国立民族学博物館の「さわる文字、さわる世界」展報告―見えてきたユニバーサルなミュージアムの姿―
*この文章は、『視覚障害』NO.218 (2006年7月号)掲載の同タイトルの原稿をもとに、大幅に加筆したものです。
1 はじめに
すでにご存知の方も多いと思いますが、本年3月9日から9月26日まで、国立民族学博物館で「さわる文字、さわる世界─触文化が創りだすユニバーサル・ミュージアム─」という企画展(http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/shokubunka/)が開かれています。
私は、4月15日、この企画展をプロデュースした広瀬浩二郎さん(民族文化研究部助手、全盲)のみんぱくゼミナール「触らぬ神に当たりなし」を聴講し、そして5月13日には、同館の「みんぱくミュージアムパートナーズ」(MMP)の皆さんのガイドと説明でこの企画展を観覧し、また常設展示の一部をも見学することができました。
広瀬さん(http://www.minpaku.ac.jp/staff/hirose/01.html)は、10歳過ぎに失明し、京都大学文学部国史学科を卒業後、同大学大学院に進み、またカリフォルニア大学バークレー校にも留学、2001年から国立民族学博物館の研究員として活躍中の方です。日本の中世・近代の障害者文化、日本近代の新宗教をはじめ、研究テーマは幅広く、これまでに『障害者の宗教民俗学』(1997年、明石書店)、『人間解放の福祉論−出口王仁三郎と近代日本−』(2001年、解放出版社)、『触る門には福来たる』(2004年、岩波書店)の著書をはじめ、論文も多数執筆しています。
4月15日のみんぱくゼミナールでは、広瀬さんは本企画展の趣旨や内容について話し、さらに話は見えないことをプラスに転換するとらえ方や自論の「フリーバリア」の考えにまで及びました。企画展の趣旨の一つはもちろん、見えない人たちにも開かれたミュージアム、見えない人たちが触覚を通して鑑賞できる場の提供な訳ですが、もう一つ重要な視点として、見える人たちにも視覚以外の諸感覚―今回は触覚―を通して生まれる独自の世界・創造的な世界に気づきふれてほしいということです。そして、見えないということは、単純に五感の一つの視覚を失うこと(5−1=4)ではなく、視覚を使わないことで気づくこと・新たな視点がある(5−1=6)というふうに発想を転換し(この文脈でいわゆる「群盲象を撫でる」も肯定的に評価する)し、さらに、障害者にたいする見方についても、弱者として、障害を〈いやす〉優しさ(=バリアフリー)の対象から、障害を〈いかす〉強さの視点で、障害のある人もない人もお互いの境界(=バリア)を乗り越え自由に行き来できるような「フリーバリア」の考えを語っておられました。
さて、私は5月13日の観覧ではあえてMMPの皆さんのガイドと解説で本企画展と常設展示を観覧しました。それは、見えない人たちが一般のミュージアムを利用する場合、実際に触ることのできる展示があるかどうかとともに、ガイドや説明をどれだけうまくしてもらえるか、そういう人による対応が極めて重要だと思っているからです。
MMP(みんぱくミュージアムパートナーズ)は、最近各地のミュージアムで導入が進んでいるいわゆるミュージアムボランティアと類似したものと考えていいと思いますが、その「パートナーズ」という名名が示すところから考えて、ミュージアムのスタッフ〈と共に〉館の多彩な活動を担う人たち、いわゆるミュージアムボランティアに比べれば館のスタッフとより対当な立場で活動する人たち、ということになるのだろうと思います。
本報告では、まず企画展を中心に観覧した内容を私なりの立場で順に紹介します。そして最後に、見えない人たちにとって利用しやすいミュージアムの要件、ユニバーサルなミュージアムの姿について考えてみることにします。
2 さわる文字―見えない人たちの読み書きへの挑戦
見えない人たちの知識・情報入手の困難さは、それらがどのような手段で伝達されるかに大きく影響されます。口伝えによる暗誦と記憶が知識・情報の伝達・継承の主な手段であるならば、見えないこと自体はほとんど支障にならないでしょう。しかし、印刷技術の飛躍的な発展により活字が知識伝達の主要な手段として広く普及するとともに(それは近代社会成立の一つの要件でもあった訳ですが)、見えない人たちの教育や職業、社会参加においても、活字情報へのアクセスが不可欠になりました。
本企画展では主に、見えない人たちにとっての素晴らしい読み書きの文字・点字が使われるようになる以前に試みられていた様々な文字が紹介されています。
*以下の記述は、筑波大学附属盲学校資料室・常設展示室の紹介(http://www.nsfb.tsukuba.ac.jp/shiryou/siryosit_w.html)、および京都府立盲学校
資料室(http://www.kyoto-be.ne.jp/mou-s/siryousitsu/1page.html)も参考にしました。
まず〈符号文字〉として、糸の結び目の数と距離によっていろはを表わした「むすび文字」、 5cm四方くらいの紙片の角を折りその折り方でいろはを表わした「折紙文字」、直径7mmと5mmくらいの小さな2種のガラス玉を結び目を境として上下2段におきその数により文字を表わした「通心玉」が紹介されていました。
これらは明治20年ころに提案されたもので、文字をなんとか伝えようとするその工夫の苦労は分かりますが、実際にこれらを使って文字を綴ったり読むことができたかどうかとなると、かなり疑問に思いました。
次に、実際の文字の形を凸(または凹)で示したいろいろな〈突起文字〉が紹介されていました。
紙撚文字: 厚紙の上に糊の付いた紙撚を文字の形に張り付けたもの
松脂文字: 板を温湯の上に置いて溶解した松脂で文字の形を細い凸線で描いたもの
蝋盤文字: 蝋を溶かしてからブリキ盤に流し込み、乾いてから竹ヘラ・銅ヘラ等で字形・物形を刻したもの(凹字。熱で溶かせば何度も使用できる)
瓦文字(陶器文字): 小さな瓦片の表面に文字の形を浮き出させたもの(盲人自身が焼かまどを作り製作)
木刻漆塗文字: やや大きめの板の表面に文字、他の面にその筆順が凸字で示されている
など、いろいろなものがありました。蝋盤文字や松脂文字は触り心地の好いものでしたし、瓦文字はとてもしっかりしたものでした。
その中で私が特に注目したのは、桂材で作られた木刻凸凹文字です。軽くて手触りも良く、5cm角くらいの木の板の表に凸字、裏に凹字が刻されています。漢字の各部首を示した物もあり、現在でも見えない子供たちの文字教育に使えるのではと思ったほどです。
もうひとつ、私がなるほどと思ったのが針文字です。鉛の台の下部に文字の形に幾本も針を並べて付着させ、それを紙に押しつけて連続した点で文字の形を示すものです。触った感じはきれいな点線文字といった感じです。凸文字として単純にいろいろな線文字が工夫されていたなかで、点字と同じような触刺激の特性を持つこの針文字はユニークなものに思えました。
凸字教科書として、明治13年大蔵省印刷局で作られた鍼灸の本『療治之大概集』(杉山流三部書の一つ)と箏の本『増訂撫筝(なでごと)雅譜集』が展示されていました。制作から百年以上経っているにもかかわらず、各文字は鮮明にしっかりと浮き出していました。これらは、板に文字を彫ってまず凹型の原版を作り、厚手の和紙を水に浸して軟らかくしてからその原版の上に押し当てて文字を浮き出させ、それを乾燥させて作成したとのことです。原理としてはサーモフォームと類似のもののようです。このような伝統的な職人的技術は、今日でもいろいろな触覚教材の製作に生かしてほしいものです。
海外の物では、線字として、ルーカスタイプ、ムーンタイプ、ボストンライン、点字として、バルビエの12点点字、ニューヨークポイントなどが紹介されていました。これらについては文献などで名前だけは知っていましたが、実際に触ってみたのは今回が初めてでした。触ってみると、その多くは私にはほとんど解読できそうにないものでしたが、その中でムーンタイプだけは十分読めそうでした。アルファベットの大文字を簡略化したもので、縦幅が1cmくらいしかなく指の横移動だけで読み取れるものです。最近注目されている商品のユニバーサルな表示法として、中途失明者にも触読可能なこのようなアルファベットの大文字(ないし片仮名)を利用した表記法を検討してみても良いのではと思いました。
●葛原勾当の印字用具と日記
本企画展でもっとも異彩を放っているのは、たぶんこの見えない者が独力で文字を綴るための印字用具セットとその成果である『葛原勾当日記』ではないでしょうか。来日したヘレン・ケラーも、葛原勾当の印字用具を触って「東洋のタイプライター」と感嘆していたとのことです。
葛原勾当(1812〜1882年)は、生田流の箏曲家として活躍しただけでなく、多彩な能力をもつ人物としてとても興味深い人です。その略歴や人となり・逸話について、長文になりますが、太宰治の『盲人独笑』(1940年)(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/299_15088.html)から引用します。
「葛原勾当。徳川中期より末期の人。箏曲家他。文化九年、備後国深安郡八尋村に生まれた。名は、重美。前名、矢田柳三。孩児(がいじ)の頃より既に音律を好み、三歳、痘を病んで全く失明するに及び、いよいよ琴に対する盲執を深め、九歳に至りて隣村の瞽女(ごぜ)お菊にねだって正式の琴三味線の修練を開始し、十一歳、早くも近隣に師と為すべき者無きに至った。すぐに京都に上り、生田流、松野検校(けんぎょう)の門に入る。十五歳、業成り、勾当の位階を許され、久我管長より葛原の姓を賜う。時、文政九年也。その年帰郷し、以後五十余年間、三備地方を巡遊、箏曲の教授をなす。傍(かたわ)ら作曲し、その研究と普及に一生涯を捧げた。座頭の位階を返却す。検校の位階を固辞す。金銭だに納付せば位階は容易に得べき当時の風習をきたなきものに思い、位階は金銭を以て購(あがな)うべきものにあらずとて、死ぬるまで一勾当の身上にて足れりとした。天保十一年、竹琴を発明し、のち京に上りて、その製造を琴屋に命じたところが、琴屋のあるじの曰(いわ)く、奇しき事もあるものかな。まさしく昨日なり、出雲(いずも)の人にして中山といわるる大人が、まさしく同じ琴を造る事を命じたまいぬ、と。勾当は、ただちにその中山という人の宿を訪れて草々語らい、その琴の構造、わが発明と少しも違うところ無きを知り、かえって喜び、貴下は一日はやく註文したるものなれば、とて琴の発明の栄冠を、手軽く中山氏に譲ってやった。現在世に行われている「八雲琴」は、これである。発明者は、中山通郷氏という事になっている。なお彼は、文政十年、十六歳の春より人に代筆せしめ稽古日記を物し始めたが、天保八年、二十六歳になってからは、平仮名いろは四十八文字、ほかに数字一より十まで、日、月、同、御、候の常用漢字、変体仮名、濁点、句読点など三十個ばかり、合わせても百字に足りぬものを木製活字にして作らせ、之を縦八寸五分、横四寸七分、深さ一寸三分の箱に順序正しく納めて常時携帯、ありしこと思うことそのままに、一字一字、手さぐりにて押し印し、死に至るまで四十余年間ついに中止せず克明にしるし続けた。ほとんど一世紀以前、日本の片隅に於て活版術を実用化せしもの既にありといっても過言で無い。そのほか、勾当の逸事は枚挙に遑(いとま)なし。盲人一流の芸者として当然の事なれども、触覚鋭敏精緻(せいち)にして、琉球時計という特殊の和蘭(オランダ)製の時計の掃除、修繕を探りながら自らやって楽しんでいた。若き頃より歯が悪く、方々より旅の入歯師来れどもなかなかよき師にめぐり合う事なく、遂に自分で小刀細工して入歯を作った。折紙細工に長じ、炬燵(こたつ)の中にて、弟子たちの習う琴の音を聴き正しつつ、鼠、雉(きじ)、蟹(かに)、法師、海老(えび)など、むずかしき形をこっそり紙折って作り、それがまた不思議なほどに実体によく似ていた。また、弘化二年、三十四歳の晩春、毛筆の帽被を割りたる破片を机上に精密に配列し以て家屋の設計図を製し、之によりて自分の住宅を造らせた。けれども、この家屋設計だけには、わずかに盲人らしき手落があった。ひどい暑がりにて、その住居も、風通しのよき事をのみ考えて設計せしが、光線の事までは考え及ばざりしものの如く、今に残れるその家には、暗き部屋幾つもありというのも哀れである。されど、之等(これら)は要するに皆かれの末技にして、真に欽慕(きんぼ)すべきは、かれの天稟(てんぴん)の楽才と、刻苦精進して夙(はや)く鬱然一家をなし、世の名利をよそにその志す道に悠々自適せし生涯とに他ならぬ。かれの手さぐりにて自記した日記は、それらの事情を、あますところ無く我らに教える。勾当、病歿せしは明治十五年、九月八日。年齢、七十一歳也。」
(注)『盲人独笑』で、葛原勾当が独力で日記を付けはじめた天保8(1837)年の日記を読むことができる。また、1856〜1864年の一部の日記については、「幕末国産木活字」(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Moji/05/5400.html)で読むことができる。
この印字用具セットは、時間はかかりますが、見えない者が1人で確実に文字を並べていくことができるもので、その計算し尽された合理的な方法に大いに感心しましたが、私がそれ以上に心打たれたことは、1837年(26歳)から亡くなるまでの45年間、その木活字を一字一字順に押していって日記を書き綴った、という事実です(一部代筆の部分もあるそうです)。日記には時々和歌なども見られますが、内容としてはほとんどが日常の簡単なメモのようなものでとくに注目すべきようなことはないようにも思われますが、とにかく自分では読み返すことのできない日記を45年間も何故書き続けることができたのだろうかと考えてしまいます。そこには〈生きる姿勢〉のようなものがうかがえるような気もします。
3 触る世界―触覚から生まれるイメージの世界
現代は五感の中でも圧倒的に視覚優位の社会ですし、ミュージアムでももちろん視覚中心の展示が中心です。本企画展では、ともすれば軽視されがちな触覚に焦点を当て、触覚を通してのイメージ・世界を体感できそうな様々な展示が用意されています。
●ミニ神社
まず、企画展会場に入ってすぐの正面に、縦・横・高さとも1.5mほどはある神社の模型があります。千葉県茂原市の大工・清水政和さんが、ヒバ材を用い、斗組(ますぐみ)などの技法を駆使して制作したものだとのことです。
展示台の上に置かれていたため屋根の天辺までは触れませんでしたが、厚さ20cmくらいの、切妻型の大きな茅葺屋根がとくに印象的でした。細い茅がきれいに並び、軒の先端ではお行儀よく切り揃えられていて、これを触りながら私は小さいころの田舎での暮しを思い出していました。
(なお、8月26、27日には清水氏によるワークショップが行われることになっています。)
●ふれ愛観音
次は「ふれ愛観音」です。これは、千数百点もの仏像を修復し制作してこられ「最後の仏師」とも呼ばれた西村公朝氏(2003年88歳で亡くなっています)が、1991年、見えない人たちも触って拝める仏像として制作したものです。全体に滑らかで均整のとれた姿、合掌し、ふっくらとした御顔、目をぱっちり開きこちらを見ているお姿からは、なにかあたたかい眼差しが感じられるようです。
このふれ愛観音像はブロンズの鋳造品で、京都の清水寺や鎌倉の長谷寺など、すでに全国60箇所に置かれているとのことです。ただ、私は個人的にはやはり木の仏像のほうに愛着を感じています。
●タッチカービング
日本を代表する野鳥彫刻家の内山春雄氏が、手で触って鑑賞できるように制作した7点のバードカービング。触って鑑賞できるので「タッチカービング」と呼ばれます。確かに私がこれまでにバードカービング展などで触ったことのあるカービングよりはかなりしっかりしていて、足やくちばしにはさわっても折れたりしないようにピアノ線や金属棒を入れているそうです。
実物大のリアルな生態を安心して触察できます。色も本物そっくりに彩色されていて「生きているの?」と思うほどにリアルに見えるそうです。また、鳴き声と解説を音声で聞くこともできます。
展示されていたのは次の 7点です。
・メジロ
・スズメ
・シジュウカラ(巣箱の中で親鳥が卵を暖めている。親鳥のお腹の下には、 7個ほどの小さな卵が円形にきれいに並んでいる)
・シジュウカラ(巣箱の中で親鳥が雛たちに餌をあたえているところ。親鳥は 3cmくらいの細い青虫をくわえ、 5、6羽の雛たちが小さなくちばしを大きく開けている)
・ハクセキレイ(羽を閉じているところ)
・ハクセキレイ(羽を広げて飛んでいるところ。羽を閉じている状態よりかなり大きく感じる)
・ハシボソガラス(上の小鳥たちに比べて段違いに大きな図体で、大きな体をしっかり脚で支えている。)
とくに、羽を広げて飛んでいるハクセキレイ、巣箱の中で抱卵しているシジュウカラ、大きく口を開けた雛たちに小さな虫の餌を与えているシジュウカラの親の姿は、視覚でも間近ではめったに見ることのできないものだとのことですが、それらを確実に触察できる素晴らしい作品だと思います。
(7月29、30日には、内山氏によるワークショップ「鳥を作ろう」「鳥をさわろう」も行われることになっています。私は鳥を作るほうに参加しようと思っています。)
●浮出し絵画
浮出し絵画として、「太陽の塔」、「聖徳太子画像」、ゴッホの「郵便配達夫ルーラン」が展示されていました。
私は「浮出し」という名前から、例えば国立特殊教育総合研究所がイタリアから取り寄せている「触る絵画」のような、より立体的な表現を期待していたのですが、大型の立体コピー図版という感じで、ちょっと残念でした。「太陽の塔」など輪郭はよくたどれましたが、絵はやはり詳しい解説がないとなかなか鑑賞には至らないものです。(「聖徳太子画像」はガイドの方からかなり詳しく説明してもらって、真中の聖徳太子と両側の人物についてある程度姿を理解できました。)
なお、ゴッホの絵では、一部の面に先の尖った点が並んでいて、触刺激が強すぎて、触るのを躊躇したくなるほどでした。
●盲学校で使われていた教具
盲学校で使われていたいろいろな教具も展示されていました。各種の算盤の中には、私が盲学校で使っていた物もありました。
明治15年製作の京町図は、1m×1.5mほどもある大きな物で、当時の京都の街並など、触ってとても分かりやすいものでした。(東海道線は、京都駅の先で切れていました。)ただ、あちこち破損している箇所があり、残念でした。このような歴史的に価値ある物は、ぜひ修復しておいてほしいものです。
また、昭和の初めころに製作したと思われる富士山模型は、等高線に沿って厚紙を切りそれを重ね合わせて作ったもののようです。なだらかな富士山ばかりでなく、周囲の箱根や芦ノ湖などもはっきり触知することができました。このような手作り品は、現在の盲学校や通常校の視覚障害児にとっても有用な触覚用教材となるものです。
4 これからが楽しみな常設展示
民族学博物館の常設展示では、世界各地域の文化が多数の展示品によって順に紹介されています。その中にはケースに入っていない物もあり、それらはいちおう触れる状態にはあるとのことです。
今回、30分余の短い時間でしたが、MMPのYさんにオセアニア地域の一部について案内してもらいました。
まず、オセアニア地域の全体図を説明してもらいました(ニュージーランド・ハワイ・イースター島を結んだ広大な三角形の地域がポリネシア、ポリネシアの西の赤道の南側がメラネシア、ポリネシアの西の赤道の北側がミクロネシア)。それから実際に展示品に触れながら解説してもらいました。
何と言っても印象に残ったのが、海の民が実際に使用していた全長8mもあるカヌーです。「チェチェメニ号」(「チェチェメニ」は「よく考えろ」という意味だとのことです)という名前で、1975年の沖縄海洋博の時に、ミクロネシア・中央カロリン諸島のサタワル島の人々が実際にこの船で沖縄までの3千キロを48日間かけて星などを頼りに航海したとのことです。
実は私はこれまでにも民族学博物館も数度訪れ、例えばこのカヌーなどにもちょっと触ったことはありますが、その時は「大きな船のようだ」というくらいの印象しかもちませんでした。今回は、解説してもらいながら順に触っていくことで、細長い船体の片側にアウトリガーが、反対側には居住空間が、まるで翼のように広がっていることや、帆の様子など、カヌー全体のイメージをかなり把握できたように思います。
その他、イースター島のモアイ像の1.5mくらいの頭部(加工しやすい凝灰岩製。目玉が無いのが印象的だった)、カロリン諸島のヤップ島のいろいろな大きさの円盤形の石貨、パンの木を刳り抜いて作った太鼓、ニューギニアやハワイの様々な神像(眼には宝貝が使われていた)や仮面、アボリジニの大きな岩壁画、マオリ族の多数の装飾や神像が彫られた倉庫など、次から次へと触って行きました。その展示の豊富さに驚きつつ、オセアニア地域の人々の文化の特徴の一端にも文字通り触れたような気がしました。
見えない人たちにとって、触ることは、世界を確かめることであり、その世界の中で生きていく方法です。ミュージアムにおいても、触ることはもちろん重要です。
しかし実際には、(上のカヌーのように)全体の一部しか触れない物も多いですし、危険だったり破損の恐れのため触ることのできない物も多いです。また、色や細部の様子など、触覚だけではとらえられない様々な特徴もあります。触って十分に知るためには、背景的な知識や触り方・全体のイメージなど、適切なガイド・解説がぜひとも必要です。今回のYさんの解説はその好例のように思いました。
今後は、常設展示の各地域をMMPの皆さんの解説で順に観覧できることを楽しみにしています。
5 おわりに―多様な人たちの共感の場としてのユニバーサル・ミュージアム
今回の企画展および常設展示の観覧は、見えない人たちが利用しやすくまた楽しめるミュージアムについて考える良い機会となりました。
ミュージアムのユニバーサル化に向けての取組として、普通はまず施設・設備の改善や点字・音声案内などが試みられるごとが多いです。もちろんそういうことも必要ですが、それらとともに私は〈人による対応〉が極めて重要だと思っています。そして見えない人の場合は、この人による対応は、移動の支援だけでなく、展示品についての詳しい解説や、ときには適切な触り方などもカバーできるのが望ましいと思っています。民族学博物館のMMPの皆さんは、おそらくこのような事もふまえて活動しておられるのではないかと思いました。
触ることは、先にも述べましたように、見えない人たちの世界とのかかわりにおいてもっとも基礎的なことです。しかし、ミュージアムの展示品は、その性格上、直接触察することには自ずと限界があります。本企画展でも常設展示でもレプリカがかなり使われていました(企画展では葛原勾当の印字用具など、常設展示ではモアイ像や岩壁画の岩など)が、触察のためにレプリカや模型(絵については立体コピーズ版でも良い)をできるだけ多く製作し活用できるようにして欲しいです。これらの触覚的手掛りと適切な解説により、見えない人たちにとってもミュージアムは十分楽しめる場となります。
見えない人たちのミュージアムの利用や鑑賞については、ミュージアムの側の特別な配慮によるサービスの提供という一方的な関係、見えない人たちからすれば受動的な関係において考えられがちかもしれませんが、私のこれまでのミュージアムでの体験からすれば、けっしてそういう面だけにとどまるものではありません。ガイドの人たちとの実際の鑑賞では、私はよく疑問な点を尋ね、しばしばそれについてガイドの方と話し合い、また目で見ただけでは気付きにくいような触った感じや内部の様子や細かい細工などについて伝えたりもします。こうして、お互いの感じ方やイメージを交喚・共有するような場となることも多いのです。私が楽しんでいるばかりでなく、ガイドの方たちにとっても異なった見方・イメージに接する発見的な場となっているはずです。
見えない人たちもふくめだれでも利用できるユニバーサルなミュージアムは、多様な背景・文化を持つ人たちがお互いに接し共感し理解し合う一つの場となるように思います。このようなユニバーサル化への動きを促すために、まずは見えない人たち自身も積極的に各ミュージアムにできるだけ具体的に希望を伝えていくことが大切だと思っています。
(2006年6月26日)