ヘレンケラー第4章(1)
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第4章 昼 (1)
ヘレン・ケラーは、アラバマでの生活を楽天的な気持で再開しました。彼女は、アラバマへの帰郷について「総てのものが芽生え、花開き、そして私は幸せでした」と書いています。にもかかわらず、人気のある週刊誌『ユース・コンパニオン』 [1] の編集者が、ヘレンに伝記的な素描を依頼する手紙を書き送った時、彼女は躊躇しました。「自分の書いたことが完然に自分自身そのものであるとは限らない、という考えに悩まされました」と彼女は回想しています。サリバンは、ヘレンになんとか自信を取り戻させ、その課題を引き受けるようにと強く勧めました。
[1] 『The Youth's Companion』: 1827年、ジャーナリストの N.P.ウィリスが創刊した児童向けの週刊誌。ストウ夫人やオールコット等も紀稿した有名誌。サリバンもパーキンス盲学校でこの雑誌を読んでいた。 1927年から月刊となり、 1929年廃刊。
ヘレンはようやくその申し出に同意しました。彼女は「私のお話し」という題でこれまでの生活についての簡潔な記事を書き、紀稿しました。コンパニオン誌の編集者は、その記事にとても感動して、著者に百ドル――当時としては破格の高値――の小切手を送りました。編集者はその記事に「12歳の盲聾の少女が、いかなる手助けもまったく無しに書き上げ、何の改変も無しに印刷された物」という前書を付けて出版しました。「私のお話し」は、読者から熱狂をもって迎えられ、だれもそのオリジナリティに疑問を挾む者はありませんでした。
ヘレンの家族や友人たちは、彼女の今後の教育について心配しました。アーサー・ケラーは、けっして優れた経営者ではありませんでした。彼の財政状況は確実に悪化してゆき、1893年までには、サリバンの僅かな給料の支払いはおろか、自分の妻子を養うのもやっと出来るかどうかという程になりました。サリバンへの支払いは滞ってしまい、ケラーは彼女からお金を借り始めました。
アレクサンダー・グラハム・ベルは、ヘレンに出会った日からずっと彼女のために尽力し、またその先生のことも心底高く評価していました。アーサー・ケラーの運が落ち目になるにつれて、この発明家のヘレンにたいする思いやりは増してゆきました。彼が思うには、ヘレンは、普通の子供が経験するすべてを経験すべきなのです。
ベルはヘレンをワシントンの動物園に連れてゆき、また、ヘレンとサリバンを 1893年のグロウバー・クリーブランドの2回目の大統領就任式 [2] に連れて行きました。その春には、ベルはサリバンとヘレンをナイアガラ滝に連れて行きました。ヘレンは、このすさまじい大滝の〈不思議と美〉に畏怖の念を覚えました。彼女は、「アメリカ滝 [3] の上の突出部に立ち、大気が震動し大地が震えるのを感じた時の、私の感情は表現し難いものです」と書いています。
[2] クリーブランド(Grover Cleveland)は、第22代(在任:1885〜1889)および第24代(在任:1893〜1897)大統領。南北戦争後、初の民主党大統領。第24代大統領就任式は、 1893年3月4日。
[3] アメリカ滝(American Falls): ナイアガラ滝はアメリカのニューヨーク州とカナダのオンタリオ州の境にあるが、その米国側の滝をアメリカ滝と言う(落差 50m、幅 300m)。
ヘレンが 13歳の時、彼女はベルトサリバンといっしょに、 1893年の夏にシカゴで開かれた大万国博、コロンブス記念世界博覧会で3週間過ごしました。この博覧会は、4世紀前のコロンブスによるアメリカ発見を記念するもので、アメリカの技術の進歩を謳歌するものでした。ヘレンは、インド、エジプト、ヨーロッパ、新世界からの展示品にどぎもを抜かれました。
触りたい物は何でも触って良いという許可を得て、ヘレンは彫像やカットされていないダイヤモンドやバイキング船や電話や蓄音機を熱心に調べました。彼女はあらゆる物に魅了されました――彼女が回想して言うには、「触るのに尻込みしてしまったエジプトのミイラ」は除いてですが。この博覧会の期間中、彼女は「私は指で博覧会の素晴らしさを吸収しました」と書き、さらにまた、「お伽噺やおもちゃへの幼い子供の関心から、実業の世界における本物の価値へと、私は飛躍しました」と付け加えています。
1894年の夏に、ベルはアニー・サリバンのために講演の契約をし、彼女は、聾者のための口話法促進アメリカ協会と言う権威ある組織で講演することになりました。それまでにサリバンは障害者教育関係者に知れ渡っており、この組織は、ヘレンを教育するさいにサリバンが用いた方法についての彼女の説明を熱心に聞きました。
ニューヨーク州のチャトークワで開かれたこの会議に、ヘレンもその先生といっしょに行きました。アメリカ協会はベルにとってとても重要なものでしたが、同様にサリバンとその生徒にとっても重要なものであることが判りました。その会議の場で、彼らは、ニューヨーク市に聾者のための特別な学校を開く準備をしている2人の教育者、ジョンD.ライトとトーマス・ヒューメーソンに会いました。
ライトとヒューメーソンは、すでに新しい教育方法を開発していて、ヘレンに自然に話し、またおそらく歌うことさえも教えることができると確信していました。ヘレンの望みが大きくふくらみました。彼女は、他の人たちと同じように話せるようになることを、ただひたすら求めました。
ベルもまた、希望に溢れていました。彼は、ヘレンに以前から関心を持っているボストンの慈善家、ジョン・スポールディング [4] に、ヘレンの新しい学校での授業料を引き受けてくれるよう頼みました。彼はそれに直ちに応じました。 1894年9月、ヘレンはライト=ヒューメーソン口話学校の学席登録簿に心を込めて署名しました。こうして、ヘレンとサリバンはそこでその後2年間過ごすことになりました。
発話や読唇とともに、ヘレンは算数、地理、フランス語、ドイツ語を学びました。けれども、発話の学習はけっきょく成果を得られませんでした。ヘレンの声は、抑揚が無く、調節することができず、多くの人にとってほとんど理解不可能でした。ヘレンは、「私たちはあまりにも高い所を目指してしまい、だから失望は不可避だったのです」と悲し気に書いています。発和におけるこのような敗北にもかかわらず、学科、とくにドイツ語と地理はうまく行きました。
ヘレンとその聾のクラスメートは、ニューヨーク市中のあらゆる所を見学しました。彼らは、自由の女神像、セントラル・パーク、ハドソン川を横切る岩壁を訪れました。また、ドッグショウからブロードウェイのミュージカルに至るまでの様々なイベントに参加しました。さらに、近隣のスラム街にも連れて行かれました。そこでヘレンは初めて、現実の貧乏な人たち、恵まれない人たちについての真の洞察力を得たのです。
ヘレンの新しい知人には、ニューヨークの社交界・演劇界・文学界の人たちもふくまれていました。彼らの多くは、この天性の才能に恵まれた少女についての話しを聞き、ヘレンとその先生にしきりに会いたがりました。
ヘレンは、大金持ちの産業資本家であるアンドリュー・カーネギーやジョンD.ロックフェラーから、人気俳優のエレン・テリーやジョセフ・ジェファーソン [5] にいたるまで、会う人皆を魅了しました。彼女は、著名な牧師であるエドワード・エベレット・ヘール [6]、さらにはマーク・トウェーンやウィリアム・ディーン・ハウエルズ [7] のような作家からも支持されました。トウェーンはもちろん、あの「霜の王様」論争[第3章(4)参照]の期間中ヘレンを擁護し続けた人ですが、2人はまだその時まで直接会ったことはありませんでした。
[4] John P. Spaulding:ボストンに住む独身の事業家で、かなりの資産家。若い女性や少女に特異な関心を持ち、多額の贈り物をしたり芝居の子役のパトロンになったりした。1893年、父アーサー・ケラーがスポールディングに15,000ドルの借金を申入れ、快く承諾される。ヘレンには金銭的援助のほか、人気の高い砂糖株を分け、配当がヘレンに届くようにした。
[5] ジョセフ・ジェファーソン(Joseph Jefferson): 1829〜1905年。 19世紀のアメリカ演劇を代表する喜劇俳優。リップ・バン・ウィンクルの役で有名。
[6] エドワード・エベレット・ヘール(Edward Everett Hale): 1822〜1909年。アメリカのユニテリアン派牧師、作家。 1903〜1906年には、連邦上院のチャプレンを務めている。
[7] ウィリアム・ディーン・ハウエルズ(William Dean Howells): 1837〜1920年。 19世紀アメリカのリアリズム文学を代表、後年はアメリカ文壇の大御所的存在となる。
ヘレンとその先生はトウェーンに傾倒していましたし、トウェーンも彼らの好意に応えました。ヘレンが「トウェーンと握手すると、私はその手の内にその目の輝きを感じます」と言うと、それに応えて、トウェーンは「19世紀におけるもっとも興味ある人物、それはナポレオンとヘレン・ケラーです」と言うのでした。
トウェーンの『ミシシッピ川の生活』や『ハックルベリ・フィンの冒険』を愛読していたヘレンは、何時間もこの名高い作家が話すのを聴いて過ごしました。トウェーンはヘレンにたいしてけっして横柄ではありませんでしたが、それでもしばしば、「ヘレンよ、もういいかげんにしてくれないか」と言いながら、[口の動きを触ってトウェーンが話すのを読み取っていた]ヘレンの手をやむなく彼の唇からしずかに除けなければなりませんでした。
トウェーンは、彼の若きファン、ヘレンをいつも素早く擁護しました。彼は以前、ある男がヘレンの人生は〈退屈なもの〉だろうにと言って憐れんでいるのを聞き付けました。この作家はすぐに「そりゃあとんでもない間違いだ」とかみつき、「盲目はそんな生易しいものでわないのだ、と君に言おう。それが本当だと思えないのなら、真っ暗な夜に、燃え盛っている家の中で不機嫌に目を覚まし、なんとか出口を見つけようとしてみなさい」と言いました。
【キャプション】
・ケラーが、点字を読みながらバラの香りを楽しんでいる。彼女の嗅覚は鋭敏だった。ケラーの友人の中には、彼女は「ほんのわずかな香りで」バラの色を識別することができたと主張する者さえいた。
・1893年のナイアガラ滝訪問。ケラー(中央)がサリバン(右)に自分の興奮を伝えている。左にいる夫妻はアレクサンダー・グラハム・ベルの友人。ベルはこの旅行を後援したが、彼自身は行くことはできなかった。
・ケラーが、1896年のボストン・ホーム・ジャーナルの表紙を飾っている。この意志の強い盲聾の少女にたいする一般の人たちの関心は高く、そのため数え切れないほどの新聞や雑誌の記事に取り上げられ、その多くはひどく誇張された内容のものだった。
・ケラーが、タスカンビアの自宅の近くの小川のそばにすわって、物思いにふけっている。子供の時は一人で放っておかれるのを恐れていたが、成長するにつれて、彼女は孤独の時の価値を認めるようになった。
・ヘレン・ケラーは、自分で設定した目標の多くを達成した。しかし、彼女がもっとも念願していた夢の一つは、途方もない努力にもかかわらず、実現されることはなかった――彼女は明瞭に話すことができるようにはならなかった。
・マーク・トウェーンのいかめしい顔つきが、ケラーへの深い親愛の情を隠している。トウェーンは、またサリバンをも賞賛した。彼はケラーに、「欠ける所のない一つの完全体を作るためには、あなたがた2人が1対になることが必要だ」と語った。