銅鐸の不思議

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 5月22日、近江八幡市にある安土城考古博物館に行きました。現在開催中の春季特別展「大岩山銅鐸から見えてくるもの」の関連イベントとして行われた体験博物館「銅鐸を観察してみよう」に参加するためです。このワークショップについて知り合いに話したら興味を持ってくれ、いっしょに行きました。
 博物館はJR安土駅から晴れていれば歩いて行けるほどの距離なのですが、その日はあいにく雨だったのでタクシーを利用しました。着いてみると、建物はちょっと西洋風の教会を思わせるようなモダンな感じだとのこと、信長をイメージして設計したのでしょうか。
 私はこれまでに何度か銅鐸のレプリカに触ったり、小さなシリコンの型に石膏を流し込んでミニ銅鐸を作ってみるワークショップに参加したこともあります。でも、貴重な金属を使って数世紀もの間何のために銅鐸を作り続けたのだろうかなど、銅鐸についてはなんだかよく分からないことが多く、この体験博物館に参加してみました。
 参加者は、私をふくめ7、8人ほどの小人数で、子どもたちの参加はまったくなく、みな歴史好きと思われる面々でした(私はとくに歴史好きという訳ではありませんが。中に女子高校生が 1人いましたが、この方はとても熱心な方のようでした)。
 これまで何となく触っていた銅鐸ですが、このワークショップで銅鐸各部の名称をだいたい知ることができましたので、まずそれから書いてみます。
実(み):銅鐸本体部分。大まかにいえば円筒形といえますが、下部のほうが少し広がっているので円錐台といったほうが正確でしょう。(「鐸身」(たくしん)とも言われる。)
裾(すそ):身は下になるほど広がっていて、口は開いており、その部分を裾と言っています。
舞(まい):銅鐸の身の上面のほぼ水平の円形の部分。直径に当たる所に鈕が付き、その両側に型持孔という孔があります。文様などはとくになく平板な感じです。
鈕(ちゅう):舞の上に付いているつまみ状の吊り下げ部の事。銅鐸は本来は紐で吊るして鳴らすため、かならず鈕、および紐が通る鈕孔があるとのことです。銅鐸の鈕は初め厚身で実用性を備えていましたが、祭器の要素が強くなり大型化すると、鈕は扁平化し実用性を失って装飾物と化したようです。この鈕の形や文様が、後で紹介するように、銅鐸の様式変遷の指標になっています。
舌(ぜつ):銅鐸の内部に吊り下げられた細長い棒のこと。銅鐸を揺らすと、この棒が銅鐸の内壁に当たって音が出ることになります。
鰭(ひれ):銅鐸の実の両側に、上から下までずうっと続いて突き出している扁平な板状の部分。いろいろな模様・装飾がされていました。型を二つ使って銅鐸を作る時のちょうど合わせ目の部分のようです。鰭についてちょっと興味ある事実があります。銅鐸はふつう、倒れたないし寝かされた状態で発見される(大・小または大・中・小の銅鐸が入れ子の状態になっていることもある)とのことですが、その時いつも両側の鰭は上下の方向(地面にたいして垂直の方向)になっているそうです。私の推測ですが、鰭を上下方向にしたほうが、次に銅鐸を掘り出す時に見つけやすいし、また上下方向にしたほうが実際に掘り出す時にも引っ掛かりがなくて掘り出しやすいと思います。ということは、実際に掘り出されたかどうかは別として、少なくとも銅鐸を埋める時には次に掘り出すだろうことを考えて埋めていただろうということです。
飾耳(かざりみみ、しょくじ):鈕やそれに続く鰭に付けられている飾り。ほぼ左右対称になっているようでした。
内面突帯(とったい):身の下部(裾)の内面に巡らされた、幅1cmほど、高さ5mmほどくらいの突帯。銅鐸は全体としては厚さ数mmの薄い板で出来ているので、この突帯は補強の役を果たしているように思います。また、ここに舌が当たって音が出るようにもなっており、内面突帯には何度も舌が当たって出来る痕も確認されるとのこと。ただし、実の外面にも棒で叩いたような痕が見られるとのことなので、音の出し方にもいろいろあったのかも知れません。
型持孔:銅鐸は、外型と内型(中子)との間に融かした青銅を流し込んで作るわけですが、そのさい、外型と内型の間を一定に保つために支えとして入れておいた物を型持と言うそうです。そして、出来た銅鐸にはその型持のあった場所が孔として残ることになるわけです。型持孔は普通、舞に2個、鐸身の上部に4個、身の下縁に4個の計10個あります。その形は、舞にある2個は円く、その他は四角ないしそれに近いものが多かったです。
 ここで銅鐸の作り方についてネットで調べてみると、「加茂岩倉復元銅鐸の分析-1」 http://www.nittech.co.jp/dotaku/P9905.htmlに次のようにコンパクトにまとめられていました。
 (1)土を練る → (2)2枚の外型を造る → (3)乾燥後、紋様を彫る → (4)外型を合わせる → (5)中子(内型)を造り、銅鐸の肉厚に相当する厚みを削り取る(型持ちを残す)→ (6-1)外型・中子を組み合わせて固定 → (6-2)全体を砂場に埋める → (7)溶融した銅合金を鋳込む → (8)冷却後取り出す → (9)完成
 
 今回私たちは、まず初めに、島根県加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(23号)の模鋳品に触りました。模鋳品は、現代の職人が当時(弥生時代)の材料と製法にできるだけ忠実にしたがって再現した物です。発掘された状態(錆びたり破損している)の復元ではなく、銅鐸が実際に出来上がった状態を再現しようとするものです。直接手で触れると汚れたりするので、手をよく洗いさらに手袋を着けて注意深く触りました。
 大きさは、高さが40cm余、直径が20cmくらいかと思います。表面はとてもすべすべしていて、私がこれまで触ったことのある複製品の銅鐸のざらあっとした感じとはまったく違います。表面には何本も横線と斜めの線が走っていて、それが交わって小さな菱形の格子縞のような模様になっています(これは袈裟襷文と呼ばれる文様だそうです)。さらに、触っては確認しませんでしたが、鹿?のような動物も描かれているということです。
 鈕や鰭にも模様がありましたし、型持孔も、舞に2個、身の少し上側に4個、身の下縁に4個(これは長四角の切れ込みになっています)も触って確認できました。ちょっと不思議に思ったのは、鐸身の下部に1個あった傷のような小さな窪みです。銅鐸は型を2個合せて作っているので、だいたいは対称的な形になっていますが、この傷のようなのは片側にしかありません。これは、発掘する時などにそのための器具などが当たって出来た傷なのではということでした。そして、このような傷ないし破損はふつう片側だけにあって、この傷のあるほうを銅鐸の表としているとのことでした。
 この銅鐸の色は、ふつうに見慣れている青銅の色ではなく、金色だとのことです。ちょっと調べてみると、出来たばかりの青銅の色は、銅に混ぜる錫の割合によって変化し、錫が3%以下だと銅本来の赤身を帯び、順次錫を増やしていくと黄色味を帯びてきて金色となり、さらに10数%を越えると白っぽくなっていくそうです。(錫の割合が増えていくとともに、固くなり、それだけ割れやすくもなるとのことです。)この銅鐸の錫の含有量は知ることはできませんでしたが、たぶん10%弱くらいかと思います。
 この銅鐸の厚みを触って確認することはできませんでしたが、大きさや重さのデータからだいたいの厚み(鐸身の厚み)を推定してみました。
 加茂岩倉出土23号銅鐸は、器高47.5cm、重量5840gだということです。鐸身の形を円錐台として、高さは器高から鈕の高さを引いて約40cmとします。円錐台の径ですが、私の触った印象で極めて大ざっぱになってしまいますが、上面の舞の部分で半径7cm、下面で半径11cmとしてみます。そうすると、上面と側面を合せた表面積は約2420cm^2となります。
 次にこの鐸身部分の体積ですが、重さを密度で割ればいいですね。全体の重さ5840gから、鈕や鰭など鐸身以外の部分の重さとしてこれまた大まかに 5%ほど割り引いて、約5600gとします。青銅の密度ですが、錫8%、鉛4%の青銅で8.7となっています。青銅に限らず鋳物では細かい空気孔が無数にできているはずなので、その分もちょっと割り引いて密度8.5で計算すると、体積は 5600/8.5≒660cm^3 となります。
 そうすると、鐸身の厚さは 660/2420≒0.27cmとなります。極めて大ざっぱな計算ですが、この銅鐸では鐸身の厚さは 3mm弱だろうと推定されます。この 3mmほどの一定に保たれた狭い隙間に、1000℃くらいに熱せられた銅合金を流し込んで行くのですから、当時の技術はやはりすごいものだと言えそうです。
 
 体験博物館では、この模鋳品のほかに、樹脂製と思われる複製の銅鐸 3点にも触れながら、表面に浮出している各種の文様や、様式の変遷について説明してもらいました。
 文様としては、袈裟襷文のほかに、流水文(直線と弧線を組み合わせた文様。中には線が途中で切れているものもあり、これは迷路派流水文と呼ばれるそうです)や横帯文があります。袈裟襷文にも、区画が大きく 4分されたものと 6分されたものがあり、その区画の中に動物などの絵が描かれたものもあるとのことです。
 銅鐸の様式の変遷は、鈕の形や文様を手がかりに次の 4形式に区分されるとのことです。
@菱環鈕式:初期の様式です。鈕の断面の形が菱形になっているので「菱環鈕式」と呼ばれるとのことです。鈕は分厚くて吊り下げるのに適していそうです。この様式には、鈕にも鰭にも文様がなく高さ 20cm前後と小型の古式と、鈕や鰭に文様が付き高さ 30cm以上とやや大型になった新式があるそうです。
A外縁付鈕式:鈕の菱環の部分が薄くなって、菱環の外側に文様の付いた扁平な装飾部が広がっています(文様は鰭にも続いている)。
B扁平鈕式:菱環部がさらに薄くなり、菱環の外側ばかりでなく内側にも文様の付いた扁平な部分が加わるようになります。
C突線鈕式:鈕の基本はBの扁平鈕式と同じだが、さらに装飾が派手になり、また鈕や実に目立った突線が施されるようになります。この形式はさらに 5形式に細分され、主な出土地によっても、近畿式と三遠式(三遠は三河と遠江。近畿式は鈕にまで触耳があるが、三遠式では鈕に触耳はない)に分けられるそうですが、私にはほとんど理解できませんでした。
 銅鐸の様式の変化について詳しくは分かりませんでしたが、鳴らして音を聞くための初期の小型の物から、次第に装飾が増し大型化して、見て驚くような物に変わっていったことはよく分かりました。見た目の効果を高くするためと関連することだと思いますが、私は数点の銅鐸に触ってみて、高さが増しても実の直径はほとんど増えていない物があることに気付きました。同じだけの材料を使うなら、直径を大きくするよりも高くしたほうが見た目に効果的かと思います。また、鐸身の横断面が円形ではなく、鰭の方向に広がった扁平な銅鐸もありました。これも特定の方向からの見た目を大きくするためだと考えられます。
 
 今回の体験博物館で、銅鐸についてだいぶ詳しく知ることができたようには思いますが、何のためにどのようにして使われたのか、何故集落から離れた場所にいつも埋められた状態で発見されるのかなど、銅鐸についての謎は尽きません。今夏には大阪府立弥生文化博物館でも同様の特別展があるので、そちらにも行ってみようと思っています。
 
 体験博物館の後、希望者は特別展会場に行って学芸員のSさんの解説で各展示物を詳しく見て回りました。さらに私は、閉館15分ほど前からSさんの案内で常設展示で触れることのできる展示品を簡単に紹介してもらいました。
  (補足:7月3日にも安土城考古博物館に行って常設展示を少し詳しく見学しましたので、その時の情報も付け加えます。)
 第一常設展示室は、弥生時代と古墳時代中心の展示です。まず、原寸大で復元したという横穴式石室に入ってみました。この石室は、博物館の近くにある瓢箪山古墳という4世紀後半の大きな前方後円墳の石室だとのことです。回りは石垣のように石がいくつも積まれて出来ています。奥に向って5、6mはある細長い形で、高さも幅も2mくらいのようです。中央当たりに2人並んで葬られており、その奥にはいろいろな副葬品が置かれていたようです。瓢箪山古墳にはこの横穴式石室のほかに、竪穴式石室が 3つあり、計5人が葬られていたとのことです。 次に古墳時代の鎧と兜に触りました。いずれも小さな窓のような所から手を入れて触るようになっていました。鎧は、腰から胸くらいまでを保護する丈の短いものです。小さな三角の鉄板を上下互い違いに組合わせて革バンドでつなぎ合わせたような構造になっていて、前の部分が開くようになっています(「三角板革綴短甲」とか言うそうです)。兜は、前額部に、衝撃を和らげるためでしょうか、衝角と言われる突起があり、また頭の頂部からは長さ20cm余の鳥の羽が後ろにすうっと伸びています。戦いに使うというより権威を表す役割も大きかったように思います。弥生時代の衣装も展示されていて、私はそれを着てみました。下は、横長の麻のようなごわごわした感じの布を巻いて紐で止めます。上は、首の所に孔が開いた縦長の布を前後に垂らすようにして帯で止めます。
 第二常設展示室は、安土城跡をはじめ、中世から戦国時代にかけての城郭のジオラマやそこから出土した遺物がいろいろ展示されていました。実際に触れられた物としては、まず「築城記」という書物に基づいて復元したという中世の城郭がありました。急な斜面に、足掛かりのためなのでしょう、丸太のようなのが一定間隔で並べられ、石垣ではなく土壁になっていました。また彦根城・安土城・観音寺城(佐々木六角氏の城)の石垣の積み方のレプリカに触ってみましたが、積み方の違はあまり分かりませんでした。長槍のレプリカも並んでいて、後北条氏の二間半、武田氏の三間、そして信長の軍が使ったという三間半の長槍を持ってみました。長さの割にはたいして重いとは感じませんでした(先端がどうなっているのか触ってみたいところですが、それはできませんでした)。
 ガラス越しに中の作業風景を見られるようになっているという回廊展示にも回りましたが、時間がなかったので、展示されていた土器・土師器・須恵器の破片を詳しく触り比べることまではできませんでした。
 
 最後に、今回いっしょに行ったKさんに、この特別展「大岩山銅鐸から見えてくるもの」展示資料一覧をデータ化してもらいましたので、その一覧より銅鐸のみ81点を抜粋して掲載します。(○印付きの物は、触ることができたものです。)これを上の銅鐸の 4様式でみると、菱環鈕式 0、外縁付鈕式 13、扁平鈕式 21、突線鈕式 47(近畿式 24、三遠式 15)となり、初期の鳴らすための小型の銅鐸はほとんどなく、大部分が中・大型の装飾の多い後期の銅鐸であることが分かります。とくに、この特別展のテーマの大岩山銅鐸は、計 24点中 20点も集められていて(いずれも突線鈕式)、その豪華さがうかがえそうです。(有名な加茂岩倉遺跡出土の銅鐸も、 39点中 15点出展されています。)
 
平成23年春季特別展「大岩山銅鐸から見えてくるもの」展示資料一覧 (展示資料116点より、銅鐸のみ81点を抜粋)
銅鐸(複製)、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 1号、突線鈕5U式(近畿式B系列)、134.7cm、45.5kg、国立歴史民俗博物館(原品は東京国立博物館蔵:826)(原品:重文)
銅鐸(複製)、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 2号、突線鈕3Ib式(近畿式A系列)、74.1cm、14.3kg、国立歴史民俗博物館(原品は東京国立博物館蔵:827)(原品:重文)
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 3号、突線鈕3Ib式(近畿式A系列)、70.2cm、9.3kg、天理大学付属天理参考館、重美考古59
銅鐸(複製)、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 4号、突線鈕2式(近畿式A系列)、69.0cm、重さ記載なし、銅鐸博物館(原品はケルン東洋美術博物館蔵)
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 5号、突線鈕3Ib式(近畿式A系列)、72.7cm、10.5kg、知恩院(京都国立博物館寄託)、重美考古60
銅鐸(複製)、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 7号、突線鈕3Ia式(近畿式C系列)、67.2cm、9.1kg、野洲市歴史民俗博物館(原品は個人蔵:野洲市歴史民俗博物館寄託)
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 10号、突線鈕3Ia式(近畿式C系列)、59.6cm、6.1kg、辰馬考古資料館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 11号、突線鈕2式(三遠1式)、50.8cm、7.5kg、辰馬考古資料館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 明治14年発見 13号、突線鈕1式(六区袈裟襷文 大福型)、47.5cm、5.1kg、國學院大學考古資料館
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 1号、突線鈕1式(六区袈裟襷文 大福型)、45.8cm、3.9kg、当館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 2号、突線鈕1式(六区袈裟襷文 大福型)、47.2cm、4.1kg、当館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 3号、突線鈕2式(三遠1式)、47.5cm、4.8kg、当館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 4号、突線鈕3Ia式(近畿式A系列)、53.7cm、6.7kg、当館、重文
○銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 5号、突線鈕3Ib式(近畿式A系列)、55.0cm、6.5kg、当館、重文
○銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 6号、突線鈕2式(近畿式C系列)、58.4cm、6.4kg、当館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 7号、突線鈕3Ib式(近畿式A系列)、69.0cm、約9.50kg、当館、重文
銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 8号、突線鈕3式(三遠4式 中根型)、78.7cm、約17.00kg、当館、重文
○銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 9号、突線鈕3式(三遠2式)、80.9cm、13.8kg、当館、重文
○銅鐸、野洲市小篠原大岩山 昭和37年発見 10号、突線鈕1式(迷路派流水文B1類《近畿式》)、53.4cm、6.3kg、当館、重文
銅鐸、伝近江国、外縁付鈕1式末(縦型流水文)、31.7cm、2.2kg、辰馬考古資料館、重美考古114
銅鐸、伝琵琶湖底、扁平鈕式古段階(横型流水文 有本型B類)、45.0cm、重さ記載なし、国立歴史民俗博物館
銅鐸、名張市赤目、扁平式鈕新段階(六区袈裟襷文1式)、現32.8cm、現1.70kg、国立歴史民俗博物館
銅鐸、伝近江国、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文)、31.5cm、1.6kg、辰馬考古資料館
銅鐸、桜井市大福遺跡、突線鈕1式(六区袈裟襷文 大福型)、44.7cm、重さ記載なし、桜井市教育委員会、奈良県指定
銅鐸(複製)、阿南市山口町田村谷、突線鈕2式(迷路派流水文A2類)、62.0cm、11.4kg、個人(徳島県立博物館保管)、(原品:重文)
銅鐸、出土地不明、突線鈕1式(東海派C類)、46.4cm、重さ記載なし、京都国立博物館
銅鐸、浜松市細江町中川穴ノ谷、突線鈕3Ua式(近畿式C系列)、59.0cm、重さ記載なし、浜松市博物館、浜松市指定
銅鐸、浜松市細江町中川滝峰才四郎谷、突線鈕2式(近畿式C系列)、72.7cm、重さ記載なし、浜松市博物館、静岡県指定
銅鐸、浜松市三ヶ日町日々沢猪久保、突線鈕4式(近畿式B系列)、96.0cm、重さ記載なし、浜松市博物館、静岡県指定
銅鐸、宝飯郡御津町豊沢、突線鈕4式(近畿式B系列)、96.0cm、重さ記載なし、文化庁(京都国立博物館寄託)
銅鐸、伝近江国、突線鈕4式(近畿式B系列)、89.3cm、重さ記載なし、名古屋市博物館
銅鐸、田辺市秋津町田代、突線鈕4式(近畿式C系列)、109.0cm、重さ記載なし、田辺市教育委員会、和歌山県指定
銅鐸、与謝野郡与謝野町比丘尼城、突線鈕5T式(近畿式C系列)、107.0cm、重さ記載なし、梅林寺(京都国立博物館寄託)、重文
銅鐸、羽曳野市西浦西浦小学校庭西、突線鈕4式(近畿式B系列)、89.6cm、25.0kg、文化庁(羽曳野市教育委員会保管)、重文
銅鐸、岡山市高塚高塚遺跡フロヤ調査区、突線鈕2式(迷路派流水文B2類《近畿式》)、57.7cm、重さ記載なし、岡山県古代吉備文化財センター(岡山県立博物館保管)、重文
銅鐸(複製)、徳島市国府町矢野遺跡、突線鈕5T式(近畿式C系列)、97.8cm、17.5kg、徳島県立埋蔵文化財総合センター、(原品:重文)
銅鐸、箕面市如意谷、突線鈕3Ua式(近畿式B系列)、85.5cm、重さ記載なし、文化庁(箕面市教育委員会保管)
銅鐸、浜松市都田町前原前原[遺跡、突線鈕2式(三遠1式)、67.3cm、重さ記載なし、浜松市博物館、静岡県指定
銅鐸(複製)、浜松市細江町中川悪ヶ谷、突線鈕3式(三遠3式)、62.9cm、7.9kg、野洲市歴史民俗博物館(原品は東京国立博物館蔵:6731)
銅鐸、豊田市手呂町、突線鈕3式(三遠3式)、97.7cm、重さ記載なし、豊田市郷土資料館、愛知県指定
銅鐸(複製)、津市野田、突線鈕3式(三遠4式 伊奈型)、64.5cm、重さ記載なし、津市埋蔵文化センター(原品は専修寺蔵)、(原品:三重県指定)
銅鐸、出土地不明、突線鈕2式(三遠1式)、39.5cm、重さ記載なし、岡山県立博物館
銅鐸、神戸市灘区桜ヶ丘町 2号、外縁付鈕1式(模型流水文)、42.4cm、重さ記載なし、神戸市立博物館、国宝
銅鐸(複製)、神戸市灘区桜ヶ丘町 4号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文 桜ヶ丘4・5号鐸型)、42.0cm、重さ記載なし、神戸市立博物館、(原品:国宝)
銅鐸(複製)、神戸市灘区桜ヶ丘町 5号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文 桜ヶ丘4・5号鐸型)、39.2cm、重さ記載なし、当館蔵(原品は神戸市立博物館蔵)、(原品:国宝)
銅鐸、神戸市灘区桜ヶ丘町 11号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文 長者ヶ原型)、45.3cm、重さ記載なし、神戸市立博物館、国宝
銅鐸、京都市右京区梅ヶ畑向ノ地町 1号、外縁付鈕2式(四区袈裟襷文)、現29.2cm、1.4kg、京都府立総合資料館(京都文化博物館管理)、京都府指定
銅鐸、京都市右京区梅ヶ畑向ノ地町 2号、外縁付鈕1式(四区袈裟襷文 中山型)、22.4cm、0.7kg、京都府立総合資料館(京都文化博物館管理)、京都府指定
銅鐸、京都市右京区梅ヶ畑向ノ地町 3号、外縁付鈕2式(四区袈裟襷文)、現23.1cm、1.5kg、京都府立総合資料館(京都文化博物館管理)、京都府指定
銅鐸、京都市右京区梅ヶ畑向ノ地町 4号、外縁付鈕1式(四区袈裟襷文)、23.7cm、1.0kg、京都府立総合資料館(京都文化博物館管理)、京都府指定
銅鐸、門真市野口大和田駅構内 1号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文? 亀山型A1類)、20.5cm、重さ記載なし、国立歴史民俗博物館
銅鐸、門真市野口大和田駅構内 2号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文 亀山型A1類)、20.5cm、重さ記載なし、国立歴史民俗博物館
銅鐸、門真市野口大和田駅構内 3号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文 亀山型B3類)、26.5cm、重さ記載なし、国立歴史民俗博物館
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 8号、扁平鈕式新段階(六区袈裟襷文1a式)、46.6cm、5.7kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 10号、扁平鈕式新段階(六区袈裟襷文2式)、45.8cm、3.6kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 12号、外縁付鈕1式(四区袈裟襷文 慶野型)、30.7cm、2.3kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 13号、外縁付鈕2式(四区袈裟襷文)、44.5cm、5.6kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 15号、扁平鈕式古段階(横型流水文 有本型A類)、46.0cm、5.0kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 16号、外縁付鈕1式(四区袈裟襷文)、30.6cm、2.3kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 17号、外縁付鈕1式(四区袈裟襷文)、30.0cm、2.1kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 18号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文)、47.7cm、50kg(土付)、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 20号、扁平鈕式新段階(六区袈裟襷文2式)、45.4cm、3.8kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 21号、外縁付鈕2式(横型流水文)、44.6cm、18kg(土付)、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
○銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 23号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文)、47.6cm、5.8kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 24号、外縁付鈕1式(四区袈裟襷文 中山型)、31.3cm、22kg(土付)、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 29号、扁平鈕式新段階(六区袈裟襷文2式)、46.9cm、4.4kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 35号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文)、47.4cm、5.4kg、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸(複製)、雲南市加茂町岩倉加茂岩倉 37号、外縁付鈕2式(四区袈裟襷文)、45.4cm、16kg(土付)、島根県立古代出雲歴史博物館(原品は文化庁蔵)(原品:国宝)
銅鐸、阿南市山口町伝長者ヶ原 2号、扁平鈕式新段階(六区袈裟襷文1a・1b式)、現41.0cm、現2.50kg、徳島県立博物館
銅鐸、徳島市入田町安都真 1号、扁平鈕式古段階(四区袈裟襷文 石井谷型)、29.7cm、1.3kg、個人(徳島県立博物館寄託)、徳島県指定
銅鐸、徳島市入田町安都真 1号、扁平鈕式古段階(四区袈裟襷文)、21.6cm、0.6kg、個人(徳島県立博物館寄託)、徳島県指定
銅鐸、徳島市入田町安都真 1号、扁平鈕式新段階(四区袈裟襷文 亀山型B3類)、現24.7cm、0.4kg、個人(徳島県立博物館寄託)、徳島県指定
銅鐸、磐田市敷地西の谷遺跡 3号、突線鈕3式(三遠3式)、77.1cm、重さ記載なし、静岡県教育委員会、静岡県指定
銅鐸(複製)、宝飯郡小阪井町伊奈松間 1号、突線鈕3式(三遠3式末 伊奈型)、74.3cm、12.2kg、国立歴史民俗博物館(原品は東京国立博物館蔵:9984)
銅鐸(複製)、宝飯郡小阪井町伊奈松間 2号、突線鈕3式(三遠4式 伊奈型)、81.0cm、21.7kg、国立歴史民俗博物館(原品は東京国立博物館蔵:9985)
銅鐸(複製)、宝飯郡小阪井町伊奈松間 3号、突線鈕3式(三遠4式 伊奈型)、81.5cm、25.8kg、国立歴史民俗博物館(原品は東京国立博物館蔵:9986)
銅鐸、浜松市細江町中川滝峰七曲り 2号、突線鈕3式(三遠2式)、推定65cm、重さ記載なし、浜松市博物館
銅鐸(複製)、浜松市三ヶ日町釣荒神山 1号、突線鈕3式(三遠3式)、74.2cm、10.6kg、浜松市博物館(原品は東京国立博物館:828)
銅鐸(複製)、津市高茶屋 1号、突線鈕2式(近畿式C系列)、現66.3cm、重さ記載なし、津市埋蔵文化財センター(原品は津市教育委員会蔵)、(原品:津市指定)
銅鐸、天理市石上町平尾 1号、突線鈕1式(流水文 石上型)、50.0cm、重さ記載なし、宮内庁書陵部
銅鐸(複製)、天理市石上町平尾 2号、突線鈕1式(流水文 石上型)、58.7cm、重さ記載なし、宮内庁書陵部(原品は宮内庁書陵部)
 
(2011年6月5日、2011年7月5日追加)