5月21日まで、国立国際美術館で「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開催されています。
パブロ・ピカソ(1881〜1973年)の作品と言えば、私はこれまでに、三重県立美術館で「ロマの女」(1900年、青の時代の直前)、および愛知県美術館で「青い肩かけの女」(1902年)を説明してもらったことがあるくらいで、具体的にはほとんど知りません。今回の展覧会では、ピカソの作品が若いころから晩年のものまで30数点展示されているということで、少しはピカソについて全体的に知ることができるかもと考えて、できれば数度行ってみたいと思っていました。
●3月4日
まず、3月4日、この展覧会関連として行われた講演会「ピカソとドラ・マール:ファシズムと戦争の時代の芸術」を聴講しました。
講演会は午後2時からで、その前に少し展覧会場にも行ってみました。会場は人が多く、各作品に近づいてその前でゆっくり説明してもらえるような状況ではなく、通り過ぎるように30分弱ほど回ってみました。それでも、数点気になる作品に出会いました。(これらの作品についても、3月19日に行った鑑賞の時に説明してもらったので、その情報を一部加えました。)
会場に入ってすぐの「眠る男」(1942年 墨、紙)。タイトルから男の姿かと思ったら、ベッドで両手を頭に当てて寝入っている男を同じベッドに腰掛けた女性が見つめている絵で、どちらかと言うと女性の見つめるまなざしに魅せられるとか。ピカソは幾人もの女性と関係を持ちながら、彼女たちをモデルとした絵を多数描き、また彼女たちとの交流を通しても画風を変化させていったようですので、この絵はピカソと彼を補う女性との関係を示唆しているのかも知れません。そして、この絵は、ベルクグリューンの最初のピカソのコレクションだとのこと!
ハインツ・ベルクグリューン(1914〜2007年)はベルリンのユダヤ人商人の子として生まれ、新聞記者として活躍していたが、ナチス政権のユダヤ人迫害を逃れて1936年にアメリカに移住、カリフォルニア大学バークレー校で美術も学んだとか。第2次大戦後欧州に戻り、パリで書店、次いで美術商としてピカソをはじめマティスやジャコメッティ等と知り合い、コレクションを始めます。1996年にはベルリンでコレクションを公開、それが2004年に現在のベルクグリューン美術館になったとのこと。コレクションは、ピカソ(約120点)を中心に、マティス、クレー、ブラック、ジャコメッティ、セザンヌ等からなっていて、今回の展覧会ではその中からピカソ30数点をふくむ97点が展示されているそうです(さらに国内の美術館の所蔵品も11点加えて、計108点)。
会場を回っていて私が気になったのは、ピカソの彫刻の作品(ピカソは絵画1万点以上のほか、版画、陶器、彫刻等10万点以上制作しているとか!とにかく多作で、ピカソ美術館と言われているものもスペインやフランスなど各地にいくつもあるようです)。「女の頭部(フェルナンド)」(1909年)はブロンズで、首の部分がかなり太くなっていて、顔の右側と左側がずれている?ように見えるとか(フェルナンドは当時の恋人フェルナンド・オリヴィエ)。「鶴」(1952年)もブロンズですが、こちらは一見鶴と分かるリアルでシュールな感じだとか(この作品は、身の回りにあるいろいろな物を寄せ集めて原型をつくったとかで、例えば鶴の脚はフォークを細い棒に針金で巻き付けているらしい)。絵画で気になったのは、講演会でも取り上げられていた「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」(1936年)。
講演会の講師は、武蔵野美術大学教授の村上博哉氏。村上先生は東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了後、1988年から愛知県美術館、2006年から国立西洋美術館、2021年から現職。国立西洋美術館の副館長だった数年前、ベルリン国立ベルクグリューン美術館が改修工事に入るので同館のコレクションの大規模な展覧会ができるというような連絡をいただき、海外では初となるベルクグリューン美術館展の企画に尽力されたとのことです。とくに、ピカソのコレクションは小さいサイズのものが多い中で、「大きな横たわる裸婦」という2m近くもある大きな絵も展示に加えることができてよかったと言っていました。
話の中心は、1930年代にファシズムがヨーロッパで勢力を増してから第2次世界大戦が終わるまでの時期。この間、ピカソはアメリカ等に逃れることなくずうっとフランスに留まります。そして、ピカソの女性関係も、最初の妻オルガ・コクローヴァ(1891〜1955年)から、マリー・テレーズ(1909〜1977年)、ドラ・マール(1907〜1997年)、フランソワーズ・ジロー(1921〜)へと移ってゆき、モデルにする女性たちも変わってゆきます。ロシアのバレリッナだったオルガとは1918年に結婚し、子供もでき、オルガの絵だけでなく母子像も描いています。しかし1927年に17歳のマリー・テレーズに一目ぼれして妻には分からないように関係を続けます。マリー・テレーズを描いた絵は、丸みを帯びおだやかな印象があるとか。1935年、マリー・テレーズが妊娠したことを人伝に聞いたオルガは、子供を連れて出てゆき別居するようになります。
マリー・テレーズの出産後、1936年には若い写真家のドラ・マールと関係を持つようになります。ドラ・マールはシュールレアリスムの写真家としても有名で、ピカソの絵の理解者でもあり、1937年の「ゲルニカ」制作の際には1ヶ月ほどアトリエでその制作過程を撮影したそうです(このアトリエにマリー・テレーズがやって来て、ピカソの前で2人は大喧嘩をしたとか)。ドラ・マールをテーマにした絵は、「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」(1936年)、「花の冠をつけたドラ・マール」(1937年)、「黄色のセーター」(1939年)、「大きな横たわる裸婦」(1942年)など、本展のピカソ作品の展示の中心になっているようです。ドラ・マールは、マリー・テレーズと比べて、細くとんがった奇抜な?印象を受けるそうですが、後のほうの作品ではマリー・テレーズのおだやかな特徴をも合わせ持つようになっているようだとのことでした。
1939年にドイツ軍が侵入してくると、ピカソとドラはパリから大西洋岸のロワイヤンに移ります。間もなくすぐ近くに娘を連れてマリー・テレーズが引っ越して来て、ピカソはドラ・マールとマリー・テレーズの間を行き来することになります。ピカソはナチスの傀儡政権のビシー政府によりフランコ政権下のスペインに戻されることを恐れフランス国籍を取ろうとしますが叶わず、40年8月にドラ・マールとともにドイツ占領下のパリに戻ります。ピカソの作品は退廃芸術として発表を禁止され、軟禁状態でアトリエでひっそりと制作を続けます。ドラ・マールは、彼女の母がユダヤ人ではとの容疑で一時拘束されたり、1943年にはピカソが22歳の画学生フランソワーズ・ジローを愛人にするようになったこともあり、次第に心を病み精神病院に入院もしますが、カトリックの信仰を得て、1997年に亡くなるまで、ピカソの勧めで始めた絵を描き続けます(死後、ドラ・マールの絵の展覧会も何度か行われているとか。ちなみに、彼女は「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」を生涯手放すことなくリビングの暖炉の上に飾り続けていたそうです)。
この時期ピカソが描いた作品として、大原美術館所蔵の「頭蓋骨のある静物」(1942年、96.5×130.0p)が紹介されました。暗っぽい室内で、死の象徴である牛の頭蓋骨がわずかな希望のようにも見える小さな白い花を見つめているようです。ちなみに牛の頭蓋骨と言えば死とともに生も象徴する闘牛も連想しますが、ピカソは闘牛をテーマにした作品も多く描き、またギリシャ神話に出てくる半人半牛のミノタウロスをテーマとした絵も描いています(本展にも「ミノタウロマキア」(1935年)が出展されています)。彫刻も、浴室を改造して「羊を抱く男」など制作しているようです。44年8月にパリが開放されると、ピカソはナチス支配下のパリを離れなかった画家として注目され、直後のサロン・ドートンヌには特別に80点近くが展示されます。そして、当時の多くのフランスの知識人同様ピカソも共産光に入党し、戦後は戦争と平和をテーマとした大作も描き、また自ら鳩を飼いその絵も描いて平和の象徴とされます。1948年には南仏の陶器の産地ヴァロリスに居を移し、陶や彫刻など立体作品を多く制作し、またベラスケスやドラクロワなど巨匠たちの作品をアレンジしなおしたようなものも描いたとか。とにかく亡くなるまで研究熱心で新しいことに挑戦し続けたようです。
講演会の内容を少し書いてきましたが、スライドで多くの写真や絵を示し、また私の聞いたことのない人物名などもかなり出てきてちゃんと聴き取れず、私には全体のごく一部しかよく分かりませんでした。その中で私が一番納得したのは、ピカソの絵には、日記の文章の中に感情が表現されていると同様に、感情があらわされているというような話です。ピカソは生涯を通じて画風が大きく何度も変化し、またなかなかなんだかよく分からないような絵もかなり描いているようですが、そこにはその時々の時代の、そして日々のピカソの内面がそれなりに反映しているのでしょう。そういう絵を理解するには、ピカソの生きた時代や回りの人たちとの関係などもやはりある程度はしっかりと理解しておかなくてはならないようです。
●3月19日
知り合いのKさんとまたピカソ展を見学しました。今回も人が多く、しばしば作品の前で順番待ちになりました。そんななかでKさんにほぼ順番に丁寧に説明してもらったのですが、解説文の字が小さくて近付いて読もうとすると、絵に接近しすぎないようにと引いているラインの内側に入ってしまって係員にちょっと注意されたり、たいへんそうでした。また最後のほうは私の手持ちのメモ用紙がなくなって、記録がとれなくなりました。以下、その時のメモにそって、ピカソの作品のみ紹介してみます。
*ピカソ展を見学した直後から発熱し体調を崩してしまいました。発熱した状態で病院に行くと、その度にコロナとインフルエンザの検査をし、どちらも陰性なのになかなか専門の診察が受けられず、たいへんでした。3週間ほどでなんとかようやく回復しましたが、その間に筋力も落ち、ふつうに出歩いたりできるようになったのは4月下旬でした。そのためピカソ展の印象や記憶もかなり薄れてしまい、説明していただいた作品の半分くらいについてしか書くことができず、残念ながらまとめというほどにもなりませんでした。
初めに3月4日にも説明してもらった「眠る男」を詳しく説明してもらった後、「ジャウメ・サバルテスの肖像」(1904年 油彩、カンヴァス)。サバルテスはピカソの友人で、後に秘書になったとか。全体に暗い青の色調で陰影もやや薄い青ですが、その中にあって胸のタイピンの金色と口元の赤が目立っていて、これはこの後のバラ色の時代を予感させるものだとか。その隣りには一目で画風が違うことが分かるバラ色の時代の「座るアルルカン」(1905年 水彩・黒インク、厚紙)。アルルカンは道化師のことで、当時は道化師や軽業師、旅芸人などをよく描くようになったとか。腰かけている姿で、目がうつろでぼんやりしたような感じ。身体を包み込むような水着?のようなのを着て、襞のある大きな白い襟が目立つようです。
続いて「女の頭部」(1906-07年 テンペラ・黒インク、紙)。これは特徴のある作品のよう。顔は縦長で、アーモンド型の目、額の上両端と顎の先がとがっているとか。そしてこの隣りには、これらの特徴をさらに強調したような「《布を持つ裸婦》のための習作」(1907年 グアッシュ、ラミネート紙)と「裸婦(《アヴィニョンの娘たち》のための習作)」(1907年 油彩、カンヴァス。これは横向き)が展示されています。目は菱形のようにとがり、鼻筋が長くなって顔がさらに縦長になり、上下(額と顎)もさらにとがっているようです。このころピカソは、イベリア彫刻のような古代彫刻やアフリカの黒人彫刻など原始美術に魅せられていて、アーモンド型の目はイベリア彫刻、上下にとがった縦長の顔はアフリカの黒人彫刻、黄色や青など原色の使用にはオセアニアの像に影響を受けているとか。(有名な1907年の「アヴィニョンの娘たち」にもこれらの特徴があらわれている。)
静物画もありました。「洋梨とリンゴのある果物鉢」(1908年 油彩、板)は、鉢の中に数種の果物と、鉢の外のテーブル上にりんご?があります。それぞれ異なった視点で描かれているようですが、全体にあたたかみのあるきれいな作品で、不安定間のようなものはあまり感じられないとのことでした。「一房のブドウのある静物」(1914年、 油彩・木炭・木屑、厚紙)は、ブドウの房がこんもりと盛り上がっていて、実際それは木屑を張り付けたものだとか。そしてそのブドウの房の影がテーブルに映っていて緑色だそうです。
「丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)」(1909年 油彩、カンヴァス。オルタ・デ・エブロは、恋人フェルナンド・オリヴィエと1909年夏に過ごしたカタルーニャ地方の村)は、向こうまで続く山々とそこに広がる集落を示した風景画のようですが、上から、横から、斜めからなど幾つもの方向から見た図を並べているようだとか。
この辺にジョルジュ・ブラックの作品が数点展示されていて、こちらのほうがキュビズムの作品として分かりやすそうと言っていました。
「アプサントのグラス」(1914年、着彩されたブロンズと銀メッキのスプーン)は、立体作品でちょっと面白かったです。脚付きのグラスの上の縁にスプーンが見えるのですが、そのスプーンはぐにゃーっと少し曲がっていて、溶けかかっているようにも見えるとか(Kさんはダリの溶けかかった時計を連想していました)。そして、スプーンの先には角砂糖のようなのが乗っているのですが、スプーンのそのすくう部分が葉の形をしていて、葉脈のような線まで見えるとか。
神話と関連のありそうな絵も数点ありました。まず「彫刻家と彼の彫像」(1933年、水彩/グアッシュ/ペン/インク・紙)は、タイトルからして、2021年末のメトロポリタン美術館展で鑑賞したジェロームの「ピュグマリオンとガラテア」を連想させるものでした。(ピュグマリオンはキプロス島の王で彫刻家でもあり、自分の造った理想の大理石の女性像ガラテアに恋してしまい、ガラテアになんとか命を与えようとする。)彫刻家が自分の作った大きな頭部の彫像に腕を乗せているようです。この頭部のモデルは時代から考えてマリー・テレーズかも知れません。画家とモデルの関係を示唆しているのでしょう。
同年の「踊るシレノス」(1933年、グアッシュ・墨、紙)は、大にぎわいの作品のようです。海辺で年取った男(シレノス)が魚を釣り上げ、全裸の男3人と彼らが追いかけまわす数人の女たちがいわば団子状態になって動き回っているようです!(シレノスは、ギリシア神話の、耳と下半身が馬の姿の山野の精で、酒好きで、酔っぱらうとニンフや女神たちを追い回したりするが、一面では賢者でもあり、ディオニュソスの守役でもあった。)ただの陽気な大はしゃぎのようでもありますが、もしかすると当時のピカソの混乱したような、どうしていいか分からなくなるような状態が反映されているのかも知れません。
「ミノタウロマキア」(1935年、エッチング、紙)は、つい考えてしまうような作品でした。(タイトルの「ミノタウロマキア(Minotauromachy)」は、ギリシア神話の牛頭人身の怪物ミノタウロス(Minotauros: ミノスの牛)と闘牛(Tauromaquia)を合わせた造語のようだ。)画家=ピカソの分身と考えられるミノタウロスの前に、傷ついた馬に乗った女性がいます。女性は胸をはだけ、剣を持っていて闘牛士なのでしょうか、剣の先は馬の顔に突きつけられているとか。この2人を導くかのように、花束を持ち蝋燭を高く掲げて少女が立っています。また2人の背後では、男性がこの場から逃げだすかのように梯子をよじ登っていて、また窓から2人の女性が中の様子を怪訝そうな目で見ているようです。当時のピカソと回りの人たち、とくに女性との関係をあれこれ考えさせられますが、中でも蝋燭を掲げて2人を照らし出している少女はいったい何者なのでしょうか?
政治的ないし社会的な関わりを思わせる作品もありました。「サーカスの馬」(1937年 グアッシュ・ペン・インク・パステル、紙)は、手綱と鞭を使って強引に調教しようとする怖そうな顔の男と、それに抗って暴れそうな馬、回りには彼らを見ている人たちがいます。この絵は、有名な「ゲルニカ」の数ヶ月後に描かれたということで、支配者の暴力と、力はないが抵抗しようとする民衆を示唆しているのかも知れません(馬はふつう従順で弱弱しい者として描かれることが多い)。「雄鶏」(1938年、木炭・パステル、紙)は、踏ん張るようにしてしっかり立ち強くて元気そうな雄鶏が鳴いています。なにかを訴え、怒っているようにも見えます。そして鶏の顔は人の顔のようにも見えるとか。
写真家でアーティストでもあったドラ・マールをはじめ、ピカソの作品に次々と影響を与え続けた女性たちをテーマにした絵も、「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」(1936年)、「花の冠をつけたドラ・マール」(1937年)、「黄色のセーター」(1939年)、「大きな横たわる裸婦」(1942年)、さらに「本を読む女」(1953年)や晩年の「闘牛士と裸婦」(1970年)など、10点くらいはありました。それらの作品の特徴や違いなどについても少しでも理解できればと思っていましたが、時間が経ってしまい印象も薄れてしまって、書くことはできなくなりました。
(2023年3月10日、5月16日更新)