今年3月末に、高槻市の中心街、八丁畷付近に安満遺跡公園が全面開園したというニュースを聞き、まず4月30日に行ってみました。(阪急高槻駅から歩いて10分ほどでした。)
触れられる物も展示されているらしいということだったので楽しみにして行ってみたのですが、コロナ禍による緊急事態宣言のため、公園には入れたものの展示館などの施設は閉館されていて、やむなく公園内を少し散策したくらいで終わりました。それでも、集落を囲んでいた環濠跡らしき所を半周くらい歩いてみて、その広さが少し実感できました(歩いた感覚では、直径にして150mくらいの感じだった)。
安満遺跡は、弥生時代前期から後期まで、紀元前500年ころから800年ほどの長期間、しばしば居住域を変えながら続いた集落跡だということです。全体の広さは東西1.5km、南北600mほどで、淀川の支流の扇状地の先端部に当たる所のようです。やや高い所に環濠をめぐらせた居住域があり、南の低くなった低湿地に水田がつくられ(用水路や井堰も見つかっているそうです)、東側数百メートルの所に墓域があって、多くの方形周溝墓(埋葬部の回りに溝をめぐらせた墓)や木棺墓も見つかっているそうです。紀元前10世紀ころに北九州に稲作が伝わり、紀元前500年ころそれが畿内に伝えられたということですが、安満遺跡はそのような遺跡の1つとしても重要なようです。
コロナもすっかりおさまった11月18日、今度はJR高槻駅から安満遺跡公園に行って(歩いて10分弱だった)、展示館を見学しました。展示館は無料で、入ってみるとスタッフのような方はおられないようで、音楽とともに映像が流れているようですが音声による解説は付いていませんでした。展示台にはレプリカがかなりたくさん置かれていて、それは自由に触ることができます(もちろんガラスケースの中にも展示品はある)。
まず触ったのが土器で、甕3個、壺2個、鉢1個がありました。大きいもので、口の直径が10数cm、高さ20cmくらいで、素焼きのような手触りでしたが、やはり本物の土器の感じとはちょっと違っていました。次に、木製の匙やひしゃく。匙は長さ30cmくらいもある大きなものでした。
2種類の石斧がありました。柱状片刃石斧と太形蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧。前者は、1m弱の堅い木の枝の先が60度ほどの角度で枝別れしていて、その枝別れした20cmくらいの枝先に長さ7cm、幅3cm余、厚さ2cmくらいの片刃のつるつるした石斧が、柄と直行する方向で、柄に縄のようなもので強く固定されています(全体としてはチョウナのような形)。この片刃の石斧は、切り倒したりなどした木をたたき削って加工するのに使ったようです。後者は、1m弱の太い棒の先端に近い所に細長い穴が開いていて、そこに幅7cm、厚さ2cmくらいの両刃の扁平なつるつるの石斧が強くはめ込まれています(刃の形が、口を閉じたハマグリに似ているところからこの名になったようだ)。これは、木を切り倒したりするのに使ったようです。さらに、鉄斧(てっぷ)が1点ありました。幅5cm、長さ20cm弱、厚さ1cmほどで、刃は両刃のようです。
漆塗りの木製の高坏が2点ありました。1点は上の直径が20cmくらいで、全体が黒漆塗りだそうです。もう1点はそれよりやや大きく、黒漆の地に赤の模様がほどこされているようです。両者とも形はとても好ましいし、手触りもよかったです。漆の縄文の伝統を弥生の高坏に生かしているのかなと思ったりです(上の石斧ももちろん縄文からの技術を受け継いだものですね)。
農具も数種類展示されていました。完成品と未完成の鍬がありました。完成品は幅20cm余、長さ30cm余、厚さ2cmくらいの長方形のわずかに湾曲している板状で、先のほうが5つくらい深く切れ込まれていて櫛の歯のようになっており、反対側には高さ5?cm弱の細長の四角が突き出ていて、その中央に柄を差し込む孔が開いています(柄は2m近くある堅い木の棒のようです)。未完成品のほうは、大きさはほぼ同じで、先の櫛の歯状の切れ込みがなく、柄の入る孔も開いていませんでした。どちらも板の上には削り跡がきれいにたくさんあって、片刃石斧を使ったのかなと思ったり。鋤もあって、これは大きなスコップそっくりの形でした。稲穂を切り取る石包丁(素材は滋賀県の粘板岩だとか)も、長さ5cm余から20cm弱のものまで、3点ありました。また、米を脱穀するのにも使ったのでしょう、木製の臼と杵もありました。むかしの稲作の作業の様子が少しわかるように思いました。
その他、1mくらいの木剣(両側が刃になっていて、断面は菱形。実用ではなく祭に使ったようだ)、矢(長さ1mくらい、本体は竹で、先に鏃、反対側に矢羽)、高さ10cmくらいの小さな銅鐸(だいぶ縁が欠けていた)なども展示されていました。
最後に、発掘現場の地層のはぎ取り標本が展示されていて、それに触りました。高さ2m余、幅は4mくらいはあったでしょうか、上から下へ触っていくと、ざらざらした所、石が多く含まれている所、細かい砂のようなのが多い所などある程度は区別がつきます(もちろん色も異なっているようだ)。上から順に、農場の整地土(この遺跡の敷地は以前は京都大学大学院農学研究科附属農場だった)、弥生中期の土器片が混じった層(よく触ってみると、石ころのほかに角張った土器片のようなのもあった)、洪水で堆積した土砂、そして一番下が環濠に溜った土(これは細かい砂のような感じだった)だということです。この地層壁の横にも、同じ高さで幅2mくらいの地層があり、さらにその上面も触れるようになっていました。上面には直径20cm弱から10cm弱くらいの丸い穴がたくさん部分的に重り合うようにあり、これは弥生の建物の柱穴だということです。何度も少しずつ場所を変えながら建て替えられたのでしょうか?
今回の見学では、私個人っとしては地層の標本に触れられたのが一番よかったです。また、レプリカですが、自由に多くの展示品に触れられたのもよかったです。展示品については一緒に行った人にしばしばキャプションを見てもらっていましたが、事前に聞いていたニュースでは手に持った展示品を音声でも解説してくれるということでした。でも、スタッフもおらず、どうすればその音声が聞けるのかわからずじまいでした。次の日に問合せ先になっている今城塚古代歴史館に電話して尋ねてみると、展示台の向い側にはスクリーンがあって、そのスクリーンの所まで展示品を手で持って行って(そこまでは考えなかったなあ)それをスクリーンにかざせばAIがその展示品を認識して音声の解説も聞けるということでした。機会があったら、今度はAIによる解説も聞いてみましょう。
(2021年11月21日)