彫刻家の手と触覚

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 最近『高村光太郎全集』(筑摩書房版)の中から触覚に関するエッセイを数編読みました。以前佐藤忠良の『触ることから始めよう』(講談社)を読んだ時にも感じたことなのですが、彫刻家は触覚のプロだということを再認識させられました。
 とくに全集の第5巻に収められている「触覚の世界」は凝縮された内容で、共感できる所が多々ありました。
 冒頭に、このエッセイのエッセンスともいうべき次の文章が書かれています。(私は点字版から引用していますので、漢字の使い方や仮名遣いが原文とはかなり異なっていると思います。ご了承ください。)
 「私は彫刻家である。
 たぶんそのせいであろうが、私にとってこの世界は触覚である。触覚は一番幼稚な感覚だと言われているが、しかもそれだから一番根元的なものであると言える。彫刻は一番根元的な芸術である。」

 まず、彫刻について。
 私は以前は彫刻を形や触感が中心であって、いわば精巧な模型や剥製などに近いものだろうと、観念的に理解していたように思います。しかし、実際に彫刻に触る経験を重ね、また他の見えない人たちの観賞評読んだりして、彫刻は模型以上のなにか、すなわち、形や素材の触感や表面のきめなどを通して、作者の思いや願いや祈り=思想がおのずと表現されるような芸術だと思うようになりました。見える人たちの視覚を中心とした観賞で読み取れる思想内容と、見えない人たちが触覚を通して感じ取る思想内容とが、実際にどの程度一致するのか異なるのかはよくは分かりませんが、彫刻家の場合にはこの両者はほとんど完全に対応しあいダブっているのだと思います。彼らは一つの対象をいわば目で触り指で観、そのイメージに〈思い〉を込めて、彫刻作品として実体化し具現しようとしているのでしょう。
 そして彫刻作品は、見えない人たちにとっては正に触覚芸術そのものと言えますし、さらに彫刻家にとっても触覚を基本とする芸術と言えるようです。
 それは、まず第1に、彫刻は素材により具象化された三次元の立体造形であり、その立体造形を文字通り〈直接〉把えられるのは触覚によってだからです。視覚は触覚に比べて、極めて精細な部分まで把えられ、とくに全体像を把握するのにずば抜けていますが、作品を実感し、存在そのものに迫り、内に秘められた何かに感応し心を通い合せるのは、やはり触覚を通してだと思うのです。
 第2には、彫刻家の手は、刻む手、作る手であると同時に、触る手、観る手であるからです。彫刻家はおそらく、目で確認すると同時に、手で確かめ納得しているのだと思います。高村光太郎は、磨いた鏡面の波のように変化するわずかな凹凸を薬指の腹で触知する、と書いていますが、私も同じような経験をしたことがあります。さらに、ガラス面の所々に堅い部分があることにも気付くこともあります。彫刻家の中には、自分の作品の善し悪しを触覚によっても判断している人たちがいるはずです。

 次に高村光太郎は「人は五感と言うが、私には五感の境界がはっきりしない」と言い、視覚(ことに色彩)と触覚、聴覚と触覚、嗅覚と触覚、味覚と触覚の共感覚的な性質について語っています。そのうえで、「五感は互いに共通していると言うよりも、ほとんど全く触覚に統一せられている」とまで述べています。
 私は色彩と触覚の共通した感覚についてはよくは分かりません。でも、以下の文章からも明らかなように、高村光太郎の目が極めて触覚的であることには、驚きの感情を持つとともに、それなりに分かるような気もします。
「彫刻家は物を掴みたがる。掴んだ感じで万象を見たがる。彼の目には万象がいわゆる「絵の様」には写ってこない。彼は月を撫でて見る。……風景はどこを見ても微妙に組立てられている。人体の様に骨組がある。筋肉がある。肌がある」

 視覚以外の、聴覚・嗅覚・味覚に伴う触覚、さらにはそれらの感覚の基盤ともなっているかも知れない触覚の性質については私も十分納得できます。
 聴覚と触覚の関連については、例えばCDなどにデジタル録音された演奏とコンサート会場での生の演奏を比較すれば簡単に分かります。音は空気の振動な訳ですが、生の演奏ではその空気の振動に私たちの身体がいわば包まれていると言えますし、さらに床や椅子を通して直接振動を体感してもいます。
 嗅覚は普通遠隔感覚に分類されていますが、私たちは臭いを鼻の中の粘膜で捕らえていることを実感できます(光や音の場合は、目の網膜や耳の鼓膜でそれらを受けていることはほとんど意識していないでしょう)。この点、嗅覚(味覚も同様です)には、かなり触覚に近い面があると言えます。さらに、強い臭いには痛みのような感覚も伴います。
 味覚には、歯応えや喉越しといった触覚的な要素が大きいことは明らかです。また、味細胞で識別している味は、酸味、塩味、苦み、甘み、うまみの5種類で、辛味は含まれないそうです。トーガラシの辛味成分であるカプサイシンは、味覚ではなく、痛覚の受容体を刺激しているとのことです。つまり、辛味は痛みの1種ということになります。
 音・臭い・味のいずれでも、刺激が強くなると痛みのような感覚が伴いますし、さらに発生的・進化的に考えても、おそらくは、皮膚を構成していた普通の(触刺激にも反応する)細胞の一部がそれぞれ特殊な感覚細胞に変化したのでしょう。触覚は原始的感覚だと言えますが、視覚・聴覚・嗅覚・味覚のような特殊感覚の背景には触覚があることは明らかなように思います。

 さて、一般に芸術家や職人は、各感覚のいわばプロ、専門家といえるようです。例えば、画家は視覚の、音楽家は聴覚の、彫刻家や大工は触覚の、調香師は嗅覚の、ソムリエや聞き酒師は味覚の、といったようにです。また、感覚器に障害のある者は、その生活経験を通して、残存感覚のいわばプロになる可能性があると思います。
 私も、少しは触覚についてのプロとして貢献できればと願っています。そのために、まず他の触覚のプロ、とくに彫刻家の手に大いに学ばねばと思います。さらに、他の感覚に伴う触覚的なものについても知り、体験したいものです。

(2004年12月13日)