『奇跡の人塙保己一――ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人』

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『奇跡の人塙保己一――ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人』


●目次

本の内容
塙保己一、ヘレン・ケラー、そして鳥居篤治郎
関連年譜


●本の内容

 塙保己一と言えば、高校で日本史を履修したことのある人なら『群書類従『の編者ということで名前は知っているという人が多いでしょう。また、年輩の方の中にも、戦前の教科書には塙保己一が教材に取り上げられていたそうなので、その人となりもふくめ知っておられる方もいるでしょう。しかし、たとえばヘレン・ケラーなどと比べれば、とくに若い人たちの間ではその名前さえ知らない人がほとんどなのではないでしょうか。
 私の場合、たしかに盲学校で小さいころ何度か塙保己一の名前を聞き、「塙保己一伝」というようなタイトルの薄い点字の本をちょっと読んだ記憶はあるものの、ただなんとなくとてもえらーい人で、蝋燭が消えた時、見える人は不自由だなあとか言った人だということくらいしか知りませんでした。
 今回紹介する『奇跡の人塙保己一――ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人』(堺正一著、埼玉新聞社、2001年6月。点字版は東京ヘレンケラー協会より発行)は、とにかく読みやすい本です。小学生でも十分理解できるでしょう。また、第1部、第2部合せてやく30章から成っていますが、それぞれが1つの読み切りのお話になっていて、気のおもむくままにどこからでも読めるようになっています。
 全体としては、伝記的に塙保己一を解説するというよりも、さまざまなエピソードを通して、その人間性や学問への熱意、さらには江戸時代の障害者・盲人の状況などを多面的に知らせようという手法が取られています。ただ、私のように塙保己一その人についてより詳しく知りたいという人には、ちょっと物足りなさが残るのではないでしょうか。でもそれは著者の本来の目的ではないでしょう。塙保己一の優れた人間性、学問への熱意とたゆまぬ努力、そして抜群の能力によって、目の見える見えないに関係なく多くの人たちから愛され自然と援助の手が差し伸べられたこと、またその業績が後々まで大きな影響を及ぼしていることなど、著者の意図は十分伝わってきます。
 この本でもっとも重要なエピソードであるヘレン・ケラーとの関係については後ですこし詳しく解説するとして、その他私がなるほどなあと思って読んだのは、第2部で紹介されている山尾庸三(第8章)および荻野吟子(第9章)との関連についてです。
 山尾庸三は明治初期の官僚として工業技術の導入を図るとともに、盲唖教育の啓蒙とその確立に尽力した人としても有名ですが、その背景には、1862年に起こった塙忠宝暗殺事件があった、と著者は言います。長州藩士であった彼は、攘夷への熱情のままに、伊藤博文に誘われて、塙保己一を継いで和学講談所を運営していた塙忠宝を暗殺してしまいます。彼は、その後それがまったくの誤解からであったことに気付き、またイギリスで見聞した造船所で実際に働いている聾者の姿に感銘し、いわば自責の念に駆られるようになって、その後盲唖教育確立に努力したと言うのです。
 また、日本発の女医としては一般にはシーボルトの娘・楠本イネが有名ですが、正式の資格を持った公認の女医としては荻野吟子が最初だそうです。最初の結婚で夫から淋病を移され、それがきっかけで女医になる決心をするのですが、先例がないということでなかなか医学校にさえ入れません。ようやく1879年私立医学校好寿院に入り82年卒業するのですが、またまた先例がないということで内務省の医術開業試験受験を拒否されます。この時、国学者井上頼圀の協力で、平安時代に編纂された、養老律令の公的解釈書である『令義解』(りょうのぎげ)の中の「医疾令」に女医の前例があることが証明され、受験を拒否する理由がなくなりました。『令義解』の中には一部散逸した部分もあったのですが、塙保己一によって復元・校定・出版され、このように日本最初の公認女医誕生に役立った訳です。

 著者は埼玉県立盲学校校長も務めた方です。本の各章からは、長い歴史の中で盲人たちが闘い勝ち取ってきた音曲や鍼按業、それらを継承する場としての当道座や盲学校、世界に誇りうる日本の盲人の業績や文化、そういったものへの著者の厚い想いが伝わってきます。ただ、江戸時代と現代における学問の仕方・研究方法の違いと視覚障害との関係について、もうすこし掘り下げた検当があればと思いました。というのも例えば、江戸時代にはもちろん点字や専門のボランティアはありませんでしたが、本は普通声を出して読むとか、記憶力や暗誦そのものが尊重されていたとか、目の見えない者にあまりハンディにならない、または有利にはたらき得るような要素もあったと考えられるからです。

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●塙保己一、ヘレン・ケラー、そして鳥居篤治郎

 この本の重要なテーマである塙保己一とヘレン・ケラーとの関わりについては、私はまったく知りませんでした。第1部の第1章、7章、8章、および第2部の11章などで語られています。ヘレン・ケラーは塙保己一をいわば人生のひとつの手本・目標としていたというのです。
 1937年、ヘレン・ケラーが初めて来日したさい、温故学会を訪問して塙保己一のブロンズ像や和学講談所で使っていた机に触れ、次のように述べています。(第1部7章より引用)

 When I was a child, my mother told me that Mr. Hanawa was my role model. To visit this place and touch his statue was the most significant event during this trip to Japan. The worn desk and the statue facing down earned more respects of him. I believe that his name would pass down from generation to generation like a stream of water.(引用終り)
 (訳:子どものころ、母は、塙先生は私が手本とすべき人物だと話してくれました。この地を訪問し先生の像に触れたことは、今回の来日中もっとも意義ある出来事です。この使い古した机とうつむき加減の像に触っていると、先生への尊敬の念がいっそう増してきます。先生の名前がかならずや、水の流れのように、世代から世代へと受け継がれていくだろうと信じます)

 この中では「my role model」がキーワードになっています。どんな訳が適切かはわかりませんが、「将来社会の中で自分が果たすべき役割の手本(となる人物)」といったところでしょうか。
 では、どのようにしてヘレン・ケラーは日本の江戸時代の塙保己一のことを知ったのでしょうか。これについて著者は、伊沢修二→グラハム・ベル→ヘレンの母という経路を推測しています(詳しくは下の関連年譜も参照してください)。この推測はかなり確かなように思います。

 こうして塙保己一は場所と時代をこえてヘレン・ケラーを励ましまた支えともなった訳ですが、そのヘレン・ケラーは日本の盲人、いや障害の有無を超えて多くの人たちに希望と力をあたえ、またそれは実際の障害者運動・福祉政策の中にも結実しています。1920年代以降日本の盲人の指導者の1人であった岩橋武夫との深い友情と信頼はつとに有名です。岩橋武夫亡き後ヘレン・ケラーは3度目の来日をはたし、多くの人たちに力をあたえます。
 昨年10月、鳥居篤治郎創設の京都ライトハウスが創立40周年を記念して「社会福祉法人京都ライトハウス創立40年記念 声のあゆみライブラリー」というCDを作りました。その中に、1955年6月4日、京都府立盲学校で開催された第8回日本盲人会連合全国大会に来日中のヘレン・ケラーが招かれた時の、鳥居篤治郎の歓迎の言葉が収められています。長文ですが、以下に引用します。ヘレン・ケラーの持つ〈力〉に圧倒されます。また、当時の盲人の指導者たちの持っていた国際性・平和主義・宗教性といったものも読み取ることができるでしょう。(ここから引用)

  今私たちの心は喜びに溢れております。あなたの愛が、熱意が、身体障害者にたいする友情が、私たち1人1人の心の奥深く浸透するのを覚えます。ヘレンよ、あなたは光をもたらす人、私たちの心が悩みや困難に打ちひしがれる時、あなたを思うことによって勇気と慰めを感じます。私たちが現実の世界に行き詰まりを感じる時、あなたを思うことによって新しい世界へ道が開けます。あなたは、慰めの星、私たちの心の闇を照らす星の光であります。人類にたいするあなたの熱愛、困難に打ち勝つあなたの強い意志と忍耐、そして永遠を慕うあなたの希望と信仰、私たちはそれらをあなたから学び取りたい。ヘレンよ、あなたは種を蒔く人、あなたの歩いた足跡から至るところ愛盲の花が咲きます。あなたの行く所どこにでも、砂漠にサフランが咲くように、愛が土から形を示します。
  日本ではあなたの親切なご助言によって身体障害者福祉法が出来ました。今年はその実施5周年でございます。私たちはあなたに感謝を捧げております。
  ヘレンよ、ここは77年前日本の盲教育が創始された場所であります。どうかあなたの愛するこの国の盲教育のために朝な夕な祈ってください。私たちの団体日盲連は、全日本の愛盲のために、あなたの親友岩橋武夫師が1948年に創立した会であります。私たちは、あなたが日本の盲人の福祉のためばかりでなく、幾百万の盲人がまったく助けなき状態に置かれている全アジアの盲人のためにご尽力くださることを希望いたします。
  私たちは来たる10月、アジア盲人福祉会議を開催しようとしております。この際お願いしたいのは、米国海外盲人協会のアジア本部を日本に設置していただくようあなたがご助言くださることであります。アジア盲人の幸福をもたらすには、これが最善の方策だと私たちは確信いたしております。
  あなたとトムソン女史の上に祝福あれと祈りつつ歓迎のご挨拶を終ります。」

(引用終り)

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●関連年譜

 この本の巻末にある略年表を基本にしつつ、その他の文献や辞書類を参考にして年譜を作ってみました。(括弧内の保己一の年齢は数え年です)

 14世紀 琵琶法師が「平家物語」を語る伝統芸(平曲)の確立、および「当道座」成立
 17世紀 盲人の手により、浄瑠璃節の完成(沢住検校)、三味線の普及(石村検校)、箏曲の大衆化(八橋検校)。盲人の多くは、盲僧座(中国・九州地方に多い)や当道座に属していた。(17〜18世紀には、盲僧座と当道座の間にしばしば紛争が起った)
 1634年(寛永11) 小池惣検校らによって当道式目が制定される
 1685年(貞享2) 杉山和一が5代将軍綱吉の病気を鍼で治し、1689年侍医となる。
 [杉山和一(わいち):1610頃〜1694年。伊勢出身、幼児に失明して、江戸に出て検校山瀬琢一について鍼術を学ぶ。それまでの捻鍼法や打鍼法に換えて、盲人にも適しまた皮膚にほとんど痛みを感じさせない管鍼法(鍼を細い管に入れ、管からわずかに出た鍼の頭を指でたたいて刺入する方法)を考案。1671年検校となり、1681年幕命で鍼治講習所を開き、多くの門下生を養成、その門下の三島安一は幕府医官となり、江戸近郊および諸国の45ヵ所に講堂を開設。杉山流鍼術が全国に広まり、盲人の職業として鍼按業(杉山流)が確立される。]
 1692年(元禄5) 杉山和一が惣検校(当道座の最高位)に任ぜられ、当道新式目を幕府に提出
 1746年(延享3、1歳)5月5日 武蔵国児玉郡保木野村(現埼玉県児玉町)の百姓荻野宇兵衛の長男として生れる。幼名寅之助
 1752年(宝暦2、7歳) 病気で失明、辰之助と改名
 1757年(宝暦7、12歳) 母死去
 1760年(宝暦10、15歳) 8月、江戸に出て、雨富検校須賀一に入門、千弥と改名。弦歌や鍼按術を習うが、馴染めず悩む
 1761年(宝暦11、16歳) 自殺未遂(九段の牛が淵に身投げしようとしたとされる)。雨富検校に学問の道に入ることを許され、歌学を萩原宗固(そうこ)、神道を川島貴林(たかしげ)に学ぶ。のち故実を山岡浚明(まつあけ)、医学を東禅寺の孝首座(こうしゅそ)に学ぶ。毎日「般若心経」を読誦することを決意
 1761年(宝暦13、18歳) 保木野一と改名
 1766年(明和3、21歳) 雨富検校の勧めで父と関西に旅し、菅原道真を守護神とする
 1769年(明和6、24歳) 萩原宗固の勧めで賀茂真淵に入門、六国史を学ぶ(真淵は半年後に死去)
 1775年(安永4、30歳) 勾当に昇進する。塙姓(雨富検校の本姓)を称し、名も保己一と改める
 1776年(安永5)  幕府が、全ての盲人に対して、検校の支配に属するよう通達する。
 1779年(安永8、34歳) 各地に存する未刊の国書を叢書として刊行することを決意
 1783年(天明3、38歳) 検校に昇進。(翌年雨富検校死去)
 1786年(天明6、41歳) 古代から江戸時代初期にいたるまでの古書を集大成した叢書『群書類従』の刊行を開始
 1787年(天明7) 松平定信による寛政の改革始まる
 1789年(寛政元、44歳) 正式に水戸藩による『大日本史』の編纂・校訂に加わる
 1791年(寛政3、46歳) 松平定信の命で、藤上検校とともに当道座中取締役に任ぜられる。風義の乱れた座の改革や寛政の新式目の制定を目指したが、寛政5年の松平定信の失脚もあり、ほとんど実効を上げられず、1799年辞任。
 1793年(寛政5、48歳) 幕府の許可と下付金を受けて、江戸麹町に和学講談所を設立(1805年表六番町に移転)。林大学頭の支配を受け、国史や律令の講習および史料の編纂をおもな事業とした。(温故堂の号は、初め松平定信が和学講談所に命名したもの)
 1800年(寛政12、55歳) 『令義解』を出版(30編のうち、倉庫令、医疾令の2編は散逸していたが、諸書に引用された部分から復元)
 1803年(享和3、58歳) 当道座総録職に就く(関八州の座の監督に当たる)
 1815年(文化12、70歳) 11代将軍家斉に拝謁、以後毎年将軍に拝謁
 1819年(文政2、74歳) 『群書類従』(正編。530巻に1270種の文献を収める)を幕府の援助も得ながら完成。また、続編の『続群書類従』(1150巻に2103種の文献を収める)の編纂もすでに1815年から企画され、その目録は1822年に刊行されたが、保己一の死去、費用の調達やその他の事情のため、各巻の編集・刊行は進まず、1924年から活版により刊行が始まった。正編・続編とも、神祇、帝王、補任、系譜、伝、官職、律令、公事、装束、文筆、消息、和歌、連歌、物語、日記、紀行、管絃、蹴鞠、鷹、遊戯、飲食、合戦、武家、釈家、雑の25部門に分かれる。編者は塙保己一を中心に、子の忠宝(ただとみ)、孫の忠韶(ただつぐ)、弟子の屋代弘賢、黒川春村。日本史や国語国文学における重要な資料集である。
 1821年(文政4、76歳) 2月、惣検校になる。9月、病で死去
 1822年(文政5) 4男塙忠富(治郎)が16歳で保己一の跡目を相続する
 1861年(文久元) イギリスとアメリカが領有権を主張していた小笠原諸島について、幕府が和学講談所にその帰属問題についての資料を提出するよう命じ、塙忠宝が回等(小笠原諸島は1876年に関係諸外国の承認を得て正式に日本の両有となる)
 1862年(文久2) 12月、聴衆藩士伊藤俊輔(博文)が山尾庸三とともに、和学講談所で天皇廃位につき調査中とのうわさに決起して、「天誅」として和学講談所頭取補佐塙忠宝を暗殺(当時その犯人はわからず、犯人が公表されたのは60年後の1922年)。和学講談所は忠宝の子の忠韶が継ぐが、幕末の混乱のなか1868年6月廃止。
 1863年(文久3) 5月、山尾庸三が、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)らとともに密出国して渡英、工業・造船技術習得のため、初めロンドン大学で学び、後にグラスゴーの造船所で研修。そこで聾唖者が手話を使いながら他の工員たちと対等に製図の仕事に従事している姿を見、盲聾唖教育の必要を痛感。(1870年帰国)
 1869年(明治2)3月 表六番町(現千代田区六番町)の和学講談所跡に史料編輯国史校正局が開設される(後の東京大学史料編纂所に繋がる)
 1871年(明治4) 9月、山尾庸三が盲唖学校設立建白書を太政官に提出。11月、太政官布告によって、当道座等の盲人保護の慣行が廃止
 1875年(明治10) 伊沢修二がアメリカへ流学し、グラハム・ベルに聾唖教育・視話法を、メーソンに音楽を学ぶ。78年帰国
 1876年(明治9) 3月、山尾庸三が楽善会に入会、のち会長となり、1885年10月訓盲唖院直轄願を文部省に提出、翌月訓盲唖院は官立となる
 1885年(明治18) 荻野吟子が、医術開業試験の後期試験に合格し、日本における女子の第1号医籍登録者となる
 1886年(明治19) 伊沢修二が文部省編輯局長となり、教科書の編集出版行政に携わる。1887年から『尋常小学読本 巻3』の教材に塙保己一が取り上げられる
 1886年(明治19) ヘレン・ケラーとその父がグラハム・ベルに初めて会い、パーキンス盲学校の校長に家庭教師を紹介してもらうよう勧められる。その後グラハム・ベルはケラー家の良き助言者であり続けた
 1890年(明治20) 6月〜9月、伊沢修二が東京盲唖学校長になる
 1922年(大正11) 塙忠雄(塙保己一の曾孫)を中心に、塙保己一の偉業を伝え、とくに『群書類従』の版木1万7244枚の保存を目的に、温故学会が設立される
 1937年(昭和12) 4月、ヘレン・ケラーが来日して、各地で講演。愛盲キャンペーンとともに、平和使節としての役割も担う。(4月26日、東京渋谷の温故学会を訪問、『群書類従』の版木や塙保己一の小さなブロンズ像に触れる)
 1948年(昭和23) 8月、ヘレン・ケラーが再来日、各地で講演して希望と勇気をあたえるとともに、身体障害者福祉法制定にも寄与
 1955年(昭和30) 5月末、ヘレン・ケラーが3度目の来日、京都や沖縄を訪問

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(2002年1月7日)