心合寺山古墳

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 4月14日、八尾市立しおんじやま古墳学習館と、隣接する心合寺山古墳に、私をふくめ3人で行ってきました。
 近鉄大阪線の河内山本駅で降り、念のため予約しておいた「かふぇむぅ」で昼食をゆっくりとり、それから瓢箪山駅行のバスに乗りました。ところが、つい話し込んでいるうちに最寄の大竹を乗り過ごしてしまって、やむなく次のバス停で下車。でも、こんな時はやはり見える人たちと一緒だと安心ですね、地図や表示を見ながら戻っていくと、学習館はそのバス停と大竹の中間くらいにあって、10分たらずで学習館に着くことができました。学習館では、一部学芸員に解説をしてもらうことができ、いろいろ知ることができました。
 学習館に入ってすぐ、いくつか埴輪が並んでいました。複製品で触って良いものもあります。円筒埴輪には、高さ70cmくらいの大きいのと、高さ40cmくらいの小さいのがありました。私がこれまで何度か触ったことのある円筒埴輪に比べて、円筒の外側に張り付けられている、樽などの箍のようなもの(突帯と言うそうです)がとても多くあるように思いました(たぶん6本か7本くらいありました。私がこれまで触ったのは、2、3本くらいだったと思います)。また、盾形埴輪に初めて触りました。高さ70cmくらいの円筒埴輪の前面に、下から20cmくらいの高さから、高さ70cmくらい、幅40cmくらいの、ちょっと波打ったような板状のをくっつけた形です。この盾形埴輪は、上が開いたままですが、この上に兜のようなのが重ねられているものもあるそうです。(後で心合寺山古墳を3人で見学した時にはこの埴輪に出会いませんでしたが、学芸員に後で確認したところ、古墳の北側の東端に、一番下の円筒埴輪列の外側に外向きで置かれているらしいです。)
 なぜ埴輪の外側にこんなにも突帯が張り付けられ、また円い穴(透し穴)がたくさんあるのか、学芸員に尋ねてみました。円筒埴輪の原形は、弥生時代後記の吉備地方(岡山県)で埋葬の儀式に使われていた特殊器台というものだそうです。特殊器台は、高さ1mくらいもある大きな台で、複雑な文様や透かし穴で飾られ、その上に皿や壺を乗せて食物をお供えするものだったそうです。この特殊器台が、近畿地方では葬送の儀式を行う場所や聖域を区別するための円筒埴輪として転用されるようになったらしいです。ですから、初期の円筒埴輪ほど特殊器台の複雑な文様の影響を受けて、分厚い突帯が多数張り付けられ、また透し穴も円いものだけでなく四角や三角などいろいろな形のものがたくさんあり、時代とともにそれらが簡略化されていったもののようです(後で心合寺山古墳の復原された埴輪列で確認してみたら、透し穴は大部分は円いものでしたが、一部四角や三角のもありました)。そして、突帯の数や厚さ、透し穴の形や数などから、その埴輪がいつごろ作られたものか、だいたい予想できるらしいです。
 また、特殊器台は脚部がやや広がっていて台として地上に置かれましたが、円筒埴輪は脚部が下に真っ直ぐになっていて(底面はなくて土管を建てたような形)、脚部を少し(心合寺山古墳では一番目の突帯まで)地中に埋めて固定され、場所をしっかり区切るように多数並べられています。そのため、発掘の時には、埴輪の上部はばらばらに壊れてしまっていても、ち中の埋まっている部分はそのまま残っていることが多く、埴輪列がうまく再現できるということです。ちなみに、朝顔形埴輪も、特殊器台と、それとよくセットで出土する特殊壺とが合さったものだとする説もあるとのことです。
 もう一つ、時代の変化を思わせる手がかりがありました。学習館に展示されている本物の埴輪の破片には、所々黒い焦げ痕のようなのが見えているそうです。これは、埴輪を野焼きで作ったために出来たもののようです。心合寺山古墳は5世紀初めの築造で、この地方の豪族の墳墓と考えられるそうですが、5世紀前半までは埴輪は野焼きで作られ、それ以降は穴窯(斜面に長く溝を掘って天井をかぶせただけの窯。5世紀に朝鮮から須恵器の技術とともに伝わる)を使ってより高温で焼かれるようになったそうです。昨年訪れた今城塚古墳(築造は6世紀前半)では、埴輪は、近くの新池遺跡の、現在「埴輪工場」と呼ばれている所の穴窯で焼かれたものでした。
 学習館にはこのほか、古墳の後円部にある3つの埋葬施設(竪穴式の粘土槨)のうち西側のものが再現されていたり(粘土槨の中の組合せ式木棺やいろいろな副葬品が見えているようです)、心合寺山古墳を紹介する映像コーナーがありましたが、私がちょっと興味をもったのは、この古墳の西側に飛鳥時代に建てられ、この古墳の名の由来ともなったという心合寺(しんごうじ)付近の発掘で見つかった品々です。いろいろな瓦、土師器や須恵器の鉢・甕・壺・甑など、さらに漢式系土器とかいう私には初耳のものも展示されていました。ほとんど触れられませんでしたが、甑の使い方が少し分かりました(長胴甕で湯を沸かし、その上に、中央にやや大きな穴とその回りに小さな穴のある甑を乗せて蒸していたようです)。
 学習館でもっとも印象に残ったのは、学芸員の特別のはからいで触ることのできた「水の祭祀場を表した埴輪」です。全体としては家形の埴輪ですが、切妻屋根の両側が外上方に向ってなんか羽のように広がっていて、とてもきれいな形に思えました。大きさは、横50cm、縦40cm、高さ40cm弱くらいで、家は入口は一つで窓もなく、回りを柵のようなもので囲われています。その入口も、柵に遮られて外からは見えないようになっています。そして、この家形の埴輪の下部の前と後ろには長方形の穴が空いていてその間は通路になっており、そこに水を流したらしいです。導水形の埴輪や囲み形の埴輪は数箇所で見つかってはいますが、このように「切妻造りの家」と「塀を表現した囲み形」と「導水施設」が一体となった埴輪として見つかるのはとても珍しいことで、この発見によってこのような埴輪が何に使われ何を意味しているのか推測できるようになったそうです。この埴輪は、西側の造出(つくりだし)部分と後円部との間の窪んだ斜面から見つかったものです。なお、心合寺山古墳では造出は西側のものしか確認されていないということです(ここでは、家形・壺形・蓋形・鶏形などの形象埴輪の断片が見つかっていて、古墳のその付近にはそれらの配置を記号で示した小さな模型のようなのが置かれていました)。
 
 学習館の後は、復原・整備された心合寺山古墳の見学です。館を出てすぐに古墳の模型があり、まずそれを触って位置や全体の形を確かめました。さらに古墳の前方部の入口のほうにも、埴輪列の配置まで分かるより精巧な模型があり、とても参考になりました。そしてまず感じたのはその全体の形です。私がこれまで模型で全体の形を触ったことのある今城塚古墳(高槻市)と大山古墳(堺市)では、前方部の形は台形で後円部に接している辺に比べて前面の辺がかなり長くなっていますが、心合寺山古墳では前方部の形はほぼ長方形で、後円部に接している所からほとんど広がらずにそのまま真っ直ぐすうっと前に伸びている感じです。「日本の巨大古墳100 - 飛鳥の扉」 やWikipediaなどで数値を確認してみると、次のようになります(比較のために、私が住んでいる所からそんなに遠くない有名な古墳も追加して、築造時代順に並べてみました)。
箸墓古墳(奈良県桜井市、3世紀後半):墳丘長約280m、後円部径約160m、前方部幅約130m   (墳丘長/後円部径=1.75 前方部幅/後円部径=0.81、墳丘長/前方部幅=2.15)
五色塚古墳(兵庫県神戸市、4世紀末):墳丘長約194m、後円部径約125m、前方部幅約81m    (墳丘長/後円部径=1.55 前方部幅/後円部径=0.65、墳丘長/前方部幅=2.40)
心合寺山古墳(大阪府八尾市、5世紀初頭):墳丘長約160m、後円部径約92m、前方部幅約90m  (墳丘長/後円部径=1.74 前方部幅/後円部径=0.98、墳丘長/前方部幅=1.78)
太田茶臼山古墳(大阪府茨木市、5世紀中ごろ):墳丘長226m、後円部径138m、前方部幅約147m (墳丘長/後円部径=1.64 前方部幅/後円部径=1.07、墳丘長/前方部幅=1.54)
大山古墳(大阪府堺市、5世紀中ごろ):墳丘長約486m、後円部径約249m、前方部幅約305m   (墳丘長/後円部径=1.95 前方部幅/後円部径=1.22、墳丘長/前方部幅=1.59)
今城塚古墳(大阪府高槻市、6世紀前半):墳丘長約190m、後円部径約100m、前方部幅約148m  (墳丘長/後円部径=1.90 前方部幅/後円部径=1.48、墳丘長/前方部幅=1.28)
 上の表からは、墳丘長/後円部径については時代による変化の傾向のようなのは見て取ることはできませんが、前方部幅/後円部径については明らかに時代とともに値が大きくなっていて、5世紀中ごろの太田茶臼山古墳からは 1を越えています(後円部径より前方部幅が長い)。また墳丘長/前方部幅の値も、時代とともにほぼ小さくなっています(前方部幅の割合が大きくなっている)。これらはたぶん、前方後円墳が、当初は埋葬施設のある後円部が中心で、それに葬列のための通路ないし祭式の場として細長く伸びる前方部が付属していたのが、時代とともに次第に祭式の意味合いが増し、また前方部にも埋葬施設が設けられるようになったりして、前方部が巨大化して行ったことと関係しているように思われます。
 
 さて、心合寺山古墳は、生駒山地の西麓のゆるやかな斜面(東側がやや高くなっている)に南北方向(前方部が南)に築かれています。3段に土が盛られていて、表面は、ゆるやかな石垣のような葺き石になっています(角度は20数度くらいはあって、直接そのまま上るにはかなり急です)。私たちは主に、まず西側の1段目と3段目の埴輪列を見て周り、それから前方部の前のほうにある方形壇(縦横3〜4mくらい、高さ2m余くらい、ここからも木棺が見つかっているそうです)に上り、そこから下りてごくゆるやかな下り道を後円部に向って歩き、最後に後円部に上ってみました。(前方部の高さは12m、後円部の高さは13mだとのことです。)
 1段目の埴輪列には、小さい円筒埴輪(高さ40〜50cmくらい)と大きい円筒埴輪(高さ70〜80cmくらい)がほとんど隙間なく規則正しく並んでいました。数えてみると、小さいのが10本並んで大きいのが1本、また小さいのが10本並び大きいのが1本、という風になっていました。
 3段目の埴輪列には、小さ目の円筒埴輪と朝顔形埴輪、それに蓋(きぬがさ)形埴輪がありました。小さい円筒埴輪(高さ40cmくらい)が4本並び、朝顔形埴輪(高さ90cmくらい、直径50cm弱)が1本、それから小さい円筒埴輪が9本、朝顔形が1本、小さい円筒埴輪が4本、という風です。そしてこの埴輪列の外側に、蓋形埴輪があります。高さ90cm、直径40cm弱くらいの円筒の上に、すり鉢をふせたような形の蓋(高さ30cmくらい)が乗り、さらにその上に、中心から外上方に4方向に広がる飾り部(高さ30cmくらい)が乗っているもので、全体では高さ150cmにもなる大きなものです。この蓋形埴輪がどのように配置されているのか、最初はよく分かりませんでしたが、よく観てみると、先ほどの小さ目の円筒埴輪9本のちょうど真中、5本目の真ん前に置かれていました(その他に埴輪列が方向を変える所にもある)。
 後円部の上は、直径20m余くらいの平坦な所で、ここには東西約7.5m、南北約11mの隅丸長方形の大きな墓壙(ぼこう)があり、その中から3つの粘土槨が見つかったそうです。そして西槨だけは発掘されました(その品々は学習館で展示されている)が、中央槨と東槨は中までは発掘していないとのことです(保存のためにはそのほうが良いのかも知れません)。これらは竪穴式の埋葬法式(基本は1回限りの埋葬)ですが、これは古墳の埋葬法としては古いタイプで、5世紀ころから横穴式石室も見られるようになり、6世紀以降は横穴式(一度にあるいは何回かに分けて合葬することもできる)が一般的になるとのことです。
 
 今回の見学では、古墳や埴輪が時代とともにどのように変化してきたかを少しですが体感し考えることができましたし、また実際に埴輪列で埴輪の配置を確認しながらその規則性を考えたりしました。学習館での学芸員による解説も良かったですが、私たち素人3人での古墳見学でもいろいろと〈発見〉があったりして、また別の古墳にも行ってみようと計画しているところです。
 
(2013年5月1日)