3月9日の午前1時台のラジオ深夜便は「ラジオで展覧会 あべのハルカス美術館 円空展」から。大阪市のあべのハルカス美術館で、4月7日まで、開館10周年を記念する展覧会「円空 旅して、彫って、祈って」が開催されています。私もこの展覧会に見学に行こうかと思っていましたが、触れられるものはなにもないようだし…と思っていたところ、円空仏を具体的にイメージできるような放送でしたので、以下に書き起こします。担当学芸員で副館長の米屋優(よねやまさる)さんに展示品の前で解説していただくというものです。聞き手は中村宏さん。
中村:どういう趣旨でこの展覧会を企画されたのでしょうか。
米屋:この展覧会では、各地で円空仏と呼ばれて親しまれている作品の初期から晩年まで約160体を集めて、それから絵画や文書といった円空の人柄にふれることのできる資料によって、その生涯とその活動を紹介しようとするです。
中村:円空は、どういう人だったのでしょうか。
米屋:円空(1632~1695年)は生涯に12万体の仏像を彫ると誓ったという風に伝えられている、江戸時代の修験の僧侶であった。美濃の国(岐阜県)に生まれて、その後修験道の修業をして、各地の霊場を旅して仏像を彫った。残された仏像の数は、北海道から東海、近畿まで、5400体余ある。あるものは微笑みを浮かべた優しい表情だし、あるものは迫力のある、怒りの表情というか、そういう表情を浮かべるものもあるが、粗削りで素朴だというのが一般のイメージだと思う。
中村:いきなり大きな仏像が迎えてくれます。展示番号44 「金剛力士(仁王)立像(吽形)」(岐阜県高山市・千光寺所蔵、1685年ころ(54歳ころ)、高さ226cm)。右腕は失われている。全体のバランスから見ると、頭部が大きくて、顔の真中に三角形の大きな鼻、少し上がった目から斜め上にしわのような線が刻まれている。これでけわしさが表現されているのだろうか。閉じた口の両側に上から犬歯(牙)が生えていて、けわしい表情を表現しているようだ。髪の毛には前から後ろに数cmおきに縦の線が入っていて、逆立てているように見える。
米屋:なたで大まかに木を割った後、やはりのみを使って彫っている。立ち枯れた木をそのまま、その木にはしごをかけて彫ったことを記した本の挿絵も、像のわきの所に展示している。
中村:見るべきポイントは?
米屋:非常に粗削りというか、あらあらしさ、それが迫力につながっているところもあるし、像の回りをぐるっと回ってみると、後ろのほうにこぶのような木の節も残っている。
中村:(ぐるっと回ってみると)かなり大きな節、背中の真後ろと右のほうにも見える。これ、そのままですね。
米屋:木そのもの、そういった節も、仁王さんの肉体そのものという感じがする。
中村:下のほうは完全に木のままですね。
米屋:そうですね。もともと立木に彫ったが、後に根元が腐ったので、それを切り取って仁王門のほうに移したと伝えられている。
中村:展示番号 1 「円空像」(肖像画。大森旭亭(きょくてい)筆、1805年ころ、岐阜県高山市・千光寺所蔵、縦1m余、横46cm)。衣を着たお坊さんの絵。坊子に5体の仏像が描かれている。額に深いしわが3本描かれている。両手で数珠を持って、目を見開いて座っている。上に大きく太い文字が書かれている。なんと書かれているのでしょうか。
米屋:円空の自筆で「一心」と書かれていると言われている(読みにくいですね)。この絵はもともと原本があって、円空が晩年を過ごした弥勒寺という岐阜県関市の寺にあった絵を写したものと言われている。原本は失われている。石を台座にして座り、仏像で言えば光背に当たる部分も岩が描かれている。
中村:だいぶ晩年のお顔ですね。
米屋:よく見ると前歯が失けていたり、しわも深いし、晩年の姿だと思うが、顎が張っていて、目がぎょろっとして、いかにも意志の強そうな表情。
中村:展示番号 6 「釈迦如来坐像」(岐阜県関市・天徳寺所蔵、1665年ころ(34歳ころ)、台座も含めた高さ47cm)。比較的小柄な像。衣が胸の前で U字形に開いていて、衣の皺が幾筋もその回りに表現されている。目は、薄目で下を見ているか?たいへんおだやかな表情。髪の毛は、螺髪が一つ一つ彫られている。ちょっと円空さんのイメージではない?
米屋:円空は32歳ころから仏像を彫り始めたと言われていて、これは34歳、初期の仏像。初期の円空仏の特徴は、この像のように、丁寧に彫られていて、表面もすべすべの仕上げになっている。衣もそうだが、蓮台の上に座っているが、その蓮台の蓮の花びら1本1本に非常に細かい筋が彫られているし、蓮の花の下の部分の台座の部分にも非常に細かい線が彫られている。今回はそういった円空仏の作風の移り変わりなども見ていただけるようにしている。
中村:展示番号 9 「護法神像(荒神像)」(奈良県天川村・栃尾観音堂所蔵、1673年ころ(42歳ころ))。いかにも1本の木から彫り出したという感じ。四角い木材から彫り出している。上半神の像で、高さおよそ50cm。半分以上が頭部。目を吊り上げて、髪の毛も逆立てていて、怖そう。極めてシンプルな彫方だが、気迫を感じる。円空のイメージに近づいてきましたね。
米屋:そうですね。非常にごつごつしたというか、あらあらしい彫り方になっている。この像は、四角い材木からそのまま彫り出したということが分かる。体の部分はその四角い材木の表面がそのまま残っている。顔だけ彫って下は省略してしまったという、円空さんの新境地が見えてきた仏像。
中村:天川村のお寺に所蔵されているというのは、どういうことからでしょうか?
米屋:円空は修験の修業をしているので、大峰山にも修業に行っている。天川村はその行き帰りに通った道すがらだと思う。そこで、そこの人のために、こういった像も彫っていたと思われる。今は栃尾観音堂に祚られているが、もともとはこの近在の人の家の竈の所に祀られていたと言われている。
中村:展示番号14「護法神像」(三重県志摩市・少林寺所蔵、1674年(43歳)、高さおよそ92cm)。うっかりすると、仏像だと思わないかも知れない。前衛的というか抽象的というか、自然の木のまま(下のほうが太く上のほうが細くなっている)の幹に、目と眉と口だけを彫ったような、のみですっと彫った横線だけで表現したように見える。表面に樹皮が付いたまま。節も付いたまま。
米屋:顔以外はなにも手を加えていないという感じで、風化した木そのまま。その場にあった木、そのへんに転がっていた木をそのまま使った。気のおもむくままに、顔だけ彫った感じ。
中村:形の面白さに触発されたのでしょうか?
米屋:なにか仏さまがにょきっと立ち上がっているという感じに見えますね。見た人がそれぞれなにか自分の想いを込められるような感じ。
中村:展示番号21「千面菩薩像」(愛知県名古屋市・荒子観音寺所蔵、1676年(45歳))。1024体のうち30体が展示されている。高さはおよそ7cmから12cmと、大きさはばらばら。小さな四角い木に、すっ、すっ、すっとのみで横線だけを入れただけ。口と目と眉を表現している。いかにも円空さんですね。
米屋:躊躇のないのみ捌きというか、簡単に最小限ののみを入れただけで仏さまを完成させている。円空は生涯に12万体の像をつくると誓ったと言われているが、こういうのを見ていると、ひょっとしたらそのくらいつくれたかなとも思う。
中村:これ、まとめてどこで見つかったのですか?
米屋:昭和47年に荒子観音寺の多宝塔の中にあった箱(この仏さまの後ろに展示されている)を開けたら、その中に1024体のこのような仏さまと木の削りかす(木っ端)とかがまとまって入っていた。今回その30点だけ展示している。この箱の裏側に、円空のつくった和歌「これや此くちれる浮木とりあげて子守りの神と我はなすなり」(意味は、どんな朽ちた流木みたいなものでも、私はそれを取り上げて子守りの神をそこから彫刻するのだ)が書いてある。
中村:たくさんつくったことには、どういう意味があるのですか?
米屋:円空はたくさんつくり、そのたくさんつくった仏像を人々に渡すことによって多くの人々を救おうと、旅する先々でたくさん仏像を彫って人々に差し上げたのだと思う。
中村:簡単に彫ったように見えるものなどは、捨られてしまったものもあったかも知れませんね。
米屋:そうですね。言い伝えによれば、焚き木にしてしまったというようなことも言われている。ほんとうに簡単につくったものなんかは、大事なものだとは思われずにそういったことになったかも知れない。
中村:展示番号38「不動明王及び二童子立像」(栃木県日光市・清瀧寺(せいりゅうじ)、1682年ころ(51歳ころ))。不動明王立像と、両脇に童子像。不動明王は、光背も含めて、高さ88.5cm。ぎょろっとした目、大きな鼻、背中にある光背が左右対称ではなく、向かって左側が大きくて、右側は小さいというか。これは、右側の光背は欠けたということですか?
米屋:欠けたというよりは、材木をなたで割ったそのままの形。だから左右対称的ではなくて、こういった片方だけなくなったように見える。なたで立ち割っただけの自然な形というか、それを光背に見立て、炎の盛んに燃え上がる様子に見立てているというのには、円空のセンスといったものが感じられる。
中村:確かに左右対称でないほうが炎が燃えている感じがしますね。
米屋:伝統的な仏像で言えば、光背はわりと左右対称になるものだが、円空はそうではなく、炎の強さ・勢いというものをこういった形であらわしたのだと思う。(裏側に回って見ると)裏はのみであらあらしく削られているだけ。円空は、裏側はなたで割っただけとかのみであらあらしく削っただけという仏さまが多い。たくさん急ぎ急ぎ仏さまをつくるということからすれば、拝まれる正面に集中してつくるというのが一つの考え方だったのかも知れない。
中村:これ、日光ですね。
米屋:円空は全国を修業の旅で回っていて、日光も修験の霊場なので、日光にも2回か3回行っているようだ。仏像をつくることも修業の一部だったかも知れない。
中村:展示番号43「両面宿儺坐像」(岐阜県高山市・千光寺所蔵、1685年ころ(54歳ころ))。台座も入れて高さがおよそ87cmだが、下から4割くらいが台座。逆立てた髪の毛、大きな鼻、ぎょろっとした目だが、それほど怖い印象を受けない。というのは、丸顔で、少しかわいい感じもする。両手で斧を持っている。向かって右、つまり左肩の上からもう1人の顔がこちらをのぞいている。
米屋:両面宿儺というのは、「日本書紀」に出てくるが、日本書紀によれば、今の岐阜県飛騨にあらわれた異形の悪人ということで、朝廷にあだなす悪人で、後に滅ぼされたと書かれているが、地元の飛騨では、悪い鬼や龍を退治した英雄、またその土地を開いた英雄とされていて、千光寺ももともとこの両面宿儺が開いたと言われている。本来の日本書紀では2人の人物が背中合わせに合体したような姿と伝えられているが、円空は、まったく異なった、もう1人の人が後ろから顔を出しているような姿でつくっている。正面から2つの顔を見ることができる。円空独特の解釈というか、古来の伝承とは違う形に彫ってみようとしたのかも。ふつう両面宿儺というのは立像の形でつくられることが多い。背合わせに立っているということなので、このように座った姿だと、後ろ側の人の足はどうなってしまうのかと感じてしまう。
中村:後ろに回ると、これも平らで彫っていない。
米屋:後ろはこの像も彫っていなくて、墨で梵字とかがたくさん書かれている。
中村:ここまで、岐阜県飛騨の高山市の千光寺所蔵の展示品が多かったのですが、これはどうしてですか?
米屋:円空はその旅の中で千光寺に立ち寄っているが、当時の千光寺の住職の舜乗と意気投合してしばらくの間千光寺に足をとどめて、ここでたくさんの仏像を彫っている。千光寺に行くと、当時の建物の庫裡も残っていて、そこに囲炉裏も残っており、円空と舜乗がその囲炉裏を囲んで語り合ったそのままの情景が今日でもある。舜乗は人の言うことを疑わない非常に純朴な人だったという話も伝わっているので、円空と意気投合したのだと思う。
中村:最後に、「十一面観音菩薩及び両脇侍立像」(岐阜県関市・高賀神社所蔵、1692年(61歳))。三尊像。いずれも細長く、すらっとした背の高い像。真中の十一面観音菩薩は、高さおよそ221cm。右手は下げてこちらに向けている。左手は肩の近くまで上げ、水の入った瓶の口を持っている。衣は素朴な線で、鱗のような模様で表現されている。三角錐の大きな鼻、目を細めて、口は口角が上がって笑みを浮かべている。頭に被る布の表面に小さな10個の顔がある。向かって右の像は善女龍王立像、向かって右は善財童子立像。顔も衣の模様もかなりシンプルに、ラフに彫られている。そしてそれぞれが途中でくにゅっと、右に曲がったり左に曲がったりしている。これは、曲がった木をそのまま使っているのですか?
米屋:これは、木の幹のうねりをそのまま。この三尊は、1本の丸太を3つに割って、詳しく言うと、最初半分に割った部分を中尊に使って、残りの半分をさらに半分に割って、その4分の1ずつの部分で善女龍王と善財童子をつくっている。この3体、正面が真中に向くようにしてくっつけると、ぴったりと合わさる。
中村:細身というのもユニークですね。
米屋:当時使えた木の太さそのままだと思う。
中村:美術的にはどんな感想でしょうか。
米屋:伝統的な仏師のつくる仏像とはぜんぜんおもむきが違う。しかし、やはり円空の持っている真摯な信仰心からつくられた形ということだと思う。
中村:これ、素人の私からみると、笑顔の仏像さんにしようという、意図的につくっている感じがする。
米屋:人々を救いたいという気持ちでつくっているので、そういった慈悲のほほえみというか、そういったものが像の中にあらわれてくるのだと思う。怒りの表情の不動明王とか護法神にしても、どこかに人々を救う慈悲の心というものが出ているような気がする。この三尊像は、円空が最晩年につくった仏像。61歳の時にこの仏像をつくって、これ以降の円空の像というのは見つかっていない。61歳、当時としてはかなり高齢だと思うが、その年でもこれだけ2mを越える大きな仏像をつくったことは、やはりそれなりの活力が61歳でもまだ残っていたのだろう。
中村:円空仏の何が人を引き付けるのでしょうか?
米屋:その表情というものもあると思う。そして、取りすましていないで、人々の身近に感じられるというところが重要なのだと思う。
中村:岐阜に勤務したことがあって、県内に取材に行くと、そこここで円空さんの仏像があると言われる。地元では「えんくさん」と言っている。それだけ地元で長いこと、何百年経っても愛されている。
*追記
中村:会場で懐しい仏像に再会した。展示番号45「賓頭盧尊者坐像」(岐阜県高山市・千光寺)。今から40年前、岐阜放送局に勤務していた時、テレビの行く年来る年で千光寺から中継した際に紹介した。高さおよそ47cm。やわらかな曲線で表現された仏像で、首を左に傾けたシンプルな顔は、やさしく微笑んでいる。なによりも、表面が黒光りしているのが特徴。なぜかと言うと、地域の人たちはこの像を「おびんずるさん」と呼んで、手で撫でながら「まめに暮らせますように」などと願い事をしたから。今は文化財になって触れないが。
(2024年3月18日)