第4章 昼 (4)

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第4章 昼 (4)

 ケラーはもう一度話し方の練習をし始めました。話す能力にはほとんど進歩はみられませんでしたが、講演することでなにがしかの金銭を稼ぎ出そうと決心しました。 1913年、ニュージャージー州のモントクレアで、ケラーは初めての聴衆の前に立ちました。すぐ側にはサリバンがいて、「諸感覚の正しい使い方」についてケラーが話すのを逐次通訳しました。
 講演はケラーにはとても辛い体験でした。彼女は後に次のように書いています。「恐怖が体の中に入り込んでしまいました。声が上擦っているのを感じ、裏声になっているのが分かりました。それで必死になって、言葉がぐらぐらする煉瓦のように崩れ落ちるまで、上擦った声を引き下げました。」彼女は涙を流しながら舞台を去りました。確かに、彼女は惨めにも失敗したのです。ところが、そう思った彼女のほうがまちがっていました。聴衆――もちろん、ケラーの話したことは聞えていません――はあらしのような拍手をおくったのです。彼らはそれぞれの心でケラーを受け取ったのです。こうしてケラーは、 50年もの間続くことになる、新たな成功をもたらす生涯の仕事に乗り出したのです。
 聴衆はヘレン・ケラーの言ったことをほとんど聴き取れなかったにもかかわらず、彼女はアメリカでもっとも愛された演説家の1人に成りました。ケラーとサリバンはまもなく、出演のための一つの手順を創り出しました。まず最初に、〈先生〉が簡単に話をします。その話の中で、高名な生徒ケラーを紹介し、ケラーを教育する彼女の独自な方法を述べます。次に、ケラーがどのようにしてサリバンの唇を指先で読んでいくかを、2人で実演します。そして最後に、ケラーが直接聴衆に話しかけ、サリバンがそのケラーの言葉を繰り返します。
 ケラーは、講演する所ではどこでも、好意的に歓迎してくれる観客に迎えられました。詩人のカール・サンドバーグはケラーの講演を聞いた後、「あなたの話しを聞きまた見た人たちは、生きることへの熱意、あなたが放射している熱意こそが、いかに生くべきかについてのどんな決まり文句よりも大切なのだと感じている」と書いています。

  [15] Carl Sandburg: 1878-1967. 1916年の『シカゴ詩集』で、中西部を代表する詩人と認められる。『全詩集』(1950)でピュリッツァー賞。また、リンカーンに傾倒し『リンカーン伝』(1939)でピュリッツァー賞。アメリカ各地を回ってフォーク・ソングを集め、その普及にも努めた

 ケラーとサリバンがこうして全国を講演旅行しているうちに、メイシー夫妻の結婚生活は破綻に向っていました。ジョン・メイシーはいつしか、妻というよりは〈おなじみの時の人〉と結婚したように感じるようになりました。そしてついに 1914年、彼はもはやアニー・サリバンとの生活を望んでいないことを表明したのです。悲嘆に暮れたケラーは、彼に何通も手紙を書いて、考え直すように懇願しました。
 ケラーが懇請してもメイシーの決心は変わらず、彼は2度と妻と暮らすことはありませんでした。けれども、メイシー夫妻は正式の離婚手続はせず、 1932年にジョン・メイシーが発作で死亡するまで、3人は友人であり続けました。

 アンドリュー・カーネギーがケラーに年金給付の申し出を再提示しましたが、彼女は微笑みながら丁重に断りました。彼女は、1914年の春、彼に「私はまだ打ちのめされてはいません」と語っています。けれども、サリバンの健康状態が悪化していくことへのケラーの憂慮は増すばかりでした。2人で講演していたメーン州のあるホテルで先生が倒れた時、ケラーは大声で助けを求めることができませんでした。彼女は後に「自分の無力さに戦慄しました」と書いています。ようやくホテルの支配人が現れて、彼の助力で2人の女性がレンサム行きの列車に乗り込んでくれました。
 無事に帰宅して、ケラーはカーネギー宛に、メーン州での出来事を率直に述べ、そして自分の無力さをいやというほど感じていることを認める手紙を書きました。この産業資本家は、次のようなメモとともに、ただちに小切手を送ってくれました。「ある人が他の人のためにしたいことを、他の人がその人のためにすることを許せるような高みにまで昇り得る偉大な精神の持主は、数人しかいません。そしてあなたはそこまで昇りつめたのです。」
 カーネギーからの贈り物により、ケラーとサリバンはアシスタントを1人雇うことが可能になったのです。何年にもわたって、サリバンはたった1人で手紙類を管理し、会計をやりくりし、家事や料理を引き受け、数限りない電話に応対し、レンサムの家の玄関先にやって来る訪問者たちの流れをさばいてきました。今やようやく、安心して、慢性の病に苦しんでいる先生とその生徒は、新聞に「援助者求む」の広告を出すことができました。
 この給人広告に最初に応募した人たちの1人に、ポリー・トムソン[16]という名のスコットランド人女性がいました。彼女はアメリカにやって来たばかりで、障害者とともに一度も仕事をしたことはなく、また点字や指文字も読むことができず、ヘレン・ケラーの名前も聞いたことがありませんでした。でも、彼女は健康で、快活で、聡明で、そして物覚えが速かったのです。サリバンとケラーは直ちに彼女を家事担当の秘書として雇いました。
 トムソンはじきに、タイプライターを打ったり家計簿をつけたり料理をしたりするのに熟達し、犬や訪問者やスケジュールをあつかう達人になりました。こうして彼女は 1914年にケラー家の一員に加わり、46年後に亡くなるまで、優雅さとユーモアをもって、家政をうまく切り盛りしました。

  [16] Polly Thomson はニックネームで、本名は Mary Agnes Thomson。1885-1960年。スコットランドのグラスゴー生まれ。1913年に渡米。翌年秋からヘレンとサリバンを手伝うようになる。1分間に平均85語の速さで指文字を書いたという。

 ヘレン・ケラーは筋金入りの平和主義者でした。 1914年にヨーロッパで戦争が勃発すると、彼女は、合衆国がこの戦いにかかわるのには反対であることを明言しました。 1915年のニューヨーク市でのスピーチで、彼女は次のように述べています。「私は世界を私の祖国と考えます。だから戦争は何であれ、私にとっては、世界の構成員に不和をもたらす、まことに嫌悪すべきものなのです。真の愛国主義とは同胞愛であり、あらゆる人間相互間の奉仕である、と私は主徴します。」
 戦争への反対を公言したアメリカ人はけっしてケラー1人ではなかったのですが、第1次世界大戦についての彼女の見解は、合衆国が 1917年に参戦してからはとくに、多くの同郷の市民にも不評を買いました。

【キャプション】
 ・ケラーとサリバンの1913年のボストン講演が、彼らの〈初登場〉として広告に書かれているが、しかしそれは実際には2回目のものだった。彼らの初講演――それはケラーにとってはぞっとするものだった――は、ニュージャージー州モントクレアで行われたものだった。
 ・詩人のカール・サンドバーグは、ケラーとサリバンのシカゴ講演に出席し、その後ケラーに熱烈な手紙を書いた。その中で彼は「私は昨夜宮殿であなたの姿を見声を聞きました。そしてそれを何千もの仕方で堪能させてもらいました」と述べている。
 ・ケラー自筆のサイン入り写真。ケラーはしばしば自分で署名した写真を求められたが、1908年にイタリアの彫刻家オノリオ・ルオトロにそういう写真を贈った。ルオトロは、ケラーの像を創った多くの彫刻家の1人である。 [Onorio Ruotolo: 1888-1966. イタリアの彫刻家・詩人。ナポリの美術学校を卒業後、1908年にアメリカに移住。1923年にニューヨークに移民の美術教育のためにレオナルド・ダ・ビンチ美術学校を設立、イサム・ノグチがその彫刻クラスの第1期生となっている。トスカニーニ、エジソン、ドライサー、ケラー等の肖像彫刻でも有名。]
 ・ケラーが、1919年、早朝のウォーキングに出かけている。普通の活動に参加するのにいつでも熱心で、彼女はライト=ヒューメーソン学校に在学中は乗馬の授業を取っていた。