京都盲唖院展からのメッセージ
2月11日に、京都市学校歴史博物館で開催中の「京都盲唖院発!障害のある子供たちの教育の源流」展に行ってきました。
この企画展の開催期間は 2008年1月18日から4月14日までで3ヵ月近くあるのですが、その内の4日間、2月11日、3月1日、3月27日、4月6日の4日間だけは企画展の一部の展示品に触れることができるということで、その日に合わせて行ったわけです。
私もふくめ3人で行ったのですが、博物館が近くなると、まず「石垣が見える」との声。近付いて実際に触ってみると、30〜40cm四方くらいの石を積み重ねた石塀でした。京都市学校歴史博物館は、番組小学校の一つである元開智小学校の建物を利用したもので、この石塀も大正時代に築かれたものだとのことです。
敷地内に入って玄関に向かうと、なんと二宮金次郎の像が迎えてくれました。二宮金次郎像は小さいころ触ったような気はしますがはっきりとは覚えていません。顔ばかりでなく、背中には薪を縄で背負い、足には草履のようなのを履き、手には大きな本をひろげて持ち、本を読みながら歩いていることが触ってよく分かりました。
まず、常設展示から見て回りました。常設展示は、明治5年の学制施行に先立って、明治初年に創設された日本で最初の学区制小学校ともいえる番組小学校を中心に、明治から昭和まで京都の学校で使われていた教科書や教具・教材、教育関係資料、さらには学校に寄贈された美術品まで、多彩な展示でした。とくに時代順に並んだ各種の教科書は、実際に手に取って読むことができます。戦後間もない、昭和20年から22年くらいまでの教科書では、神社や祭、兵器や軍艦に関したことなど、多くの箇所が墨塗りされたり書き換えられたりしたものが展示されていました。
京都にはすでに江戸時代から「町組」という住民自治の組織がありました。明治維新は京都にとっては千年以上もの間置かれていた都が東京に遷されるというまさに大激変だったわけですが、そんななか町組は「番組」として再編され、明治2年には上京・下京に各33の番組が設けられます(この番組は1875年には「区」、79年には「組」と改められました)。そして同年中には、各番組ごとに警察・消防・区役所・保健所等の機能をも合せ持った64の番組小学校が設立されます。常設展示には、番組小学校にあった報時鼓、半鐘、火消しのまといなども展示されていました。
今回の企画展は、日本最初の視聴覚障害児教育の実践といえる京都盲唖院と古河太四郎を紹介するものですが、それはこのような京都の町衆の自治的な伝統の中でこそ育まれ根付いたもののように思います。
明治初めには、京都以外でも、一般の学校の教師の中に盲児・聾児の教育を志す者がいました。『世界盲人百科事典』(1972年、日本ライトハウス発行)によれば、「石川県下では第9大区加賀国向粟ヶ崎小学校の教師金岩安二郎が1875年9月入学の唖女生1人を担任して成果をあげ」、同時期に「同県第8大区能登国磨知小学校の教師吉田守貞が唖女生1人を指導した」そうです(P.310)。また時代はだいぶ下りますが、「岡山県では1904年2月、京都私立盲唖院で講習を受けた亀井鉄太郎(小学校訓導)が日生小学校で盲児(3人)と普通児の統合教育を始めたことから、岡山県知事桧垣直右は県下の小学校で盲唖教育を行うことを決意し、1904年4月から一ヵ年間、山本厚平(小学校訓導)を東京盲唖学校教員練習科に入学させたうえ、1905年4月から県下の小学校を巡回させ、小学校教師に盲唖教育の講習を行わせた。この方策は当初は大いに歓迎され、一時は89の小学校に100余人の盲亜児が入学したという。しかし、1906年7月桧垣知事の退職、1908年11月岡山盲唖院の設立などの関係もあって、長く続かなかった。」(PP.315〜316)というような先駆的な事例もあります。
一般の学校の先生が地域の盲・聾児にたいして行った教育の試みはこのようにほとんど長くは続きませんでした(全国の盲学校、ことに地方の盲学校の多くは、盲人自身あるいはキリスト教の信仰をもった人たちが中心になって創設されています)。そんな中にあって、古河太四郎の実践はその後の日本の盲聾教育の一台中心へと発展していったのです。
京都盲唖院の創設者であり日本の視聴覚障害児教育のパイオニアといえる古河太四郎(1845〜1907年)は、京都最大の寺子屋白景堂の四男として生まれ、1869(明治2)年10月上京第十七番組小学校開校(1872年5月上京第十九区小学校、1875年6月待賢小学校と改称)とともにその教師になります。しかし間もなく、釈迦谷新池を開発する農民に協力したことに関連して罪に問われ、2年間服役しなければならなくなります。獄中、以前に見聞きした「盲人あんま」の惨状や、獄窓から目撃した、いじめられる聾児の様子から、盲聾教育を考えるようになったといいます。
出獄後古河は上京第十九小学校に復帰します。そのころ上京第十九区区長熊谷伝兵衛が同区内の聾児3人にも何とか教育を受けさせたいと考えており、それに古河が協力して、1875年ころに待賢小学校にいん唖(「いん」はやまいだれに音)教場を設けます。さらに1877年には盲児も受け入れ教育を始めます。いん唖教場における盲・聾児教育はそれなりに順調に行ったようで、1878年1月、古河は上京第十九区長兼学区取締山田平兵衛と連盟で盲唖生を広く他区からも募集すべく「盲唖生募集御願」を提出します。これを二代目京都府知事槇村正直が受け入れ、京都市中から盲唖児を集めて同年5月24日東洞院通御池上ルの元生糸改会所を校舎として「仮盲唖院」を開校することになります。
1878年5月24日に行われた開校式の当日入学したのは、盲生17名、唖生30名、聾生1名の計48名だといいます。これはその後各地で次第に設立されるようになる盲唖院の当初の生徒数が数名から多くても十数名なのに比べて、格段に多い人数です。
開校式の様子は「大坂日報」で詳しく報じられています(『世界盲人百科事典』P.311より引用。適宜段落を入れました。)各区の代表や府の役人をはじめ各界・各層の人たちがひろく参加し、その中で盲生が小学読本を講じ、唖生が手勢(しゅせい:一種の手話で、五十音を表す指文字もふくむ)で受け答えしたり発音するなど、盛大な式の様子が伝わってきます。
「一昨廿四日は先号に記載せし京都府仮盲唖院開業式の模様を、同地の探訪者より報じたれば悉しく記るす。
当日午前九時式を行るゝ筈なりしが、午前八時より雨降り始めたれば、盲唖生の休息所より場まで遠隔なるゆゑ、就場するに困るならんと酌量して十時五十分頃まで見合されたれど、雨は暫時も止む景色なく、止を得ず着坐を告ぐるに、生徒男女数十人、父母・親戚附添て来院する様は他完全の生徒と違い、何にとなく容子が異にして、終始心を用いて茫然としたる風なく、最早十一時を過れど雨は益々降りけるが、本日の開業式は日本にて始ての開院なれば延す訳にならず、且つ式を拝見せんと、雨を厭はず市中の老若男女、我れも我れもと推かける。
世間に鬼はないと云ふ諺の如く、盲唖生が群集の中を通行する時は、手を取り傘を差しかけなどして不具を哀れと思わぬ者なく、漸く着場し、次に神官・僧侶・教生・諸官員・総区長・各区戸長着坐、坐静まりて知事槙村君・国重君・谷口君臨場あり。
学務課吉田秀喜君盲唖院創立章程及び規則を朗読せられ、次に夫々の祝文朗読あり。
終つて盲生徒伴井(注・半井)緑(十年六ヶ月)坐に立て小学読本一の巻を講じ、末にわたしの如き盲人にても怠りなく勉強すれば云々と演説したれば、着坐の方々涙を流さゞるなく、知事君にも愛隣の情を発し玉ひ、手拭にて顔を拭われし状は、拙き筆には尽しがたく、唖生山川為次郎(十二年五ヶ月)・同山口善四郎(十二年四ヶ月)の両人立上り教員古川太四郎君塗板に白墨を以て(動物ノ中、何故ニ人ヲ貴シトスルヤ)と書き問へば、山口善四郎手勢にて答ふ。(人ハ万物ノ霊トテ、体躯ノ結構、精神ノ感覚等、他物ニ卓越スルガ故ナリ)。又山川為次郎も手勢にて答ふ(人間ノ智恵ハ何ニヨリ増長スルヤ)。(必学ナリ)山口答ふ。(然レバ言語ヲナス能ハサルモノモ、教育ヲ受ケレバ智力ヲ発達シ、万物ニ恥ズルナキモノナリ。故ニ開業アル本月本日ハ我等ノ大幸福ト云フベシ)山川答ふ後ち、謹で有志に謝すと、両人手勢をなして一統へ拝す。
教員古川氏塗板に発音を書き、祝の字を示しければ、山口字の傍にイハウと書き、イーハーウと発音し、山川も同くイハイと書き、イハイと発音したるゆゑ、院中の人々驚き感服したり。
次に知事君の演説ありて、盲唖生一統へ書籍を賜ひ、生徒・附添へは弁当を与へられ、紅白の餅二ツ宛を縦覧人へ賜りて式も終りたり。比の開業は実に我国の美事と云ふべし。」(大坂日報 1878年5月26日)
京都府の認可を得て開校した盲唖院ですが、その経費は、各区が月1円ずつ負担する募集金をはじめ寄付金で賄われました。市中の生徒は授業料を免除され、父兄が送迎できない者は送迎用人力車で通学できたといいます。1879年4月に正式に「京都府立盲唖院」となってからも、各区からの募集金や寄付金に依存する状態が続きます。こうして、開校時48名だった生徒数も1881年には百名を超え、1885年には生徒数147名、教職員も数名から20名以上になります。
当時盲唖院は、「インクライン」「知恩院」とあわせて「京の三イン」と呼ばれるほどで、京の人々から親しまれまた多大な協力が寄られていました。さらに盲唖院の教具や生徒作品は世界各地で開催された博覧会にも出品されるようにもなりました。
こうして教育内容では着実に成果を上げるのですが、このような急激な規模の拡大は財政を逼迫させます。とくに十数台の送迎用の人力車の運行費に各区募集金の大半が使われたといいます。また、折からの松方デフレの影響で寄付金は減少し京都府からの補助金も打ち切られます。送迎用の人力車も1889年までには廃止され、生徒数も減少します。その間院長の古河は私財を投じて再興を図りますが失敗し、1889年11月院長を辞職することになります。
同年12月に京都府立盲唖院は市に移管され「京都市立盲唖院」となり、鳥居嘉三郎が院長に就任します。しかし、文部省からの補助も打ち切られ、人件費をふくむ全てを乏しい基本金の利子に頼らねばならない状況になります。1890年には教職員の半数が整理され43名の生徒が退学を余儀なくされたといいます。
この盲唖院廃院の危機を脱して再興にあたったのは2代院長・鳥居嘉三郎でした。1893年、府・市の政財界有力者10人の学校商議員のほか中井知事らが発起人となって京都盲唖院慈善会が設立されます。この会は、5年間に25円を拠出する特別会員156名や、同10円を拠出する普通会員890名を得て、恒常的な後援会組織となりました。1895年、平安奠都千百年記念の第4回内国勧業博覧会が開催された岡崎公園と円山公園に次のような市民向けの「受恵函」がもうけられました。
「世ノ慈善君子若シ此憫ムヘキ貧窶盲唖生ノ学資ヲ補助セラレントスル志アリテ金員ノ多少ニ拘ラズ此函ヘ恵投アルトキハ本院謹テ之ヲ受領ス
Ladiese and gentlemen will please to put into this box whatever sum of money you may choose, in order to help the poor and pitiable mute and blind pupils in this asylum.」
こうしてようやく1900年ころから盲唖院の財政は安定してきたようです。
古河太四郎の独創性が発揮されたのは、その教育実践、とくに様々な教具においてです。
盲唖院開校時、すでに約700点の教具や雛形(模型)が揃えられていたといいます。そして翌年からは、凸形地球儀、凸地図、凸文字、習字盤、算盤など盲児の為の凹凸を利用した教具、さらには直行練習場や方向感覚渦線場など歩行や感覚訓練のための用具の開発・製作が続けられます。また、体育用具や遊具についてもいろいろ工夫をこらしたようです。
以下、当日実際に触ることのできた教具について紹介します。
触れる展示品には、京都府立盲学校所蔵の物のほかに、一般の小学校などで使われていた物もありました。
京都府立盲学校所蔵品、すなわち京都盲唖院で実際に使われていた物としては、次のような物がありました。
木刻凸字:表面に3cm四方くらいの凸字だけを浮き出させたものと、5cm四方くらいとやや大き目で、表面に凸字、裏面に凹字を彫ったものがありました。
紙製凸字:厚めの和紙に浮き出し文字が印刷されています。3cm四方くらいのものと5cm四方くらいのものの2種があります。大きい方が太くはっきり浮き出していました。
蝋盤:熱を加えて蝋が軟らかくなった時にへらで凹字を描き、蝋が固まったらそれを読むことができます。熱で溶かして何度も使えるところが良い点のようです。
こはぜ算盤:これは私が盲学校で使っていたものとほぼ同じ物でした。こはぜを前後に倒して数字を入れてゆきます。
半顆算盤:玉の下3分の1くらいを平らにして算盤の底と接触させ、玉が回ったり滑りすぎないようにしたものです。こういう算盤も盲学校で使われていました。
訓盲器具 触官感覚: 「触官」とは、触覚器官のことです。触覚を訓練しようとして作られたもののようで、渦巻き型、楕円の渦巻き型、瓢箪型、真っ直ぐの線、うねうねした曲線など、基本的な形がいろいろありました。
石版地図模型:石版の上に四国地方が立体的に描かれていました。川、山脈、都市などがよく分かりました。川は細い溝になっていて、爪の先でたどるとよく分かりました。
凸形京町図:盲児に京都市街の全体像や施設の名前を覚えさせるために製作されたもので、明治10年代の町並が表されています。川や通りが凸線で、御所や寺院や学校などが3種の凸記号で表されていました。
一般の小学校等で使われていた教材・教具等では、次のような物がありました。これらは触ってもある程度分かりそうな物で、たぶん見えない子どもたちの教育の場でも使えそうな物があるのではないかというような主催者側の意図を私は感じました。
教授用コンパス:長さ30cm近くある木製の大きなコンパスです。螺子をしめると、半形の長さがしっかりと固定されます。
教授用算盤:玉の直径が3cmくらいある、とても大きな算盤で、玉が簡単には動かないようになっています。(私の盲学校には、これと同じような大きな算盤がありました。)
指導用三角定規(直角三角形と直角二等辺三角形):これも1辺が30cm以上はある大きな三角定規です。
指導用分度器:半径20cmくらいの分度器。底辺は5mm刻みの物差しになっており、半円周上には1度刻み、5度刻み、10度刻みの線が入っています。どの刻みも触って何とか分かります。とくに1度のような鋭角は普通はなかなか確かめられる機会がないので、これは優れ物だと思いました。
幾何パズル:三角形、正方形、菱形、六角形、円、楕円などをはめ込むタイプのごく簡単なものです。こういう簡単なもののほうが、見えない子どもたちには適しているように思いました。
低学年用分数説明器:りんご1個をそれぞれ、2等分、3等分、4等分できるものです。
日本全図黒板:縦1mくらいはある大きな地図です。陸の部分はちょっとさらさらした触感で、私は海岸線を何とかたどることができました。でもこれはちょっと見えない人にとっては実用的とは言えないでしょう。
その他、単音叉、水車模型など理科で使われたと思われる物もありました。
私が今回の企画展でもっとも強く感じたことは、地域および個人を中心に置いた教育の大切さです。古河太四郎の盲聾教育は学区の聾児の教育から始まりました。それは間もなく盲唖院という、一般の学校とは別の、学区を越えた学校になるのですが、経営的には長く地域の有志に支えられ、またその教育からは各障害の特性、さらには生徒一人一人の特性を見据えた多様な試みが観取できます。
江戸時代の寺子屋ではしばしば障害児も見受けられたそうですが、それは寺子屋が個人教授を原則としていたために可能だったと思います。明治以降のいわゆる近代教育の特徴のひとつは、一斉教授です。一斉教授では一人の先生がより多くの生徒に教科書を使って同じ内容を短時間に教えることができ、費用対効果が高く、また国民意識の涵養という近代国家の目的にも適うものでした。しかし一斉教授では、普通とは異なる子どもたちは排除されてしまうことになります。盲・聾・養護学校等が設けられ、制度的にも意識の上でも分離教育が確立されていったわけです。
今日、国際的にはインクルーシブな教育が原則となり、日本でも数年前から特別支援教育の方針が示され、今年度にはほとんどの学校に特別支援教育コーディネーターが配置され特別支援教育が本格的に実施されつつあります。具体的な状況について私は詳しく知ることはできませんが、〈拡大された分離教育〉に堕してしまうかもという危惧の念をももってしまいます。そのようなことにならないためには、障害の有無とかにかかわらずすべての子どもたちについて各子どもたちと向き合った教育(各子どもたちに応じた教材・教具を用意する等)、学校任せではなく親や地域の人たちも支える教育が必要だと思います。
*この文章を書くに当たっては、当日いただいた企画展の詳しい資料のほか、京都府立盲学校の資料室なども参考にしました。
(2008年3月16日)