ズビネック・セカール展――抽象への手がかり

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 11月27日、東京渋谷のギャラリーTOMで開催中の「ズビネック・セカール展」に行ってきました。
 ギャラリーTOMは、見えない人たちも手で触って楽しめる美術館として1984年に開設された小さな美術館です。日本における視覚障害者の美術観賞・活動のひとつの中心とも言える所です。私は今回が初めての訪問でした。
 入口近くの壁に「ぼくたち盲人もロダンを見る権利がある」という、このギャラリー設立のきっかけとなった言葉が普通文字と点字で浮き出されていました。この言葉は、ギャラリーTOMの設立者村山亜土・治江夫妻の、視覚障害者の御長男錬さんの言葉だそうです。

 ズビネック・セカールについては私はまったく知りませんでした。日本ではほとんど無名の彫刻家のようですが、ギャラリーTOMではすでに、1997年、2001年、2002年の3回セカール展を開き、今回が第4回目ということになります。また、今年の7月から8月にかけて、青森県弘前市のギャラリー・デネガでもセカール展が開かれており、じょじょにですがファンも増えているようです。私の好きなドイツ文学者の池内紀さん(池内さんは毎週日曜日にNHKのFMで放送されている「日曜喫茶室」の常連のお客さんでもあります)もそのお1人のようで、セカールの作品を2点購入し、玄関に展示しているとか。

 ズビネック・セカールは、1923年チェコのプラハに生まれます。彼の青春期はちょうど第二次世界大戦期。非合法下の共産党でレジスタンス運動に参加したため、ナチス・ドイツによって強制収容所に思想犯として収監されます。さらに、1968年のチェコの民主化運動『プラハの春』が旧ソ連などにより頓挫させられ、その後の抑圧を逃れて、1969年にチェコを離れ、70年からウィーンで亡命生活を続けることになります。そして1998年に亡くなっています。

 今回展示されていた作品の多くはブロンズでしたが、鋲のようなのを板に点々と並べたようなのや、薄い金属板を張り付けた作品、さらに木の棒や板を組合せたようなものなど、表現法は多彩でした。
 幾多の過酷な体験の影響なのでしょうか、彼の作品には何か他から孤絶した風を感じるとともに、深層からのやさしい光のようなのが仄見えるような気がすることもあります。

 以下、私が実際に触った作品の中でとくに印象に残っているものについて記します。

 まず、「頭部」という題のブロンズ作品が2点ありました。いずれも、細くとがった顎、高く鼻筋の長い鼻、後ろに大きくふくらんだ後頭部が強調されて示されているだけで、目や口や耳はまったく表されていませんでした。でもたったこれだけでも、人の顔が十分に表現されているのです。とても引き締まった、均整の整った顔を想像しました。またこれら2点の作品は形は似ているのですが、表面の手触りがかなり異なっていて、そこからもその人物についてあれこれ想いをめぐらしました。
 私はこれまでは主にある瞬間をとらえたような写実的な彫刻作品ばかりを観賞してきました。でも、具象を必要最小限のポイントだけに削ぎ落として表現するこのような方法でも、十分具体的なイメージを伝え得ることがよく分かりました。

 「イカロスの墜落」という作品は、いわば具象と抽象とがコントラストを成していて、とても印象に残りました。逆さになって落下中の大きく広げられた脚部(足の裏や足首や膝など)はとてもリアルで本当に生きているようなのですが、地面に衝突している手はなにかの嘴のように長く伸ばされ、胴体や頭部はどこがどこか分からないくらいつぶれていて、破壊の強さを感じさせました。生と破壊=死の対比を示唆しているようにも思いました。

 削ぎ落された表現としては、「トルソ」がすごかったです。太股までは太くしっかりした脚なのですが、腰から上は軟らかい肉の部分はすべて削られていて、背骨の回りだけになっており、さらに胸椎の上の部分からはまったく無くなっています。どんなに削がれても、大地にしっかり根を下ろした人間の強固な存在を感じさせられました。

 削ぎ落とす方法は当然に深層へと向い、内部をより露にする表現でもあります。「肺」という作品は、正に人の内部を剥き出しにしているようなものでした。
 左右に大きく2つに分かれ、前面にはくちゃくちゃしたような皺のような模様があります。私は初めこの作品のタイトルを知らずに触っていて、いったいこれは何なのだろうと不思議に思ったのですが、タイトルが「肺」ということを知った瞬間、この作者はきっと人間の肺を実際に見たか触ったことのある人だなあと思いました。(私は高校3年の時、弘前大学病院での死体解剖を見学したことがあります。この作品のくちゃくちゃの模様は、肺を触った時の感触を想起させるに十分なものでした。)
 さらに、この作品では、大きく分かれた左右の部分のそれぞれの外側の中央から下部が大きく窪んでいるのですが、その窪み方は実は実際の肺の内側の大きな窪みを外側に反転させた形とそっくりになっていました。正にふだんは見えない胸の内部をだれにでも見える外側に露出させているのです。

 「仮面をつけた仮面」は、人間の幾層にもなった深い部分に私の想いを導きました。
 上の仮面は大きな鼻が突出しているのが特徴でしたが、私の心に最も残っているのは、眼を思わせる2つの穴です。その穴は、上と下の2つの仮面を貫き、さらに裏側まで貫通しています。さらにその2つの穴をそのまま背後に延長して行けば、仮の中心に収束することもすぐに想像できます。その2つの穴からは何が見えているのでしょうか、あるいは何を見られているのでしょうか。鋭い眼光のようなものを感じましたが、もしかするとそれはやさしい微かな光なのかもしれません。

 以上はいずれもブロンズ製でしたが、木などを使った作品にも印象深いものがありました。
 木製の細い棒を格子状に組合わせた籠ないし箱のようなものの中に、人物とも思えるような板や角柱が入っている作品が、2つありました。一見して人が閉じ込められているようにも思いますが、中からは外がすかすかに見え、細い棒で作っているだけなのでその気になれば簡単に壊して逃げられそうなようにも見えます。一見自由な個人であるかのように錯覚している現代の私たちを取り巻いているあるいは絡み付いている檻のようなものを象徴しているのではとも思いました。
 また、「4」および「6」という作品は、薄い金属板を4枚あるいは6枚平面に並べただけのようなものなのですが、それらを触って確かめて行くと、なにか個性を剥ぎ取られて番号を付けられた人間を数えているような感覚を覚えました。

 さて、以上紹介してきた作品は、私が解釈でき言葉で形容・説明できる作品だった訳ですが、実はこれら私なりに解説可能な作品はセカール展の全作品のたぶん半分くらいではないでしょうか。残りは、「居住」「構造体」「柱」など建築物の重厚な骨組を強調したような作品群、そして、全体のおそらく3割近くはあったと思われる「無題」という作品群でした。これらは具体的に「○○のような」という風には形容し難く、とくに「無題」の作品群は、それぞれにその場で存在を主張しつつ、私の言葉による表現力をはるかに超えた、あるいはもしかすると拒もうとするほどの充実した何かを示しているのかもしれません。〈作品〉とそのある〈場〉と〈私〉とが、一種繋がりを持ち、互いに感応し共鳴するには、もっともっと落ち着いた時間が必要なようです。

 これまでは、私は、抽象的な作品については幾何学的な面白さや素材の組合せの妙などに感心することはありましたが、心を動かされるようないわゆる芸術とはあまり感じたことはありませんでした。今回のセカール展で、私は初めて抽象作品と対面し少しは対話できたように思います。時を経ても長く心に残るであろう作品たちとの出会いでした。

(2004年12月8日)