物集女車塚古墳の石室見学

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 6月17日、京都府向日しにある物集女車塚(もずめくるまづか)古墳を、向日市埋蔵文化財センターの方の案内で、石室内を中心に見学しました。参加者は私もふくめ6人、阪急東向日駅で待ち合わせ、ゆっくり昼食をとってから、高齢者も多いし暑さもできるだけ避けたいということでタクシーで現地に向いました。
 物集女車塚古墳は、横穴式石室をもつ6世紀中頃(約1450年前)の前方後円墳で、全長は45m余、後円部は直径28m、高さ7m、前方部は幅38m、高さ8mだそうです。丘陵から伸びる尾根をうまく利用して(一部は削り取り、その土を他の部分に積み上げて)、ほぼ東西方向(前方部が東、後円部が西)に築かれています。 2段築造で、 2段目の下部(約1.5mくらいの高さまで)は石葺きされ、その前のテラス部分に埴輪が並べられていたそうです(小型とはいえ、石葺とその前に並ぶ埴輪列は、遠くから見る者の目をひいたことでしょう)。南側のくびれ部には造出も見えているようです。
 住宅街にあって、道路で古墳の一部が削られており、今は古墳の斜面には笹が密生しています(公園になっているようですが、危険?とかの表示があって、古墳の上までは行きませんでした)。淳和天皇の棺を運ぶ車を埋めた塚という言い伝えがあって、地元では“車塚”と呼ばれていて有名なようです。現在は府指定文化財として整備され、毎年石室の一般公開も行われています。今年は6月4日から9日まで一般公開されていて、もちろんその時に行ってもよかったのですが、一般公開の時だと見えない人は十分に触ったりできないだろうし解説も十分にはできないだろうということで、この日に別枠で案内・解説してもらうことになりました。
 横穴式石室の入口は後円部の南側に面してあり、そこから北に向って玄室の奥まで10m余続いていました。石室の中は、外の暑さとは打って変わって気温が低く気持ちよいです。でも、前日にかなり雨が降ったためでしょう、石の表面はぐっしょり濡れていました。
 南に面した小さな入口を入ると、まず直径2m余くらいの丸い空間になっています。この前庭部から、幅1mくらいの羨道部(「羨」には墓の地下道の意味があるらしいです)と呼ばれる通路が5m?くらい続きます。その途中に梱石(しきみいし)というのがあって、それを越えると一段下って床には小石が敷かれていて、玄室に続きます。(一般公開で入れるのはこの梱石までで、梱石の所から玄室を覗き見るのだそうです。)玄室は横2m余、縦4mくらい、高さはたぶん3m余だと思います。玄室の奥に、二上山の凝灰岩だという石材を組み合せて作られた家形石棺があります。側面は長さ2mくらいの大きな1枚石で、屋根部分は3枚の石板が並んでいます(その3枚の石板には粒子のやや細かいのと粒子の粗いものがあって、手触りが違っていた)。また、それぞれの石板には、縄掛という大きな直方体の突起部がありました。石棺は 1つだけですが、発掘で祭祀用の器が3セット出てきていることから、3回の追葬があっただろうということです。(800年ほど前に盗掘されていて、主要な副葬品などはなかったようですが、馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、土器類などが出土しているそうです。)
 玄室で興味深かったのは、その石組みです。側面を触ってみると、積み重なった石組みがわずかに内側に傾斜していて、上のほうが狭くなっています。石と石の間には、断面の鋭い硬そうな石がはめ込まれています。また、下のほうの石よりも上のほうの石がだんだん大きくなっていて、詳しいメカニズムはよくは分かりませんが、そのほうが安定するようです。調査当時、羨道部は崩れ埋まった状態らしかったですが、玄室はほとんど原形のままだったとのことです。それでも、毎年数mmずつ、両側面の間が狭まっているそうです(レーザーで距離を正確に計測できるように、側面にレーザーを反射するらしい板が取り付けられていました。))。天井にはもちろん届きませんでしたが、天井には4枚石板が用いられていて、その2枚目と4枚目が龍山石だそうです。また、玄室の前のほうの上の壁外側には龍山石が使われているそうですが、それは古墳時代中期(5世紀)の長持形石棺の一部を転用したものだとのことです。
 被葬者については、この地方の有力者だろう、そしてもしかすると、6世紀のこの地方は弟国(おとくに)と呼ばれ、継体天皇が「弟国宮」を築いた場所なので、継体天皇に連なる人物で、この地の旧支配者に代わって入ってきた新勢力の長だったかもしれないということです(それまでにあったこの付近の古い古墳を破壊して、その石材の一部を使ってこの古墳を造っていることからも、その可能性があるということです)。
 さらに、玄室の床に敷き詰められた小石の下には排水溝があって、それは梱石の下を通り、南に続いているそうです。そして、玄室内の水はこの排水溝によって後円部の外に流されるのですが、その出口に触りました。後円部が道路で削られてかなり急な斜面になっている所の、高さ1mくらいの所にあって、10cm四方くらいの大きさでした。この排水溝は調査当時までうまく機能していたようです。
 石室も排水溝も、綿密に計算?され高度な技術で作られていたように思います。排水溝を備えた横穴石室は、この付近では物集女車塚古墳が初期の例のようです(向日市から長岡京市にかけては多くの古墳がある)。この地域に入ってきた先進的な集団によって造られたのかもしれません。
 石室の内部を詳しく案内・解説してもらったのは、私は今回が初めてでしたし、一緒に行った方々も大いに満足した様子でした。石室の石組みを丁寧に触れたのもよかったですし、いろいろな石(凝灰岩のほか、緑泥片岩や結晶片岩、砂岩などがありました)にじっくり触れたのも、私にとっては良かったです。
 
(2013年6月24日)