地層に触れる

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 11月8日、弥生文化博物館の教育専門員のIさんの案内で、同館でいっしょにボランティア活動をしている方々とともに、和歌山市北西部の加太に行ってきました。主な目的は、地層に触れてみることです。Iさんは、理科、とくに地学が専門で、私がはっきりと分かる地層には触れたことがないというようなことを話したところ、触っても分かりやすそうなとても良い地層がある、ということで、今回の地層見学ツアーを企画してもらいました。

 南海和歌山市駅より、加太線に乗換え、終点の加太駅へ。そこからまず、明治30年代に設けられた砲台跡に行きました。
 紀淡海峡に面するこの地域には、大阪湾への敵艦の進入を防ぐために各所に砲台が設置され、友ヶ島などとともに要塞化されて、第二時大戦が終わるまでは一般人の立入りも認められない地域だったそうです。(私はもう30年以上前に友ヶ島に行って要塞跡を見学したことがあり、その時のことを思い出しながら見学しました。)
 煉瓦敷きの道を上っていくと、砲台跡が3つありました(1つは池のようになっているそうです)。2門ずつ、計6門の曲射砲が設置されていたとのことです(曲射法は、高所から斜めに発射して、放物線を描いて目標に落下させるという、旧いタイプの砲です)。今はちょっとした窪みになっていて、周りには反円形に煉瓦を積上げた壁がありました。近くの急な階段を降りると、奥行10m近く、高さ3mくらいの弾薬庫がありました。中に入ってみましたが、周りはきれいな煉瓦積みの壁で、とてもしっかりしていました。
 それから展望台に行き、そこで昼食です。ここからは、友ヶ島ばかりでなく、淡路島はもちろん、天気の良い時は四国の山や明石海峡まで見えるとのことで、皆さんその絶景に見入っていたようです。その後、城ヶ崎に行って、私がもっとも楽しみにしていた地層見学となりました。

 この地域の地層は、和泉層群に属しているとのことです。和泉層群は、白亜期後期に、中央構造線の北側にそって、横ずれ断層のために沈降してできた海盆に堆積した地層です。愛媛県松山市の南西から、東へ向かって、徳島県と香川県の県境にある讃岐山脈、淡路島南部の諭鶴羽山地、大阪府と和歌山県の県境の和泉山脈へと続き、奈良県五条し付近まで達する、東西300kmにもおよぶ地層です。沈降の中心が西から東へ移動していったため、堆積した地層も西から東へ向かって新しくなっていて、和泉層群の始まり(西端)は約7千万年前、東端に近い加太付近は約6千万年くらい前の堆積ということになるようです。
 加太付近の海岸には砂岩と泥岩の互層が露出していて、地学の教科書に載るほど有名なようです。それが触って十分に分かるのか、期待と不安の入り混じった気持でしたが、見てはもちろんのこと、触ってもだれでもはっきり分かる、互層およびソールマークの素晴らしい標本でした。
 地層といえば、まず水平な重なりを連想しますが、ここの地層は、斜め(海側が高くなっている)になっていて、中にはほとんど垂直になるほど立っている地層もあります。
 全体としては、ざらざらして硬い砂岩層が出っ張っていて、風化のためなのかぼろぼろして強く押さえれば崩れてしまいそうな泥岩層が大きく凹んでおり、このような砂岩層と泥岩層が交互に連なっています。砂岩層の厚さは、薄いものは数cmくらいのものもありましたが、厚いものになると1m余もありました。泥岩層の厚さは砂岩層の3分の1くらいで、2、3cmくらいから30、40cmくらいまででした。泥岩層は波や風雨で侵食されて大きく窪んでいるため、砂岩層と泥岩層の間は大きな段差になっていて、別々のもののように感じてしまいますが、もともとは、粗い砂から細かい砂、そして泥と、粒子の大きさ順に連続的に堆積したもので、砂岩層と泥岩層で1組の地層ということになります。厚いものだと、砂岩層が1m余、泥岩層が40cmくらい、全体で1m50cmくらいになる地層もありました。私はこのほとんど垂直に立っている地層の上によじ登って観察したのですが、この厚さにはびっくりしました。これだけの地層が短かい時間に堆積するためには、大規模な地滑りや洪水のために多量の土砂が一度に流されてきたのではなかろうかなどと想像したりしました。

 さらに、砂岩層の底面にできる数種類のソールマーク(sole mark: 底痕)も触って観察することができました。ソールマークは、直下のまだ固まっていない泥岩層の表面にいろいろな理由でできる凹みが鋳型(cast)となって、直上の砂岩層の底面にできる浮出した印のことです。泥岩層が侵食されて砂岩層の底面が露出したために、そこに浮き出しているソールマークが観察できるようになったわけです。
 私が触って観察できたのは、まず、砂岩層の底面を右下から左上に伸びる幅広の高さ3、4cmほどの隆起でした。これは、泥の上を流れた水流の痕のようで、フルートキャスト(flute cast)と呼ばれます。また、フルートキャストよりも幅が狭くてちょっと平べったい棒のように伸びているのは、小石などが流れた痕のようで、グルーブキャスト(groove cast)と呼ばれるそうです。これらは細かい砂が固まったような感触なのですが、これらとは触った感じがかなり違った、ロードキャスト(load cast)と呼ばれるものもありました。ロードキャストは、ざらざらしていて粗い砂が固まったような感じで、これは泥層の直上の砂層の加重の不均一のためにできるものです。実際、枕城のものがあちこちにぼこぼこと浮き出していて、前2者とはまったく違う感じでした。
 そして、Iさんがきゅうに「キャベツ、きゃべつ」と言いはじめました。私が何のことかまったく分からずにいると、その〈キャベツ〉とやらを見つけてくるからと言ってどこかに行ってしまいました。しばらくすると、「あった、あった」と言いながらIさんが戻ってきて、その場所へと誘導しはじめます。そこは海際の岩壁になっているようで、途中からはふつうの手引では危険になり、私は斜上に大きく張り出した砂岩層の底面の下の空間に体を入れて頭と背で岩砂の底面を感じながら4、5m這いながら進んで、ようやくその〈キャベツ〉の所に達しました。ほぼ垂直の岩面を触ってみると、なにか大きな模様があります。全体としては、縦長の70cmほどの扇形のふくらみです。根本のほうが狭くぼこっとふくれていて、硬く緻密な感じです。先のほうに行くにしたがって広がっていて、触った感じもざらざらになり、あちこちに模様らしき凹凸が分かります。見た目は、大きなキャベツの葉が広がっているようで、「キャベツの葉状マーク(cabbage-leaf marking)」と呼ばれるそうです。こうして、Iさんの熱意によって、私は岩面に描かれたキャベツに触ることができたのです。このようなキャベツの葉状のマークは、たぶん、まずかなり急激な狭い水流によって根本のふくらみができ、さらにその流れの勢いの波及で先のほうが次第に広がっていったのではなどと、私は勝手に想像したりしました。
 砂岩層の底面には、このほかにも、小さなぼこぼこや、カーブした棒のようなのとか、いろいろな模様がありました。専門の方の案内でこのような浮き出しの模様を触ると、数千万年前の堆積の様子がかなりリアルにイメージできるような気がして、心躍る体験でした。

 城ヶ崎の岩場には、貝類もたくさんいました。Iさんは貝の名前もよくご存知で、皆さんはいろいろと貝を拾いながら名前をたずね、私もイシダタミガイなどいくつか持ち帰りました。
 和泉層群には、化石が多くふくまれる地層もあると聞いていましたが、この辺では化石はほとんど出ないとのことです。ただ、「古代アマモ」らしきものはいくつかありました。これは、以前は植物の化石だろうと考えられていましたが、今は動物の生痕だろうという考えが有力なようです。実際に触ってみると、それらしき窪みははっきりと分かりました。

 その後、皆さんといっしょに地元でとれたサザエを食べ(私の目的は、食べることよりも、貝殻とその蓋をセットで持ち帰ることでしたが)、さらに人形供養で有名な淡島神社を訪れ、十二分に満足して帰途につきました。

(2009年11月13日)