固有感覚について――オリバー・サックスの著作を読む

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 ここ数ヶ月、オリバー・サックスの本を読んでいます。以下の7冊です。簡単な紹介も付けます。

『偏頭痛百科』後藤眞・石館宇夫訳、晶文社、1990(原書 1970)
 偏頭痛という有り触れた、しかし患者にとっては深刻な痛みについて、その歴史から発祥機構や治療法までを、様々な症例を通じて多面的に、その心理面や生物学的意味までふくめて、描き出している。偏頭痛はきわめて人間的な痛みだと言えそうだ。(ただし、かなり専門的で、私は全部は読み切れませんでした。)

『レナードの朝』石館康平・石館宇夫訳、晶文社、1993(原書 1973)
 第一次大戦後大流行した嗜眠性脳炎の後遺症として、意識はあるもののはっきりは目覚めていないまま数十年間あたかも時計が止まったかのように病院でただじっと座っている人たち、この人たちにL-ドーパというパーキンソン病の治療薬を投与すると奇跡的とも言える目覚めが起こり、各人が持っていた能力を垣間見させる。しかしそれは一時的で、混乱状態に陥り、やがてはそれぞれに病気との折り合いをつけざるを得ない。20人について紹介されているが、そのどれもがひとつのドラマとなっている。レナード(映画「レナードの朝」の主人公)はその中でも知性と表現力に優れ、学ぶ所の多い患者であった。

『左足をとりもどすまで』金沢泰子訳、晶文社、1994(原書 1984)
 著者自身がノルウェーの山中で転落して左足に重傷を負う。医師が患者となって、手術により外科的には治癒するが、自分の左足を認識できなくなる。自分でも理解しがたいことなのに、その訴えに医師は聞く耳をもたない。左足を自分の身体として取り戻し、社会復帰するまでの過程を描く。患者の不安や揺れ動く感情などがよく分かる。

『妻を帽子とまちがえた男』高見幸郎・金沢泰子訳、晶文社、1992(原書 1985)
 脳に様々な障害(たとえば、視覚的失認症、記憶喪失、固有感覚の障害、トゥレット症候群など)を持ち、〈奇妙〉と見られる患者たち24人の記録を集めたもの。患者たちは、病気と闘い、人間としてその人なりに生き抜こうとしている。医師であるサックスはもちろん病気と向き合っているが、病気を通して人間について学び知ろうとしている。

『手話の世界へ』佐野正信訳、晶文社、1996(原書 1989)
 書評を書くのがきっかけで聾者の世界に入り込み、聾者の歴史、音声言語とは異なった固有の言語体系としての手話の意義、それに基づいた聾者のアイデンティティや自立の問題などが扱われている。現在の統合やインクルージョンの流れとは異なるようにも見えるが、特定の障害に応じた固有の言語・文化・社会を深く理解しようとする態度に、病気や障害を通して人間を観るというサックスならではの視点を見ることができる。(なお、ここで言う手話は、日本語など各国語に対応し健聴者にも広く知られるようになった手話ではなく、ASLや日本手話のように独自の語彙と文法を持つ言語体系であることに注意したい。)

『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者―』吉田利子訳、早川書房、1997
 全色覚異常になった画家、脳腫瘍のため視覚と記憶を失った青年、トゥレット症候群の外科医、50歳になって手術で視力を取り戻すが見える世界に馴染めず見えない世界に戻ってしまう人、幼ないころの故郷の風景を写真以上の正確さで描き続ける画家、一目見ただけで建物や風景の細部まで焼き付けそれを絵に再現する自閉症の少年、人間よりも動物に共感できる自閉症の女性獣医――これら7人の人たちと、医師としてよりも一人の人間として関わり寄り添いつつ、その生き方の中につねに人間的なもの、人間に普遍的なものを求め続けている。

『色のない島へ―脳神経科医のミクロネシア探訪記―』大庭紀雄監訳、早川書房、1999
 ミクロネシアのピンゲラップ島に多発する全色盲、およびグアム島に多発する筋萎縮性側索硬化症と似た神経病とパーキンソン病に似た神経病の患者を訪ねて、島の自然環境などもふくめその日常生活を見事に描いている。貧しい医療環境の下にありながら、患者たちは地域・家族の連帯と支え合いの文化の中で人間としての尊厳を持ちつつ暮らしている。

 著者のオリバー・サックスは、1933年ロンドンに生れ、オクスフォード大学で神経学を専攻し、学位を取っています。1960年にアメリカに渡り、脳神経科医として多くの難しい治療に当たります。その傍ら、主にそれらの症例をもとにして、上記のような多くの著作を書いています。脳神経科医としての専門の立場を堅持しつつ、どんなに重傷であろうと、それぞれの患者に何とか人間的なものを求め認めようとする態度、障害のある患者から人間について深く学ぼうとする態度を、一貫して見て取ることができます。病気や障害について、その破壊的とも言える力は十分認めつつも、サックスは「欠陥や障害、疾病は、潜在的な力を引き出して発展、進化させ、それがなければ見られなかった、それどころか想像もできなかった新たな生命の形を生み出すという逆説的な役割を果たすことができる」(『火星の人類学者』より)と述べています。
 サックスの初期の著作は、医師としての立場で書いた専門書という感じも強いですが、次第に、病気や障害を通して人間のありようを深く多面的に理解しようという面が表に出てきて、読む者の心を引き付けます。また、その内容も上記のように多岐にわたっていて、読者はそれぞれの関心に応じて読むこともできます。私も、視覚以外のいろいろな感覚、記憶が人間性にたいして果たす役割、脳の可塑性、障害や病気を包み込む文化や社会の有り方など、いろいろ触発されることが多かったです。今回は、私が第1に気付かされた固有感覚の役割について書きます。

 固有感覚(proprioception)は、四肢の位置や動き、関節の曲り具合、筋肉の力の入れ具合などを感知するものです。「proprioception」は、筋・腱・関節など自分の身体内部の状態を知るための感覚なので、「自己受容感覚」とも訳されています。私はこれまで、固有感覚は、空間における身体の定位、とくに見えない人の場合は、空間イメージの獲得にも深くかかわっているのではと考えていました(その具体的な筋道については、なお検討中ですが)。そして今回サックスの著作を読んで、固有感覚がさらに、自分の身体を自分の身体として感じる、いわば身体のアイデンティティをもたらしていることに気付かされました。
 サックスは固有感覚について次のように書いています。
「これは、筋肉、関節、腱からの刺激に依存した感覚で、普通は意識されないため、たいてい見過ごされてしまうのだが、きわめて重要な第6番目の感覚なのである。それによって身体はそれ自体を認識し、完全に自動的に、瞬時の正確さで可動部分の位置、動き、相互の関係、空間における連携を判断するのである。(中略)身体はこの6番目の感覚によってそれ自体を認識し確認している。そのおかげで人は「自己を所有して」いられる、つまり自分自身で有り続けられるのだ。」(『左足をとりもどすまで』より)

 『妻を帽子とまちがえた男』の3章「身体の無いクリスチーナ」は、一種の急性多発性神経炎のため固有感覚をほぼ完全に喪失するという極めて珍しい症例です。すこし詳しく紹介します。
 初めは、足下がおぼつかず、手から物を落したりします。腕の動きをコントロールできなくなり、そのうち頭から爪先まですべての緊張が抜けちゃんとした姿勢が取れなくなり、顔や声も無表情になります。彼女は「身体が無くなったみたいです」と言います。
 このような状態について、サックスはクリスチーナに次のように説明します。
「身体の感覚は三つのものから得られる。視覚、平衡器官(前庭系)、そして固有感覚の3つである。彼女の場合は固有感覚が失われたのである。通常は、3つすべてが協調して機能している。1つが駄目になっても、他の2つがそれをある程度補うか、代わりをつとめることができる。」
 これにたいするクリスチーナの応答は、専門家たるサックスをも感嘆させるほど素晴しいです。
「固有感覚ですか、それを使っていたところを、その代わりに視覚、目を使うことなんですね。(中略)固有感覚というのは身体の中の目みたいなもので、身体が自分を見つめる道具なんですね。私の場合のように、それがなくなってしまうのは、身体が盲目になってしまったようなものなんですね。身体の中の目が見えなければ、身体は自分を見ることができないわけですから。そうでしょう?だから私の場合は、顔に付いている目で見なくてはならないのですね、身体の中の目の代わりに。そうなんですね」
 このような理解の下、1年間のリハビリテーションを経て、日常の動きや姿勢や会話や表情は機能的には視覚・平衡感覚・聴覚による代替によっていちおうできるようになり、コンピュータの仕事に復帰します。しかし、固有感覚喪失の本質的な部分、身体の感覚の無さは回復しません。彼女は「私の身体ときたら、目や耳が駄目になったようなものよ。自分の身体に気付くことができないんですもの」「身体の真ん中にある何かが、そっくり抜き取られてしまったみたいなのです」などと表現しますが、身体感覚の喪失は極めて例外的なため、それを的確に言い表す言葉はなく、ましてや回りの人たちの共感も得られません。「物質的で有形の身体によるアイデンティティ」を欠いたまま、彼女は生き続けなければなりません。

 普通「アイデンティティ」ト言えば心理学的な意味合いも強いですが、その基本は、時間・場所・状況の変化にかかわらず自分を統一性のある自己として確認できること、そのような自我を持ち続けることだと思います。そしてその自我を支えているのが、自分の身体についての感覚とイメージです。身体についてのイメージは、自分あるいは他の人の視覚によって構成される部分もかなり多いですが、私のようにほとんど視覚経験を持たない者の場合は、固有感覚が極めて大きな役割を果しています。また、身体についての感覚については私は皮膚感覚が重要だと思っていましたが、それに加えて今回固有感覚がより重要であることを知りました。
 クリスチーナの例に限らず、サックスの著作には、自分の障害の状態やそれへの対処法についてしばしば医師よりも適切な表現・判断をする患者が出てきます(サックスはクリスチーナに「あなたは生理学者になれそうだ」と言っています)。障害や病気への対処は、医師と患者、専門家と当事者との共同作業だということがよく分かります。もちろんそこには、人間性にたいする深い共感力を持った医師・専門家と、どんな状況にあってもそれなりに折り合いをつけながら生きようとする患者・当事者の積極的な姿勢がうまく働き合っている訳です。
 (固有感覚の障害については、『妻を帽子とまちがえた男』の6章と7章でもあつかわれています。)


(2002年12月16日)