『触れる世界の名画集』を読む

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 この5月に、日本点字図書館より『ふれる世界の名画集』(Art to Touch: Masterpieces of Western Art)が出版されました。
 編者 日本点字図書館点字製作課、立体絵画制作 柳澤飛鳥、解説テキスト 真下弥生、監修 大内進・半田こづえ、発行 日本点字図書館図書製作部点字製作課(出版)
となっています。
 
 まず、表紙には、和紙に浮出しにされた、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」の一部分(中央部分の、貝に乗った、ビーナスの胸から上の部分)が張ってあります。顔や髪、そして右手指を大きく広げて胸に当てている様子が触ってよく分かります。触って鑑賞する名画集に相応しい表紙です。
 本を開いてみると、各絵について、点字4ページの作品解説と半立体的に紙に浮出しにされた図版がセットになっています。解説文は点字とともに墨字も併記されていて、見える人たちもいっしょに使いやすくなっています。
 解説文は、サイズなど作品についての基本情報、作品や作家についての背景的な解説、絵(浮出し図版)に描かれている事物や雰囲気についての詳しい言葉での説明、そして浮出しの絵を触って把握するさいに指標となる要素の説明から成っています。見えない人たちに絵を言葉で説明する時に問題になるのが左右をどのように表現するかですが、この本では絵に向って触った時の左・右で表しています(ただし、人物画で右手・左手と言う場合はもちろんその人物の右手・左手を指します)。
 半立体的に浮出しになっている絵は、柳澤飛鳥さんという彫刻家の方が精密な原版を作り、それに合せて用紙に浮出し印刷したものです。浮出しの高さは2mmくらいしかありませんが、細かい凹凸や線・曲面などによって、説明文を参考にしながら触ってみると、絵の内容や雰囲気が少しは伝わってきます。この浮出し図版は上の辺だけが固めの紙に張り付けられていて、表ばかりでなく裏からも触れるようになっています。目など窪んでいる部分については、裏から触ると逆に浮出していて、触って分かりやすいという訳です。浮出し図版の大きさはいずれも、縦19.5cm×横15cmです。細かい部分を触って確かめるためにも、図版はもう少し大きいほうが良いように思います。
 
 この本に収録されている絵は、西洋の美術ではだれでも知っているような作品12点です。ふつう画集では、時代順とか作家別とか画法別とかで構成されていると思いますが、この本では触って絵を理解しやすいであろう順に配置されています。触って絵を鑑賞する手引書としてのこの本ならではの構成だと言えます。
 以下のような構成になっています。
●顔の特徴がとらえやすい人物1人の半身像
 1 ルノワール 「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢の肖像」
 2 フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」
 3 ダ・ヴィンチ 「白テンを抱く婦人の肖像」
 4 ダ・ヴィンチ 「モナリザ」(簡略化されてだが背景も描かれている)
●全身像
 5 マネ 「笛を吹く少年」
●複数の人物
 6 ゴーギャン 「タヒチの女たち」
 7 ミレー 「落穂ひろい」
 8 ドラクロワ 「民衆を導く自由の女神」
●人物以外(静物画)
 9 ゴッホ 「ひまわり」
 10 セザンヌ 「たまねぎのある静物」
●デフォルメされた抽象的な絵画
 11 ムンク 「叫び」
 12 ピカソ 「海辺を走る2人の女」
 
 以下に、浮出し図版の言葉による詳しい説明、およびその触察のための手掛りについて、どのように書かれているのか、次の2作品について引用してみます。
●ダ・ヴィンチ 「白テンを抱く婦人の肖像」
【言葉による説明】
 図の中では漆黒の背景を背に、 1人の若い女性が、真っ白な毛に覆われた小動物・テンを腕に抱いて、ゆったりと座っています。女性の身体は左を向いていますが、首を右向きにひねっています。栗色をした瞳は、遠くをじっと見詰め、薄い唇を結んでいます。明るい茶色の髪は額の上で左右にきっちりと分けられ、顔の側面をぴたりと覆うように、顎に向います。一方、後頭部で髪は紐のように編まれています。額に走る線は頭をぐるりと一周回る細いこげ茶色の紐です。その下に並行して、薄い黄色の糸の飾りが、眉に重なるように巻かれています。
 女性の胸に抱かれた白いテンは、女性と同じく右側に顔を向け、体を左腕にあずけたまま、身を乗り出そうとしています。耳も鼻先も緊張し、視線の先にある何かに向けて、全身で注意を払っているようです。女性はテンが、自分の腕からすり抜けるのを防ぐように、その首筋に、右手の指を当てています。
 女性の服は、襟元が四角く開き、その首と胸元には黒い玉をつなぎ合わせたネックレスが垂れ下がっています。肩から肘にかけて、服の布は青い色をしていますが、腕の側面には、透けたようなまちが広がり、赤や黄色の布や黒い紐の飾りがのぞいています。
【触察のための手掛り】
 図は縦書きで、上三分の一ぐらいの所に女性の頭部があります。鼻や口は顔の右側に寄っています。顎の下からは胸元のネックレスの線がたどれます。ネックレスの右下には、テンの頭部があり、その首から肩にかけた付近を女性の右手が押さえています。
 
●ピカソ 「海辺を走る2人の女」
【言葉による説明】
 図の中には青々とした海と空を背景に、豊満な身体の 2人の女性が、明るい光に照らされた浜辺を踊るように走っています。 2人は手を取り合い、手前と奥に重なって描かれています。両手両足を力の限り伸ばした 2人は、ともに細い肩紐の白いワンピースを着ていますが、その胸元ははだけ、ともに左の胸が露になっています。この絵はデフォルメされていますので、腕の太さ・長さと、脚の太さ・長さのバランスはかならずしも合っていません。
 手前(左)の女性は、左腕を天に向って高く掲げ、奥(右)の女性としっかり手をつないでいます。一方、右腕は一直線に後ろへ伸ばしています。顔は天を見据えるように真上を向いた横顔で、縮れた黒い髪がかたまりになって背後になびいています。
 奥(右)の女性は、図の四方に手足を伸ばした姿です。手前の女性とつないだ右手を真上に掲げ、左手を前に突き出し、左足を真下に踏みしめ、右足を真後ろに蹴り上げています。顔は、背景の海に目をやっているので、図では頬から顎にかけてのラインが見えるのみです。背後になびいた髪が、つないだ 2人の腕の隙間からのぞいています。
【触察のための手掛り】
 図は横書きで、図の上につないだ 2人の腕のラインが見えます。図の右には奥の女性の突き出した左腕があり、下にはそれぞれの片脚が伸びています。図の左には、上から手前の女性の右腕、奥の女性の足、手前の女性の足の順に伸びています。足元のひろがりは浜辺に盛り上がる砂を表しています。
 
 次に、これら2点の浮出しの絵について、説明文も読みながら実際に私が触ってどの程度分かるのか書いてみます。
 「白テンを抱く婦人の肖像」では、女性の顔、ネックレス、テン、テンを押えている手などがよく分かります。顔は向って右を向いていますが、目はまっすぐ前を見ているようです。額の上には横に細い線(紐?)があり、また頬の左には縦にゆるやかな曲線(たぶん髪との境目)があります。さらにその左には、微かにですが、巻いた髪がまっすぐに垂れているのが分かります。ネックレスは、小さな点が連なった点線のようで、触ってなかなかいい感じです。首の下に輪のように少し垂れ、また首の両側から真っ直ぐ下に手のあたりまで長くのびています。テンは、よく触ってみると、耳、目、とがった鼻(ないし口)が分かりますし、前足と後ろ足らしきものも分かります(注)。テンを押えている手は、手の甲と人差指から小指までがよく分かります。また、首の下から胸までが大きく開いているようで、真っ平らでとてもすべすべした手触りです。
 「海辺を走る2人の女」は、一触した感じは、あちこちに棒のようなのがたくさん出ていてばらばらの感じがします。でもよく触ってみると、腰の辺りで2人の女性の体が重なっていて、手前の女性のほうが少しだけ高くなっています。これに気付くと、それぞれの人の手足がどのように配置されているのか触って分かるようになりました。奥の女性は脚を120〜130度ほども開いているようです。また、2人の女性の胸のふくらみや、手前の女性の仰向いた顔と後ろになびいている髪もよく分かります。2人の女性がいっしょに浜辺を飛びながら走っている姿が想像できます。
  (注) 私が「後ろ足らしきもの」と感じたものは、この作品を立体化した作品(6月4〜9日に日本点字図書館で開催されていた「触れる美術展」に展示されていた)で確かめてみると、向こう側に見えている前足でした。
 
 この浮出しの絵では、もちろん色はまったく分かりませんし、また解説文に書いてある細部まで触って理解できない箇所もかなりあります。でも、大まかな配置や形は触ってよく分かり、全体の姿はだいたい思い浮べられます。引用はしませんでしたが、各作品には作家についての解説や作品についての背景的な説明もあって、あまり触り慣れていない人でも画集としてそれなりに楽しむことができるのではないでしょうか。
 これまで見えない人たちの絵画鑑賞といえば、言葉による説明だけ、あるいは一部輪郭中心の立体コピー図版と組み合わせての説明だけでしたが、このような、絵を触って分かるようにした浮出し図版に実際に触れることによって、絵についての理解が格段によくなると思います。今度は、西洋美術史の流れを簡単にでもたどれるような、触る画集を体験できればと願っています。
 
(2012年6月8日)