三重県立美術館の春の企画展

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 3月25日、三重県立美術館で4月3日まで開催されている、コレクションによる特別展示「春をまちわびて 美術から考える自然との調和(=エコロジー)」をスタッフの案内と解説で見学しました。この展覧会に行ってみようかと思ったのは、まず春を感じられる作品に会えたらいいなということ、そして、展覧会の趣旨として、エコロジー、自然や環境との共存に関わるような作品を展示しているということで、そのような作品にも魅かれたからです。
 美術館には12時半ころに到着、穏やかな天候でしたので、まず、以前から気になっていた庭を案内してもらいました。抽象的な彫刻作品数点と、少し植物たちに触れました。最初に触ったのは、作品名はよく覚えていませんが、多田美波のステンレス?のような金属の作品で、全体としては、高さ3m近く、直径2mほどの円錐形の作品です。その側面を触りながら一週してみると、3回ほど大きく凹凸が繰り返されており、陽が当たる所はとても暖かく、陰っている所はひんやりとしています。そして、この側面はつるつるの滑らかな面で、回りの風景が映っているとのこと。その時は私とスタッフの方、それに後ろの木が映っていたそうです。(多田美波の作品は館内にもあって、壁面の上部のほうがとても広いタイルの面になっており、そこにも回りの様子が映っているとか。)その他、大きな4本足の動物を思わせるような形で、胴の下の部分を潜れるようになっているものとか、直径50cmほどの円いトンネルのような深い横穴の先のほうがちょっと半球状になっているもの(これは井上武吉の「My Sky Hole」という作品)、幅30cmほどの間隔で2枚のわずかに湾曲した金属板が平行に置かれていて、子供がその間を通れる道のような作品もありました。
 植物では、ちょうどコブシが咲いていたのですが、その幹の形がなんともふしぎでした。幹は直径10cm余で、1mくらいの高さで左にぐにゃっと大きく曲がり、それから上へ、さらに右斜め上に曲がり、さらに大きく反転するように左に曲がってほぼ水平に伸びていました。コブシの木にはこれまでにも触ったことがありますが、少し斜めになっているくらいで、こんなにぐにゃっ、ぐにゃっと曲がっていることはありませんでした。この形もなんだか、自然の驚異のように感じました。その他、クスノキの縦に幾筋も裂けめのある樹皮などにも触れました。
 
 この展覧会は5部構成になっていて、計約70点もの作品が展示されているということですが、その中から10数点についてスタッフの方に説明してもらいました。また、そのうち6点については、高校生によるコメントが各作品ごとに数点掲示されていて、それも一部読んでもらいました。この高校生のコメント、今の若い人たちがどんなことに敏感に反応しているのか、どんなことを問題と感じているのかなどがあらわれており、また私には作品鑑賞の助けにもなり、とてもよかったです。この高校生のコメントは公開されているので、各作品ごとにそこから一部引用させてもらいました。なお、各作品の制作年や大きさ等は、出品リストによります。技法については、とくに記していないものはすべて油彩です。
 
第1部 自然と近代社会
 まず初めに、クロード・モネの「橋から見たアルジャントゥイユの泊地」(1874年、62×81cm)。アルジャントゥイユは、モネが普仏戦争後1871年から住んでいたセーヌ川沿いの村です。橋の上から河口・海のほうを見ているようです。もう1つの橋が見えていて、その下あたりにヨットのような小さな帆船がたくさん見え、また倉庫のようなもの(貸しボート小屋?)や人も見えているそうです。曇り空を通してなのか直射ではない陽が射していて、その光が川面に反射し、また帆船の影も水に映っているようです。太陽が左上(西)のほうにあって夕方の風景のようですが、全体としては明るい光・かがやきが目立つようです(この年に第1回の印象派展が開かれている)。アルジャントゥイユでは、ヨット遊びなどレジャーが盛んになって、モネがその後別の地に移り住んだのはそのようなにぎやかな環境に嫌気がさしたのが一因かもしれない?とか。
 次に、ピエール・ボナールの「ヴェルノンのセーヌ川」(1912年、34.3cm×55.8cm)。ヴェルノンも、1912年からボナールが住んでいたパリ西郊外のセーヌ河畔の村で、自宅の裏庭付近から川の向こう岸を見て描いた風景のようです。横長の画面をセーヌ川が横切っていて、タグボートがもくもくと煙を上げながら進んでいます。川面には光が映り、岸辺には緑の草木や小さな花?のようなもの、さらに靄がかかったように山並みのようなのも見えているようです。
 この作品にたいする高校生のコメントを3つ紹介します。
「この空は曇っているのでしょうか?けれども、よく見ると空や川、草木にも黄色く光が反射しています。一目だけでは寒そうに思いましたが、ふとこの光に目を向けると、春のようなあたたかさを感じました。冬から今まさに季節が変わろうとしている、そんな明るさを感じました。左の船はどこに向かっているのでしょうか?」
「やわらかなタッチで描かれた木々には、黄色い暖かな光が当たっています。花が咲いているのでしょうか、川の向こうの草原はいろんな色で描かれています。一方、川では船がもうもうと煙を出しています。私は、この絵から「自然」と「人工」の対比を感じました。」
「蒸気船が黒煙を上げながら川を進んでいます。手前の自然豊かな様子と当時の工業化の象徴である蒸気船を一緒に描くことで工業化による自然破壊に対する批判を表しているのではないかと考えました。少し薄暗い様子からも作者の思いが伝わってくるようです。」
「水は美しく反射し、木々は影を作る。なんとも綺麗だ。向こう側は青くて清々しくて、でもこっちは少し暗くて。遠近法で渡れそうに、手も届きそうな向こう側は、見る者の現実を映す。虚しく悲しくこの絵が見えるなら、多分、現実でも草木が茂るこちら側にいるかもしれない。久遠程かけ離れた向こうは美しく見えるから。(古のラノベ風」)
 
第2部 近代日本の自然
 ここで説明してもらったのは、浅井忠「小丹波村」(1893年、27cm×39cm)の1点です。小丹波村は、現在の東京都西多摩郡奥多摩町の村だとのこと。山深い小さな集落の冬か秋の風景のようです。ゆるやかに曲がった道沿いに茅葺?の民家や納屋?のようなのがあり、大きな木も見え、遠くには山々も見えています。井戸端?で女の人がなにかしゃがんで仕事をしており、また道を2人(おそらく父子)がこちらに向って歩いています。
 高校生のコメントを2つ紹介します。
「中央に枯れ果てた木が見られます。季節は秋か冬なのでしょうか?木の手前にはしゃがんでいる女性、そして遠出から帰ってきたとみられる父子がいます。私はこの絵を山奥の村に質素に暮らす家族の一コマを描いたものと捉えました。そう思うと一見冷たく、寂しいこの絵にもどこか温かさが感じられませんか?」
「こちらに向かって歩いてくる2人が目にとまります。背中には重そうな荷物を背負い、杖をつきながらゆっくりと歩いているようです。その2人の近くにはもう1人。この人は2人の家族で、長旅から帰った2人を心待ちにして待っていたのではないかと推測しました。葉が枯れた寒い冬の日と、暖かい家族の絆の対比を感じました。」
 
第3部 自然との距離
 ここでは、3点について説明してもらいました。まず、牧野虎雄「梧桐」(1923年、73cm×91cm)。私はアオギリがどんな木なのか実際に触ったことはありませんが、幹も青っぽく、葉が円っぽくてとても大きいようです(直径30cmくらいはあるとか)。
赤茶色の土の上に、緑一色の梧桐の木が3本並び、空は薄い水色のようです。近付いて見ると、円っぽい大きな葉が見分けられるようですが、少し離れてみると、茂った多くの葉が、まとまって1つの大きな緑の壁?ないし覆いのように見えるらしいです。幹も葉もみんな緑っぽいようです。梧桐は、緑で、しかもとても生命力が強い木であるためなのか、中国や日本ではしばしば絵に描かれているようです。ちなみに、広島の平和公園には「被爆アオギリ」があるということです(爆心地から1.3km離れた所にあったアオギリが、熱線と爆風をまともに受けて、幹の爆心地側の半面が焼け枝葉も全部なくなって枯れ木のようになりましたが、翌春に芽吹いてきて再生し、1973年に平和公園に移植された)。
次に、梅原龍三郎の「霧島」(1936年、65cm×80cm)。霧島の中腹から鹿児島湾内の桜島を見た風景だそうです。陸、海、桜島、海、そして手前に霧島側の陸が、まるで層を成し重なり合うようにダイナミックに描かれているようです。空と海・陸の多様な色彩が渾然と微妙に変化し、全体としてはあざやかな画面のようです。桜島に限らず、富士山でもあるいはベスビオ山などでも、火山は時には大きな災害をもたらしますが、雄大な景色や温泉など恩恵を与え、人々は一種崇敬の念を抱き、距離感を持って共存してきたと言えるでしょう。
 次は、児島善三郎の「箱根」(1938年、131cm×163cm)。これも雄大な風景のようです。空と湖(芦ノ湖)、山々(とくに双子山が目立つ)、谷、木々や家なども見えるようです。この作品には高校生のコメントがありますので、2つ紹介します。
「なんと天気の良い1日なのでしょう。雲ひとつ見当たりません。手前にある湖それとも海には青空が写っているのか綺麗な青色をしています。よく見ると家が何件かぽつんとたっています。山の形もそれぞれで面白いですね。緑の生い茂った山、緑のない山のちがいはなんなのでしょうか?」
「この作品を見た瞬間、目に飛び込んでくるのは鮮やかに彩られた雄大な景色。奥に描かれているのは真っ青な空と、それを突き上げるようにそびえたつ二子山です。荒々しいタッチからは、作者の自然に対する価値観――畏れや敬いの気持ちが感じられます。あなたはこの絵からどのようなことを感じましたか」
 
第4部 自然と生きる
 ここでは、5点について説明してもらいました。
 中谷泰の「陶土」(1958年、112cm×146cm)は、印象に残る作品でした。大きな画面の下4分の3は、粘土を掘り出した跡なのでしょう、巨大な穴になっています。黒々とした岩壁の洞窟のようで、底には水がたまっているようです。入口には小さな小屋や土を運ぶ車も見えています。画面の上4分の1には、いくつもの工場と煙突群が見え、空には黒煙が広がっているようです。人や木々も見当たらず、ものさびしく荒廃した感じが伝わってくるようです。(画面の下は斜め上から見て、画面の上は横から見て描かれているようだ。)この作品にたいする高校生のコメントも興味深いです。
「絵の上部や穴の中には、工場や家がありますが、私はそれらが人やその心を表していると思います。穴の外にある工場からは、人の悪意が煙として出され、広がることで、大勢の人が悪意に晒されます。穴の中は、煙が届かないので人の悪意には晒されませんが、他者と交流がなく、自分の殻に閉じこもっているように感じます。」
「汚染された暗い街。人は見当たらず、奥の煙突からは黒い煙が立ち上っています。大きく開いた穴は何の跡で、何を表現しているのでしょうか。産業の発達により環境が破壊されてゆく現代社会を風刺しているのではないかと感じました。これは絵の中だけのことではないのかもしれません。」
「何を掘っていたのでしょう。大きな穴が空いています。遠くでは、街から黒煙が立ち上っているのが見えます。私達は地下資源を掘り当てることで”物質的”に豊かになりましたが、同時に手前の穴のように”精神的”に何かを失ってしまったのではないか。掘り当てたのは何ですか、とこの絵が問いかけているように思います。」
 同じく中谷泰の「炭坑」(1957-58年、65cm×100cm)は、昭和30年台初めの常磐炭坑の風景だそうです。遠くにまるでピラミッドのように高くとがっているボタ山が見え、近くには小さな家(いわゆる炭住?)や煙突、電線などが見え、さらに手前には1人の女性が腰をかがめて歩いています。上の作品の巨大な穴も、この作品の高いボタ山も、多くの人たちが時間をかけて汗して自然を大きく変え、そして置き去りにされたもの、人の営みとは何なのか考えさせられてしまいます。
 
 牛島憲之の「貝焼場」(1935年、152cm×182cm)は、千葉県幕張付近で行われていた貝焼の風景だそうです。貝焼は、貝(炭酸カルシウム)を焼いて石灰(酸化カルシウム)を得るために行われる作業で、戦前には貝がよく取れる海岸でしばしば行われていたそうです。全体に夏の強い陽射しに照らされて明るい画面で、点描で鮮やかに描かれているようです。画面の上4分の1は空、その下に海と海岸、そこで作業している人たちが描かれています。画面右に作業小屋のようなのがあり、貝を焼いているのでしょう煙が見えます。小屋に出入りする人たち、貝を運んでいる人たち、もっこで貝を担いでいる人たち、休んでたばこをふかしている人も見えます。この作品についても高校生たちのコメントがあって、ちょっと面白いです。
「明るくてとても色鮮やかな絵です。座って休んでいる人と重そうな荷物を運んでいる人の2者がいます。私はこれを見て、その2者に格差を感じました。作者は、人々が馴染みやすい形で明るみになっていない労働問題について訴えたかったのかなと思いました。」
「太陽の光が絵全体を優しく包み込み、美しい陰影をつくりだしています。光の源である太陽は一体どこにあるのでしょうか。陰影をたどると眩く光る場所が見つかるでしょう。そう、太陽は未来の象徴である右にあるのです。作者はこの貝焼場と人々がまだ見ぬ未来へ向かって働き続けていることを伝えたかったのかもしれませんね。」
小林研三の「春の丘」(1975年、80.5cm×100cm)は、春のいぶきが感じられる作品に思えました。画面の上半分近くは空(ちょっと黄色っぽいとか)、その下に緑の丘が広がっています。この緑は濃い緑ではなく、ちょっと黄味がかっていて、若草色と言えるのでしょうか?丘の斜面には桜の木が規則的にぽつぽつと並んでいて、ピンクの花が満開のようです。丘の中央には家があり、窓を通して中の人も見えているようです。さらによく見ると、小さく牛や馬?などの動物や鳥も描かれているとか。
 小清水漸の「作業台 水鏡」(1981年、H40cm×W145cm×D110cm)は、立体作品です。長方形の低い台があり、その中央に直径40cmくらい?の丸いくぼみがあって、そこに水が張られています。その水に、作品の近くの窓から外の景色が映っているそうです。
 
第5部 センス・オブ・ワンダー 不思議さに目を見はる
 ここでは4点について説明してもらいました。ちょっと変った作品もあって、作品自身、センス・オブ・ワンダーだとも感じるものもありました。
 まず、イケムラレイコの「birdgirl」(2006年、120cm×160cm)。大きな画面に暗闇のような背景が広がり、その中央に青白い光の帯が画面を上下に2分するように横に走っています。光の帯の上には大きな鳥のような生き物が見え、光の帯の下には駆け足をしているような姿の少女と、翼のようにも見える紫の絵具のかたまりが見えるようです。タイトルの birdgirl が強い光の帯によって bird と girl に分断されているようにも思えますが、それでもなお、鳥本体と翼と少女が一緒になって光の帯の方向に進もうとしているのかもと思ったり…。この作品にも高校生の多彩なコメントがありますので、いくつか紹介します。
「ここは洞窟の中、青白く光輝きながら水晶が中央を横に貫いています。手前の女の人は洞窟の奥深くに何百年、何千年と眠り続け人々に忘れ去られていた黄金の秘宝を今、手に入れようとしています。しかし、その奥には長年秘宝を守ってきた洞窟の主、大蜘蛛が…この後、どうなってしまうのでしょうか」
「暗闇を通る一筋の青みがかった白い光は生死の狭間を表していてその下の少女に命の危機が迫っているのかもしれません。しかし胸元は生命を感じる暖かい色に染まっていて伸びた左手の先には青い翼のようなものが見えます。少女はこの暗闇の中でも生きる希望を捨てず頭上から注がれる光のもとへと羽ばたこうとしているのです。」
「小さな女の子と上部にいる魔物、そしてその間に光が差し込んでいます。黒とオレンジで描かれた背景、ここは宇宙でしょうか?魔物が少女に襲いかかろうとしているところに光が差し込み、少女を守っているように見えます。私はこの絵から、少女の希望をかんじましたが、あなたはどのように感じますか?」
「真っ暗闇に一筋の青い閃光が走るこの作品の名前は「birdgirl」。まるで一筋の光に隔たれた少女と謎の生物が、互いに閃光の向こう側を目指しているようです。一見奇妙に見えるこの作品。しかし見方を変えれば、閃光の先に広がる世界へ飛び立つ少女の姿、birdgirlが描かれているようにも見て取れるでしょう。」
 
 次に、中谷ミチコ「あの山にカラスがいる」(2016年、H180×W90.3×D9.2他)。これは、変ったつくりの作品です。表面は平らで一見絵のように見えるそうですが、彫刻作品です。高さ180cm、幅1m弱の4枚の大きなパネル(1枚は幅がもっと広い)にそれぞれ石膏のボードのようなのが寄りかかるように置かれているそうです。各石膏の表面にはカラスが10羽前後見え、また左から2枚目のボードにはカラスの群とともに両手を上げた女の子が見えているそうです。これらのカラスや女の子は、まず粘土で立体の形をつくり、それを石膏で象り、粘土の型をはずして石膏の外形にします。この石膏の外形の内側に、カラスの場合は黒い樹脂を詰めて表面を平らにします。輪郭線とともに、樹脂の厚さの程度が黒の濃淡としてあらわれているそうです。女の子の場合は、石膏の外形の内側を着色してから、透明の樹脂を詰めており、その色が透明の樹脂を通して見えているようです。近付いて見ると、独特の立体感が感じられるようですし、想像してみても、彫刻の陰を見ているというか、こんな彫刻もあるのかとふしぎな感じがします。なお、作者は制作に当たって柳原義達の「道標 鴉」などを参考にしているようです。
 シシリア・ホセ・マリアの「蜜蜂の巣箱 V」(10点組) (1993年、各94cm×104cm)も、さらに変った作品です。1m四方くらいの薄い木枠(この木枠は養蜂で使われる巣板を模したものらしい)が、横に5個、縦に2段、計10個壁面に並んでいて、全体では幅6m以上もある大きな作品になっています。それぞれの木枠の中には蜜蝋が広がっていて、その中に六角形の蜜蜂の巣が半分埋まっていて、また蝋の中や巣の中に蜂も入っていて、それらが見えているとのこと、ちょっと異様な感じがしてしまいます。養蜂=人と蜂の関係を作品にしていると言えそうですが、自らの生産物(蜜蝋)の中に自身が閉じ込められているようでもあり、私たち自身がつくってきた社会や環境と私たちとの関係も暗示しているようにも思いました。
 秋岡美帆の「光の間(あはひ) 99-7-28」(1999年、152cm×212cm)は、私にはほとんど分かりませんでした。写真のデータをNECO(New Enlarging Color Operation:画像データを分解して、青、赤、黄、黒の4原色で紙や布に印刷する大型のプリンターらしい)で麻の繊維を原料にした麻紙に印刷したものだとか。多くの光の筋のようなのがゆらいでいるように見えるそうです。作者は風に揺れる木や地面に映る影を被写体として作品を制作しているとのことですが、この作品では何が写っているのか具体的には判別できず、ただゆらぎのようなのが分かるくらいだとのことです。
 
 以上です。今回の展覧会、作品を通して春を感じてみたいという期待は私にはちょっと無謀だったようです。それでも、「陶土」など印象に残る作品もありましたし、変った技法の作品にも出会えました。そしてとくに高校生たちのみずみずしいコメントにふれることができ、なにか希望のようなものを感じることもできました。
 
(2022年4月1日)