第4章 昼 (2)

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第4章 昼 (2)

 1896年、ヘレンの情け深い後援者であったジョン・スポールディングガ、遺言を残さずに亡くなってしまいました。そのため、ヘレンとサリバンが生活に充てていた収入がいまや打ち切られることになりました。さらに、借金をかかえ、もはや娘の扶養にも寄与できなくなっていたアーサー・ケラーが、ヘレンは学校を辞めて芸人に成ればと提案したのです。
 この父親の提案を聞いて、ヘレンに親しいだれもが縮み上がりました。サリバンの旧友、ソフィア・ホプキンズは、ヘレンから学業を取り去り「彼女をあたかも猿のように見せ」ようとする彼の提案は、「なんとも恐ろしいもの」だと言いました。ケイト・ケラーは、ヘレンにそんな事をさせるくらいなら、死んだほうがましだ、と言いました。幸いにも、ヘレンは数人の強力な味方を得ました。彼らは早速ヘレンの援助に乗り出しました。
 アレクサンダー・ぐラハム・ベルとマーク・トウェーンが、ヘレンの教育のための簿金運動を組織しました。以前ヘレンが幼いトミー・ストリンガーを助けるために人々に簿金を求めた[第3章(4)参照]のとまったく同じように、ヘレンの崇拝者たちが彼女のために金持ちの知人たちに働きかけたのです。ある石油会社の経営者への手紙の中で、トウェーンは次のように書いています。「この信じ難いほどの子供が貧困のゆえに学業を放棄してしまうことは、アメリカにはどうしても許されないことなのです。もし彼女がさらに学業を続けることができれば、彼女は何世紀にもわたって歴史に永く名を成すはずです。」
 この簿金運動は成功し、ヘレンが教育を終えるまでに支払わなければならない充分なお金が集りました。ところが、このニュースは悲しい出来事によって帳消しにされてしまいました。 1896年の夏、ヘレンとその先生は、マサチューセッツのホプキンズを訪ねていたのですが、その時彼らは、アラバマにいるアーサー・ケラーが突然亡くなったことを知りました。
 ヘレンはアレクサンダー・グラハム・ベル宛に次のように書いています。「父が亡くなりました。先週の土曜日、タスカンビアの私の家で亡くなりました。なのに、私はそこに居ませんでした。私だけの心から愛するお父さん!ああ、先生、どうすれば私はこの悲しみに堪えられるのでしょう。」ヘレンはさらに、「父を亡くしてしまったと実感するまで、私がどんなに深く心から父を愛していたのか」ということに気付かなかった、と書いています。
 サリバンはある友人宛に次のように書いています。「かわいそうに、ヘレンは悲嘆にくれています。金曜日までは悪い事はなにも無かったように思われますが、数時間後には終りの時が来たようでした。ヘレンは悲しみで気が触れんばかりになり、ただ一つ、お母さんの所に行くことを望んでいました。それなのに、サリバンの手紙の説明によれば、「もっとも健康に悪い季節が始まったので」という理由で、ケイト・ケラーはヘレンに家に帰らないように言いました。サリバンの観るところでは、「この事がヘレンに取ってもう一つの痛手となり、今なお癒されていません。」
 父の死によって、ヘレンは、 独り立ちできるようになるよう、さらに堅く決意するのでした。ライト=ヒューメーソン学校における2年の後には、ヘレンはすでに大学のことについて考えるようになっていました。ヘレンは――彼女が後年「多くの真の賢い友人の強い反対」と呼んだような反対にもかかわらず――視覚や聴覚に障害のない普通の学生のための〈正規の〉学校に入学することを決心しました。そしてヘレンとサリバンはケンブリッジ女子校を選びました。その学校はボストンにあり、そこでヘレンはラドクリフ大学の入学試験に備えることができました。
 ケンブリッジ女子校の校長アーサー・ギルマンは、 16歳の盲聾のケラーを受け入れるというような考えには反対でした。彼はサリバンに「学校には〈特殊な〉学生のための設備はなにもありません」と告げました。そして彼には、ケラーが他の女生徒に遅れないでついていけるとは、とても思えませんでした。しかしようやく、彼は不承不承この将来性のある学生に会うことに同意しました――そしてその場ですっかり考えを改めたのです。彼が言うには「この奇跡の少女」にびっくり仰天して、彼女を受け入れることにしました。こうしてケラーは、1896年 12月にケンブリッジ校に入学しました。
 翌年には、ケラーはケンブリッジ校の正規の学科(ギリシア・ローマ史、文学、フランス語、ドイツ語、ラテン語、および数学)を履修しました――その時はいつもサリバンがそばにいて、講義の内容を指文字で綴りました。2人は学生寮に住み、ケラーはそこで、サリバンの存在を除いて、他の学生と同じ生活をしました。
 彼女は〈普通の〉クラスメートとの生活を満喫しました。彼女は後に次のように書いています。「私は彼らの中に入り、目隠し遊びや雪の中での大はしゃぎまで、多くの遊びをいっしょに楽しみました。彼らといっしょに長い散歩もしました。勉強のことで議論をし、また互いに関心のある事について音読しました。数人の女生徒は私との話し方を習いおぼえたので、彼らとの会話はサリバン先生が繰り返す必要はありませんでした。」
 ケラーは勉強をうまくこなし、年度末試験にすべて通りました。彼女は、大きな希望を持ち、ぎっしりつまった正規のカリキュラムを受けるつもりで、ケンブリッジ校での第2学年を始めました。ところが、ギルマンは別の考えを持っていたのです。彼は、ケラーの負担があまりに大きくなり過ぎていると確信して、彼女は授業数のより少ない課程をとり、ラドクリフ大学を受験するまでにもう1年この学校で過ごすべきだと決めたのです。
 サリバンは、ギルマンとは意見が一致しませんでした。彼女は、ケラーなら簡単に勉強をこなせるだろうと信じていました。おそらく校長は、ケラーが学校にもたらしてくれる好意的な宣伝効果のゆえに、彼女がこの学校に長く留まることを望んでいるのだろう、とサリバンは示唆しました。これに対してギルマンは、サリバンはケラーを崩壊の状態へと追いやっていると非難しました。
 はじめは意見の違いであったものが、闘いに変わってしまいました。サリバンは、ギルマンを先生や生徒の前で酷評して、彼を激怒させました。ギルマンのほうもまた、サリバンがケラーを勉強させ過ぎてその健康を危うくさせていると非難して、彼女の憤りを買いました。ついに、ギルマンはケイト・ケラーに手紙を書き、あなたの娘の健康は、彼女から直ちに先生を切り離すことができるかどうかの1点にかかっていると言い立てました。ギルマンの報告にたいへん心を乱し痛めたケイト・ケラーは、ギルマン宛に娘の保護者の役を一任するという電報を打ったのです。
 この知らせを聞いて、ヘレンは打ちのめされてしまいました。ヘレンが後年書いたところによれば、その電報が届いた後、彼女は「なにか恐ろしい事が起った」ことを悟り、「私はうろたえながら『先生、これ、いったいどういうことなの?』と叫びました。『ヘレン、私たちは離れ離れにさせられそうなの。』『なんですって、はなればなれですって?それ、どういう意味なの。』と、私はすっかり当惑しきって言いました。」サリバンは事態を説明し終えると、絶望して学校から立ち去ってしまいました。ケラーは、先生がボストンのチャールズ川を渡ってしまった時、「ほとんど抑えがたい衝動により、川に身を投げてしまいました」と報告しています。
 ようやく自制心を取り戻したサリバンは、自らの電報を送りつけました。ケイト・ケラー宛のその電報の内容は、「私たちはあなたを必要とする」という、簡潔なものでした。この電報によって、気が動転していた母親は、次の列車でボストンに向いました。そして、彼女はギルマンと対峙し、娘を学校から連れ戻しました。 ケイト・ケラーは後に次のように書いています。「私がギルマン氏に与えた権限を彼がむごいやり方で使っていることが判りました。私は、サリバンをヘレンからむりやり離そうなどとはまったく夢にも思っていませんでした。……ヘレンの健康状態は申し分ありませんし、もし何らかの神経の疲労あるいは酷使の形跡があるとしても、私にはそれは認められません。」こうして、ヘレン・ケラーとアニー・サリバンはふたたび一緒になりました。だれももはや2度と彼らを分けようとする人はいませんでした。

【キャプション】
 ・ケラーが、良き友人アレクサンダー・グラハム・ベルと話すために、指文字を使っている。ベルは生涯にわたって聾者に関心を持っていて、それが1866年の彼の電話の発明につながった。
 ・ 1900年、ラドクリフ大学1年生のケラーが、点字タイプライターを使って、大学の課題の準備をしている。この特殊な機械を使いこなすとともに、ケラーは普通のタイプライターにも熟達するようになった。