大流行、もう一つは結核の対策。
 聞き手:まずスペイン風邪の大流行について教えてください。
 早川:スペイン風邪は、インフルエンザのこと。インフルエンザ自体は日本では江戸時代にも流行し、[享保元(1716)年]江戸では夏の1ヶ月に8万人もの死者が出て大混乱になったこともあり、何度か繰り返えされているが、第1次大戦の時に世界中で大流行した。第1次大戦は1914年に始まるが、戦争の初期、1915年にインフルエンザの世界的な流行が始まった。そして大戦末期、1917年、18年ころには、ヨーロッパ中に広がった。そして戦争どころではなくなり、戦争は終わった。第1次大戦において日本は戦場にはならなかったが、遠く離れた日本や中国までインフルエンザが広がっている。
 聞き手:インフルエンザの別名がスペイン風邪ということだが、スペインで始まったからスペイン風邪というわけではないのですね。
 早川:はい、インフルエンザの流行が始まったのはスペインではなくて、アメリカの軍隊だったと言われている。しかも第1次大戦に参戦したアメリカの軍隊から広まったことは、機密事項とされていた。それが中立国であるスペインまで広がった時に、世界で流行する悪性の感冒であることが分かって、スペイン風邪という名前がついた。インフルエンザと呼ぶようになったのは、戦後になってから。
 聞き手:インフルエンザが流行して、どのような事態が起こったのだろうか。
 早川:その時、世界では患者が6億人、死者は2千万人以上に達したと言われている。日本でもたいへん大きな被害が出た[患者2300万、死者38万余]。大正7、8、9年の死亡原因の第1位がインフルエンザによる肺炎だった。
 聞き手:当時は治療や予防はどういう状況だったのか。
 早川:そのころはまだ、インフルエンザ・ウイルスは特定されておらず、薬もなかったので、隔離や水分補給、可能な場合は酸素吸入など。
 聞き手:インフルエンザのワクチンはいつできたのでしょうか。
 早川:インフルエンザのワクチンができたのは第2次大戦後になってからだが、有効な薬ができてきたのは21世紀近くになってから。それまでは、マスクや隔離など社会的な防衛でコントロールしていた。
 
 聞き手:大正時代のもう一つのできごと、結核の対策について教えてください。
 早川:結核が日本で社会問題になったのは、明治以降。むかしは遺伝が原因で感染すると言われていた。当時、農村から都市、工場に出稼ぎに来る若い女性などが集団感染を起こすとか、学校で感染が広がっていく、こういったことが多く起きてきた。結核についてはなかなか有効な治療がなかったが、大正時代になってようやく対策が取られるようになった。大正時代に、BCG[Bacille de Calmette-Guerin: フランスのパスツール研究所のカルメットとゲランが、ウシ型結核菌を1908〜1921年の13年間、230代にわたって連続培養して得られたもので、人体に結核は発病させないが結核に対する免疫をつくるもの。日本には、1925年にパスツール研究所からBCG菌株が分与された]のようなワクチンが導入されたことで、結核が予防できるようになった。これによって、コントロールが可能になった。それから、結核は栄養状態が悪いとかかりやすくなるので、栄養状態が良くなったことが患者の減少に大きく関わっていると思う。
 
 聞き手:いろいろうかがってきたが、現在の新型コロナウイルスの対策としても参考にできることが多いような気がする。
 早川:感染症すべてにおいて、やはり清潔な社会、個人と社会の衛生、それから十分な栄養と休養で体の抵抗力を高めることがたいへん大事だと思う。もし罹ってしまった場合は、適切な抗菌薬、抗ウイルス薬などの治療を行うことも大切。ただそれだけでは十分ではないので、ワクチンで予防できるものは積極的にワクチンを打ってもらうことが大事だと思っている。インフルエンザのワクチンについては、毎年流行株を特定して行うようになっているし、他にも、肺炎球菌やヒトパピローマウイルス[子宮頸がんや尖圭コンジローマなどの原因とされるウイルス]、そして現代の新型コロナウイルスワクチンなど、ワクチンの進化は目覚ましいものがある。現在は様々な情報が氾濫しているが、公的機関や病院で提供している正しい情報をもとに行動してほしいと考えている。
 
(2021年7月27日)