最後の?琵琶盲僧永田法順さん

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 今年 3月14日、15日の2回にわたって、ラジオ深夜便の「こころの時代」で、宮崎県延岡市浄満寺住職永田法順さんの「五合目に生きる」が放送されました。
 まず、両日の放送の冒頭に流された永田さんの解説です。
 永田さんが住職をつとめる長久山浄満寺は、延岡市の高台にあり、今から320年前に延岡藩の祈祷寺として建立されたと伝えられ、代々盲目の僧たちによって受け継がれてきた。15代目の住職永田さんは今年70歳。2歳の時に失明、13歳でこの寺に入門し、経文を学び、琵琶を習った。以来、墨染めの衣に琵琶を背負い、杖を頼りに千軒近くの檀家を訪ねて、家内安全、無病息災の祈りを捧げてきた。檀家には、床の間に米・塩・水を供え、四方を浄めて経典を読み上げ、家屋敷の不浄を祓い、琵琶を奏して、仏教説話を易しく解いた釈文を語り、家内安全などを祈願する。
 もともと江戸時代から、九州地方には、天台宗の僧籍を持つ盲僧たちが、檀家を訪ねて、家屋敷の不浄を祓い、琵琶を奏して家内安全を祈願する祈祷僧として活躍していた。この琵琶楽から江戸後期に薩摩琵琶が誕生した。また、北九州地方でも、明治期になって筑前琵琶が生まれている。
 昭和20年に比叡山に届けられた南九州地区の盲目の琵琶僧は120名と記録されているが、現在では5本の指で数えるだけになり、檀家を訪ねて歩いているのは永田さんただ1人になった。いわば最後の琵琶僧だ。
 永田さんは、山ならば五合目に住んで、頂上の人の声も麓の人の声も聞く人生を願ってきた。

 (以下の文章中[ ]内は私の解説です。また、随時小見出を付けました。)

◆1日目
●読経
 初めに永田さんの読経が聞えてくる。それは〈六根のお祓〉というもので、
「眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず、耳に諸々の不浄を聞いて、心に諸々の不浄を聞かず、鼻に諸々の不浄を嗅いで、心に諸々の不浄を嗅かず、口に諸々の不浄を言いて、心に諸々の不浄を言わず、身に諸々の不浄を触れて、心に諸々の不浄を触れず、心に諸々の不浄を思いて、なかむ(意味不明。うまく聴き取れない)に諸々の不浄を思わず」
というもの。 [六根とは、仏教で感覚や認識をつかさどる器官・機能を指し、眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)・意根(思考)の 6つ。(上の引用中の「口」は「舌」、「心」は」意」に当たる)「六根清浄」と唱えられたり、神道では「六根清浄大祓」の祝詞ともなっている。]
 朝のお勤めでも、檀家回りに行った時も、初めに読むのがこの六根のお祓。
 朝は3時半過ぎに起き、顔お洗い、手をすすぎ、好きなたばこを一服して、六根のお祓の後、普門品や大荒神経や般若心経などを順次30分くらい唱える。

●神仏混淆
 この般若心経には太鼓が入る。普通のお寺ではこれは木魚だが、うち当たりでは、とくに天台宗では神仏混淆になっているのでほとんど太鼓が多い(神社と同様)。
 この寺には五色の御幣や 20センチ余の鏡も置かれていて、いかにも神社らしい。これも神仏混淆(両部神道)の現われ。
 また、浄満寺は、普通の寺のように葬式寺ではなくお位牌とかは無い。ご祈祷をするのが主な役割。普通の寺は過去の霊のお勤めが役目だが、うちのような祈祷寺は、過去・未来ではなしに、現在生きて活躍している皆さんの、例えば家内安全、交通安全、そしてさらに家運長久とかをお祈りするのが役割。
 浄満寺は代々盲僧たちがそのような役目をし運営してきた。またこの辺り一円には琵琶盲僧が居て、檀信徒(普通の寺では檀家と言っているが、うちの場合は神仏混淆なので檀信徒と言っている)を廻っていた。

●生活信条
 日常的な生活の基本的な考えは、すべてが程々で、毎日が健康で、檀信徒の仕事をさせていただくこと。
 山に上るなら、私は五合目まで上ったならそこを安住の地とし、右の耳で頂上の人の話を聞き、左の耳では麓の人のさんざめきを聞く。これが、両方の耳で上と下の人たちの話を聞かせていただく「ステレオ人生」。また私のは「五合目人生」で、それより上へは私は上る気は無いし、後から来た人にお先へどうぞと上っていただく。そこなら日当たりも良いし、風当たりも程々だし、私としては五合目人生をモットーとしている。
 人の上に立ちたいとか、最高に上りたいとか、そういう願望は子どもの時からなかったように思う。子ども時代を思い返してみると、悪ガキたちが集まると、「大きな会社の社長になりたい」とか「パイロットになって世界中を駆け回りたい」とか「大きな学校の校長先生になりたい」とか、そういう途方もない夢をみな話したものだが、「おまえは夢はなにか」と訊かれて、「1日に3回米の飯が腹いっぱい食べられる、それが自分の夢だ」と話した。当時は戦争中で、食料事情は悪いころだったので、日に3回米の飯が腹いっぱい食べられることが自分の最高の夢だった。(「おまえの夢は小さいねえ」と言われたものだ。)そういうことからして、小さい時から、人のトップに立ちたいとかそういう途方もない大きな夢ではなくして、小さな夢でもいい、その夢が叶えばそれが最高のように思っていた。
 器に合った適当な山を選んで上る。頂上に上り切ればそれは良しとして、上り切ることができなかった場合は、夢が落胆に変わり、愚痴をこぼす、そういうことになる。夢は程々の夢で。愚痴をこぼすということは好きではない。愚痴をこぼすということは、愚痴をこぼす自分も惨めであり、その愚痴を聞いた人は不愉快になり、愚痴をこぼして満たされる人は1人もいない、ということで、愚痴をこぼすことは私は本望ではない。

●子どものころ
 昭和10年、浄満寺からは西に当たる、延岡市北方町(旧東臼杵郡北方町)の、 40戸ほどの集落の農家の三男として生まれる。
 2歳くらいで緑内障のため失明。普通の子どもとほとんど同じように、田畑の畦を駆け回ったり木に上ったりいたずらをしたり、遊んでいた。
 7、8歳になると、普通の子どもはみな学校に行ってだれもいない。そのころはお巡りさんがサーベルを鳴らしながら巡って来ていたが、お巡りさんが「おまえは学校にも行かん、かわいそうだ」と言って紙の袋に入った切り飴をくれ、それを食べていた。ある時、父が梅の若木で作ってくれた杖を持って遊んでいたら、付近の悪ガキが杖を取って用水路に流してしまった。その悪童を追いかけようとしても怪我などしてもなんにもならないので、その時はじっと堪えて、 2、3日経って、私が飴をお巡りさんからもらっていることは子どもたちがよく知っていたので、「おーい、飴があるがこれいらんか」と、紙に小石を包んだ物をかざしたところ、杖を流したあの悪ガキが一番先に走ってきた。それでその子の襟首をつかまえ、「これでも食らえ」と紙に包んだ小石を口の中に押し込んでやった経験がある。そんな風に喧嘩をしたり友達になったりしていた。

●浄満寺に入るまで
 うち当たりも浄満寺の檀信徒だったので、[浄満寺の盲僧が]年に2回はかならず回って来ていた。そして(7、8歳ころからは)うちの家で琵琶を弾いていただく、それを縁側でじいっと聴く、うちの家が終ったら隣の家に行く、その後からそうっと付いて行って隣の縁側でじいっと聴く。何とかして自分もこの琵琶を触ってみたいないし弾いてみたいという夢が少しずつ兆してきた。 12歳のころ、浄満寺の弟子にならないかという話があった。鍼灸に進むか琵琶の方に進むか二つに一つ。人の身体の痛みを治す鍼灸も善いことであるけれども、大それたことだが、人の心の悩みの万分の一でも聞いて、それでほんの少しでも悩みがおさまるなら浄満寺の弟子に進んだほうが、というのが子供ながらの思いでもあったし、またその方向に進むように親の導きもあったようだ。
 という訳で、13歳になった1月には浄満寺に入ることがほぼ決まっていた。そして親父から「今晩からおまえは正座の練習をせないかん」と言われ、最初の1週間は毎晩 5分間正座の稽古、それからは、兄や弟が寝そべったりしているなか、毎週正座の時間を 5分ずつ延ばしていって、 3ヶ月もすると 1時間くらい正座していても何ともなくなっていた。昭和23年5月30日、13歳のとき、浄満寺に入ったが、そのころには 1時間や 1時間半くらい正座しても何ともなかったし、胡座をかいたりすると後ろにひっくり返るような状態になっていた。親父に厳しく正座をしつけられた当時は恨んだものだが、浄満寺に入って親父の教えを有り難く思ったものだ。
 6、7月になると、夕方にはひぐらしが鳴くようになり、その声を聞くと里を思い出したものだ。また、北を走っている高千穂線の汽車の音が聞えると、あの汽車に乗れば実家に帰れるのだと思ったものだ。しかし、それを思うと同時に、自分の家に帰ればまたサツマイモの入った米粒が少ししかないような 三度の飯を食わなければならない、ここに居れば麦のぱらっと入ったくらいの米の御飯が食べられる、さてどちらが良いかを考えるとやはりここで米の御飯を頂いたほうが良い、と自問自答して里心を振り切っていた。 8月のお盆に初めて家に帰った。それからはもう里心というものは無くなった。米の御飯が毎日三食腹一杯食べられれば、というこどもの時の夢は、わずか 13歳にして叶えられた。
 浄満寺に入る1週間くらい前、父が、「おまえは浄満寺にいったん入ると決まったら、家に帰って来るとか生半可な気持ちではいかん」ということで、
「浪の音聞くがつらさに山住まい音こそかはれ松風の音」
という読み人知らずの歌を教えてもらった。その時は歌の意味もわからず丸覚えした。(意味は、海辺で風景など見ながら暮らせたら良かろうと浜辺に住んでみると、夜は浪の音で眠られない、そこで静かな山で暮らしたら良かろうと山奥に住んでみると、今度は松風の音でやはり眠れなかった。)どこに住んでもそうそう満足できる所は無いものだ、というのがこの歌の教えだという話を聞いて、子どもながらになるほどとは思いつつも、浄満寺に入って1年2年するうちにこの歌の意味を実感しつつ心から味わい、親父の教えに感謝したものだ。
 浄満寺でお経や釈文や琵琶を覚える修行はいろいろ苦労だったろうと言われる人もあるが、私の場合は苦労とかいう言葉は馴染まない言葉で、ひとつものを覚えるごとにこれで財産がまたひとつ増えた、お経をひとつ覚えるごとにまたひとつ財産が身に付いた、と思っていた。何をしても、苦労がぜんぜんないということはないし、苦労というのは適当に積むことによって後々それは肥やしになって幸せの基になるものだから、苦労というのは私の場合には適当な言葉ではなかったようだ。

●永田さんの仕事
[インタビュアーKさんの解説]
 墨染めの衣を着て琵琶を背負い白い杖を突いて檀家を回って歩く永田さんの姿は、鴬の鳴く日向路の風物詩になっている。
 永田さんは、檀家に入ると、床の間にお米・塩・水をお供えして、若竹の葉の先に水を付け四方に振り塩をまいて清める。その後、数珠をもんでお経を始る。やがてそれが終わったのちには、琵琶をかまえて、釈文と呼ばれる仏教説話をやさしく解いた物語を琵琶にのせて語る。
 永田さんが吟ずる釈文「琵琶の釈」: ここでは、琵琶には数多くの仏の化身が宿っているので霊験あらたかである、と語る。[琵琶の音は、たぶん永田さんが使っている琵琶(日向琵琶?)が小型のためだと思うが、かなり高音で哀愁を感じさせる音色である。これに比して永田さんの声は、絞り出すようなちょっとざらついた感じだが、とても力強い。次々といろいろな神名や仏の名が聞えてくる。琵琶の各部にいろいろな菩薩や如来などが配されているとのことである。]
 檀信徒は970軒くらい。以前は[盲僧が]二人も三人もいたので、春と秋の年2回ずつ回るのが決まりだった。今は先代住職も亡くなり一人。千軒近い檀家を一人で回ることはとても無理なので、年に1回だけ必ず回るようにしている。そのためには1日に 3〜5軒くらい回らなければならない。その間には、解き屋祓い(家を壊す前にその家の守護仏・守護神に感謝の意味をこめてするお祓い)、地鎮祭、新築のお祓いがあり、また春になれば川開きの前の水神さんのお祓いなどがあったりで、平均して4、5軒回らなければならない。
 いろいろな杣つがあったり無沙汰があったりするのをお祓いするのが、私たちの務め。そのほか、家内安全、(今は牛馬は少なくなったが)牛馬安全、交通安全、(農家の場合は)五穀豊穣、家族の無事息災、その家の家運長久、(受験の場合は)進学祈願などもある。頼まれれば、皆さんの祈りや願望を一手に引き受け神仏に願う。
 頼んだ本人も、頼んだから安心というものではなく、自分は自分なりに努力し精進を積むことによって、それらと相俟ってこそ願いは叶えられるというもので、人任せではなにも成就しない。私たちの天台宗の宗祖伝教大師[最澄]の教えで、「棒ほど願って針ほど叶う」、それだけ叶えば最高だという教えがある。願いというのはそう叶うものではない、百願ってそれが十か二十叶えば有り難いことで感謝しなければならないというのが、伝教大師の教えの中にある。


◆2日目
●檀家のMさん宅を訪れた場面
 Mさんの家に入った永田さんは、表座敷の床の間に米・水・塩を供えていただき、その正面に座る。ひとしきり読経を続けた後琵琶を取り出して釈文を弾じる。数多い釈文の中からこの時は五郎王子の物語の中の王子の釈が演じられた(五郎が兄たちに合戦を挑む場面)。
 [王子の釈: 4人の王子が4つの季節と東西南北の方位を譲り受けた。やがてその後に生まれた五郎が自分の取り分を要求するが、兄たちから退けられ、合戦となる。そこへ祈門前王が現れ、 4人の兄が、それぞれの季節の中から18日間を五郎に分け与えるよう仲裁する。こうして土用が誕生し、その 5人が木・火・土・金・水の神々になったという、宇宙の誕生の神話が語られている。]
 永田さんは50年も前からこの家の加持祈祷に毎年通っていた。かつてはこのMさんの家に泊り込んで、ここから次の檀家に出向いたこともたびたびあった。
(以下、Mさん夫妻の話。話の端々に永田さん(浄満さん)への親しみがうかがえる。)
 浄満さんが回ってくるのは楽しみだ。昔は、麦秋(むぎあき: 5 、6月ころ)と米秋(こめあき: 11月から暮ころ)の2回回ってこられた。
 牛馬が何匹いるとかいろいろ家族のことを聞くことから始まり、それから水とか塩を家の周りにまいて歩いて、それは屋祓いになって、とてもいいなあと思った。浄満さんが回ってくるようだという話があると、うちは今度はいつごろ何時ころこられるかなあ―留守にしたらいけないでしょ、来たらお水とかお塩とかお米やら用意せにゃいかんから―いつごろこられるかなあと思って心待ちにしていた。そして来られたら、そんなこと[屋祓いなど]してくれる。以前は次の家に手を引いて荷物を持って行っていたけど、今は車で次の家に乗せていったりする。どこでも1回行ったら、トイレとかそのほかの場所を1回で覚えて、次に来られたときにはもう1人ですいすい行かれる。それだけ才能のよい人ですよねえ。なんせ頓智がよく、気持ちがいいですものね。
 全部記憶ですからね。目が見える訳ではないのだから。 12歳の時から入山して、あれだけ全部記憶で暗記しているということで、これはえらいものだと、本当に感心する。
 浄満さんが来られると、普通に田舎言葉でああだこうだと話をする。昼ころ来られたら御飯の用意をして御飯を食べたり、お茶を飲みながら話をしたりする(今は奥さんがいるので夕御飯など食べずに帰るが)。まあ心がよくて、どこに行っても人に親しまれる。

●琵琶の説明
 永田さんが現在使っている琵琶は十数年前作ったもので、わりあい新しいもの。
 [以下、永田さんが琵琶を弾いている姿勢で説明している。] 絃が4本、太いほうから1、2で、3と4はいっしょ。大きさは、長さが71cm、胴の最大幅が24cm[琵琶としては小型]。 6箇所に高さ 4-5cmの柱(じゅう)があり、上のほうが高く下に行くほど低くなっている。上に竹の薄い皮が張ってある。絃がずうっと上に上がってきて、肩の所で直角に後ろに曲がり、巻き取られるようになっている。その曲り角の所に適当な長さに切った数本の琵琶の絃が敷き込まれている。これは、さわり[びゃあんびゃあんというような、複雑にうなるような音]をつけるためのもので、これを動かしてさわりを調節している。(さわりをつけるのに、紙縒を使っている人もいる。)琵琶の材料は1枚板の欅で、その中を船の胴のように刳り込み、その上に薄い天板をはめ、絃を張っている。左側に太陽(日光菩薩)、右側に三日月(月光菩薩)が配されている。

[以下、永田さんの声の訓練、檀家の人たちとの教訓に富んだ話などは省略]

●これまでの人生を振り返って
 私の場合は、50年余にわたって、山もなければ谷もない、わりあい平穏ななだらかな道を、しかも細く長い道を歩いてきた、と自分では思っている。人はよく、人生には上り坂もあり下り坂もあり、という風に言うが、私の場合は今までは上り坂とか下り坂とかは思ったことはない。私は、頂点に立たないから、だいたい五合目までしか行ってないから、今から下りかという風に感じたことはない。
 つまずいたりすることがあっても、生爪もはがさずこのくらいの痛みですんだということで、道を歩くさいはこういう石もあるからつまずかないように気をつけて歩け、という戒めであろうと、怒ることなく感謝しながらつねに歩いている。
 私はひごろ、何はおいても感謝ではないかと思っている。例えば、適当な例ではないが、平成9年、洗面器一杯分くらいの吐血をして、胃潰瘍で40日くらい入院し、おかげで完治した。その時でも、ベッドの上にありながら、これまでは檀信徒を回って行くと「浄満さん昨年は胃潰瘍でもうたいへんじゃった」とかいう話を聞いて「それはたいへんでしたねえ」と言葉を返す訳だが、本当にどこまでたいへんなのか(人の病気ですから)そのたいへんさが(自分が健康であれば)分からない。ところが、自分が洗面器一杯も吐血して点滴にしばられて、20日以上も食事をとらずに点滴だけでベッドの上で生活する、そういう目に遭って、自分は本当によい勉強をさせてもらったと思った。胃潰瘍をした人にたいして、本当に心からその人のご苦労もわかり苦しみもわかりながら自分なりの話もできる、そのことには病気になって良い勉強になったと感謝したものだ。

●願い
 私のように琵琶を持って伝統を守りながら一軒一軒の檀信徒を回るというのは、今はとても数少ない。また今のように車が多くなると道路を歩くのがなかなか容易ではなくなり、歳を重ねるごとに歩行が困難になっている。
 解説のKさんが、「琵琶盲僧自身の数が少なくなっているなかで、鹿児島当たりでは自分の仏間に檀家の方を招いてそこでお払いや祈祷をしている人たちが何人かいるが、一軒一軒回っているのはおそらく永田さんが最後ではないでしょうか」と言うのにたいして、永たさんは「最後にはなりたくない」と応える。永田さんの最後の夢は、後継者を養成する、いっしょに琵琶なり釈文なりを勉強して次の世代に遺していこうということだが、これこそ「棒ほど願って針ほど叶う」で、後継者たる少年にまだ巡り会えないでいる。
 先主(先代の住職)との約束が三つあった。御堂の改築、結婚、そして後継者。最初の一つの、浄満寺の本堂と庫裏の大改築は、千戸近い檀信徒の心からの浄財をもとに行われ、平成3年落慶法要ができた。だいたい同じころ、結婚もした。あとの一つ、一番の願いの後継者の養成がまだ残っている。皆様のお知恵を借りながら、自分なりにも努力せねばと思っている。
 平成13年、延岡市が無形文化財に、翌年には宮崎県が県の無形文化財(第1号)に指定。(永田さんは、自分は無形文化財のうつわではないと、それまでに何度か辞退していた。)それに応える意味からも、なんとかして後継者の養成だけは、とは思っている。また、記録を残す会の皆様の協力で、CD6枚(この中には釈文をすべて文字におこした文章が入っている)、DVD1枚、解説付き写真集1冊のセット[「日向の琵琶盲僧永田法順」]を出すことができた。

 「人生はすべてほどほど 日々健康 これにすぎたるしあわせはなし」というのが私の現在のモットー。皆さんの各家が家運長久で、すこやかな毎日、日々を過ごされることを心からお祈りしたいと思っています。


◆コメント
 私が永田法順さんのことを知ったのは、 6、7年前、廣瀬浩二郎さんの『障害者の宗教民俗学』(明石書店、1997年)を読んだ時のことです。その中で私にとってもっとも印象深かったのは、現在も檀家の一軒一軒を1人で回っているということでした。廣瀬さんの本で紹介されている永田さんは60歳過ぎだったのですが、今回の放送時にはすでに70歳、にもかかわらず今日もその1人歩きを続けておられることには驚嘆してしまいます。
 今日は車優先の社会です。都心の駅周辺など一部の地区はバリアフリーの設備などでそれなりに歩きやすくなっている所もありますが、中心部を少し離れると、車だけがどんどん通るだけで、歩道が未整備だったり、また道をたずねようとしても人通りがほとんどなくて途方にくれたりするのが、私の実際の体験です。さらに歳を重ねるとともに、いろいろな感覚が少しずつ衰えまた身体のとっさの反応も鈍くなります。そういうことを考え合せると、永田さんが一見たいして無理もせずしているようにみえる檀家回りの背後には、なにか毅然とした信念や気迫を感じます。
 また今回の放送を聞いて、永田さんがその長年にわたる活動を通じて檀家の人たちからとても慕われ頼りにされていることも伝わってきました。今回のテープ起こしでは省略してしまいましたが、檀家の人たちとの何気ない世間話の中で家族の問題や人間関係での悩みなどがしばしば話題に上り、永田さんはそういう悩みにたいする対処の仕方、あるいは別の観点からのとらえ方を示したりします。そして実際悩みが解消し、檀信徒たちから感謝されていました。もちろん、永田さんの行ういろいろなお祓いや祈祷によっても、檀家の人たちの心のよどみ・しこりといったものは取り去られ、晴れ晴れした気持ちになります。
 このように、永田さんの活動は、琵琶を奏し釈文を吟ずるだけのいわゆる芸能に限定されるものではなく、地域の人たちの実生活上の願い、とくに不安を解消し安心や安全や希望などを求める(現世利益的な)願いに対応するものであり、また地域の人たちの生活のサイクルに組み込まれた活動(ほぼ年の決まった時期に訪れる者として待ち侘びられていた)であったことに注目すべきだと思います。永田さんの最後の願いは後継者の養成であるわけですが、その後継者とは盲僧琵琶の伝承者と言うにとどまらず、永田さんの本意としては、檀家回りをしお祓い等もする、庶民の実生活の要求に応え得る盲僧の生活様式をできるだけ引き継ぐ者ではないでしょうか。(しかし実際は、伝統芸能としての盲僧琵琶の継承は可能かもしれませんが、生活様式としての盲僧の継承は、一般の人たちの生活意識の変化はもちろん、見えない人たちの教育や福祉環境の変化を考えれば、ほとんど不可能と言わざるをえません。)
 私がもうひとつこの放送で共感したのは、永たさんが「五合目人生」と呼ぶところの生き方です。今日、各分野でナンバーワンになる、あるいは個性をかがやかす(オンリーワン)ような生き方が持て囃されていますが、それは多くの人たちにとってあまりにも過重な負担になっているように思われます。「五合目人生」のような程々の生き方は今日の風潮からすれば安易な生き方だと非難されるかもしれませんが、それは、永田さんの人生からもうかがえるように、一つ事を厭きずに永く続けるという筋の通った生き方に裏打ちされるべきものです。「五合目人生」のほうが、人間関係のためにも、また各人の心の健康のためにも良いと思うのですが……

(2006年8月22日)