第4章 昼 (5)
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第4章 昼 (5)
1916年の秋、ケラーは彼女の生涯でもっとも痛ましい出来事を経験しました。
その夏の反戦をうったえる講演には冷やかな反応しかなく、彼女はめずらしく落胆した気分になっていました。またサリバンは重い病気になっていて、医者の考えでは、彼女は結核に罹っていてニューヨーク州立の療養所で数ヶ月間過ごさなければなりませんでした。ポリー・トムソンがサリバンに同行することになり、そのためケイト・ケラーが娘の面倒を見るためにすぐにレンサムにやって来ました。
ケラーとサリバンは夏の講演旅行を手伝ってもらうために既に臨事の秘書を1人採用していました。彼はピーター・フェイガンという 29歳のジャーナリストで、社会主義と平和主義についてケラーと同じ見解を持ち、点字と指文字をすでに独学していました。 36歳のケラーはこの青年に温かさと思いやりを感じましたが、母は彼を嫌いました。ケイト・ケラーは娘の急進的な政治思想に不賛成でしたし、ましてやフェイガンのそれはなおさら悪いものだと考えました。
9月のある夕方、ケラーは、後の彼女の表現にしたがえば、「どうしようもない失意」を感じながら書斎に独りで座っていましたが、その時フェイガンが部屋に入ってきました。彼女は次のように書いています。「長いあいだ彼は沈黙したまま私の手を握り、それから優しく私に話しはじめました。彼が私のことをとても気にかけていることに驚きました。……彼には、私を幸せにするための多くの計画がありました。もし私が彼と結婚するなら、人生のどんな苦境にさいしても、いつも必ず側にいて私を助けるつもりだ、と彼は言いました。」
何年も前に、ケラーの友人であるアレクサンダー・グラハム・ベルがすでに、いつかこのような事が起るだろう、と彼女に告げていました。彼は「友情よりも大きな愛があなたの心の扉をノックする日が来るにちがいありません」と言っていました。
それにたいしてケラーは、恋愛のことはしばしば考えますが、それはあくまで「私が触れてはいけない美しい花」としてだけです、と認めました。ベルはこのような答えを受けいれることは拒否して、「見えないことや聞えないことを理由に、あなたは女性の最高の幸せから閉め出されていると思っているのですか」と言いました。
「私と結婚しようとする男性など想像できません。それはまるで彫像と結婚するようなものだと思わざるをえません」とヘレンは何度も煩悶しました。
その晩、ピーター・フェイガンといっしょに座りながら、ケラーはベルの言葉を思い出していました。彼は「もし素晴しい男性があなたを妻にしたいと望むならば、だれもあなたにその幸せを逃すように説き伏せたりしてはいけません」と言いました。
彼女は今ちょうどそのような望みと向い合っていました。フェイガンの愛は「まったく無力で孤独な私の上に輝く太陽そのものでした。愛されていることの甘美さに私は魅了されて、1人の男性の一部でありたいという尊大ともいえるあこがれに身を任せていました」と彼女は書いています。震えながら彼女はフェイガンのプロポーズに同意することを伝えました。
ケラーはすぐにも「私に起った素晴しい出来事について」母と先生に告げたかったのですが、しかしフェイガンは彼らに告げるのを先送りしたほうが良いと考えました。彼は次のように言いました。「まちがいなく彼らは最初は賛成しないはずです。ですからしばらくの間、私たちの愛については秘密にしておきましょう。あなたの先生は病気のため今は神経過敏になっていますが、私たちはまず彼女に話さなくてはなりません。」
幸せなカップルは結婚許可証を申請しましたが、家では数日間その事について何も言いませんでした。ケラーはついに秘密にしておくことにどうしても絶えられなくなって、サリバンが療養所に旅立つ前に彼女にこの良いニュースを伝えようと思うとフェイガンに告げました。ところが翌朝、新聞がこの話しをすっぱ抜いてしまいました。ある記者がボストンの市役所で例の結婚許可申請証を見つけてしまったのです。
ケイト・ケラーは怒り狂いました。彼女は娘の部屋に荒々しく押し入って、「あんなやつと何をしでかしたのですか。新聞はあなたと彼についての恐ろしげな話しでいっぱいじゃないの。どういう事なのか全部私に話しなさい」と詰問しました。ヘレン・ケラーはすっかりうろたえてしまって、すべてを否定しました。しかし、市役所の書類の上にある彼女のサインは否定しようがありませんでした。
ケイト・ケラーのふるまいは、世界的に有名な 36歳の女性の両親というよりは、まるで十代の女の子の過保護な母親のようでした。まずフェイガンにこの家から出て行くように命じ、恋人たちが別れの挨拶をすることも拒絶しました。次に、娘をアラバマの家に連れ帰ることにしました。ケラー家の女性たちの帰途の一部が船旅になることを知ると、フェイガンは婚約者に、きっと船の上で会って、彼女を下船させ、フロリダに連れて行くと約束しました。そこで結婚しようというのです。
ケイト・ケラーは、このカップルの計画を聞き知るや、ただちに自分と娘用の列車の切符を買いました。結局フェイガンは一人で船旅をしました。けれども彼はあきらめませんでした。彼はある朝、アラバマ州のケラー家のフロントポーチに現われたのです。ヘレン・ケラーは大喜びで歓迎しましたが、彼女の妹の夫がこの若い男にライフルを突きつけ、彼をむりやり立ち去らせました。
1週間後、家族の者たちは夜物音で目を覚ましました。調べてみると、ケラーがポーチにいて、側には荷物を詰めたバッグがありました。彼女はフェイガンを待ち続けていたのです。家族の人たちは急いで彼女を家の中に引き込みました。フェイガンはこの恋愛にはもはや望みはないと悟ったにちがいありません、ケラー家の人たちは二度と彼のことを耳にすることはありませんでした。
後にある思いやりのある友人が「盲聾唖の女性がポーチで一晩中やって来ることのない恋人を待ち続けているのは、私には何とも切ない光景にみえます」と書いています。また何年も後に、ケラーはこの事件について次のように書いています。「短い恋愛は、私の人生の中で、暗い水に囲まれた小さな喜びの島として残るでしょう。愛され望まれるという経験をしたことをうれしく思っています。」
1917年の春までにはアニー・サリバンの健康は多いに回復し、彼女とケラーは再びいっしょに暮すようになりました。けれども彼らの資金繰りはみじめな状態でした。合衆国はすでに参戦していて、反戦のうったえを聞こうとするようなアメリカ人はほとんどいなくなりました。そのため、ケラーとサリバンの講演からの収入は激減してしまいました。2人の女性は、倹約するために、レンサムの我が家を売って、ニューヨークのクウィーンズ地区にある小さな家に引っ越すことに決めました。
翌年、希望の持てるニュースがもたらされました。ハリウッドのある映画会社が、ケラー自身の人生を題材にした映画に、主役として出演するよう彼女に依頼してきました。当時は〈感動的な〉映画に人気があり、ケラーは、その政治的な見解にもかかわらず、多くのアメリカ人にとって相変わらずヒロインでした。
映画会社の責任者は、その映画は盲人問題について数知れぬ観客に語りかけるよい機会になるはずだとケラーに請け合いました。そしてさらに、もしサリバンがその生徒よりも長生きした場合にも、サリバンが自分で生活していくのに十分なお金も得られるだろうとも指摘しました。ケラーはこの申し出を直ちに受け入れることにしました。〈トーキー〉(音のある映画)はまだ発明されておらず、彼女は自分の不完然な発声もなんら問題にならないことを知っていました。ケラーは、母およびサリバンといっしょに、カリフォルニアに向け出発しました。
ハリウッドに滞在中のこの3人は、とても活気にあふれていました。ヘレン・ケラーは確かに、もっとも並外れたスターの1人であり、ハリウッドの映画界は彼女に興味をそそられました。メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスは、盲人のためになる映画の製作についてヘレンと話し合い、またチャーリー・チャップリンは自らその映画への出演を申し出ました。
『救い』という題のその映画は、情緒と象徴とスペクタクルの途方もない寄せ集めのようなものでした。映画製作者は、色々な好みのすべての観客にうったえかけようと、ケラーの赤ちゃんのころの場面からギリシア神話の勇壮な闘いの場面まで、あらゆる物を含めてしまいました。『救い』は前評判がとても高いなかで封切られましたが、興行的にはまったくの大失敗に終りました。サリバンとケラー家の人たちが、映画製作についての自分たちの意見が無視されてしまったという理由で、ハリウッドを去ったからです。
ハリウッドでの失敗は、ひとつのプラスの結果をもたらすことになりました。娘と先生を役者にするというアーサー・ケラーの提案は、23年前にきっぱりと拒絶されていました。しかし今、『救い』をめぐる評判が続いている中では、ボードヂル[寄席演芸的なショウ]の考えはそんなにばかげた物とは思われなくなってきました。ある著名な出演契約会社が1919年にケラーとサリバンに高い報酬で全国的な旅回り興行を申し出ると、彼らはそれを受けました。
それから5年間、先生と生徒は、全国各地を巡回して、威厳のある20分のショウを見せました。その中では、サリバンがケラーの教育について語り、またケラーは聴衆からの質問に答えました。
1921年、ロサンゼルスで彼らが出演している時に、ケラーは母が突然アラバマで亡くなったという知らせを受け取りました。ケラーは後に「私は母が病気だったことさえ知りませんでした。目前の聴衆のことを考えて、私は身体の全神経で泣き叫ぶしかありませんでした」と書いています。その夜も彼女は予定通り舞台に立ち、いつもとまったく同じように、聴衆の質問に即座に、しばしばユーモアを交えて答えていました。
ケラーは巡回興行による生活を楽しむようになりましたが、サリバンにはそれはますます難しくなってきました。サリバンの弱い目はまばゆいフットライトの光で痛めつけられ、また一度ならず、声が出なくなってショウへの出演を断念しなければなりませんでした。サリバンのせりふを覚えたポニー・トムソンがなんとか代役を務めましたが、ケラーは側にいる〈先生〉がいなくなってしまったような喪失感を味わいました。
ケラーの最愛の同伴者は1924年までには彼女とほとんど同じほどの障害をかかえるようになりました。ケラーは、人生における最初の使命、すなわち盲人のために働くことに自らの努力を向ける時がやって来たのだと決意しました。
【キャプション】
・喜劇役者のチャーリ・チャップリンが、ヘレン・ケラーを撹乱した1919年の映画「救い」のハリウッドのセットの上でまくし立てている。座っているのは、ケラー(中央)、助手のポリー・トムソン(左)、アニー・サリバンである。
・無声映画のスターであるメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが、1920年代、ファンに挨拶している。ハリウッド界の多くの人たちと同様、この2人も、普通とは異なる新しい仲間ヘレン・ケラーを、畏敬に満ちた熱狂でもって受け入れた。
・この注意深く照明されている肖像は、1920年代のケラーとサリバンのステージショーの宣伝に使われた。ケラーは旅興行を楽しむことができたが、病気のサリバンにとっては、それははますます困難なものとなっていった。
・女優のエセル・バリモア[Ethel Barrymore: 1879-1959]が、1921年、ケラーと初対面の握手を交わしている。ともに政治的にはリベラルな2人は、後に、フランクリンD.ルーズベルト大統領の再選[1936年]支援のために一緒に働くことになる。
・ある評者は以前、「ヘレン・ケラーの外見には人を悲しませるようなところはまったくない」と記した。ケラーは衣服が好きで、上手に着こなし、この流行のダチョウの羽根飾りの付いた帽子のような、優雅な衣装を好んだ。