広島ミニ旅――広島県立美術館、平和記念資料館、街中の彫刻たち

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 6月15日、広島在住のMさんの案内で、広島県立美術館、広島平和記念資料館、そして平和公園を中心に街中に設置されている彫刻たちをみて回りました。
 
●広島県立美術館
 午前10時半前に広島駅に到着、そこからMさんの案内で、途中彫刻にも触れたりしながら、20分ほど歩いて、県立美術館へ。お目当ては、なんと言っても、サルバドール・ダリの「ヴィーナスの夢」。
 私がダリの作品に初めてほんのわずか接したのは、2020年1月末に、横浜美術館の教育普及グループ勉強会に木彫のことで招かれて同館を訪れた時です。偶然階段の踊り場のような所で、一緒に行った人が「あ、ダリだ」と気付き、つい私もその作品に手を出しそうになったところを監視の方に止められました。それは、サルバドール・ダリの彫刻「バラの頭の女性」だったようですが、それをちらっと目にしただけで「ダリだ」と気付かさせるほどの作品、そして作家はどういう人なのだろうと思いました。その後調べてみると、福島県の裏磐梯にある諸橋近代美術館がダリの作品を何十点も所蔵していることが分かりましたが、遠くてなかなか行けそうにはありません。近くの美術館ではと思って探していたら、広島県立美術館にダリの大きな作品があることが分かりました。そして、この美術館ではボランティアによる展示解説が行われているということだったので、電話で問い合せてみました。しかし、残念ながら今はコロナ禍でボランティアによる解説はしていないとのことでした(多くの美術館では今もボランティアによる解説など対面での活動は再開されていない)。
 事前に、私はダリの作品については、musey によるサルバドール・ダリによる絵画作品の一覧と、サルバドール・ダリの世界 を少し読み、ダリの作品のモチーフや特徴をそれなりに把握していて、それも手がかりにMさんにダリの「ヴィーナスの夢」を見てもらいました。縦3m弱、横5m弱もある大きな絵です。画面の一番左側には、木のようなものの枝にだらあっとゆらめくように時計(ぜんまい仕掛けの懐中時計のようなもの)が下がり、またその木の根元にも大きなだらあっとした時計が見えます。画面中央には大きな横顔の人物がおり、その頬あたりの所にも時計が見えます(これらの時計は、1931年の「記憶の固執」で有名になった柔らかな時計)。画面の一番右側には、キリンが見え、そのたてがみの辺が炎のようにゆらめくような感じになっているとか(これは1936年の「燃えるキリン」と同じモチーフ)。さらに、画面の右下には胸から上の女性、キリンの左側と中央の大きな横顔の人物の向こうにもそれぞれ女性の顔が見えます。そして右下の女性の胸には引出しが2つ並び、また中央の女性の顔の口あたりにも引出しが見えます(ダリの人物像では引出しはよく描かれるモチーフで、ふだんは表面にあらわれてこないような心の奥底に詰まっった秘密のなにかをあらわしているのだろうか?)。そして、画面のいたるところ(時計や人の顔のあたりやキリンなどにも)アリが群がって見え、また右下の女性の頭の上にはザリガニのようなのが見える(1934年「ガラとロブスターの肖像」とか。さらに、画面の上のほうでは、遠景に、連なる山々も見えているそうです(これはおそらく、ダリが生まれたカタルーニャ地方の風景)。色調は、全体に暗いようです。
 こんな感じで、いろいろな要素が統一感なく並んでおり、一見してふつうの絵とはまったく違うように見えるでしょうし、またタイトルは「ヴィーナスの夢」となっていて、ヴィーナスが夢の中で見ている生まれ故郷の海底の情景ということらしいですが、私には、ヴィーナスではなく、これは画家自身の心の中に去来するイメージ、とくにゆらぐ現実世界に対する不安、恐怖、あるいは虚勢といったものがあらわされているように思います。この作品は、1939年にジョージ・ワシントンの大統領就任150年を記念して盛大に開催されたニューヨーク万博で、ダリが担当した同名のパビリオン「ヴィーナスの夢」内部に展示するために制作されたものだとのこと。当時すでにヨーロッパでは、ナチの勢力拡大などにより芸術家たちの自由な表現が難しくなってきていて、ダリもふくめ一部の人たちはアメリカを新たな活動の場にするようになります。会期中の9月1日には第二次世界大戦が始まっています。そのような時代背景とともに、最近のどうしようもない世界の状況を考え合わせると、私はついダリの作品の表現の中に、人の心の中の、多層的でアンビバレントなもだえのようなのを感じてしまいます。
 
 その後、常設の展示をごくざっとですがMさんと一緒に回ってみました。陶や彫刻で、いくつか気になる作品に出会いましたので、簡単に紹介してみます。
 まず、陶の作品で、今井政之の「象嵌彩信楽早春の芸予大壷」。直径50cm弱の大きな壷で、側面一面にデベラが十数匹も象嵌で見えているそうです。(デベラは、タマガンゾウビラメの干物で、えらから荒縄を通して冬の冷たい潮風にさらしてつくられる瀬戸内の名物のようです。)本体の粘土とは異なる色土を使って広い面積に文様をほどこす手法のようで、質の違う粘土を組み合わせるため、難しい技法のようです。象嵌を使った今井さんの作品は他にも数点ありましたし、富本憲吉や藤原雄等、有名な方々の作品もそろっているようでした。
 彫刻で一番気になったのは、水船六洲(1912〜1980年)の「燭明り(ひあかり)」。木彫で、等身大の女性の像だそうです。帽子をかぶり、燭台を持っているようです。顔や手など肌が露出している部分は真っ黒で、その他衣服の部分は白っぽくちょっと光っているようです。燭台の光に照らされて、顔など黒の部分がより浮き上がって見えるのかもと思ったり。その他、いずれも抽象的な作品ですが、ジャン・アルプの「目覚め」、イサム・ノグチの「追想」、マックス・エルンストの「オイディプス」などが記憶に残っています。
 絵では、朝井清の「長崎御宮日祭(おくんちさい)」が印象に残っています。縦150cm弱、横1mくらいもある大きな木版画だとのこと、木版でこんな大きな作品は初めてでした(木の版が大きいほど、場所によって木の質が変化するので、おそらく彫るのはより難しくなると思う)。また、私は長崎おくんちがどんなものなのかほとんど知らなかったのですが、3つほどお神輿が見え、それを担ぎ練り歩く人たち、張り子の竜を数人の人が棒を使って操って踊らせたり、回りには多くの人たちも見え、にぎやかな祭の様子が伝わってくるようでした。
 
●広島平和記念資料館の触察資料
 私は、今からもう40年以上前に、この資料館(当時は私たちは原爆資料館と言っていました)に行ったことがあります。被爆した瓦の破片や、溶けたガラス瓶、瓦礫のかたまりなどに触り、人の影が黒く映った壁とかぴらぴらに焼け縮れた衣の切れ端とか、説明してもらいました。その後資料館は何度も改装され展示の内容もかなり変ったというような話を聞いていましたので、そのうちもう一度行ってみたいと思っていました。そして最近調べてみたら、見えない人たちは、学芸課に電話(082-242-7796)して申し込めば、別室で触察資料に触れられることを知りました。(東館の展示の一部には触れてもよい資料が少しあるようですが、今はコロナのため触れられないとのことです。)
 昼食後、私たちは30分以上でしょうか、西の方向へと歩き、途中彫刻などに触れたりしながら、原爆ドーム、相生橋、平和公園、そして午後2時前に資料館に着きました。原爆ドームは、今は保存のため近付くことはできませんが、40年前に訪れた時には一部残っていたざらざらとひび割れたような壁にちょっと触れてみたような気がします。相生橋は、元安川と本川をまたぐ東西方向とその中央から南の方向に伸びるT字型をしていて、原爆投下の目標にされたとか。原爆ドームは爆心地(爆心はその上空600m)の南東約160m、相生橋は爆心地の北西約300mだということなので、私たちはほとんど爆心の下を歩いていたことになります。
 資料館に着いて学芸課に向っていると、担当の学芸課の方が迎えにきてくださって、その方の案内で地下1階の奥まった部屋に入りました。最初に触ったのは、被爆した瓦。横幅25cmくらい、縦30cm余のほぼ完全な形の桟瓦です。表面を触ってみると、手前3分の1くらいはふつうの手触りですが、それから上は全面がざらざらしていて、その中に直径2〜3mmくらいのガラスのようにつるつるした丸い玉がいくつも点在しています。手前3分の1くらいの部分は他の瓦と重なっていて直接熱線を浴びなかった部分で、その先が熱線に直撃されて、瓦の表面が一瞬にして溶け固まったものです。点在するガラスのような小球は、高温で液化したものが表面張力で球状に固まったのでしょう。瓦は1200度以上で溶けるとのこと、爆心から半径500〜600mくらいの範囲が1200度以上の熱線(爆心地では3000度以上)を浴びたことを物語る資料です。原爆投下直後、秒速460mもの熱線で爆心地を中心に半径500〜600m以内の木造家屋はすべて倒壊し、あちこちでほぼ同時に発火、それがまたたく間に燃え広がり、大火災が1日から2日続いたそうです。
 次は、20cm弱ほどの、ちょっと平たい瓦礫のかたまりのようなもの。底面の一部には直径10cm弱の小皿の原形が確認できますが、その他はまったくごちゃごちゃで何が何だか分かりません。回りにあったり飛ばされてきた物などが溶け固まったものと思われます。とくに上面には、内側に深くえぐられ、そこにはぎざぎざの溝や細い針状の突起がいくつもあります。これを触って私は、火山弾を触った時のことを思い出しました。火山弾にもいろいろな形状があるのですが、内部が空洞になってとげのようなのがたくさんあるのもあり、これは内部の高温の気泡の爆発的な膨張によるものと思われます。これと類似したことが、この瓦礫でも起こったのではないでしょうか?そしてこのようなことが、物だけでなく、人の体の表面から内部深くにまで起こっていたことを考えると…、言葉もありません。次に触ったのは、細い針金の切れ端をぐしゃっとまとめたような7、8cmのかたまり。これは、何百本もの1〜2cmくらいの釘が溶け固まったものだとのこと。1500度くらいにはなったのでしょう。
 小鉢が二重に重なってくっついたのもありました。一部はガラス化してつるつるになり、一部は土などが付いたのでしょうか不規則にざらついていました。皿や瓶などの破片がたくさん溶け固まったようなもの、小さなお猪口になにかガラスがくっついたようなものなどもありました。直径10cm弱、長さ30cmくらいの、ちょうど一升瓶のようなものが、表面はきれいで無傷なのですが、側面を片側から押しつけたように変形しています(ちょっと現代アートになりそうな形?)。ガラス瓶が高温で軟かくなり変形したもので、ガラスは500〜600度くらいで軟化するようです。変形したラムネの瓶もありました。
 これらは、原爆による熱風と大火災で起きた現象を直接示す資料ですが、原爆に限らず、例えば焼夷弾による大火災でも同じようなことが起きていると思われます。私は、大阪の空襲で焼け溶けて縁がぎざぎざになった寺の鐘を触ったことがあります。
 学芸の方は、熱風などによる被害を示す資料はそろえられるが、放射線による影響を実感できる資料を示すのはなかなか難しいとおっしゃっていました。その通りだと思います。私は、第五福竜丸関連で、以前、内部被爆もふくめ放射線による影響について少し調べたことがあります(第五福竜丸と大石又七さんからのメッセージ)。
 
  *資料館からの帰りは、原爆ドーム前から広島駅まで広島電鉄に乗りました。8月27日午前10時台のラジオ第1で放送された「鉄旅・音旅 出発進行!〜音で楽しむ鉄道旅〜」で、被爆電車に乗りながら、広電のスタッフの方が原爆投下で広島電鉄が受けた被害について、また被爆体験伝承者が当時の沿線の被爆の様子を詳しく語っていて(77年前の戦争を伝える「被爆電車」)、とても参考になります。
 
●街中の彫刻たち
 以下、平和公園を中心に、歩く道すがら触れた彫刻たちについてです。台の上にあったり、作品が大きかったりで、ほとんどはごく一部に触れただけで、全体をほぼ触れることができたのは1、2点だけでした。
 広島県立美術館に行く途中、まず触ったのが「雪椿の乙女」(茂木弘行作)。台上にあり、膝くらいまでしか触れませんでした。膝くらいまでのスカートのようなのを着け、左手に花を持ち、右手はその花にそえるように手のひらを広げているようです。
 ひろしま美術館の入口近くでは、2点の作品に触れることができました(ひろしま美術館は有名な作家のブロンズ像が10点くらい所蔵していますが、それらは触れられないとのことでした)。
 まず、清水九兵衛(1922〜2006年)の「道標」。横幅4mくらい、高さ3mくらいもある大きな金属製の抽象的な作品です。中心の根元にあたる所が直径1m弱くらいで、それが高さ50、60cmの所で2つにU字形に別れ1mくらいの間隔で平行に上に伸び、さらにその平行な2本の円柱の途中から両横に140cmくらいでしょうか水平に円柱が2本伸びています。そして、その上の縦に平行な2本の円柱を大きく包むように両横から半円のように湾曲した曲面が前後でくっついて全体を覆うようになっています。私は、触りながら、十字型の土偶を逆さにしたような形を連想したりしていました。
 次に、林健の「いこいの森」。タイトルの意味合いはよく分かりませんが、これはペガサス像でした。ごつごつした岩(ないし堅い木の根元)を思わせるような物の上に、高さ70cmほどのペガサスで、これは上の先端を除いてほぼ全体を触ることができました。両後脚で立ち、両前脚は前に上げ、大きな両翼を今飛び立とうとするかのように真っすぐ上に広げています。
 以下は、平和公園内や周辺で触れたものです。銘文などは、まっすぐ平和記念公園へを参考にしました。
 まず、本郷新作の「嵐の中の母子像」。これは資料館に近接して設置されていましたが、回りが垣根のようになっていて近付くことはできませんでした。若い女性が、右手で乳児を抱き、左手は背に負んぶされようとする男の子を支えようと後ろに回して、前かがみの姿勢をとっているようです。強く生き抜こうとする女性の姿をあらわしているようです。
 円鍔勝三(1905〜2003年。広島出身の有名な彫刻家)の作品がいくつかありました。「平和の像『若葉』(湯川秀樹歌碑)」は、少女の後ろ側に寄り添うように小鹿が立っています。小鹿はやや上を向き、少女は左てをその頭のほうに伸ばしています。銘文として、湯川秀樹の短歌「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」がある(「まがつび(禍津日)」は、わざわいや凶事を引き起こす神)。また、本物の郵便ポスト(平和記念ポスト)の上に、「平和と友情」という像が置かれていました。男女が、それぞれ外側の脚で立ち、一緒に片手でなにか(書状?)を持っているようです。
「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」(芥川永作)は、女性(教師)が、すでに死んでいるかと思われるようなぐったりとした子どもを左側に斜めに抱えています(私は後ろ斜め上に伸びた子どもの足に触れることができました)。「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」という銘文があるとのこと。
 「祈りの像」(横江嘉純作)は、若い夫婦が幼い子を抱いて祈っている姿のようです。母が左手で子どもを抱き、右手は前に出して祈っているようなポーズ、父は左手は上げ、右手は子を抱いている母を支えているような姿のようです。
 鈴木三重吉記念碑「夢に乗る」も、円鍔勝三作で、姉と弟が並んで腰掛けており、弟は左右の手に鳩(20cmくらい)を持ち、姉は右手を弟の肩に回しています。この像の左には鈴木三重吉の像があります。三重吉は2羽の鳩をつかみ、左肩には1羽の鳩がとまっています。
 その他、まったく触れられはしませんでしたが、「平和の観音像」や「原爆の子の像」(この像の回りには、折り鶴を捧げる屋根つきの台もあった)などについても説明してもらいました。
 最後に、彫刻ではありませんが、「被爆アオギリ」について。アオギリの葉に触りました。手のひらのような形のかなり大きな葉で、15cmくらいの小さめの葉は3つに、30cm弱の大きめの葉は5つに、切れ込みが入って別れていました。葉が青々しているだけでなく樹皮も緑色っぽくて、生命力を感じさせるからでしょう、中国や日本の絵にしばしば描かれることもあるようです。今は一見ただのアオギリですが、この樹は、1945年8月6日の原爆投下時、爆心地から北東へ約1.3kmの当時の広島逓信局の中庭にあったものだそうです。熱風と爆風をまともに浴びて樹の葉や枝はすべて落ち、爆心地側の幹も焼け焦げてしまい、死に絶えたかのように見えたと思われます。ところが翌年の春には芽吹き、その生命力に人々が元気をもらったとか。まさに、植物はすごいですね!その後、1973年に平和公園内の現在地に移植され、さらにその種子が国内外各地に贈られ2世の被爆アオギリが育っているとのことです。
 
(2022年6月19日)