「楽しくなければ介護じゃない」――手の役割・力――

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 昨年11月15日と16日、NHKラジオ深夜便で、川嶋みどりさん(日本赤十字看護大学 名誉教授)の「楽しくなければ介護じゃない」というお話が放送されました。
 本来の看護とはどういうことなのか、そういう看護によって患者さんたちが実際にどのように〈治る〉のかなど、とても興味深く聴きました。とくに、看護において手がどんなに大きな役割を果たすのか、力を持っているのかを知ることができました。
 私はこれまで、見えない人たちにとって触察がいかに大切かを機会あるごとに話してきました。そして、触察を担う手は、「探る手・知る手」であると同時に、「思いを感じる手・伝える手」であり、また「作る手・操作する手」でもある、と言っています。今回の看護の話において、手のこれら三つの役割を知ることができましたし、60年におよぶ川嶋さんの看護の実践から語られる手の役割・力についてのお話はとても感銘深いものでした。
 
 まず、川嶋さんのプロフィールを「世界に広げたい看護の原点=TE(テ)―ARTE(アーテ)」 より引用します。
 1931年ソウル生まれ。51年日本赤十字女子専門学校卒業。51年〜71年 日本赤十字社中央病院 (52〜55年 日赤女専、日赤女子短期大学派遣。65年東京看護セミナー設立)。71年より看護基礎教育、卒後研修、教員養成講座等講師。74〜76年中野総合病院看護婦教育顧問。82年〜 健和会臨床看護学研究所所長。84年臨床看護学研究所設立。2003年〜日本赤十字看護大学教授。05年〜同学部長、同看護実践・教育・研究フロンティアセンター長。07年第41回フローレンス・ナイチンゲール記章受章(赤十字国際委員会)11年日赤を退職、名誉教授に。専門分野は老年看護学、看護管理学。
 
 以下は、放送内容を文章に起こしたものです。 2回合せて1時間半近くにおよぶ放送でかなりの分量になりました。適宜小見出を付け、一部、話の順番を変えた所もあります。また、[ ]内は私の注釈です。
 
●いつも勉強
 本当の現場の看護婦として仕事をしていたのは、20年。
 小学校6年間で5回、女学校4年間で4回転向し、また学徒動員(軍服を作っていた)もあったりして、私は基礎的な勉強がほとんどできていないと自分で思っていて、コンプレックスのようなのがあった。1971年退職後なんとか基礎的な勉強をしようと考えていたが、結局あちこちから講演や研修・院内教育などの依頼があり、そういう方面の仕事をすることになった。講演やイベントなどで全国を回っていて、家にいることは少なく、家ではパソコンで資料や原稿を作り、電車などの乗物が私の書斎で、移動中に本を読んでいる。
 先輩から、学校にいる間は差はあまり出ないが、卒業してからはどれだけ専門の勉強をするかで大きな差が出ると言われた。それを真に受けて、専門書をとにかく読んだ。結婚して子供ができてからも子供を負いながら乗物の中で読んだ。それがずうっと数十年続いている。私は2回お産し、2回産休を取っているが、よく若い学生たちに、分娩台の上以外の時はいつも専門書を見ていたと言っている。
 
●引き揚げまで
 生まれたのは、ソウル。6年間ソウルに住み、父が銀行員だったので、その後韓国を転転とする。徐州が陥落した後、戦火の徐州に行き、さらに北京に行き、そこで敗戦。すぐには引き揚げず、山西省の奥地の太原に行く。そこは治安はそんなに悪くなく、1年ほどいて翌年15歳で帰国。6人兄弟の長女で、乳飲み子もいて、とくに母はたいへんだったろう。父と2人で荷物を持ち、LST(米軍の揚陸艦)で帰国し、山口県仙崎に上陸。そこから、父の古里島根に行く。韓国や中国での生活と島根での生活には大きなギャップがあり、驚いた(島根は封建的)。
 
●看護婦になった経緯
 なぜ看護婦になったか、一言で言えば、お金がなかったから。父は銀行員だったが、引き揚げてからは農業。地主だったが、土地は没収され、 4反歩(たんぶ)の自作農になる。それだけでは家族が食べるにも事欠くくらいで、現金収入がなかった。女学校では進学のほうに入っていて、もともとは女医になりたいとは思っていたが、上級学校に行きたいとは言えなかった。父は、私の意向を知って女子医専の規則書をを取り寄せていたらしいが、互いに進学のことにはふれなかった。ところが、聖ロカ出身の保健の先生が、お金がなくても勉強できる道があるよと言って、私ともう1人に聖ロカ女専を紹介してくれた。おじが日赤の内科医長をしていて、1人は日赤を受けたほうが良いということで、私が日赤のほうを受けた。当時は親や周辺の人たちは看護婦を低く見る傾向があったが、占領軍の方針で、看護婦は医師と対等な仕事だとして教育され、その後もずうっとそれで続けてきたので、後悔はない。
 その後60年間、看護の仕事をし続けてこられたのは、毎日これでは看護の仕事はだめ、という気持ちがあったから。看護大好き、人間大好きで、たいへんだからこそ続けてきた。オリンピック選手と同じで、最後のハードルを飛び得た喜び、困難をのり越えた時の喜びは、だれでもない自分のもの、という思いがあった。看護の職場は、むかしに比べて今は、環境も人手も労働条件も本当に良くなったが、胸を張って素晴らしい看護ができているとは言えない。自分がいい看護をするだけでなく、みんながもっと良い看護をしなければ、できるようにならなければと思って、続けている。皆さんに信頼される看護師、皆が安心してケアを受ける状況にしたい。今は診療補助に傾いていて、本当の看護をすることが少ない。
 
●看護師になったころ
 日本赤十字女子専門学校に入学。日赤には明治時代から看護婦の養成所があったが、これが、占領軍の命により、看護の高等教育を行う場として、聖路加女子専門学校とともに1946年に日本赤十字女子専門学校として設立され、その4期生。新しい看護婦像を植え込まれた。当時は紙不足で、教科書がなく、先生の言うことをひたすら筆記。実習では、まず先生のすごい技を見学し、それから、まずベッドつくり、身体の拭き方、体位を変えることなどを自分でし、その後病棟実習。当時は病院ではいろいろな物が不足していて、授業で習ったような看護はなかなかできなかったが、そんな中でなんとか工夫して行った。学生の時には、1人での夜勤が1週間連続ということもあった。病院実習と言っても、看護婦が足りなくて、学生は労働力だった。2年生になると、昼は授業、夜は勤務で、だから寝られない。1つの病棟を学生1人で夜勤する。ハードなトレーニングだったが、3年間の教育で、看護の基本が身に付いた。
 看護でまず心がけたことは、自らを犠牲にしてもとにかくお世話をすること。それから、いろいろな患者さんがいるが、どんな患者さんにも平等に、差別せずに対応すること(もちろん重症患者はとくに丁寧にしなければならないこともあるが)。また、事故は絶対に起こさないもの、そのために注意!注意!を心がけた。小児病棟を担当したが、子供は錠剤を飲まず水薬を使う。その水薬の量の管理点検、さらに注射針(あのころは1本1本消毒して使っていた)も細かく管理点検。実習の中で責任感が付いた。理論はまだあまり進んでおらず、理屈よりもまずすること、体を惜しまずなにかをすることで、例えばベッドには皺のないのが当たり前(今はベッドになぜ皺があるといけないかの説明から始まる)。
 当時は女性の仕事としては教師か看護婦くらいに限られていて、それだけ必死になり、耐えた(それでも厳しくて半分くらいは脱落したが)。今は選択肢が広く、学生がありとあらゆる仕事の中から地味で厳しい看護師の道を選んだことは尊敬するが、やはり打たれ弱く、ちょっと厳しくされたりなにかあったりすると、涙ぐんだり辞めたりする。むかしもそういうことはあったが、最近はよりそうだ。
 学生の時も看護婦になってからも全寮制。寮を出る時は退職願いを書く時。夜中でも、災害の時でも、すぐに駆け付ける要員だった。廊下伝いに病院とつながっていたので、パジャマと白衣だけがあればよく、最低限でも3度3度の食事も寝る所も用意されていて、社会から隔絶されていた(物の値段なども知らない)し、社会性はなかったと思う。それでも、外からは民主の風・声が入ってきて、外向きにはなっていた。
 
●本当の看護とは
 本当の看護によって、痛くなく、つらくなく、気持ちよく、病気は治る。熱いお湯と石鹸とタオルがあれば、病気だって治るのよ、と学生に言っている。
 新人、学校お卒業して10日以内の出来事だった。学童の部屋を1人で受け持たされていて、そこに、脊髄腫瘍で、背中に小さなキャベツくらいの腫瘍のある少女が入院してきた。腫れ物のため最初は仰向けに寝られない状態で、また悪臭というか、なんとも言えない臭いがした。少女はしかめ面をし、おばあさんのようなしわしわの顔をして「痛いよお、だるいよお」としか言わない。新人だったし、どうしようかと足が竦んでしまったが、学生時代に実習で、風呂に入れない患者さんに、ベットバスと言って、全身をきれいにする方法を繰り返ししていたので、身体をきれいにすればきっと気持ちよくなるのではと思った。そう思って、お湯を汲んできて、脈を診ると、すごく脈が悪くて(脈が測れないくらい速くて弱い。今でいえば、ターミナルな重症の方)、これでは身体を拭いては絶対にだめだと思い、「足だけ洗いましょうね」と言ってその日は足先だけを洗う。翌日は膝から下、次の日は太股から下、という風にして、1週間かけて全身をきれいにした。1週間目の朝、背中の一番こわい腫れ物の所をガーゼでそうっと拭き終わったら、その少女がにっこり笑って、頬がピンク色になり(垢が全部落ちたから)、「看護婦さんお腹が空いた」と言った。その子はぜんぜん食べなくて、静脈注射を20ccずつしていた(点滴のない時代だった)。早速配膳室に行って、残りのご飯をもらって卵のお粥を作ったら、「ああおいしい」とそれを食べてくれ、さらに脈も、どん、どんという良い脈になった。
 当時は、なぜそのようになったのか分からなかった。すぐナースステーションに戻って、先輩の看護婦とドクターに、こんなにも良くなったことを話したが、「ああそう」と言うだけで何も評価されなかったし、なぜそうなったかも教えてもらえなかった。でも、この経験は私の記憶の中にインプットされた。その子は、放っておいたら1週間くらいで亡くなったかも知れないが、 3ヶ月以上病院で少女らしい生活を過ごすことができた(手術はできなかった)。清拭することがそんなに良いことだとは思っていなかったが、10年後、ナイチンゲールの本の全訳が日本で出て、それを読んだ時に、腑に落ちた。その本には、「安楽というものは、その人の生命をそれまで脅かしていたものが取り除かれて、再び生命が生き生きと動き出した兆候」と書いてあった!そこを読んだ時、10年前のことがよみがえり、あの少女の生命を脅かしていたものは、腫瘍ではなく、全身を覆っていた垢だったんだと思った。垢を落とす=新陳代謝を良くしたことが、彼女の治る力、すなわち副交感神経が優位になり、食べることができるようになって、治る力につながった。これが、私の看護の原点。以来、お湯と石鹸とタオルがあれば、かなりの苦痛緩和とか入眠剤の代わりとか、いろんなことに役立つと思っている。
 
●看護とは
 看護とは、看護を必要とされている方の自然回復過程であって、人間はだれでも治る力、病気に打ち勝つ力、自然治癒力を持っている。医療の場合は外から力を加えて(薬を飲ませたり注射したり手術したりして)治すが、看護は、そうではなく、人が中に持っている治る力を引き出す――これが看護の本質、原点である。そのことはフローレンス・ナイチンゲールがすでに19世紀に言っている。「あらゆる病気は回復過程である。その回復過程を整えることが看護である」と。そのためには、新鮮な空気、暖かさ、規則正しい食事、光などをきちんと提供するのが看護だ、そして1人1人の持っている生命力を整えるのが看護だ、とナイチンゲールは言っている。お年寄りから赤ちゃんまで、お腹にいる赤ちゃんもふくめて、生命が中から持っている力を引き出すこと。重い病気の場合でも、その人が持っている可能性、寿命のその直前までその人の持っている力を引き出すこと。
 ただ、日本では明治から、看護婦は医師の手伝いをする仕事として始まっている。だから、法律、保健師助産師看護師法(昭和23年制定。当時の名称は「保健婦助産婦看護婦法)では、診療の補助、医師の仕事の手伝いをすることと、療養上の世話、すなわち先に言った看護の本来の仕事の2つが、看護師の2大業務として位置付けられている[第五条「この法律において「看護師」とは、厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者若しくはじよく婦に対する療養上の世話又は診療の補助を行うことを業とする者をいう。」]。現実はどうかというと、診療の補助、医師の行う診療、機械やパソコンなどお使った診療には、医療費としてお金がでる。だから、看護師の仕事も、本来は2つの仕事があるけれども、どちらかと言えば、むかしから医師の診療補助に偏った仕事がとても多い。それで、一般の方から見ると、採血したり注射したり血圧を計ってくれたりする人、あるいはお医者さんの後に付いて歩いている人、という印象が強かったと思う。でもそれは看護師の一部の仕事であって、半分は、本来の仕事は、その人の持っている力を引き出す仕事。
 具体的にどういうことかと言うと、食べたり排泄したり呼吸したり眠ったり、あるいは身だしなみを整えたりなど、それがなくては、欠けてしまえば命にかかわること、人間の生活に欠かせない営みがある。また、コミュニケーションをはかったり趣味を持ったりレクリエーションをしたり学習したりなど、命には関係ないがそれがないと人間らしい生活とは言えないものもある。これら生活行動は、自分でしないと満たされない(本人に代わって、食べたりトイレに行ったりはできない)。これら自分がしなければならない営みは、ふだんは習慣的・日常的にしているので、それができなくなった時のことを考えていない。それが、病気や手術の時、あるいは高齢者とか赤ちゃんではできない。だから、そういう時に、健康な時にしていたのと同じようにできるようにお手伝いするのが看護で、そういうことをすることが、その人の持っている力を引き出すことになる。食べられない人が自分で食べることができるようにすることが、その人の持っている治る力に影響する。体をきれいに拭くことは命に関係ないと思われるかも知れないが、体をきれいに拭いてああ良い気持ちだなあと思うことが、副交感神経の働きを高め、そのことが免疫力を高める。看護という仕事は、皮膚を通して気持ち良くさせたり、言葉かけを通して気持ち良くさせ、そのことが免疫力を高める。
 
●看護と介護
 生活を快適にする、暮らしやすくするために、調理したり洗濯したり掃除したりなど、ふつう主婦の仕事と言われているものがある。これらは、1人暮らしの時は自分でしなければならないが、他の人が代わってできる仕事である(お手伝いさんにしてもらったり、クリーニングに出したりなどできる)。本来、介護はこういう代わってすることのできる仕事をすることで、生活支援である(今は、身辺介助と家事援助となっているが)。でも実際は、主婦も、高齢者が動けなくなってくればその世話をしたり、子供が熱を出せば家で看病したりしている。すなわち、生活行動の援助をしている。こういったことも今は介護の人たちもしている。
 本当は介護も看護も同じなのだが、高齢化が進み、看護師だけでは手が足りないということで、2000年に介護福祉法ができ、介護職が誕生した。ただ、大昔から人類は、人間集団の中で高齢者を助け、子供を看、血が出れば止血しようとし、具合が悪ければ草の根などから煎じ薬を作ったりするなどして、生き延びて現在まで至っている(そういうことがなければ、人類は滅びていたはず)。だから、ケアすることは人間集団の持っている本来の性質であって、介護も看護も人間の生活・暮らしの中から生まれてきた専門職と言える。家族がかりでしていたことを、病気が複雑になったり、交通が頻繁になって伝染病が増えたりなど社会の変化によって、一家の中でできなくなり、専門職が誕生した。介護も、介護福祉法ができて介護職ができたのであって、それまではふつうに家族がしていたこと。介護と看護は今は二本立てで、管轄する役所も、教育も違い、実際介護の仕事なのか看護の仕事なのか、訪問看護ステーションなのか訪問介護ステーションなのか悩むことが多いが、本来は介護と看護は同じで一つのもの。とくに、東北大震災の被災地に行ってみて、介護と看護は一つにしなければだめだなと思っている。手分けして両方でちゃんとしなければならない。
 
●結婚
 27歳の時に結婚。そのころは、看護婦をしたままで結婚することはほとんどなかった。
 当時は看護婦はみな寮に入るのが建前で、寮から出るには退職願いを書かなければならなかった。先輩は、結婚相手になりうる男はほとんど戦死していて、独身の者が多かった。ただ、民主国家・文化国家などと言われるようになり、新制高校を卒業した人たちが看護学校に入ってきて、全寮制で結婚できないというのはおかしいと主張するようになった。私たちは初め、臨床のナースは結婚しないのが当たり前よなどと言い聞かせたりしていたが、専門職として一生仕事をするには、結婚しても子供を産んでも辞めないで続けられるような体制にしなければいびつだと思うようになった。そのために、まず寮を出なければということで、すごく勇気が要ったが、数名が寮を出た。くびになると思ったらくびにはならなかった。その代わり、通勤者と言っていじめられた。寮を出てみると、家賃(当時は1畳千円、4畳半で4500円、夜勤を2週間しても給料は6000円)を払って生活するのがどんなにたいへんか、自分たちの賃金がいかに安いか、人間らしい条件がどんなものかに目覚めた。そういう人間としての目覚めと同時に結婚。結婚すると子供を産んでも辞めないでもいいようにするために保育所が必要ということで、一番最初の院内保育所を、病院の物置を改築して作った。結婚も、子供を産むことも、とても勇気がいることだった。
 夫は国家公務員で、通産省の研究所にいた。出勤や退出時間はある程度融通がきいて、共稼ぎが続けやすかったとも思う。夫は進歩的な人で、それにたいし私は島根県の封建的な地で育った(父を東京駅まで2人で迎えに行った時に「男に荷物を持たせるやつがあるか」と叱られた)こともあって、結婚したら女のほうが犠牲的にしなければと思っていたが、夫は家事に埋没するな、雑用は2人で分けてしようと言って始まった。自分のお客さんが来ても、お茶を出さなくてもいいよ、と言う(でも、奥さんがいるのにお茶も出さないのでは、とお茶は出した。)。子供がだんだん大きくなると、パパは後片付けしてよ、ママに本を読んでもらう、と言われたりして、夫婦平等が子供によってつくられたような感じもする。
 
●夫の介護
 夫は、今から5年前、金婚式の目前、舌癌で亡くなった。病に臥してから介護と仕事をする(夫は自分が病気になったからといって、君が仕事を続けられなくなるのはいやだ、と言った)。当時学部長になったばかりで、それは激務だった。
 手術して最初の1ヶ月間は病院で、毎日大学に行き帰りに遠い病院に行くことを繰り返した。後の9ヶ月間は在宅で過ごした。訪問看護ステーションや介護職なども利用。その時に、訪問看護ステーションと介護ヘルパーとの連携が取れていなかった。夫は舌を取っていたのでしゃべれず、筆談をした。夫が筆談で両者の調整をいつもしていた。それはたいへんで、なんとかしなければと思った。その後、緩和ケア病棟に1ヶ月入院。その時も仕事も休まずに続けたので本当にたいへんだったが、いろんなことを勉強した。今の医療制度の有り方、看護と介護の問題についてなど。
 喉は塞がれていたので、食道に穴を空け、その穴から特殊なチューブで液体を飲むことしかできなかった。私たち夫婦は以前から食事はとても大切にしていて(良い食事は免疫力を高めるから)、私はその液体職を、毎日数種類ミキサーを使って手作りしていた。睡眠時間は3時間半くらい。仕事をしながらの介護はたいへんだというが、仕事が介護の逃避、逃げ場になる。また、仕事のたいへんさを介護で回避できる。
 
●仕事と介護
 共働きではいろいろなことを並行してうまくこなせなければならないが、共働きの主婦の仕事を上手にすることは、看護の良いトレーニングになる。また、介護のたいへんさは主婦の煩雑な仕事のトレーミングにもなる。だから私は、共働き生活の最初から、被害者意識は捨てようと自分に言い聞かせていた。それは介護になってからも同じで、仕事をしないで介護だけのほうが楽だろうというが、私の場合は、仕事が介護の逃避になり、友達にあれこれ実状を話して発散していたと思う。
 でも、看護・介護と仕事の両立も、期限がある。介護が1年だったからできたと思う(夫が亡くなってから息子に「これが限界だったね。もっと長生きしていたら、優しくできないよ」と言われた)。優しい介護、優しさには限界がある。
 介護が長引くと優しさは続かない。優しさを維持する方法は、2つある。1つは、介護の方法を勉強し熟知すること。そうすると自信ができ、おどおどしたり困らないですむので、ゆとりをもってケアできる。例えば、便がかちかちになってお通じがない場合、ゴム手袋をして肛門の先のほうの便の塊をかるくつぶすようにすれば良いし、また寝たまま頭を洗う簡単な方法もある。
 もう1つは、自分が心身ともに疲れていないこと。睡眠時間を減らすなどどこかでしわ寄せがくるから、優先順位を付けて、上手に手抜きをしよう(完璧主義は駄目)。息抜きをするためにも、介護ステーションやヘルパーやデイケアサービスを利用する(その間は何もしないなり、昼寝をする)。
 それとともに、1人で悩まないこと。(本人のいない所で)だれかに「だめなのよ!」「どうにかならないのか!」などと言って発散する。
 介護を受ける方も(意識のない方は別として)、「ありがとう」とか感謝の言葉を言い、また、例えばおしりが上がらなくても、本人が上げようとすればより軽く上げることができる。「すまないねえ」とかいう思いで上げようとしてくれると、すっと持ち上がる。
 基本は、介護されるよりも介護するほうがずっと楽ということ。だから、介護する人は、私のほうがずっと楽なのよ、と思ってほしい。他人に世話を受けることくらい辛いことはない。最後まで子供の世話になりたくない、嫁の世話になりたくないというのが、お年寄りの基本的なニーズ。そういう思いはずっとあるが、いざ自分でどうしてもできなくなった時は(口には出さないが)助けてほしいと思っていて、その時にはちゃんと助けることができるようにしてほしい。
 
●手は万能
 看護師さんや家の者が痛い所に触る、手を当ててくれると、なんとなく楽になった、気持ちがよくなった気がする。それは、本人の中にある〈治る」力による(〈治す」は外からの治療)。〈治る」のは、自分の頭の中に良くなりたい、治るという思いがあってのこと。自分の中に治したい・治るという気持ち・思いがあれば、さすってもらうだけで良くなる。子供が転んだ時、「ちちんぷいぷい」と言えば、たんこぶができ傷があっても子供は泣き止む。お母さんに抱かれて痛い所を触って「痛いの痛いの飛んで行け」と言われると、痛みは治る。〈触れる〉ということは〈治る〉ためにとても重要。
 むかしは医師は診察のためによく触っていたが、今は医師はお腹などに触って診察しないで、パソコンのディスプレイに向って検査結果などを見て診断している。(医師がお腹に触っただけで痛みがなくなることもあるのに。)最近は医師ばかりでなく看護師もそういう傾向があり、手を使わなくなった。私はとにかく「手を触れましょう」と言っている。「膝が痛い」と言うと、「どこですか?医師に言っておきます」と言うだけ。手を触れずにパソコンだけで仕事をする、それは看護の基本から外れている。看護はまずタッチ、触れること。認知症の方でも、ちょっと手をそえるだけでも良い。ICUで意識がない方でも、ナースが触ると、血圧が下がったり脈拍がゆっくりなったりする。こちらのメッセージを相手がちゃんと受け取っている(触れることによって、血流が変わったり心が落ち着いたりする)。だから私は、看護師の手は万能だと言う。温度が一定でサーモスタット不要、触ったり、さすったり、軽くたたいたり、握ったり、抱いたり、手は何でもできる。それだけでなく、脈拍を診たり、胸に手を当てると痰の状態を診たり(吸引したほうが良いとか)、ぜいぜいしているかとか乾いた呼吸かとか分かるし、お腹に触れば、ガスが溜まっているなとか便が溜まっているかとか分かるし、そういう意味でも手は万能だ。
 さらに、手を触れると、一方的でなく双方向的で、こちらも安らぐ。マッサージを汗だくだくになって一生懸命すると、相手も気持良いが、こちらも気持良い。ケアは双方向的で両方が同じくケアする。
 
●〈ふれる〉の意味合い
 時実利彦(むかしの脳生理学者)は、重症の患者の所に行って何もすることができなくても、まず手を握ることから始めると言っている。さらに〈ふれる〉には、直接触れることもあるが、「人格にふれる」とか「人と人とのふれあい」というように、まなざしや言葉でふれるとかいろいろな〈ふれる〉があって、〈ふれる〉にはとても広い意味合いがある。だから、直に触れるだけが〈ふれる〉ではない。本当に心と心がふれ合う会話で、相手は安らぐ。その言葉でのふれ合いの不自由を補うのに、手で触れることもある。
 ふれ合いの例:全部点滴している末期の肺癌患者で、看護師たちが敬遠していた。とても気難しい方で、だれが行っても何もいらないと拒絶していた。ナースステーションでは、あの方はケアを拒否される方だと言って、みなの足が遠退いていた。私はそれを聞いて、どんな人かと思い、手を暖めて乾かし、患者の側に行った。その人は相変わらず顔を顰め目をぎゅっと瞑っていたが、脈を取り、足を軽く10分くらい摩り続けた。そうしたら、目を開き私のほうを見た。「ご気分悪いですか?」と尋ねたら、「いいや、そんなことはないけど、あなたの手は暖か過ぎる、もっと冷たくしてください」と言われた。「そこに、ポットに氷が入っていますから、冷してください」と言われた。それで手を冷してからしばらく摩ったら、「お疲れでしょうからもう結構です、ありがとう」と言われた。だから、ケアを拒否するどころか、相手がケアを提案してくださった。
 今の学生たちはコミュニケーション下手で、患者さんの前に行くとどうしたら良いか分からず、頭が真っ白になってしまう。それで私は、実習の前に、学生たちに、脈の取り方とともに、脈を取っている手を持ち替え、手の甲をそうっと、鳥の羽でなでるように、静かにそうっとゆっくり摩ってごらん、そうすると患者さんは必ず何かおっしゃる、そしたら「今日天気がいいですね」とか何でも言ってみる――そういうことを教える。人間は、内側の面[前面)を触られるのは嫌がる。触って良いのは、外側の面[後面・背面]。外側だと触られても平気。脈を取ったら、その手を持ち替えて、外側の、服を脱がなくて良い場所を、静かにやわらかあく撫でる。そうすると、気持ちが良くて、かならずコミュニケーションできる。
 
●TE-ARTE(手当学)
 文科省の研究費を頂いてする研究で、「手当学の構築」の研究[基盤研究B「治療的介入方法としての看護師の“手”の有用性−統合医療における手当学の構築−」平成21〜23年度]をしようと提案したら、若いナースで「手当学というと、子供手当とか残業手当の手当のことですか」と言った人がいた。それで、漢字ではなくローマ字で、手(TE)+アート(ART)にEをつけてTE−ARTEとすれば、マータイさん[注]が日本の「もったいない」という言葉・考え方をMOTTAINAIとして世界に広げたように、世界に広げられるのでは。世界中で、スキンハンガー[skin hunger: 触れられることへの飢え]、触れて欲しい人たちが増えているということだから、TE-ARTEを世界中に広めたいと思う。
 東日本大震災後、被災地の石巻に1年半ほどずうっと短期ボランティアで通っている。ボランティアでは限界があるので、地元の人たちで何とかできないかと思っていたら、地元のナースたちが高齢者のためのケアの拠点を作りたい、その拠点の名前を "HOUSE TE-ARTE"にしたいと言って、もちろん良いですよということで、「HOUSE TE-ARTE をつくる会」を立ち上げた。そこに入っているお年寄りには、ナースたちができるだけ手を使って、手当して、お世話をする。そういうのがいくつも出来たら良いと思って、まずそこ、石巻にモデルを作ろうと思っている。すでに宮城県で、やっても良いと言っている所が2箇所あって、広がる可能性はある。
 認知症の人たちにも手当は有効で、必要。ただ、認知症の方は、人に触られるのを非常に嫌う人が多い。信頼関係ができないと、なかなか触れることはできない。まず顔なじみの関係になって仲良くなり、この人は良い人だなと思われたら、触ることができる。いきなり触ってはだめ。
  [注]マータイ:Wangari Muta Maathai (1940―2011):ケニアの環境保護運動家。ケニア中部にあるニエリに生まれる。アメリカのマウント・セント・スコラスティカ大学で生物学を学び、1964年卒業、1966年にピッツバーグ大学で理学修士を与えられる。1971年ケニアのナイロビ大学で博士号を取得、引き続き同大学において家畜解剖学を教える。2004年にアフリカの女性として初のノーベル平和賞を受賞した。1977年に環境保護と住民の生活向上を目ざすNGO(非政府組織)の「グリーンベルト運動」を創設した。この運動は、植林によって土地の砂漠化を阻止しようというもので、さらに植樹作業を貧困で苦しむ女性を動員して行うとともに職業教育等を授けることにより、地域の女性が収入を得られるようにした。運動は、ケニアのみならず、アフリカ各地に広がり、受賞時までに2500万本以上を植林、3万人以上の女性が参加している。また、環境保護活動を推進する一方で、女性の地位向上にも尽力し、1981年から1987年まで、ケニア女性国民会議の議長を務めた。その間、独裁的なモイ政権によって弾圧を受け、運動をやめるよう拷問されたこともあるが、屈せず活動を続け、2002年には国会議員に当選、キバキ政権での環境・天然資源副大臣に就任している。「環境を保護し自然の破壊を防ぐことにより、資源をめぐる争いがなくなれば、平和を守ることができる」と語り、30年近くにわたり草の根運動を継続。それが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。従来、平和賞は国際紛争の解決や人権保護活動に貢献した人に贈られていたが、ノーベル賞委員会は対象を環境保護分野にまで拡大する考えを2001年に示しており、彼女の受賞が初の適用となった。2005年(平成17)2月来日。2011年9月25日癌のためナイロビの病院で死去。 (以上、日本大百科全書(小学館)より)
 
●認知症の方の介護
 認知症も、いろいろな症状や程度の方がいてたいへんだが、私は認知症も治るという立場を取っている。〈治る〉という言い方は悪いが、認知症の緩和ケアはできる。
 一つは、さっき触れるということについて話したが、スウェーデン法式のマッサージがある。タクティルケア(tactile care)と言って、オイルを使ってマッサージする。それで認知症の症状は和らぐ。
 もう一つは、起こすこと。寝かせたままだと、どうしても認知レベルは下がってしまう。できるだけ起きている時間を多くするために、背面開放座位と言って、足をしっかり下に下ろして床に着けて背中を凭れないで座る。人間は直立している時が、一番頭が冴えている。ですから、しっかり足を下に下ろして、直立に近い姿勢で座るための補助具、座ろうくんを作った。その補助具も、介護の規具として借りることができる。そういうのを使って起こす。
 さらに、認知にもはたらきかけないといけない。さっき食べたとかは忘れるが、むかしのこと、子供のころのことは覚えている。同じことを百回も千回も繰り返すが、その中に治すヒントが含まれている。つまり、自分が一番楽しかった思い出、すごく自慢したいこと、そういったことの中に認知症を治すヒントがあるから、それをきっかけにして、そのことを繰り返し繰り返しはたらきかけていくと、ふつうに戻ることがある。もう20例以上ある。
 認知症の方が話したい話を聴くことが大事。また、ぜんぜん話さない方もいるが、その場合は、その人がむかし何をしていたか、何が生き甲斐だったかなどを探る。家族から聞いただけではなかなか分からなくて、その時に起こった日本の出来事とか住んでいた場所とかも考え合わせて、考える。宮大工だった人が、建築関係の話で、喜多方出身の方が、その当時のその町の写真がきっかけで元に戻った。魚河岸で働いていた人で、競りの音を聞かせ、また朝風呂が好きだったということで、病院で朝、風呂をわかして風呂に入れることをしたら、元に戻った方もいる。その人たちの一番大切にしている思い出、嫌な思い出はだめで、良い思い出はさらに増幅してもっと良くなるので、そういう良い思い出にはたらきかける。。自慢の息子の名前と好物のデラウエアのぶどうで治った人もいる。「ひろしさんはどんな人?」とか言って、そのたびにデラウエアをあげることを3〜4週間繰り返すと、「あなた、だあれ?」と言い始めた。そのためには、同じ事を繰り返す根気が要る。
 
●まとめ
 このようなことが、薬など用いず、その方の治る力を引き出すこと。病気も認知症も〈治る〉、〈治る〉と言えば語弊があるので、症状を緩和することは必ずできる、と私は言っている。ただそのためには、時間と忍耐心が必要だし、その人に一番良い方法、ずばり的中した方法がなかなか分からないこともある。それを探るプロセスが看護だと言える。というのは、あなたのことにこれだけ関心を持っているのよ、ということになり、相手は何でこれだけ私のことを看てくれるの?と思う――そういうことがとても良い。このひとは身近にいて、私のことをとても大事に思ってくれている、と思ってもらうのが良い。感情面では、好きとか嫌いとか、認知症の方はぜんぜん衰えていないから、こういうアプローチ、あなたのためだけに私はいるのよと思われるようなことをしてあげて欲しい。
 日本看護歴史学会の理事長もしているが、これからは看護の歴史をきっちり記録しておこうと思っている。とくに、看護で手を使わなくなったらおしまい。ふつうの人の暮らし、ふつうの人の喜怒哀楽が理解できないと、看護も介護もできない。ふつうの人のよろこび、ふつうの人の生活感覚を大事にしないと看護は難しい。
 
(2013年2月26日)