ロダンの作品を触る――彫刻から何が分かるか

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 2月27日、静岡県立美術館のロダン館(http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/visitor/school04_j.html)に行きました。次の予定があったため、10時半過ぎから 2時間余、2人のミュージアムボランティアの案内と解説で集中的に触りました。
 彫刻には興味はもっているものの、ロダンの作品では兵庫県立美術館で「けいれんする大きな手」を1度しか触ったことはありません。
 以下、今回触ることのできた彫刻作品(いずれもブロンズ)について、私の簡単なメモとボランティアの解説の記憶を頼りに、私の触っての感じ方・観賞評を書きます。

 まず最初に興味を惹かれたのは、ロダン館に行くまでの壁面でした。イタリアから取り寄せたという大理石で造られているとのことです。全体としては、すべすべした滑らかな、軟らかそうな感触なのですが、あちこちに小さな穴が点在し、また数mmくらいの小さな模様のようなのがたくさん触って分かります。そしてこの穴や模様の分布の様子が、歩きながら壁面を触って行くとともに、微妙に変化しているようです。このような穴や模様は、たぶんサンゴなどの石灰質の生物化石と関係しているのでしょう。専門の方に解説してもらえば、触覚でも少しは読み取れることがあるのかもしれません。(この壁面を触っているうちに、こんな切り立った路頭を専門の人に解説してもらいながら触ってみたいという欲求が沸き上がって来ました。)
 ロダン館は広さも高さも感じられる静かな空間でした。彫刻作品をスケッチしている人たちが数人いました。落ち着いた雰囲気です。

 初めに、「ロダンがどういう人だったのか、その顔を見てください」ということで、次の作品から観賞をはじめました。

●ブールデル「ロダンの肖像」
 後ろの下半分に台が入り込んでいる。この台には、古い木の柱の表面を思わせるような、縦の線が何本もはしっていた。
 鼻が高く前に飛び出し、先は下にとんがっていた。ボランティアの方は「鷲鼻」と言い、よく聞く鷲鼻という表現を実感する。髭がすごい生え方で、とくに顎髭は広く下に波打つように垂れ下がっていて、首の部分はまったく分からなくなっていた。目はかなり窪んで小さめ。額には縦皺のような線がはしっていて、なにかきびしい表情を感じさせる。
 ボランティアの方は、ロダンの弟子であるブールデルは先生として尊敬の念をもって表現しているのかもと言っておられましたが、私は立派というよりなにか老成した感じを受けました。

 この後、ロダンの作品を10点ほど観賞しました。 (以下の文中の右・左は、対面して触っている私から見てのものです。)

●「カレーの市民」第一試作
 最初は、全体が小さくてごちゃごちゃしているようで、何が何だか分かりにくかったが、少し触っていると数人がいろいろにつながっているのが分かる。もっとも印象に残っている作。
 前に3人、後ろに3人が、いろいろな方向を向き、手を組み合ったり綱のようなので結ばれたりしている。前の右側に位置する長老が、城門の鍵を持ち、右手を伸ばして一行の行くべき方向を指示している。前の左側の人は綱をかけられ無理矢理引きずられていくよう。後ろの右端の人は、片手は頭の後ろに回し、片手は顎を支えるようにして、ううんと考え込んでいるような、悲痛な感じ。後ろの左端の人(若者)は、足を蹴り出そうとする姿勢で、一行を力で行かせようとしている感じ。
 この作品は、1884年、カレー市の依頼により、百年戦争の際の英雄的な市民の記念碑として制作されたとのこと。カレーは、フランスの北端、ドーバー海峡に臨む都市。カレー市を包囲したイギリスのエドワード3世は、市民の代表が町の城門の鍵を持って降伏する事を条件に攻撃をやめることを宣言、これに応じて身をもって市を救った長老をはじめとする6人の市民を表している。第一試作ということで十分構想は固まっていないようだが、ロダンが、死地に向かう人たちの様々な苦悩、心の動きを表現しようとしていることはよく分かる。
 もう一度、それぞれの人の姿勢や顔をよく観察したい。

●「バルザックの頭部」
 髪がかなり乱れている。頬がぼこぼこしていて、これは皮膚または筋肉が弛んでいる状態なのかもしれない。年齢を感じさせる。鼻が大きく、目は窪んでいる。目は細く開いて、目玉が無くて、指が半分も入るほど深い穴になっている。その目は、遠方を透視するように凝視し、その像を自分の内面に深く投射して観つめ直しているのかもしれない。

●「《影》の頭部」(「アダムの頭」)
 顔全体を右に傾けていて、そのため、左半分が大きく、右半分が小さく表現されている。左の大きな頬は、ゆるやかに波打つような感じがする。上瞼が下まで下がっていて、目はつむっているようだ。瞑想しているのかもしれない。

●「女のケンタウロスのトルソと女のトルソ」(中央) 「女のケンタウロスのトルソと絶望する若者」(右手前) 「女のケンタウロスのトルソとイリスのためのトルソ」(左手前)
 この3作品は、1つの台に上のように配置されていた。
 ずっと以前の私だったら、トルソ(手足や頭部の全部または一部を欠いたないし切断したような像)のような表現にはかなり違和感をおぼえていただろう。今ではこのような一種不完全と言える形も1つの〈形〉としてほとんど違和感を感じなくなった。そして、今回これらのトルソを触って、このような表現のほうがかえって強くアピールし意味を伝え得るのだと思った。
 3作品とも、立っている1人にもう1人の女が抱きついている姿で、互いに接し合っている胸の部分に注意が向く。
 「女のケンタウロスのトルソと絶望する若者」では、若者の〈絶望〉は、女が抱きついているのに、体をのけぞらして顔と腕を天に向けている若者のポーズから読み取ることができる(前に触ったザッキンの「破壊された町」も思い出す)。ではいったい、若者は何に絶望しているのだろうか――抱きついているこの女を拒絶しているのか、それとも女性的なもの一般なのか(若者の男根がはっきり示されていた)、それとももっと深い何かに絶望しているのだろうか。

●「バッカス祭」
 タイトルから、古代ギリシアの秘儀と関係あるのだろうと思う。
 実際に触ってみると、とても異様な感じ。何かの動物、怪獣のようなものの上に、細身の手足の長い女性が仰向けに横たわっている。そして、肩から上は人になっているその怪獣の首に女性はその長い手を回し、互いに体をねじり合って手と手を組み合い顔を寄せ合っている。
 女性のエクスタシー、さらには人間が深層に秘めている異界とのつながりを求める欲求のようなものを表しているのだろうか。

●「《ラ・フランス》習作」
 ロダンの弟子であり愛人でもあったクローデルの顔。ライオンの皮を被っているとのこと。
 小さめの頬、高く形の良い鼻、見開いた目、かわいくまとまった口。とくに、目の瞳が小さな穴で示されていたのが印象的。
 後でクローデルについて調べてみると、芸術家として挫折するだけでなく、多くの苦悩の果てについには精神破綻にいたる彼女――あのかわいらしく毅然としたような彫像と重ね合せると、心せつないものがある。

●「花子のマスク」
 日本女性「花子」の顔。 1901年ヨーロッパに渡った花子は、ハラキリなどの芸で人気スターに。1906年、博覧会での花子の興行を見たロダンは、ただちに花子に会う。以後ロダンのモデルとなり、多くの作品が残されたとのこと。
 顔の割に鼻がひろがっている。(以前に触った、佐藤忠良の日本人の平板な顔を思い出す。)目は窪み、額の真中に大きなしわのようなのがくっきり出ている。口は長く横に開いて、歯の部分が丸見えの状態。ボランティアの方はその表情を「断末魔」と言っていた。そういう苦悶を表しているとも思うが、口の開き加減などから、なにか嘲笑しているような感じも受けた。

●「ヴィクトリア・アンド・アルバートと呼ばれる女のトルソ」
 こちらに背中が向いていて、台に対して斜めに置かれている。後ろの背中の下から、前側のお中・胸へと、厚さ3cmくらいの被いのようなものの縁が観察でき、これを私は「亀の甲羅のよう」と表現した。この甲羅のようなのは、滑らかな曲面になっていて手触りがとても良かった。(首から上は欠けているが、その部分も切断面ではなく窪んだ曲面になっていて、なにか可愛らしさを感じさせる。)手は胸に当てていて、全体がきゅっと締まっている感じ。


 この後、ロダン以後の作品を数点観賞しました。

●マイヨール「《イル・ド・フランス》のトルソ」
 脚から胴にかけての像(頭部と腕は欠けている)。腿は太く、体を後ろに反らしているためお中がよく出ている。肩を後ろに引いているためか、乳房はあまり目立たない。腰も尻もよく引き締まっていて、若さを感じる。

●ムーア(イギリス)「横たわる人体」
 50cm×60cmくらいの広い台の上に、スカートを履いた小柄な女性が、足、お尻、右肘をついて、ふわっと横たわっている。ボランティアによると、この台も作品の一部であり、イギリスの台地を示しているのではとのこと。スカートのふわっと上にふくらんだ襞、その下の空間、背中の下の空間――のびやかな空間と風を感じさせる。

●バルラッハ(ドイツ)「読書する僧たちIII」
 2人の僧が、1冊の開かれた本にいっしょに目を注いでいる。左の僧が(たぶん若いからだろう)手で本を支え、右の僧の膝の上で組まれた手の上に本の片側が置かれている。左の僧のガウンには縦の線、右の僧のには横の線がはしっている。静かな沈黙の時を感じる。


*以上、今回触った十数点のブロンズ作品について書いてみました。触っての感じ方と、ボランティアの解説も参考にして一部私なりの解釈を書いたくらいで、とても観賞評などと言えるものではありません。
 にもかかわらず、こんな拙文を書いている理由のひとつは、とにかく自分なりに文章にしておかないと、次第に薄れかけていく触った感触やイメージを再生する手がかりが無くなってしまうからです。見える人たちだったら、図録や写真などで、原物を直接見なくても思い出すことができるでしょうが、私の場合はとにかく言葉にして記録しておくほかありません。
 また、文章化することで、彫刻などを触って何が分かり何が分からないのか、自分のためにも他の人のためにもある程度はっきりさせることができます。

 私は、笑ったり怒ったりとかの実際の人の顔の表情についてはじっくり触って観察したことはほとんどありませんし、今回の観賞でも表情については十分リアルに感じ取れたわけではありません。それでも、鼻、目、口の様子、頬の筋肉、皺などの様子を組み合せて、自分なりに表情をイメージしようとしてみました。また、顔だけでなく、身体の姿勢や筋肉の張り具合などから、その人の心の様子を読み取ろうともしてみました。それが的を射たものになっているかどうかはまったく分かりませんが、とにかくロダンの作品は、そのリアルな形から、表情や身体の動きなど外見だけでなく、それに込められているかもしれない意味・象徴の世界へ私を誘ってくれていたようです。
 さらに今回、ボランティアとの対話を通して、彫刻には視覚では見逃がされやすく触覚による観察のほうが適している表現もあることに気付かされました。視覚ではまず全体的な印象が先行するようですが、触覚では各部分の細かい表現のほうが先取りします。とくに、「バルザックの頭部」の目の深い窪みや頬の筋肉の様子などは、視覚ではあまり注意が向かないようです。

 静岡県立美術館では、8年ほど前から視覚障害者のための「彫刻を触って鑑賞するプログラム」を実施しているとのことです。今回触った十数点は、いずれも無理な姿勢を取ることなく全体を十分触ることのできる作品ばかりで、そういう意味ではとても良い選定になっていると思います。ただその結果、小さめの作品が多かったように思います。私としては、一部は触れなくても、解説で補ってもらいながら、もっと大きな作品にも触ってみたいと思いました。また、ブロンズだけでなく、それとは感触の異なる石などの彫刻にも触れてみたいものです。
 今回の体験を通して、私のイメージのストックは少し豊かになりました。

(2004年3月8日)