障害とアート

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 昨年から今年にかけて、障害とアート、アートの意義といったことについて考えさせられるいくつかの機会がありました。

目次
1 福来四郎氏が指導した盲児の粘土作品
2 サリー・ブースさんの講演会とワークショップ
3 対話シンポジウム「アートの領域・アートの価値」
4 障害とアートについて


1 福来四郎氏が指導した盲児の粘土作品
  昨年8月13日、神戸親和女子大学附属図書館に保存されている、福来四郎氏の指導で作られた盲児の粘土作品のコレクションを鑑賞することができました。
  福来先生は盲学校における美術教育の草分け的な存在として有名な方です。1950年から1980年3月まで、神戸市立盲学校の教諭として、盲(弱視もふくむ)の子どもたちに一貫して粘土による造形を指導してこられました。初めは生徒たちにあまり受け入れられず苦労したようですが、1956年以降生徒の作品を美術展に出品し、母子像など高い評価を得るようになりました。盲学校退職後も、盲児たちの作品の素晴らしさを広く世に知らせようと作品展を開催したり写真集などを出版したりなど、80歳を過ぎた現在も熱心に活動しておられます。福来先生の影響なのか、1960、70年代の盲学校では、美術教育と言えば即粘土による作品づくりといった風潮があったように聞いたこともあります(私が在籍していた青森県立八戸盲学校ではまったくそんなことはありませんでしたが。)
  私にすれば、なぜそんなに盲学校の児童生徒たちの粘土作品が高い評価を得ているのか、どうもしっくりしない、理由がよく分からないという感じを持っていました。
  昨年5月、2003年に自費出版された『盲人に造形はできる―盲人造形教育30年の記録―』という写真記録集を福来先生より分けていただきました。これには、60数点の粘土作品の写真とともに、各作品についてごく簡単な解説や生徒との対話が英文も併記で掲載されています。そして、福来先生によれば、この写真集を国内ばかりでなく世界192カ国の盲学校などに送っているとのことです。
  まず、この写真集のタイトル「盲人に造形はできる」(英文タイトルは「THE blind can mould」がちょっと気になります。盲人が造形できることはごく当たり前のことだからです。たぶん福来先生がこのタイトルに託した意図は、見える人たちにも十分評価され得る作品をつくることができる、ということなのだと思います。しかしこのタイトルには、一般の人たちの盲人にたいする否定的な評価が反映しているようにも思われますし、また福来先生の自分の指導法にたいする自信のようなものも読み取れるかもしれません。
  それはさておき、この写真集を回りの見える人たちに見せてみると、皆さんほんとうに心を動かされているようなのです。ちょっと変った作品という印象もあるようですが、それよりもなにか強くうったえるもの、創作者の願いのようなものを感じ取っているようなのです。しかし、私にはもちろんそれは実感できません。
  今回これらの粘土作品を触っての私の感想をごく簡単に表現するとすれば、先生=生徒という指導関係の中で、かなり見える人たちに共感を与えることを意図して創作され選ばれた作品が多いということです。
  確かに、対面の大きな母子像など、私自身作品の存在そのものに心動かされるようなものもありましたし、また、犬の肋骨がしっかり浮き出た作品など、触覚を通しての観察が素直に表されている作品もありました。ただ、選ばれた作品のほとんどは、母と子、および「眼」をテーマとしたものでした。

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2 サリー・ブースさんの講演会とワークショップ
  昨年8月21日、奈良市にある「たんぽぽの家」で行われた講演会とワークショップに参加してきました。
  数日前に来日したイギリスの弱視のアーティスト(画家)、サリー・ブース(Sally Booth)さんを迎えて行われたものです。ブリティッシュ・カウンシルと大和日英基金の助成で来日したサリー・ブースさんは、この後約半年間、日本各地で講演会や展覧会やワークショップなどを行いました。
  午前中(10:30〜12:30)が講演会「視覚障害のある人とアート〜イギリスのアーティスト・サリーブースさんを迎えて」、午後(13:30〜17:00)がミュージアム・アクセス・ビュー主催で彼女を講師とするお絵かきワークショップでした。
  当日の講演内容とワークショップの様子を私なりに整理してお伝えします。あまり正確とは言えませんが、雰囲気を分かっていただければと思います。

◆講演会
  参加者はおそらく40人余といったところでしょうか、でも遠くは仙台や福岡から参加された方もいました。

●ブースさんのあゆみ
  サリー・ブースさんは、1960年ロンドン生まれ。視覚は弱かったようだが普通学校に行く。低学年のころは教室も小さく、人数も少なく、また教科書の文字も大きかったりで、あまり見えないことを感じずにすんだ。
  しかし高学年になると、教室が大きくなり黒板の字も見えないし、教科書もかなり見えにくくなった。でも、見えにくいということは回りには言わなかった。ただ、美術の授業の時は1人で制作していて良かったので、問題はなかった。美術方面に進んだのはこれがきっかけかもしれない。
  アート・スクールに進んで初めて、回りの人たちがとても見えていることに気が付いた。デッサンの時、モデルの脚の筋肉の様子などを回りの人は難なく描いているのに、自分にはまったくそのようなのは見えない。 (ウィンブルドン・カレッジ・オブ・アートで美術学(描画)修士号取得。)
  25、26歳ころ白内障が進行し、仕事を続けるのが難しくなる。手術をしたが、あまり成功したとはいえなかった。視力の良い右目が白内障になり、その後左目も侵され、恐怖だった。それを忘れようとして、また見えるうちにできるだけ描こうと、英国各地を回りながら、行く先々でペインティングとドローイングをたくさんした。お陰で旅好きにもなった。明るい色を使い、細かい所は省いて大きな絵を描いた。紫から始まり赤まで、色が一つずつ消えて行き、最後はグレーの世界になる。遠くはぼんやりした霧の世界のよう。(目をかなり近付けると、色の区別はついているのではないかと思いました。)コントラストがはっきりするので、黒い紙に絵を描く。
  今は屏風畳みになっている中国製のスケッチ帳を使ってドローイングしている。そうすると、連続したストーリーになる絵を描ける。竹ペンを使い、墨と絵の具を混ぜている。
  ブースさんのこれまでの作品をたくさん紹介していました。絵には見え方の変化の様子も表われているようです。
  最近は瓶をモチーフにしたものが多いとのこと。なぜ瓶なのかという質問には、瓶は自由に位置を自分の見やすいように調整できるとのこと。
  また最近は、ドローイングとともに、写真にも力を入れているとのこと。写真を撮る時は、まぶしいのでブラインドを下ろす。そうすると、布の縦横の目がかすかに映り、私の白内障の見え方に近くなる。また、非常に近付けて撮るので、焦点もぼやけ、私の見えている世界に近くなる。
  失明への恐怖の時期、晩年に白内障になりほとんど見えない状態でも絵を描き続けたモネがインスピレーションになった。モネの白内障が進行して以降の作品では、色がはっきりしない絵も多く、何が描かれているのか判読しにくい物もある。
  モネの存在を知って、私はとにかく今出来ることをやっていこうと思った。

●現在の活動
  画家として作品を制作し展覧会等も行っているが、画家として経済的に自立するのは難しい。
  現在、障害のある人たちのアート活動支援やアクセスにかかわる提言等を行っている組織「SHAPE」(シェイプ)に勤務している。視覚障害をはじめさまざまな障害のある人を対象に、ギャラリーや美術館や学校等で、鑑賞ツアーとワークショップを実施。英国最大の現代美術館であるテート・モダンでは、視覚障害者のアクセスについてのアドバイザー(アクセス・コンサルタント)を務める。
  また、自分自身の展覧会での視覚障害者への対応がうまく行っているかどうか調べ、提案したりもする。

●イギリスの障害者アート
  1970年代から障害者アート運動が始まり、障害者も美術館に行くようになった。それまでは美術館が障害者のためにどんなサービスをするか決めていたが、障害者が自らグループをつくり、要求し、美術館に行ってサービスを求めるようになった。このような変化は、1980年代から顕著になった、障害者のための特別な学校から通常の学校へという変化と呼応している。
  1995年に「障害差別法」が制定され、障害者を特別扱いできなくなり、美術館も障害者のアクセスをつねに考えなければならなくなった。しかし問題は、物理的なアクセスだけではなく、実際に美術館に行って作品を楽しめるかどうかである。この点ではまだまだ不十分。
  ブースさんが勤めている「シェイプ」や、グループでギャラリーやミュージアムに行って「触らせてください」と求めたりする「アート・スルー・タッチ」とか、助成金を出す団体とか、障害者のアート活動を支援しアートへのアクセスを推進するいろいろなグループがある。これらの活動によって、例えばビクトリア・アルバート・みゅーじあむではきれいな陶磁器の作品を触って鑑賞できるようになった。館内の立体的な地図を置いたり、展示物を外に出して触われるようにしたり、オーディオによる解説を用意したりする所もある。これらは障害者がアイディアを出して美術館に求めたものであるが、オーディオによる解説など一般の人たちにも好評な場合も多い。
  また、障害者アートがテーマの雑誌もあるし、障害者アートの展覧会も頻繁に行われている。全盲もふくめ、障害のあるアーティストはたくさんいる。「障害者アート」は一つの領域としてしっかり認知されているとのことである。

 ブースさんの作品には当然彼女の見え方が反映しており、視覚障害があるから描ける作品だとも言える。しかし彼女は、視覚障害者アーティストではなく、アーティストだと思っているし、そう評価してほしい。彼女の作品は、障害者アートと一般のアートの両方に出している。矛盾ないし割り切れないような感じを持っているように感じた。
  会場から、障害者のアートについてイギリスの一般社会での評価はどんなものかという質問が出された。それにたいする答えは、〈ゴミ〉、せいぜい隙間を埋めるちょっとした物くらいにしか思われていないとのこと。同等のアートとしては認められていないようだ。ただ、このような評価が百パーセント真実ではないと言い切れない状況も確かにあるとのこと。少数ながら障害を持った極めて優れたアーティストはいるが、障害者アートにはセラピーとして行われているアート活動もふくまれているし、とてもばらつきが多い。障害者のアートについてのとらえ方は、日本でもだいたい同じようなものではなかろうか、との会場からの意見もあった。
  また、障害者のアート活動について、アシスタントなどについて政府からの援助はあるのかとの質問にたいしては、すでに有名なプロの障害者のアーティストにはアシスタントのための資金は出ているが、それほど有名でない人たちがそういう資金を獲得するのは極めて難しいとのこと。ブースさんは、リーディングやコンピュータの操作などで個人的にボランティアを利用しているとのことでした。

◆ワークショップ
  ミュージアム・アクセス・ビューではこれまでにもしばしばお絵かきワークショップも開催していましたが、私は今回が初めての参加でした。
  参加者は、視覚障害の人たちが9人、それぞれに晴眼者のアシスタントが1人ずつつきます。その他、全体の進行などのためのスタッフや、さらには見学らしき人たちもいたようです。
  私といっしょになったのは、仙台市から来たという若い学生でした。見えない人と接するのはまったく初めてのようでした。
  サリー・ブースさんが進行役で、初めはちょっと混乱しそうな場面もありましたが、全体としてはとてもうまく行ったように思います。
  初めにブースさんの瓶の作品を立体コピーのようなので浮き上がらせた物が配られました。私には線は簡単にたどれても、ほとんど意味が分からないものでした(瓶の影も表した所もあるようでしたが、それもよく理解できませんでした。)
  次に、ジャーマン・ペーパーという、裏面に線が浮き上がる合成紙のようなのが配られました。これに私は魚の形をした船とか、人の顔とか、人の寝ている姿とか、描いてみようとしました。裏に出るので、十分触って確認することはできず、あまり思うように行きませんでした。それに、人の寝ている姿とかはやはりどうやって平面に描いたらいいのか迷ってしまいます。
  さらに、こうして描いた線をなぞりながら、そこに絵の具を塗ることになりました。私はほとんど筆は使ったことはないし、左手で触っている線と筆先をうまく合わすことができないので、すぐ指先で塗りはじめました。それにしても、絵の具は流れるようなので、線にそってシャープに描けているとはまったく思われませんでした。
  次は画用紙に描くことになりました。線など触っての参考無しに描くので、今度は適当に筆を使って直接描いてみました。自分のイメージの中にある、海、船、太陽、黒い鳥などを配置するのですが、細かい所はぜんぜん描けていないようです。それに、空とか雲をどう描いていいのか迷いました。
  次は、ブースさんがしているように、長い巻紙にストーリー的に絵を次々に描くことになりました。私なりのイメージにしたがって、人、トンネル、炎、花畑、山、山の上の神々しい鳥とか、アシスタントの方に時々場所を教えてもらいながら、とにかく筆を動かしていきましたが、それはほとんどだれも分からないもののようです。(ブースさんは後で、初めての参加にしては私はずいぶん大胆だと言っていました。)
  最後に、参加者全員の作品を集め、それらを互いに説明し鑑賞し合いました。おそらく私のがもっとも絵からは程遠かったのではないでしょうか。見える人たちが見て、これはきれいとか、花火のようだとか、宇宙を表しているのかなとか、かなり視覚的に意味の伝えられるもののようでした。とくに光島さん(全盲の美術作家)が巻紙に延々と描いたストーリー的な絵は傑作だったようです。
  見えない人たちの参加者の多くは、色や風景など見えた記憶があり、また絵にも見えた時から興味のある方もおられたようです。私は明暗以外見えた記憶はほとんどありませんし、それに絵を描くためのいろいろな知識や技術、絵の具の種類とか筆遣いとか色の対比的な効果とか、とにかく何も知りません。私は触ってそれなりに確認しながら自分の頭の中にあるイメージを見える人たちにも分かるように表現したいのですが、そのためには様々な知識とともに私なりの絵を描くための技術を試行錯誤でつくっていかなければならないようです。

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3 対話シンポジウム「アートの領域・アートの価値」
  今年8月27日、大阪・新世界のフェスティバルゲートで、NPO法人「こえとことばとこころの部屋」の企画・制作による標記のシンポジウムがありました。
  初めに進行役・まとめ役の上田假奈代さんから、このシンポジウムの趣旨についてお話しがありました。上田さんは、いちおう詩人ということになっていますが、あちこちでいろんな活動をしておられます。2003年にフェスティバルゲートでココルームを立ち上げ、翌年にはNPO法人こえとことばとこころの部屋を設立。最近はホームレスの人たちの表現活動の支援や、引きこもりやコミュニケーションの苦手な若い人たちの就労支援にも力を入れているようです。
  以下に、本シンポジウムの案内文から、その趣旨についての部分を掲載します。
  「現在、私たちのまわりに存在するニートやホームレス、ハンディキャップといった人々は社会的に不適応とされているが、多様性としてとらえ、お互いを認めあう。また、アートを余暇としての活動ではなく、社会参加としての活動であると位置づける動きが増えている。多様な生き方、多様な人達が存在する社会をつないでゆくツールとして機能するのが、『社会参加としての活動』であるアートの価値ではないだろうか。
  アートが社会参加としての活動であるとするとき、当事者のもつ問題意識がアートに関与するきっかけとなる。当事者の数だけ、さまざまなアートのカタチがあり、アートの領域はそれだけ広くなる。アートの領域が拡大しているにもかかわらず、社会的な認知や評価、マネジメントの能力、またマネジメント開発システムが遅れていることがひとつの問題である。この問題はアーティストだけの問題とするのではなく、行政やNPO、大学、またアートを要請する側の今後の課題であり、社会的な取り組みが必要とされる。
  本シンポジウムでは『アートの領域・アートの価値』と題して、アート側からアートの可能性を、また多くの人たちにとっての、「ささえとしてのアート」を考えてみたい。」

◆第1部では、3人のパネリストの方々が、それぞれの活動とアートの関係、アートの役割などについてお話しになりました。私に理解できた範囲で、3人の話の要点を以下にまとめてみます。

●播磨靖夫(たんぽぽの家理事長)
  本年で、わたぼうし音楽祭もすでに31回となる。当時(1970年代初め)は、まだ高度経済成長の続きで、障害者は今とは違って社会の片隅の存在だった。とくに障害者は自己主張をしない、自己主張が弱い、自己主張する術を持たない状況だった。自己表現の場としてわたぼうし音楽祭(障害者の書いた詩に、メロディーを付け、コンサートをする)を始める。
  詩は「書く」自己表現だが、その後、障害者自身が語り身体で表現する語り芸「わたぼうし語り部」を始める。
  さらに、これらは言語に基づく表現活動だが、言語以外の表現活動として、1990年代から「エイブル・アート・ムーブメント」を展開(エイブル・アートは障害者芸術と捕らえられがちだが、多様な人たちの人間性を回復するような新しい芸術運動)。
  アートを定義するとすれば、個人・集団の、その取り巻く日常をより美しく変革すること。アートの役割としては、社会問題の解決、コミュニティづくり、インクルージョンの促進、各人のエンパワメント。要するにアートは、人間が生きること、より幸せに生きることを助けるものだ。

●甲斐賢治(NPO法人記録と表現とメディアのための組織/remo 代表理事、NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト/recip 理事)
  この方の話は、私には全体としてはよく理解できませんでしたので、以下は話の断片です。
  ・今日の日本ではマスメディアが巨大な力を持ち個々人はそれに従うだけの受動的な存在のようにもみえるが、技術の進歩と低価格化により、個々人が映像やメディアを使って簡単に表現したりコミュニケーションできるようになった。記録と表現とメディアのための組織/remoは、このような動きを、「現代美術」から「文房具としての映像」までをふくむ多様な価値観で支援し、個々人が映像やメディアと様々な形で能動的に関わる場を提供しようとする組織。
  ・大阪ではグローバルなニュースはメディアを通じてどんどん入ってくるが、地域の生の情報はなかなか知ることができない。地域文化に関する情報とプロジェクト/recipは、地域の情報を地域に戻し循環させること、いわば「文化の地産地消」を目指して様々な活動をしている。
  ・アートは、〈他者〉である、自身にとっての外界である他者との出会いである。
  アートについてのこのような主張は私にはかなり新鮮でした。アートはしばしば共感する場を提供しますが、本当に心を動かされるのは、(自分が作った物もふくめて)自分にはない何かに気付いた時、えっ!と思うような違いに驚いた時です。

●田中俊英(NPO法人淡路プラッツ代表)
  15年ほど前から、不登校、ひきこもり、さらにはニート等と呼ばれる人たちの自立支援をしている。通所型のフリースペースを設け、様々の社会参加体験プログラムを行っている。
  様々な就労支援のプログラムを行ってはいるが、ニートとフリーターの間には大きな距離があり、実際にはなかなか難しい。これまでいろいろ行ってきたプログラムのすきまのような所にアートがあるようだ。アート合宿を行い、美術館ボランティアや看板づくりなどをした。
  ニート(NEET)とは「Not in Employment, Education or Training」で、完全に否定的な評価。そういう人たちにとって、アートは、他の人・社会とのかかわりなど、支えとしての役割がある。
  支えとしてのアートの役割に期待するとともに、もうひとつ、加齢とアートの関わりにも注目したい。
  ニートは統計上は34歳までとされ、政府の対策もその人たちが対象だが、ニートの高齢化に伴い、35歳以上で同じような状態にある人たちの問題がより深刻になっている。孤独死や心中など、悲惨な例もある。高齢になるほど働くこと・仕事が抽象化されモチベーションがますます持ちにくくなる。そういう状況で、アートを通して少しでも美しく生きる方法があるかもしれない。

◆第2部は、代々木公園で暮らす小川てつオさんといちむらみさこさんお2人の「ライブ鬼が島」というパフォーマンスとお話でした。
  2人のパフォーマンスは、近くの公園などから集めてきたかなりの量のゴミをフルに使っての、いろいろな音あり声あり動きありの、かなり変わったものでした。着ている服もゴミから拾ったもののようです。(私はパフォーマンスの終わった直後に、どんなゴミをどんな風に使っているのか知りたくて、舞台上に案内してもらいました。ゴミ袋3、4個分くらいのゴミがあって、私もつい紙や袋をガサガサ音を鳴らしたり、ダンボール箱を被ってみたりしてしまいました。)
  小川さんは、高校のころからひきこもりがちになって社会との関わりを断っていたようですが、20代半ばからいろいろ表現活動を始め、数年前から代々木公園で暮らすようになりました。代々木公園の〈社会〉はかなりお気に入りのようです。
  いちむらさんは、国内外で放浪生活のようなことをしながら各地で様々な表現活動をしてきたようです。 2年ほど前から代々木公園で暮らし始め、ブルーテント村で小川さんと絵のある喫茶店「エノアールカフェ」を開き、絵を描く会もしています。また、代々木公園で暮らす女性が参加するパーティを毎月1回開いているそうです。
  とにかくお2人は、私が「ホームレス」という言葉から連想するようなイメージとは程遠く、とてものびのびした明かるい感じでした。もっとも印象的だったのは、いちむらさんの「ここはパラダイスです」という言葉です。
  現在代々木公園では350人くらいの人たちが暮らしており、その内女性は20人くらい。やはり女性として生きにくいことはいろいろあり、それにたいしていちむらさんは女性だけの集まりを企画し、継続し、女性にも暮らしやすい場にしようとしています。
  住む場所から日用品や食料品まで、ほとんどすべてゴミの中から集め、また必要な物を物々交換で得ており、お金は無くてすんでいるとのこと。エノアールカフェでも、物と交換で飲物などが提供されます。カフェにはもちろんテント村以外の人たちも自由に出入りできます。
  これだけ住人が多いとやはり派閥めいたものもあるようですが、互いに深くは干渉し合わないといった暗黙の了解があり、また困った時には助け合うということで、のびのびと過ごせているようです。貧乏というような感じは、物の面でも気持ちの面でもないようです。
  現在東京都がホームレス(追い出し)対策として行っている、地域生活支援事業・再整備事業により、実状はいろいろ変化しているようですが、それにたいしても小川さんは、いろいろ知恵をはたらかせてなんとか1年くらいは頑張りたいと言っていました。

◆第3部は、パネリスト3人と小川さん・いちむらさん、それに会場の何人かをふくめてのディスカッションでした。これも私にはよく分からない所が多かったのですが、記憶に残っていること、感じたことを2、3書きます。

●専門家との関係
  播磨さんはとくに専門家ないし既存のアカデミズムの姿勢に極めて批判的でした。一般市民のもつ暗黙知・経験知に謙虚でなければならない、聞く耳をもたねばならないと強調していました。
  上田さんは、アートに限らず多分野にいわば越境しながらいろいろ活動していますが、アートにはそういう異なった分野をつなぐような役割があると考えているようです。異邦的な者が互いに越境し合うことで、アートもふくめ様々な新しい動きが生まれてくるのは確かだと思います。
  田中さんは、実際の経験から、ひきこもり等にたいして専門家が果たす一定の役割は評価していました。

●生き方か作品か
  播磨さんはより幸せに生きる生き方をアートと把え、小川さんやいちむらさんのような生き方そのものが一つのアートだと見ているようでした。ドゥルーズの「ノマド」(遊牧的な生き方)も話に出てきました。
  しかし、生き方そのものをアートと見るのはやはり拡散的に過ぎると思います。小川さんもその当たりのことにこだわっていたようです。生き方・活動の成果物としてのアートは、甲斐さんのいうように〈他者〉性をもち、鑑賞者はもちろん表現者自身にたいしても他者としてその人に驚きや発見を喚起し、生き方に影響するでしょう。

●周辺と中心
  ホームレス(いちむらさんは「野宿者」が適切だと言っていました)と見られるような生活をしている人が「パラダイスです」と言ったのには、皆さんちょっと衝撃を受けたようです。確かに本人の素直な気持ちはその通りなのでしょうが、それはしかしごく限られた条件下で成立することのように思います。おそらく健康にも能力にも恵まれ、積極的に普通の社会のしがらみから切り離された自由な生活の場として代々木公園のブルーテントを選んだのでしょう。(もちろん、多くの人たちはやはりやむを得ない事情でホームレスの状態になっているのでしょう。)
  また、住居や衣服や食物まで生活に必要なほとんどの物をゴミの中から得てそれなりに困らない生活をしているとのことですが、そのゴミは回りの人たちの豊かな生活から生み出されている物です。少なくとも日本の都市公園でのホームレスの生活は、都市住民の現代的な(使い捨ての)生活があって成立しているように見えます。さらに、ホームレスがパラダイスだということで、普通の暮らしをしている人たちが仕事を放棄して大挙してホームレスになったとすれば、たちまちのうちにホームレスの環境は劣悪化することは目に見えています。要するに、パラダイスとも感じる人たちがいるホームレスの生活は、既存の豊かな社会があってこその存在だと言えるように思います。
  しかし、そうだからといって私はホームレスのような周辺的なあり方をそんなに否定的には考えていません。ホームレスのような生活の中に、現代の使い捨ての消費生活、心身をすり減らしてしまうような生活のあり方にたいして反省を迫るような契機を見て取るだけでなく、より積極的に、現代の普通の社会には適応し難い人たちのための一つの生き方が示唆されているようにも思います。
  近代になって、生産性中心の秩序立った普通の社会では居場所の無くなった様々な人たち(その中には身体・精神の障害者も含まれる)は、病院や施設や刑務所等に大規模に隔離され、一般社会からはできるだけ見えないようにされました。最近は、全面的な隔離から、リハビリテーションや心理的なカウンセリングや就労支援等を通して、これらの人たちをも一般社会へ取り込むような方向にむかいつつあります。(いずれの場合も、投薬が併用されることが多いのも気になるところです。)しかし、私にはこのような取り組みにはかなり限界があるように思えます。中心となる社会は存在しつつも、その周辺、あるいは内部に、多種の生き方が可能な領域が併存し、ゆるやかに相互交流・浸透するような形が、より多くの人にとって生きやすいのではと思います。

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4 障害とアートについて
  話がだいぶそれてきましたが、本題に戻って、障害とアート、障害者とアートの関係について考えてみます。
 
  ここでは何らかの結論を引き出そうというより、上で紹介した例も念頭におきながら、この複雑で錯綜した面のある問題について私がふだん感じていることをそれなりに整理してみようと思います。
  アートには、大きく分けて、活動としての面と、その一つの成果である作品としての面があるようです。そしてその両方に共通するのは、人の心にうったえる美であり、心を開くようなはたらきだと思います。
  伝統的にはアートと言えば専門家によって評価された作品を指していたわけですが、最近は、アートを鑑賞したり楽しんだりする活動、作品を生み出す表現活動、さらにはそういう活動の中で生まれる作品と人、人と人との間に生起してくる様々なコミュニケーションも注目されるようになりました。そして、このようにアートの意味合いが一般市民の活動までをも含むように拡大していくとともに、障害のある人たちがミュージアムを訪れアートを楽しみ、また様々の表現活動をも盛んに行うようになってきたようです。
  とは言っても、やはりアートの中心には作品があるように思う、と言うかそうでなければならないようにも思うのです。

 人々はなぜアート作品にひかれ、お金を支払って鑑賞したり、ときには購入したりするのでしょうか。
  アート作品には、@人々の美意識を喚起する、A技術的習熟度・完成度で魅了する、B驚きをあたえるような新奇性、さらにはC作者の思想ないし心象風景を表わし共感をよぶ、といった様々な面があります。
  このような面を合せ持つアート作品を生み出すには、作者自身、美にたいする感受性ないし美意識をもち、技術に習熟し、想像力・創造力に富み、さらに思想性をも持ち合せていることが必要になります。これらのうち美意識などは各個人に本来備わっている部分もある程度あるでしょうが、技術や思想性など多くは経験と修練の積み重ねによって育ち磨かれてくるものだと思います。そして障害のある人の場合、この経験や修練の場が限られ、また望んでもしばしば機会が奪われます。
  確かに障害によっては、その障害により独特な感じ方・見方が生じ、また障害に起因する様々の経験からその人の人間性が磨かれることもあり得るでしょう。実際、絵や詩などで一般に高く評価されている人たちも少数ながらいます。しかし、障害者の作品の多くは、〈障害者〉のつくった作品として、一般のアートの世界とは切り離された別のものとして見られており、しばしば障害者にかかわっている人たちの間でしか認知されていないようです。
  障害者の作品が一般のアートの世界に認知され影響力を与えるようになるためには、その基礎として、障害者自身が多くの作品にふれ、技術・技法を修得し、また様々な人たちの評価を受けるような場が必要だと思います。そしてこのような障害者の活動のためには、回りの一般市民の協力が必要ですし、またミュージアムのユニバーサル化といったことも大切だと思います。

 私は上でアートの中心は作品だ、というようなことを書きましたが、障害のある人たちの作品が一般のアートと同列に扱われるようになるためには、活動としての側面が極めて重要なようです。全盲で光島貴之さんという方がおられます。彼の作品について私自身はどのように評価したらいいのかわからないといった感じなのですが、その触覚を通しての絵画的表現は現代芸術の一つのスタイルとしてかなり認知されつつあるようです。このような人たちをぜひ応援したいものです。

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(2006年10月3日)