未来に向けた非核平和活動――『ヒロシマを超えて 非核平和に生きる』

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未来に向けた非核平和活動――『ヒロシマを超えて 非核平和に生きる』

 今回は、点字図書館のプライベート・サービスで点訳していただき、私がその校正を担当した、次の本を紹介します。
 高木静子著『ヒロシマを超えて 非核平和に生きる』(平和への遺産シリーズ No.16)大阪市原爆被害者の会、2000年

●目次

この本の内容
ひとつの出会いから(小原千賀子)

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●この本の内容

 著者の高木静子さんは、自身被爆者であるとともに、これまで30数年間大阪市原爆被害者の会事務局長として、被爆者の相談事業をはじめ、「語り部」活動、さらには各種の国際会議で非核平和の理念のもとに活動されてきた方です。
 この本は、一被爆者の記録に止まらず、「21世紀に生きる人々に、被爆者としての非核平和の心を伝え」ることを意図して書かれた本です。
 以下、本の内容を章ごとに簡単に紹介します。
 第1章「広島原爆・受難―死体の中から這い出して」。新設の広島女子高等師範学校理科(生物専攻)の初年度生として学業に専念しようとしていたまさにその時に被爆し、意識を何度も失いかけながらも文字通り死体の中から這い出して、大阪の自宅に帰り着くまでが語られます。
 第2章「原爆後の人間・私―原爆症との闘い」。次々と襲ってくる身体の症状と闘いながらの、広島女高師卒業、阪大医学部公衆衛生学教室での仕事、昌彦さんとの出会い・結婚、子育て……苦闘の日々が綴られます。
 第3章「軍国少女の夢―大阪に生れ、大阪に育って」。早産未熟児として生れ弱々しかった著者は、戦争の時代を女学生としてたくましく生き抜きます。当時の女学校の様子がよくわかります。
 第4章「被爆相談事業に生きる―被爆者の使命として」。大阪市原爆被害者の会の中に婦人部を作り、大阪市立社会福祉会館内に相談室を開設、その後その活動は国際的にも大きな広がりを持つようになります。

 次に私の感想を2、3書きます。
 高木さんはどんな苦境、難しい問題に直面しても、けっして諦めることなくやり通そうとします。それに対していつも周囲の人たちの支えがあり、高木さんはそれに深い感謝の念で応えています。そんな典型の一つがご主人の昌彦さんとの出会いであり、変らぬ支えであるように思いました。
 なお、高木昌彦さんは現在カザフスタン共和国で被爆者の綿密な家族調査をしており、その活動は2001年4月17日付の朝日新聞の《ひと》欄でも紹介されました。その最後のほうで引用されている
「カザフは核保有国から非核国に変わった。被爆国の日本こそ核の傘から抜け出すべきだ」
という言葉は銘記されるべきです。この紛れもない現実を直視することが、日本における非核平和活動の原点・第1歩になるように思います。
 この本からは、女性被爆者としての〈強み〉のようなものも感じました。爆心地からわずか500mの所で奇跡的に生き残った三浦一江さんの中2の娘さんが言った「どうしてお母さんは、被爆者なのに私を生んだの」という言葉は、高木さんが被爆婦人の相談活動に専心するきっかけともなったとのことですが、私も(母のことも考え合せて)とても心動かされました。この本にも書かれていないような多くの辛い体験があったことだろうと想像しますが、それらはきっと被爆婦人の運動の支えとなり推進力となったのではと思います。
 さらに、運動の論理・哲学を構築するために、法律や福祉など多方面の学習をされていることにも感心しました。そうしたいわば普遍化の努力によって、被爆者の相談活動から、世界的な非核平和の運動として次世代にも継承され得るものへと発展しつつあるように感じました。

 この本は一般の書店では手に入らないようです。お読みになりたい方は下記まで連絡してください。
大阪市原爆被害者の会
郵便番号 543-0021
大阪市天王寺区東高津町 12-10 大阪市立社会福祉センター内
電話 06-6765-5629

 最後に、この本を点訳するにいたった経緯について妻千賀子が文章を書きましたので掲載します。
 彼女の心の状態について少し説明しておきます。昨年の春から変調を来し、うつ病と診断されました。私も驚き、あわててうつ病関係の本を数冊読んだりしました。最初は自殺の危険を考え眠られない日が続きました。これまで出来ていた多くのことが出来なくなり、思考力や判断力も落ちて自分をうまく表現できなくなりました。今年の4月には家での生活が危ぶまれるほどの危機もありました。その後それなりに安定しはじめ、今このような文章を書きたいという欲求を持ち、そして実際に書くことができたことは、私としてはとてもうれしく思っています。

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●ひとつの出会いから

 2001年、ひとつの点字本ができあがった。全2巻、高木静子さんの『ヒロシマを超えて非核平和に生きる』の点字版である。2000年の“ノーモアヒバクシャの集い”で頂いたこの本を視覚障害者が読める形にできたことは、嬉しく、意味のあることだと思う。今、高木さんとの出会いから今日までをふり返ってみたい。

*大阪日仏センター
 1993年4月、娘の小学校入学を機に、それまで家で独りでフランス語学習をしていた私は、週に一度大阪日仏センターという学校へ行き始めた。クラスは中級程度の人向けで、フランス人と話たことがない私だったので、聞き取りは難しかった。一所懸命に先生の言うことに集中し、自分でも積極的に話すようにした。このクラスで、私の向かい側に趣味の良い服を着て座っている婦人、落ち着いてはっきりとフランス語を発音される方が高木さんだった。高木さんはいつも控え目だったのでその頃はあまり分からなかったが、ある時、“Unvanquished, We March"という英語の冊子をくださった。それで原爆の被害者なのか・・・と思ったが、どうしてもその穏やかな風貌と被爆者であるということがつながらなくて、信じられないなぁと思っていました。このクラスに私は一年間しかいなかったので、クラスの人とも会わなくなりました。

*第二回国際会議−セメイ医科大学
 その後仏作文のクラスで高木さんと再会し、何度かことばを交わしました。その頃の私はフランス語学習が楽しくて仕方ない、という時期でした。1998年の夏、突然高木さんから郵便が来ました。開けてみるとフランス語で書かれた被爆体験や、色々な資料が入っていました。その体験を読んで、私は、本当に高木さん御自身が教室の窓に核の閃光を見、建物の下敷きになって、顔と首に38カ所、全身に60カ所もの傷を受け、死体の中から這い出して、生きて、今日まで来られたのだと、はっきり分かりました。8月6日、私は初めて相談室を訪れ、色々な話を伺いました。高木さんはカザフスタンでの第二回国際会議でフランス語で発表したいから、その原稿を仏訳してほしいと私に頼まれました。未熟な私にどこまで出来るのか心配でしたが、この仏訳作業を通してハーグの国際司法裁判所のことを知り、語り部の皆様のことを心で感じることができて本当に良かったです。

*涙の2000年
 2000年春、私はどうしたことか思い当たる理由もないのに涙が出て、悲しくて悲しくて、もうなんだか人生を終わってしまいたい気持ちになりました。「これは異常だ、涙腺が壊れているかも知れない」と思って、自分で病院に行きました。すると「抑うつ状態」という診断でした。2000年は大変苦しい年でした。本を読むどころか家事さえできなくなりました。そんな中で11月18日、私は何かを求めて初めて“ノーモアヒバクシャの集い”へ行ってみました。森田前会長の御遺族のお言葉、平田会長のご挨拶、高木さんの発表が終わった後、ご主人の高木昌彦氏が仰言いました。「日本女性の平均寿命84歳、これを超えないと原爆に勝ったことにはならない」と。この言葉は大変印象深く、私の心に残りました。家に帰った私は頂いた本を開きました。私の頭はきちんと読書できる状態ではなかったけれど、写真も豊富で字も大きいこの本のあちこちを開いて拾い読みして、それを主人に話しました。私から話を聞いた主人は、この書物を日本ライトハウス盲人情報文化センターで点訳しようと言いました。実際に点訳ボランティア福元悦子さんの手によって点訳され、校正を私と主人が行なって点字の本ができました。校正は、原本と点字を一字一句読み合わせて行ないます。この過程で、私もよく読むことができました。盲人情報文化センターを通じて、日本全国の視覚障害者が読めるようになったわけです。

*今、主婦として
 1999年9月30日、茨城県東海村のJCOという会社で、ウラン溶液のずさんな管理のため臨界事故が起こりました。この事故で放射能を浴び、亡くなられた大内久さんの看護記録がNHKで放送され、私は被曝の恐ろしさ、すさまじさを痛感しました。日本は現在、アメリカの「核の傘」の下にあり非核地帯ではありません。原子力発電についても、核燃料リサイクルの可能性、また、核廃棄物を本当に安全に埋められるのか、安心できる状態ではありません。大きな「負の遺産」があるわけですが、私はひとりの母親として、被爆者の皆様が激しい苦しみを受けながら残してくださった「平和への遺産」を受け継ぎ、自分の回りの人たちに伝えてゆきたいと願っております。ありがとうございました。

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(2001年9月24日)