第5章 夕 (1)
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第5章 夕 (1)
ヘレン・ケラーという名前には、神秘的とも言えるほどの魅力がありました。1921年に非営利組織としてアメリカ盲人援護協会(American Foundation for the Blind: AFB)が設立されたのですが、その指導者たちは、ケラーが1924年に基金集めの要員の1人としてその活動に加わることに同意してくれたことをとても喜びました。58歳になったアニー・サリバンは、健康を損ない、疲れ切っていて、ほとんど全盲になっていましたが、これまで同様一生懸命働きました。彼女とケラーは、今度はアメリカの産業・科学・芸術界のリーダーたちを捜し出すために、ふたたび全国を回り始めました。
ケラーの人柄の温かさは、すべての人の心をまるで溶かすかのようでした。自動車王ヘンリー・フォードは盲人援護協会のために気前良く寄付をし、また石油界の大富豪ジョン・D.ロックフェラーも同じことをしました。映画界のリーダーたちは、ケラーとサリバンがハリウッドで仕事をしていた時から彼らをよく知りまた敬服していたので、彼らの言い分にたいして心から支援しました。カウボーイ風のユーモア作家W.ロジャーズ[1]は、一連のラジオ番組の中でケラーの仕事のための寄付を呼びかけました。多額のお金が集まり、彼はそれを「遠慮せずにもっとたくさん求めていいのです」と書いたメモとともにケラーに送りました。
[1] Will Rogers(本名 William Penn Adair Rogers. "the Cowboy Philosopher"とも称した): 1875〜1935。アメリカの俳優・ユーモア作家。
ケラーとサリバンがAFB(アメリカ盲人援護協会)のために仕事をした3年間に、彼らは25万人以上の人たちに話しかけ、その努力の結果、百万ドル以上の金額が集まりました―その額は1920年代としては驚異的なものです。個々の寄付者を見てみると、大小様々でした。ワシントンのある百万長者は、ケラーの話を聞くとすぐさま10万ドルの小切手を書きました。また、寄付者のうちには10代の肢体障害者がいて、彼は500ドルをかき集めて寄付しました。数百人の子供たちが各自のブタの貯金箱を壊して、そのわずかばかりのお金をケラーのもとに送ってくれました。
ケラーの努力は、財団だけに限られてはいませんでした。彼女は以前からずうっと、盲人のための読書法が乱れていることに心を痛めていました。当時、5つの異なった方法―ヨーロッパ式点字、アメリカ式点字、ニューヨーク・ポイント、ムーン・ポイント、ボストン式線文字―が使われていました[2]。彼女はこれらの方法すべてをすでに習い覚えてはいましたが、見えない人たちがわざわざ同じような苦労をするのには何の理由もないと思いました。1932年に、ルイ・ブライユが初めに創った指で読む文字が国際的に承認されるのですが、この標準化にはケラーの雄弁なうったえが大きな役割を果しました。
[2] これら5つの方式について、大河原欽吾著『点字発達史』を参考に、ごく簡単に説明する。
ヨーロッパ式点字(European Braille): ブライユが創った点字そのもの。アメリカには1860年ころ伝えられた。ヘレン・ケラーは私的にはこの形式の点字を使っていたようだ。
アメリカ式点字(American Braille): 1892年にパーキンス盲学校が発表したもの、縦3点、横2点というブライユの点字の原形は保ちつつ、頻繁に出てくる文字に少ない点を当てるように変更し、さらに略字も導入して紙面節約をはかった。
ニューヨーク・ポイント(New York Point): ニューヨーク盲学校の高長ウェイト(William Bell Wait)が1868年に考案した点字で、ブライユのものとは大きく異なる。紙面節約のため、縦2点、横は1点から4点まで伸縮するもので、また点字を書く時の便のため、もっとも頻繁に出てくる文字の点の数を少なくした。1890年代までもっとも広く使われた。
ムーン・ポイント(Moon Point): これはおそらくムーン・タイプ(Moon Type)と呼ばれているものであろう。イギリスのムーン(William Moon: 1818〜1894. 全盲)が1847年に考案したきわめて単純化された線文字。一部の文字には実際のアルファベットの形と似たものも亞るが、触って簡単に識別できるようにと対照的な形も多く採用されている。高齢で失明した者など触知力の乏しい者にも分かりやすく、20世紀に入ってからも長く使われていた。
ボストン式線文字(Boston Line Letter):ボストン・タイプとも呼ばれる。パーキンス盲学校の創設者サミュエル・ハウが1830年代に考案したもので、アルファベットを単純化して角張った形に変えたもの。アメリカで考えられたいくつかの線文字の中でとくに広く普及し、1880年代まで多くの本がこのタイプで出版された。
ケラーは、休みなく全国を巡回することで、経済や政治の分野のあらゆる階層の人たちと会うことができました。彼女は、グローバー・クリーブランド[3]からリンドン・ジョンソン[4]までの歴代の合衆国大統領からホワイトハウスに招待されました。そして彼らはみな、彼女の魅力の虜になってしまいました。彼女は、いつもは無表情な顔をしているカルビン・クーリッジ[5]に笑みをうかべさせ、また、フランクリン・ルーズベルト[6]、エレノア・ルーズベルト[7]夫妻とは親友になりました。ドワイト・アイゼンハワー[8]と会った時には、彼女は彼の顔を触り、「あなたの微笑みは美しいですね」と言いました。そういう彼女の言動に、大統領の目には涙があふれてしまいました。「でも髪の毛のほうはそうでもありませんよ」と彼はジョークで応えて自分の感情を押し隠し、「ミス・ケラー、あなたが私に会いに来てくれたことに深く感銘しています」と静かに付け加えました。
[3] Grover Cleveland: 第22、24代大統領(在任 1885〜89、 1893〜97)
[4] Lyndon Baines Johnson: 第36代大統領(在任 1963〜69)。1963年、ケネディー大統領暗殺に伴い、副大統領から大統領に昇格。ケラーは、1964年9月14日、自由勲章(Presidential Medal of Freedom)を受章する。
[5] John Calvin Coolidge: 第30代大統領(在任 1923〜29)。1923年、ハーディング大統領の死により、副大統領から大統領に昇格。
[6] Franklin Delano Roosevelt: 第32代大統領(在任 1933〜45)。1921年小児麻痺にかかって闘病生活を強いられ、一時政界からも身を引いた。しかし、エレノア夫人の献身的な努力もあって、28年政界に復帰してニューヨーク州知事に当選。次いで大恐慌の経済危機のもとで33年大統領に就任、ただちにニューディールに着手、種々の社会改革を推進した。
[7] Anna Eleanor Roosevelt: 1884-1962. 1905年20歳のとき親戚のフランクリンD.ルーズベルトと結婚。夫の政治生活を積極的に援助するほか、婦人問題、人権問題など広い分野で活躍。1945〜1953年には国連のアメリカ代表を務め、国連人権宣言の起草に積極的役割を果たした。ヘレン・ケラーとは1930年代から交友があり、政治的な考えでも、進歩的なリベラル派という点で共通点が多かったようだ。
[8] Dwight David Eisenhower: 第34代大統領(在任 1953〜61)。
芸術家たちもまた、ケラー、そして自分たちの作品への彼女の鑑賞力に心を動かされました。彼女はとくに彫刻について、その鋭敏な手で直接体験することができるので、敏感に感じ取ることができました。彼女は以前「私の指は一度触っただけでは一つの大きな全体の印象を得ることはできません。でも、各部分を触って知り、頭の中でそれらを一つにまとめているのです」と言いました。彼女の鑑賞力に感動して、多くの彫刻家がその表情豊かな顔の肖像を作りました。
ケラーは音楽に本当のたのしみを見つけました―彼女はそのリズムを、演奏中の楽器や歌手の唇やラジオのスピーカーの上に指を置いて感知するのです。オペラの花形エンリコ・カルーソー[9]が彼女のために歌った時、2人はともに声を出して泣きました。この有名なテノール歌手は「ヘレン・ケラーよ、私はあなたのために人生の中で一番よく歌うことができました」と感嘆の声をあげたほどです。
[9] Enrico Caruso: 1873〜1921。イタリアの有名なテノール歌手。
ヤーシャ・ハイフェッツ[10]は、ケラーのために私的なコンサートを開きました。その時は、彼女は指をバイオリンの上にずうっと置くことができるのです。彼女は後に「それぞれの細やかな音譜がアザミの冠毛のように私の指先の上に止まり、それが私の顔や髪に触れるのです。まるで、キスの時に覚えるあの感覚のように」と書いています。
[10] Jascha Heifetz: 1901〜1987。 ロシア出身のアメリカの名バイオリニスト。
【キャプション】
・ 45歳のヘレン・ケラーは、健康で、活力に満ち溢れ、世界の他の人々を救うのに熱心だった。彼女は急に盲人のための募金運動に飛び込み、普通の人の人生の半分の年月をそれに使い尽くすことになった。
・ケラーの敏感な指先が、点字で印刷された本を読み理解している。主に彼女の努力のお陰で、1932年、点字が盲人のための世界標準文字として採択された。[1932年7月、英語点字統一についての英米の協議が最終合意に達する。]
・ケラー(彼女は7歳の時初めてホワイトハウスを訪問した)が、1931年、[ニューヨークで開催された]世界盲人会議の会合の後、ハーバート・フーバー大統領と会見している。
・ 1926年、カルビン・クーリッジ大統領が、彼の賓客[ヘレン・ケラー]の言葉がおかしくて、珍しく微笑んでいる。ヘレン・ケラーは、「あなたのことを皆は冷たいと言っていますが、そうではありません。あなたは親愛なる大統領ですよ」と言っただけだった。
・ケラーが「あなたの有名な微笑を見せてください」と頼むと、ドワイト・アイゼンハワー大統領がにこりと微笑んで応じている。ケラーの右手がポリー・トムソンのほうに伸ばされ、彼女がケラーのために大統領の言葉を通訳している。[ケラーは、1953年10月、ホワイトハウスにアイゼンハワー大統領を訪ねている。]
・ケラーは、1961年、ホワイトハウスでジョンF.ケネディと会話している時に、もうひとつの大統領の微笑を呼び起こしている。彼らを見ているのは、AFBの職員エブリン・サイードである。
・ 1941年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、テノール歌手ローリッツ・メルキオールが、[ワーグナーの楽劇]トリスタンとイゾルデ中の彼の役のための衣装を着けてアリアを歌っているのを、ケラーがその指でもって聴いている。[Lauritz Melchior: 1890-1973. デンマーク生まれのアメリカのオペラのテノール歌手。ワーグナーの作品の役で知られる。]