東大阪市立埋蔵文化財センター〜〜触るミュージアムのお手本かも?

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 5月23日と6月8日、さらに11月8日に、東大阪市立埋蔵文化財センター(発掘ふれあい館)に行きました。近鉄奈良線の瓢箪山駅で降り、南に向って10分くらい(私の場合は、場所を確かめながら歩きますので、15分以上かかりましたが)歩いた所です。まず商店街を通り抜け、そのまましばらく進むと縄手小学校があり、その隣りです。一部は縄手中学校の空き教室を利用して造られた施設です。そんなに広い建物ではありませんでしたが、その展示と体験メニューの豊富さにはびっくりするほどでした。そして、それだけ充実しているにもかかわらず、入館量は無料、体験メニューのほうも一部材量費が要るだけです。
 5月23日は、偶然2人おられる学芸員がいずれも不在で、別の職員?に簡単に収蔵状況展示室を案内してもらって多くの土器類や石器などに触れ、また、貝の洗浄と土器づくりの体験をしました。
 貝の洗浄というのは、貝塚(宮ノ下貝塚)から出てきたセタシジミという淡水産の貝をブラシを使ってきれいにするというごく簡単な作業です。きれいにした貝はそのまま持ち帰ることができます。ただの貝殻ですが、 2千年以上前にこの辺の人々がよく食べていた貝殻を持ち帰るとなると、やはり記念にはなります(こんなふうに各自持ち帰っていたら、そのうち貝が無くなってしまうのではと尋ねたら、貝は気が遠くなるほどありますので……ということでした)。
 宮ノ下貝塚は、1992年に布施駅北側の駅前再開発事業と新しいビル建築のための調査で発見されたそうです。縄文時代晩期末から弥生時代中期初頭(2500年前から2000年前くらい?)の大きな貝塚のようです。展示室にはこの貝塚を含む地層の剥ぎ取り標本が展示されていて、下から1m弱の高さから、20cmくらいから40cmほどの厚さで、貝がびっしり重なりあった層があります。そして、触ってははっきりと確認できませんでしたが、上の方ほど貝の大きさが小さくなる傾向があるそうです(何が原因で数百年間にそのように変化してきたのでしょうか?)。宮ノ下遺跡からは貝塚ばかりでなく、弥生時代から古墳時代、平安時代、鎌倉から室町時代の遺構も見つかっているそうです。
 今回行った東大阪市や少し前に行った八尾市など、生駒山の西麓に位置する地域は、当時は「河内湖」に面していて、食料を得るにも、またたぶん交通の便もよくて、人々が早くから集落をつくっていたようで、あちこちに縄文の遺跡があるようです。この埋蔵文化財センターの辺りも縄手遺跡があって、縄文の大きな集落があったようです。河内湖は一部は海につながっていたようで、展示室にはセタシジミのほかに、カキやハマグリ、アカニシなど海産の貝もありました。(貝塚では90%以上はセタシジミで、海産のものはごく一部だとのことです。)
 土器づくりでは、私は2個カップのようなのを作り、洗浄した貝殻で模様を付けてみましたが、焼きあがったのを触ってみるとほとんどその模様はなかったです。でも、せっかくですから赤く焼けた素焼きのカップを家に持ち帰って、コーヒーなどを飲んでいます。
 体験メニューとしては、貝の洗浄や土器づくりのほかにも、滑石勾玉、管玉、土笛づくり、拓本、さらに予約が必要なものとして、ガラス勾玉、火おこし、竪穴住居パズルとあって、豊富です。ガラス勾玉つくりは、溶けたガラスを扱うのでかなり難しそうで、実際にどの程度できるかどうか分かりませんが、そのうちぜひ挑戦してみたいと思っていました。そして11月8日に、事前に申込んで、ようやくガラス勾玉の製作体験をすることができました。
 まず、気に入った色のガラス棒を選びます。私は濃い青(ルリ色)を選びました。それから別の部屋に行って、ガスバーナーの前に座ります。担当のYさんがガスバーナーに点火し、空気の量を調節しているようです。たぶん千度以上の炎になっているようです。私が右手で鉄の細い棒(これで溶けたガラスを巻いて行く)をほぼ水平に持ち、先端をバーナーの炎の上辺りにしてゆっくり回転させます。そしてYさんもガラス棒を炎に近付けて溶けるのを待ちます。ガラスが溶け始めたら、鉄の棒の先端辺に溶けたガラスが垂れるようにし、鉄の棒を回転させます。少し形を整えてもらって、ガラス玉が出来たら冷えるのを待って、鉄の棒からガラス玉をはずします(鉄の棒をペンチで固定してガラス玉をはずそうとするのですが、なかなかはずれませんでした)。こうしてガラス玉が3個できました。どれもほぼ球形になっています。勾玉は、鉄の棒にガラスを巻き付ける時に、鉄の棒が溶けたガラスの中心からずれた所になるようにし(それは鉄の棒を回転させていると、力のかかりかたの違いで分かる)、下に垂れたようになっているガラスを、鉄の棒の角度をほんの少しずつ変えながら勾玉の独特のカーブになるようにYさんが加工してくれました。とても良い出き上がりになり、ストラップも付けてもらって持ち帰りました。
 
 6月8日は、学芸員の案内と解説で展示品をたくさん触りました。また、11月8日にも、ガラス玉が冷えていく時間を利用して、学芸員に銅鐸の復原品や木棺の一部などに触りながら解説してもらいました。
展数が多くて細かいことはよく覚えていませんが、以下にいくらか紹介してみます。
 まず、「生活文化発見ウォール」を案内してもらいました。壁面や引出しにテーマごとに整理されて、いろいろな物が展示されています。
 「営みと活動」のコーナーには、土錘(長さ4〜5cm、直径1cm弱くらいの管状の土製品で中には穴が空いていて、いくつもの土錘が糸に通されている。土製なのに表面はどれもつるつるして、かなり使い込んでいる感じ。弥生時代以降漁網の錘に使われた)、紡錘車(土製と石製のものがあり、いずれも直径5cm弱の円盤で中心に小さな穴が空いている。糸に撚りをかけるのに使う道具で、弥生時代に大陸から伝わってきた織り物の技術だそうです)、製塩土器(濃縮された海水をさらに煮詰めて焼き塩にするための土器で、細長いコップのような形で壁がとても薄いものともっと平たくて壁の厚いものがあった。土器に入ったまま運ばれ、使う場所で土器を割って塩を取り出して使ったそうです。そのため、完品として見つかることは少ないとのことです)、石斧・石包丁・石鏃などの石器類、さらに貝塚から見つかったという、カキ・アカニシ・ハマグリなど海産の貝やシジミなどの淡水産の貝、シカやイノシシや鳥?などの主に四肢の骨(中空になっている物もあった)や関節など、いろいろありました。また、当時栽培されていた穀物として、黒米、赤米、粟、黍、稗が小さな皿に入っていましたが、これらは子どもたちが触るとすぐ飛び散ってしまうということで、黒米と赤米以外は皿にラップがされていて直接には触れられませんでした。
 私がとくに興味を持ったのは、石器の材料となる石の展示です。石鏃の材料となった黒曜石とサヌカイト(黒曜石のほうが断面がつるうっとしていて鋭利)、石斧の材料になった輝緑岩と蛇紋岩(輝緑岩はなんかごつごつした感じ、蛇紋岩のほうが硬そうで一部つるっとした面もあった)、砥石の材料になった砂岩(和泉砂岩で、粒はかなり大きいように感じた)、勾玉の材料になった滑石と翡翠(滑石は表面がすべーっとして油っぽい感じ。翡翠は硬そう、緑の部分はあまりないようだ)、石包丁などに加工された緑泥片岩や頁岩(頁岩は板状で層になっている。緑泥片岩で私は石包丁のようなのを作ったことがあってなじみの石)、石棺などに使われた凝灰岩(二上山産。持ってみると水に浮くのではと思うほどかなり軽くて、石棺など石材に使われたのは加工しやすさとともに石の中では軽くて持ち運びに便利だったからではないかと思った)が展示されていました。これらの岩石をその加工品とともに触れられるのはとてもよかったです。
 その他に「暮らしと日常」「住まいと社会」「信仰と風習」のコーナーもありましたが、どの展示がどのコーナーに属していたのかは今はもうよく分かりません。印象に残っているのは、いろいろな瓦の展示です。平瓦や丸瓦や鬼瓦などの破片ばかりでなく、収蔵状況展示室のほうには、平瓦と丸瓦、軒平瓦と軒丸瓦が、それぞれ交互に組まれた状態で展示されていました(軒平瓦の前面には唐草文と連珠文(小さな丸い突起が連なっている)が、軒丸瓦の前面には8弁の蓮の花のような紋様(蓮華文?)があった)。また、シカかなにかの動物の脚の骨を削って作った細く長い針のようなもの、牙(角?だったかも知れません)を削って作った反円形の腕輪(途中にいくつか穴も穿たれていた)、柄など主要部分は木製で先端や外側だけが鉄製の鋤(それだけ当時は鉄は貴重品だったということでしょう)などもありました。土器も、縄文、弥生、土師器、須恵器、瓦器などいろいろ展示されていました。その中で私がとくに面白いと思ったのは、たぶん弥生時代に使われた器台なのでしょう、土器の側面に、一定間隔で小さな穴が空けられたもので、実用ではなくまったく装飾用(ないし儀式用)に作られたと思われるものです。
 ちょっと珍しく思ったのは、「発掘現場を見てみよう」というコーナーです。ここには、発掘現場でそれぞれの作業をしている姿?の人形とその時に使われるいろいろな道具(レンズをのぞいて地面が水平かどうかを測る装置、出土状況をそのまま図面に写し取るための盤、土を掘るスコップ、土をかき寄せるための鋤簾(じょれん)、もっと小型の草削り、刷毛など)がありました。
 考古学サイエンスコーナーだと思いますが、木棺に使われたという、コウヤマキの板3枚がありました。幅50cm前後、厚さ5cm前後のもので、板の表面には細かい縦線が多数あり、また切断された横断面には、年輪と思われる曲線が多数触っても分かります。この3枚のコーヤマキの年輪を使って、その木の伐採年代を測定してもらったところ、2枚については特定できませんでした(紀元前後らしいということです)が、1枚はBC460年ころという結果が出たそうです(弥生時代の遺跡なのに、かなり古いという感じがします)。[年輪を使った年代測定は、気象条件などの違いにより、各年の年輪幅が異なってくることを利用した方法のようです。各樹種(杉・檜・コウヤマキ)ごとに、この年輪幅の変化のパターンが過去にさかのぼって作成されており、この年輪パターンと遺跡などから出土した木材の年輪パターンを照合すると、その出土木材の伐採年代を年単位で特定できるとのことです。ただし、正確な年代測定のためには、出土木材の一番外側の年輪(最外年輪)までちゃんと残っていなければなりません。]
 奈良時代の実物の井戸の一部も展示されていました。柱1本と横木が数枚です。一辺3mくらい、高さ(深さ)4m弱程の大きさだそうですが、床が重さに耐えられないため実物全部は展示できないとのことです(触ってみると、長い間水に漬かっていたためなのでしょう、かなりぼろぼろの感じですが、しっかりした感じです。木の内部の水分をPEG(ポリエチレングリコール)で置き換えて木材組織を固化して保存しているとのことです)。
 さらに、えの木塚古墳(1971年に縄手小学校体育館の建設に先立ち行った発掘調査で見つかったそうです)の模型もありました。これは、上四条小学校の児童たちが実物の1/30の大きさで作ったものだそうです。模型は、下の直径約1m、高さはたぶん20cm余くらい、上の平らな部分の直径25cmくらいのようですから、直径30m、高さ7m前後の円墳ということになります。2段になっていて、それぞれの周囲には円筒埴輪がずらあっと並んでいます(この埴輪は、真っ赤な朱が塗られたヒレ付円筒埴輪と呼ばれるものだそうです)。斜面には小さな石がたくさん貼り付けられていますが、全面が同じように貼り付けられているのではなく、一定の間隔で区画されて貼り付けられていて、その間はちょっと溝のような窪みになっています(実際にこのように石を組んだほうが崩れにくいそうです)。
 
 その後、収蔵状況展示室に行きました。江戸時代から縄文時代まで、時代をさかのぼるようにざっと触って回りました。本当にすごい量です。いくつか記憶に残っているものを書いてみます。
 江戸時代には瀬戸物屋備前焼が多くて、今とあんまり変わらない感じです。備前焼の大きな擂り鉢がありましたが、他の擂り鉢に比べて、溝が深くて鋭いです。備前焼の擂り鉢は全国的に人気があったそうですが、なるほどと思いました。
 鎌倉から室町時代に庶民が日常使ったという瓦器(がき)が本当にたくさんありました。私は瓦器をまったく知らず初めて触りました。土師器の系統だそうですが、触ってみると、薄手の土器で、どれもすべすべした手触りで、内側の面には細い輪のような筋も少し感じられました。形は平たい椀のようなのがほとんどで、同じような形のが多数ありました。焼成の最後に空気を遮断していぶすように焼き、炭素(煤)を表面に吸着させたものだそうです。色もどれも黒色だそうです。表面に炭素の膜を作ることで、水が浸み込まなくしたのだと思います。同じような形のがたくさんありましたが、木の型を作り、それに粘土を薄く伸ばして作ったらしいです。庶民でも手軽に使えるように、大量生産して安価に提供したようです。
 また、土製の羽釜(はがま)もかなりありました。釜の回りにつばのようなのが付いたもので、それが乗るようになっているかまどもありました。(こういうのを触っていると、小さかったころの青森での生活を思い出します。)私が触ったのは1点だけでしたが、石釜もあって、これは朝鮮からもたらされたものだとのことでした。甑もあって、底には直径3cmくらいはある大きな穴がいくつか空いていました。底に目の粗い何かを敷くか、布袋のようなのに米などを入れて使ったのでしょうか。
 古墳時代から奈良時代には、坏と蓋のセット、高坏、取っての付いた器、水筒のようなものなど、土師器と須恵器がたくさんありました。両者を比べてみると、須恵器のほうが硬くて作りも精巧なようで、明らかにプロの職人の作品という感じがします。縄文から続いてきた技術と、渡来の技術の違いなのでしょう。
 縄文土器もかなりありました。典型的な縄目の模様のあるもののほかに、押型文土器と爪形文もあって、触ってみました。押型文土器は、縄文早期(7千年くらい前)の土器で、大阪府では最古の土器らしいです。土器の側面にとても規則正しく小さなぽこぽこしたような模様が全面に並んでいました。爪形文は、大きな鉢のような器の縁に近い所に、小さな半丸のようなのが横1列にきれいに並んでいました(私はこの文様を触って鱗を連想しました)。この爪形文の文様は、竹のような禾本科植物の細い茎を縦に割ってその端を押しつけて作ったようです。爪形文の下には縄目のような文様もあって、縄文前期(5千年くらい前?)のものだそうです。
 このようにして、縄文から江戸時代までのいろいろな器類を通時代的に触り比べることができました。いわゆる名品と呼べるものは少ないでしょうが、断片やそれを組み合せた復原品を多数触っていると、当時の人々・庶民の生活・くらしぶりのようなのが何となく想像できるような気になってきます。
 
 11月8日に訪れた時には、銅鐸の復元品が展示されていました。東大阪市弥生町の鬼虎川(きとらがわ)遺跡で1981年に出土した弥生時代中期(2200年前ころ)の銅鐸の鋳型の破片(銅鐸の右辺底部)を参考に、同市内の鋳物業者・上田合金が、2011年末に、現在の鋳物造りの技法で鋳造してみた物だそうです。見つかっている鋳型の破片だけではとても全体は復元できないので、この鋳型を用いて製作された(かも知れない)と推定される、島根県加茂岩倉遺跡から発掘された39個の銅鐸の中の12号銅鐸を参考にして全形を復元したそうです。高さは全体で30cmくらい(実の部分は20cmくらい)、実はちょっと扁平な楕円筒といった形で、長径が15cm弱、短径が10cm弱くらいで、私がこれまで触ったことのある銅鐸の中ではかなり小振りな感じでした。表面は大きく4つに区切られ(4区袈裟襷文)、実や鰭の部分には細かい模様(鋸歯文?)があります。実の内側には舌として木の棒が下がっています(舌は本来は石製だが、石だと子どもたちが鳴らした時の音が大き過ぎることがあるので木製にしたとか)。実の厚さは5mm弱といったところですが、本来の厚さは2〜3mm程度で、それだけ薄く鋳造することは現在使われている技術では難しいそうです。なお、鬼虎川遺跡からは、この銅鐸の鋳型の破片以外にも、すぐ近くから銅釧鋳型、石突形青銅器鋳型、不明青銅器鋳型(いずれも和泉砂岩製)が出土しており、当時この辺は青銅器生産の1つの中心だったかも知れないということです。
 
 東大阪市立埋蔵文化センターでは、土器や石器類などのおそらく半分以上は触れられる状態にしてあります。点数はよく分かりませんが、少なくとも数百点、たぶん千点以上あると思います。(木製品は、ごく一部を除いて、ガラスケースの中で、触ることはできません。)歴史系の博物館でもふつうは触れられるのは全体からすればごく一部の十点前後から数十点くらいで、これだけ大量で多彩な実物に触れられる所は、私の経験では初めてです。このような触れられる展示手法について学芸員に尋ねてみたところ、初めは反対も強かった、とくに壊されてしまうのではという声もあった、ということでした。でも子供たちにはぜひ実物に接してほしいということで続けているとのことでした。私が触ってみた範囲では、もともと断片が多いということもあるかもしれませんが、とくに触ったりすることで大きく破損しているようなことはなさそうです。大部分の物が触れられる状態にしてあると、ごく限られた特別な物だけが触れられる状態の時よりも、触り方がより自然に触るようになっているのかもしれません。
 見えない人の立場からは、せっかくこれだけ多くの触れられる資料があるのですから、解説も十分にしてほしいところですが、学芸員も少なく、時間をかけて丁寧に解説などをする体制にはなっていないようです。でももちろん、私のように個々に事前に連絡してお願いして時間がうまく調整できれば、学芸員に案内してもらって詳しく解説が受けられます。私はこの埋文センターを訪れて、これは触るミュージアムのお手本になるかも、ないしお手本になる可能性は十分にあると思いました。皆さんにもぜひ行ってほしい所ですし、また私ももう何度か行ってみたいと思っています。
 
(2013年6月16日、2013年11月18日更新)