ヘレンケラー第1章

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第1章 夜

 アラバマ州のタスカンビアに住んでいた19歳のヘレン・ケラーは、1899年にラドクリフ大学 [1] に入学を申し込みました。その時彼女には、その望みが高いことは分かっていました。ラドクリフ大学は、その入学基準が高いことでよく知られており、またその学生は合衆国の一流の高校の卒業生でした。ケラーはそれまで一度も学校に行ったことがなく、また他の子供たちといっしょに勉強したことも一度もありませんでした。19年の内ほとんど18年近く、彼女はずっと盲と聾でした。

 [1] ラドクリフ大学( Radcliffe College): アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ市にある私立女子大学。1879年ハーバード大学の教員たちによって設立され、以来同大学の女子学生の学部課程教育を担当している。ハーバード大学とは教員やカリキュラムを共有するが、組織上は独立した機関である。学生数約2400人(1984)。ラドクリフの卒業者はハーバードの卒業者と資格同等とみなされるという。(1999年にハーヴァード大学に併合された。)

 彼女がうけた入学試験は他の受験者と同じものでしたが、ただ彼女のものは点字で書かれていました。盲人のための印刷方である点字は、浮き出した点の組み合わせを使ってアルファベットの文字を表すもので、読み手はそれを触って理解するわけです。
 代数はいつもながら少し苦労しましたが、ラテン語では優秀な成績を収め、またそれ以外の学科でも他の受験者と同じくらいよくできました。試験が採点されると、ケラーにはラドクリフ大学への入学資格があることが公表されました。いまや、ラドクリフ大学の理事会の許可だけが必要なことでした。
 ケラーは、大学の幾人かの理事が盲・聾の学生を受け入れることに疑念を持っていることを知っていました。理事長宛の手紙の中で彼女は次のように書いています。「私が大学教育を受けるのには非常に大きな幾多の障害があることは十分分かっていますし、他の人たちには、それは乗り越えられないように思われるかもしれません。しかし、戦いの前に敗北を認めないのが、真の兵士というものです。」
 ハーヴァード大学の女子校であるラドクリフ大学は、保守的な機関でした。ラドクリフ大学の学生部長アグネス・アーウィンは、これまでの慣例を変えることに熱心ではありませんでしたし、またケラーが成功する機会を持つことにも楽観的ではありませんでした。障害を持った若い女性には、彼女のために講義を指文字で翻訳する人、点字の本、彼女が書くための特別のタイプライターといった、これまでにない変わったサービスが必要になるはずです。
 アーウィンはケラーに、ラドクリフ大学はたぶん、あなたにとって最もよい場所ではないので、正規の学位を得ようとするよりも、一人で勉強したほうが望ましいかもしれない、と言いました。学生部長は心切ではありましたが、強硬な態度でした。応募者(のケラー)も礼儀正しくはありましたが、同様に強硬でした。ケラーはアーウィンのアドバイスに感謝しました。その後、彼女は願書を改めて出しました。彼女は容易に挫けたりはしませんでした。
 ヘレン・ケラーがその障害を克服してこれまでに示してきた進歩は、すでによく知られていました。ラドクリフ大学が受け入れるかどうか判明するのを待っている間に、彼女にはコーネル大学とシカゴ大学から奨学金の申し出がありましたが、彼女はその両方を辞退しました。友人への手紙の中で彼女は、このことにはプライドが関係していることを認めています。「もし私が別の大学に行くならば、私はラドクリフ大学の入学試験に通らなかったと思われるだろう」と彼女は書いています。
 盲であり、聾であり、そして聞き取れるようにはほとんど話すことのできないケラーは、一生涯、色々な挑戦を受けました。これまで彼女はそれらすべてと対決してきました。そして今回もけっして引き下がろうとはしませんでした。結局のところ、引き下がったのはラドクリフ大学の方でした。1900年秋の新入生の名簿に、ヘレン・ケラーの名があったのです。
 ケラーはラドクリフ大学を 1904年に優等で卒業しました。数年後、後の大統領ウッドロウ・ウィルソン [2] は、彼女になぜそんなにもラドクリフ大学に行くことに固執し続けたのかたずねました。彼女は「それは、大学の当局者が私を大学に入れたがらなかったからです。そして、天性の頑固な性格のゆえに、私は彼等の反対を乗り越えようとしたのです」と答えました。

 [2] ウッドロウ・ウィルソン: アメリカの第28代大統領、在任 1913-1921年。国内では多くの革新主義的改革を行い、また国際的にはとくに 1918年1月に発表した平和十四か条が有名。

 ヘレン・アダムズ・ケラーは、 1880年 6月 27日、陸軍大尉アーサー・ケラーとケイトの最初の子として生まれました。南北戦争の時には南軍の士官であった父親は、アラバマ州の小さな町タスカンビアの裕福な地主兼新聞発行者でした。両親のケイトとアーサーはヘレンをとてもかわいがりました。ヘレンは快活で愛相がよく、両親が言うには、並外れた才能を持っていました。父親は誇らしげに、ヘレンは生後6ヶ月で "How do you do?" と言うことができたと断言しています。また母親も、最初の誕生日までには、かわいいヘレンが「ほとんど」走っていたことを覚えています。
 このようにケラー家は娘のことをとても喜んでいましたが、その喜びはながくは続きませんでした。 1882年の2月、生後 19ヶ月の時、娘は奇妙な病気と高熱に見回れました。体温がようやく平熱にもどって、家族はほっとして涙をながしました。小さな、やつれはてた体は、以前の元気を取り戻していくかに見えました。けれども、間もなく事態がきわめて悪いことがはっきりしたのです。
 ヘレンは夜はよく眠れず、また昼はむずかって明かりから顔をそむけてばかりいました。ケラー夫妻は、娘が高熱のために恐ろしい被害を被ったことを悟ったのです。ヘレンはしだいに視力と聴力を失ってゆきました。現代の医師たちはヘレンは猩紅熱だったと考えていますが、当時のヘレンの担当医は彼女の病気を「胃および脳の急性鬱血」と呼びました。病名がなんであれ、ヘレンの病気は彼女の目と耳を永久に閉じてしまいました。
 地方紙のオーナー兼編集者であるアーサー・ケラーは、アラバマ州の有力者でした。けれども、ケラー家がこのような悲劇に直面して、彼はどうすることもできませんでした。数週間すると、ヘレンはまったくの盲・聾になってしまいました。父も他のだれも、ヘレンを助けることはできません。
 日が経つにつれて、かつての活き活きとした幸せそうなヘレンの顔から光が消えてゆきました。彼女が後に自分自身について描いたように、彼女は、「いつもみんなを喜ばせる微笑みに換わって、周りに反応しない声と表情」を持った「幽霊」になってしまいました。彼女は今はただ音のない暗闇の中にいるだけで、病気の前に学んでいた言葉をみな失ってしまいました。間もなく、言語という観念さえもなくしてしまいました。彼女はある種の原始的な身振り言語を使いましたが、それいがいはただ、痛みや欲求を訴える叫び声とうれしさを表すうなり声をあげるだけでした。
 ヘレンが成長して力も強くなるにつれ、彼女といっしょにうまく暮らしていくのは、ますます難しくなりました。彼女になにかを教えることができそうな人は、だれもいませんでした。彼女は不機嫌に落胆したり怒ったりをくり返しました。その当時は、多くの人たちは盲聾の人たちはみんな精神薄弱でもあると思いこんでいました。一族のある人たちは、彼女を精神病院に預けるべきだと薦めました。けれども、彼女の両親はそのような考えを拒否しました。
 ヘレンは、周りの世界との間に障壁があるにもかかわらず、知性の徴候をみせたのです。とても小さくてまだ見えていた時、ヘレンはとても物まねが上手でした。そして今、彼女は自分の望みを表すために身振りや合図を使うようになったのです。彼女は後にそのことについて次のように描いています。「頭を振るのは "Yes" を、うなずくのは "No" を意味し、また引くのは "come" を、押すのは "go" を意味しました。私が欲しいのがパンだったとすれば、パンを切ってそれにバターをぬる行動のまねをしました。晩の食事にアイス・クリームを母に作ってほしければ、フリーザーが動いている身振りを作り、冷たさを示すために体を振るわせました。」
 ヘレンは、父を表すのに眼鏡をかけるまねをしました。また、母を示す身振りは頭の後ろで髪をまるく結うことでした。あるとき、ヘレンはまだ赤ん坊の妹ミルドレッドを差し示そうとして、自分の指を妹の口につっこみました。そしてヘレンが妹の顎の下で想像状のボンネット(帽子)のひもを結んだとき、一人の叔母がその意味を理解しました。5歳までにはヘレンは約 60の身振り「言語」を持っていました。少なくとも一人の親類、すなわち父の姉妹のエヴェリーナは、ヘレンがすばらしい天性の才能に恵まれた子どもであることを認めていました。
 ヘレンの知性と想像力は、しばしば家族に困った自体をもたらしました。5歳の時に、ヘレンは鍵がなんのためにあるのかを知りました。後に彼女は思い起こして次のように書いています。「ある朝、私は母を食料置き場に閉じこめました。召使いたちは家の離れた所にいたので、母はそこに3時間もいなければなりませんでした。母はドアをどんどんとたたき続け、その間私は、食料置き場の外で階段に座って、ドアをたたく衝撃音を感じながらおもしろがっていました。」
 残念ながら、ヘレンのこのような迷惑ないたずらでさえ、彼女の行動の中では最悪のものではありませんでした。この孤独な少女のフラストレーションは、怒りの爆発として表れるほかなかったのです。ヘレンは一度、自分の人形用のゆりかごで赤ちゃんの妹が寝ているのを見つけたことがありました。その時のことについて彼女は後につぎのように書いています。「私はおこりだして、ゆりかごの所に飛んでゆき、ゆりかごをひっくり返してしまいました。その時、母が投げ出された赤ちゃんをつかまえていなかったら、その子は死んでいたのかもしれなかったのです。」
 ケラーはまた後に次のように書いています。「自己を表現したいという望みは大きくなってゆきました。私が使うことのできた身振りはそのためにはあまりにも少なすぎて、自分を他の人に理解してもらえず、いつも感情の爆発を引き起こすのでした。私は、あたかも見えない手に押えられているように感じていました。そしてそれから逃れようと必死に努力しました。
 私はもがきました。――もがいても事態はよくなりません。でも抵抗の精神だけは私の中で強くなります。そのうちに、何らかの仕方でどうしても自分を外に伝えたいという欲求が急激につよまって、毎日、あるいは一時間ごとに、あのような感情の爆発を起したのです。」
 ヘレンが捨て鉢な気持ちになるにつれて、ケラー家の人たちもますます失望しました。タスカンビアの近くには、ヘレンを十分教育できるような学校はありませんでしたし、それどころか、一族の多くの人たちは、ヘレンのためになるような学校は一つもないのではと危ぶんでいました。でもケイト・ケラーだけは、けっして望みを捨てませんでした。イギリスの小説家チャールズ・ディケンズが 1842年に書いた「アメリカ・ノート」という本を読んだ時、彼女は、はっと思い当たりました。
 その本の中でディケンズは、ローラ・ブリッジマン [3] という、幼くして視力と聴力を失ったボストンの女性と会った時のことを書いていました。ローラは、サミュエル・グリッドリー・ハウ [4] に会うまでは、暗闇と沈黙の閉ざされた世界に住んでいました。ボストンにある有名なパーキンス盲学院 [5] の先生だったハウは、「指文字」、すなわち手のひらに[聾唖者用の]アルファベットを書くことによって、自分の意志を他の人に伝える方法をローラになんとか教えることができました。ハウはすでに何年も前に亡くなっていましたが、ケイト・ケラーは、彼の教育法がおそらくヘレンに応用できるのではと思ったのです。

 [3] ブリッジマン (Bridgman, Laura Dewey): 1829-1889年。ニューハンプシャー州ハノヴァーに生まれる。両親は裕福な農民。2歳の時に猩紅熱のため盲聾となる。嗅覚や味覚も侵されていたらしい。パーキンス盲学校の校長S.ハウの関心をひき、1838年10月同校に入学(収容)。ハウはまず触覚を通してアルファベットを教え込んだ。鍵やスプーンやナイフなどごくありふれた物に、突起した文字で名称を記したラベルを貼ってそれを覚えさせ、物の名称を覚えたところでひとつひとつの文字を教え、徐々にアルファベットと0〜9の数字を教えていった。こうした適切な指導により系統的な教育が盲聾唖者にも成り立つことを証明した。ローラの教育の成功によって、ハウとパーキンス盲学校は世界的に知られることになった。1842年1月29日、ディケンズがパーキンス盲学校を訪問し、ローラ・ブリッジマンニ会っている。ハウの計らいで、彼女はその後も生涯パーキンス盲学校にとどまり、教育の手伝いや家事に従事した。
 [4] ハウ (Howe, Samuel Gridley): 1801-1876年。アメリカの教育家、パーキンス盲学校の初代校長。ハーバード大学医学部に学び医師の資格を得たが、ギリシア革命運動に参加して、6年間ギリシアの軍隊で兵隊として戦い、また国土の復興作業にも挺身した。1829年帰米、31年にボストン・ニューイングランド盲人収容所設立事業の経営に従事、盲人教育の実地調査のため渡欧し、ポーランド革命に巻込まれて逮捕、投獄されたが、32年ボストンに帰り、プレザント街の父の家で数人の盲児を教育した。これがパーキンス盲学校(パーキンス盲学院)の発端である。三重苦のL.ブリッジマンの教育は彼のめざましい成功の一つである。その後はもっぱら精神障害児の環境づくりと治療に関心を寄せた。熱心な奴隷廃止論者であり、また自由土地党員でもあった。
 [5] パーキンス盲学院 (Perkins Institution for the Blind): 現在はPerkins School for the Blind(パーキンス盲学校)と呼ばれ、マサチューセッツ州ウォータータウンにある。1829年にニューイングランド盲院設立発起人会が結成され、マサチューセッツ議会が盲院設立を認可。1832年7月、サミュエルG.ハウが校長となり、ボストンのハウの父の家を校舎として開校。翌年には校舎(ハウの父の家)が手狭になり、パーキンスが自分の邸宅を校舎として提供。米国で認可を受けて設立された最初の盲学校で、ヘレン・ケラーの師サリバン (1866-1936) もここで教育をうけた。

 ケラー夫妻は娘を多くの専門家の所に連れてゆきましたが、彼らはこぞって、ヘレンの視力はどんなことをしても回復させえないだろうという、悲観的な意見を述べました。なおも解決への糸口を求めて、アーサー・ケラーはヘレンを連れて、 1886年にバルチモアの眼科医を訪ねました。この眼科医の診断もそれまでの専門家のものと異なるものではありませんでしたが、彼は、ヘレンは教育することができると思う、と言ったのです。そのとき彼は、アレクサンダー・グラハム・ベル [6] に診てもらうために、子どもをワシントン特別州に連れて行ってはどうかという、ヘレン・ケラーにとってきわめて重要なものとなる呈案をしたのです。

 [6] ベル (Alexander Graham Bell): 1847-1922年。電話の発明で有名だが、聾唖教育にも貢献。音声学・発声学に興味を持ち、一方でそれと電気通信を結びつけて電話を発明し、他方では、父の考案した視話法(visible speech: 発音の際の口の動きを記号化し、目で見て発音を理解できるようにしたもの)を引き継ぎ、 1872年にシカゴに聾学校を設立。聾者に一般的な手話を否定し、口話法を推進。ヘレンの良き助言者であり続けた。

 父と娘は急いでワシントンに行きました。ワシントンでは、ベルが彼らをディナーに招いてくれました。ベルは障害者がかかえる問題を直感的に理解できる力をもっていて、すぐにヘレンに親近感を持ちました。ヘレンは後に次のように書いています。「彼は私の身振りを理解してくれました。そのことが分かるや、私はすぐに彼のことが好きになりました。でも、あの時の会見が、暗闇から光明へ、孤立から友情と交わり、知恵と愛に通じる道になるとは夢にも思いませんでした。」
 ベルは本当にその道を示してくれたのです。彼は全米の盲・聾の子供たちのための学校のこと、そしてローラ・ブリッジマンやサミュエル・ハウやパーキンス盲学院のことも、なんでも知っていました。ベルはアーサー・ケラーに、ハウの義理の息子で、彼の後パーキンス盲学院の校長を引き次いだマイケル・アナグノス[7]に手紙を書くよう助言しました。ベルは、アナグノスなら必ずヘレンにふさわしい教師を見つけることができると思っていました。
 早速ケラーは手紙を書き、間もなくアナグノスから返事がありました。それには、ヘレンのケースがローラ・ブリッジマンの場合と類似していて、とても興味を持っていること、そして直ちに良い先生をさがしましょう、と書いてありました。ケラー夫妻はいらいらしながらアナグノスからの次の手紙を待ちわびていました。
 その手紙がようやく届きました。それは良い知らせでした。アナグノスは、彼が言うには、「抜群に頭がよく、謹厳実直で、貴婦人然たる」先生を見つけてくれたのでした。さらに、このパーキンス盲学院の校長が言うには、その人は「ローラ・ブリッジマンのケースについても、また耳も聞こえず、口もきけず、目も見えない子供たちのための教授法にも精通している」とのことでした。アナグノスはケラー夫妻に、彼が推薦したこの女性が「あなた方の娘にとって、優れた先生となり、とても信頼のおける指導者となる」だろうと請け合いました。
 アナグノスが選んだ女性は、 21歳の、アイルランドの貧しい移民の娘、アニー・サリバン [8] でした。9歳の時に両親に遺棄されたサリバンは、マサチューセッツ州テュークスベリーにある州立の救貧院に送られました。その施設で彼女は、アルコール中毒者・孤児・高齢者・精神異常者など、社会から忌避された人々の中で5年間すごしました。サリバンは小さい時にかかった目の病気のためにほとんど見えなかったので、 10代になるまで読み書きができませんでした。

 [7]マイケル・アナグノス(Michael Anagnos):1837〜1906年。当時まだトルコの支配下にあったギリシア北西部のエピラスの山村に生まれる。革命家・ジャーナリストとして活動するようになる。1866年、ハウがクレタ難民の救援活動のため渡欧、ギリシアでの通訳などの秘書としてアナグノスを雇い、彼を伴って帰国。ハウの娘たちの家庭教師をするとともにパーキンス盲学校でもギリシア語とラテン語を教える。1870年、ハウの長女ジュリアと結婚。76年、ハウの死を受けて、第2代校長となる。
 [8] サリヴァン(Annie Sullivan: 本名 Anne Mansfield Sullivan Macy) 1866-1936年。

 アニー・サリバンは 14歳の時パーキンス盲学院に受け入れられました。そこで彼女は目の手術を受け、だいぶ視力を取り戻して、読み書きを習い覚えました。そしてクラスで一番で卒業するほどになりました。彼女は盲人のかかえる問題を熟知し、また、その当時まだパーキンスで生活していた、高齢のローラ・ブリッジマンと多くの時間をいっしょにすごしました。
 サリバンが素晴らしい能力を持ち、またアナグノスが熱心に薦めてくれるとはいえ、ケラー夫妻は幾分サリバンの背景が気掛りでした。けれども、ヘレンの先生をとにかく早く見つけなければということで、夫妻はパーキンスの校長にサリバンを受け入れると申し出ました。そして彼女に一月当たり 25ドル支払い、「本当の家族の一員としてあつかいます」と書きました。
 ハウがローラ・ブリッジマンにした教育は、教育史上重要な一章を成すものでした。 1887年3月3日、アニー・サリバンがアラバマ州タスカンビアに列車からおそるおそる降り立った時、教育の歴史における、いや人間精神の歴史における新しい一章が始まったのです。

【キャプション】
 ・幼少期に盲聾になり、今23歳のヘレン・ケラーが、大学卒業生の帽子とガウンを誇らしく身に着けている。彼女はラドクリフ大学から1924年に学位を得た。
 ・北軍は、1862年、メリーランド州アンティータムで南軍を食い止めた。南北戦争の終焉から15年後の1880年にヘレン・ケラーは生まれたが、その時でも南部人の〈ヤンキー〉にたいする恨みの感情はなお強かった。
 ・ヘレンの父アーサー・ケラーは、南軍では大尉の地位にあった。戦争後彼は、タスカンビアにおける民主党系の週刊新聞「ノース・アラバミアン」の編集者兼発行者になった。
 ・ケイト・アダムズ・ケラーは、彼女よりも20歳年長のアーサー・ケラーと結婚する前は、テネシー州メンフィスにおける美人として称賛されていた。ヘレンは彼らの最初の子供である。[2人は1879年に結婚。アーサー42歳、ケイト22歳。アーサーは2度目の結婚で、2年前に前妻を亡くしている。]
 ・ヘレン・ケラーの生誕地「アイヴィー・グリーン」は、アラバマ州タスカンビアのがたがた道の端にある、質素ではあるが住み心地のよい木造の建物だった。[1954年、アイヴィー・グリーンは、全米歴史遺産登録物になる。]
 ・サミュエルG.ハウは、ボストンのパーキンス盲学院でローラ・ブリッジマンを教授する。ハウが盲聾の少女にコミュニケーションの仕方をうまく教授できたということを知って、ケイト・ケラーは、ヘレンのために同様の助けを捜し求めようという気になった。
 ・発明家アレクサンダー・グラハム・ベル(上の右)が、1871年、ボストン聾学校の教師や生徒たちといっしょにいる。[この年からベルはボストン聾学校で視話法(visible speech)を教えている。]ヘレン・ケラーの先生としてアニー・サリバンが指名されるようになるのは、ベルの助言によるものだった。
 ・パーキンス盲学院の寄宿生たちが、1904年、ボストン校のバルコニーを散策している。1886年にパーキンスを卒業していたアニー・サリバンは、1888年ここからヘレン・ケラーの元に派遣された。
 ・1866年生まれのアニー・サリバンは、1880年パーキンス盲学院に入学した時は、読み書きができずほとんど全盲だった。数回の目の手術と集中的な教育によって 6年後には、彼女はクラスでもっとも優秀な生徒になっていた。

(以上で第1章終り)

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