第5章 (2)

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第5章 夕 (2)

 多くの芸術家や科学者や知識人たちは、生徒であるケラーばかりでなくアニー・サリバンにも心惹かれました。偉大な物理学者アルバート・アインシュタインは、「メイシー夫人、あなたの仕事は、近代教育における他のいかなる業績よりも私には興味があります。あなたはヘレン・ケラーに言葉を伝授したばかりでなく、彼女の個性を開花させました。そしてそういう仕事には、人間わざとは思えないような要素があるものです」と言いました。
 近代の教育法を革新したイタリアの教育者マリア・モンテッソーリ博士[11]は、アインシュタインと同意見でした。あるセレモニーで、モンテッソーリとサリバンはともに、教育における彼らの画期的成功にたいして栄誉を与えられたのですが、その会場で彼女はケラーの先生を指差して「私はこれまでパイオニアと呼ばれてきましたが、そこにはパイオニアであるあなたがいます」と言いました。

  [11] Maria Montessori: 1870〜1952(ファシズムを逃れて移り住んだオランダで亡くなる)。イタリア初の女性医学博士。当初は知的障害児の教育に携わるが、1907年貧困家庭児のための「子供の家」を開設、それまで障害児のために行っていた教育法を一般の幼児に拡大して「モンテッソーリ法」と呼ばれる独自の教育法を確立。子供の発達の源泉は子供自身の内部にあるものと考え、子供の自発性や自己活動を基本とする適切な環境(教師が指示しなくてもすむように工夫された教具を配置)の下での諸感覚の訓練を重視。

 ケラーとサリバンが経験した出会いすべてがこんな風に友好的であったわけではありません。2人はともに、ジョージ・バーナード・ショー[12]の戯曲、とくに『ピグマリオン』(『マイ・フェア・レディ』の原作)と『聖女ジョーン』の大ファンでした。1932年、2人はロンドンを訪問しました。彼らが社交会の淑女ナンシー・アスター婦人[13]を訪ねると、彼女は友人のショーに引き合わせてくれました。

  [12] George Bernard Shaw: 1856〜1950。イギリスの劇作家、社会批評家。
  [13] Nancy Witcher Astor: 1879〜1964。英国初の女性国会議員(1919〜45)。

 2人のアメリカ人女性はわくわくしていました。「あなたに会えてとてもうれしいです。あなたとお知り合いになりたいとどんなに長い間望んできたことでしょう」とケラーはイギリスの劇作家に言いました。ショーは「どうして、あなた方アメリカ人はみな同じことを言うのでしょう」と答えました。
 このようなからかいの言葉にかまわず、ケラーはこの作家にアメリカを訪問するよう懇請しました。彼は「どうして私がそんなことをしなければならないのですか」と尋ね、「全アメリカが私に会いに来るのですよ」と言いました。アスターは彼の腕を強く揺さぶりながら、「ショー、あなたはこの人がヘレン・ケラーであることを分かっていないのですか?彼女は耳も聞えず目も見えないのですよ」と言いました。
 これにたいしショーは「あたりまえですよ。アメリカ人はみな耳も聞えず目も見えず、おまけに口もきけない間抜け者なんですよ」とぴしゃりと言い返しました。ショックを受けながら、サリバンはこの劇作家の言葉をケラーの手にゆっくりとつづり書きました。
 この会見が新聞で報道されると、ショーへの国際的批判が起こりました。この毒説家は、自分の意図が誤解されているのだと、とてもまじめに主張しました。自分はただ「ヘレン・ケラーに不幸な人だからと同情するような雰囲気はちょっとでも避け」たかったし、また彼女に「彼女がきわめて卓越した訪問者である」と感じさせたかっただけだ、と彼は言いました。そうは言っても、彼の言葉にはとげがありました。訪問者であるケラーは、「彼の態度は私にはとくに丁重なものではありませんでした」と悲しげに感想を語りました。
 けれども、ケラーはこのような失望に長い間思い悩んだりはしませんでした。彼女は、仕事に、そして―年を経るとともにますます―親愛なる先生にその巨大な精力を注ぎ続けました。
 サリバンは、2人がはじめて会った時ケラーが必要としたのとほとんど同じ程度の世話を必要とするようになりました。サリバンは、点字をすらすら読めるようにはなっていなかったので、点字には我慢できず、多くの時を自分自身の不幸な子供時代についてケラーに話して過ごしました。ケラーはそれまで先生の幼いころのいろいろな試練について知らず、愕然とするばかりでした。彼女はまた、サリバンの健康が衰えつつあるのを感じて、彼女無くしてどうして生きて行くことができるのかとおののくほどでした。
 サリバンは、自ら言うところによれば、「まったくいかなる宗教も持ってい」なかったのに、その生徒のほうは心底宗教的でした。16歳の時に彼女は、神の本質は愛と知と強さであると教えたスウェーデンの神秘家エマヌエル・スウェーデンボリ[14]の教義に初めて出会いました。

  [14] Emanuel Swedenborg: 1688〜1772。スウェーデンの科学者・神秘主義者・哲学者。言語学、数学、自然科学を学び、1747年まで鉱山局に勤めるかたわら、自然科学者として一流の業績を残した。自然の根本を探求する中で、科学の経験的認識の限界を超えたさまざまなビジョンを見はじめ、1745年に、聖書の霊的な意味を霊の世界との交流の体験に基づいて明らかにするという使命を自覚、視霊者・神秘的神学者としての後半生がはじまる。霊魂の独立存在、死後存続を信じ、自ら天使や諸霊と語り、天界と地界の対応を踏まえて、霊界などについて詳しく記述した。18世紀末から19世紀にかけてイギリスやフランスでかなりの信奉者を得、新しい教会も設立された。

 スウェーデンボリの思想には、死の後には再生―その生においては、足の悪い者が歩き、目の見えない者がみるであろう―がやって来るという信念がふくまれていました。それはケラーの考え方とぴったり適合した信仰であり、彼女は生涯にわたる熱烈な信者になりました。
 彼女は「霊的な世界は、聞えず見えない者にいかなる困難ももたらしません。自然界のほとんどすべての事物はぼんやりしていて、私の感覚からは遠く離れていますが、同様に、多くの人々の精神にとって霊的なものは同じように思われるのです」と書いています。
 1925年の夏までには、サリバンの視力は普通の10%まで落ち、またすぐに疲れるようになりました。サリバンの身体が弱くなっていくに連れ、ケラーの信仰はいっそう強くなってゆきました。1927年に彼女は『私の宗教』[15]という本を著し、その中で自分の信念を説明しました。この本はその後何度も再版され、いろいろな信仰を持った人たちに広く読まれてきたものです。その本で、彼女は「心を欠いた生きた体は容易に思い描くことはできるとしても、宗教無くしては自分自身をイメージできません」と書いています。

  [15] 邦訳:『ヘレン・ケラー ―光の中へ―』(トリタ ケイ訳、メルクマール、1992)

 サリバンは募金活動を一度も楽しんでしたことはありませんでした。同伴者の健康が衰えるに連れて、ケラーもまた、アメリカ盲人援護協会のための仕事を重荷に感じるようになりました。1924年末の妹宛ての手紙の中で、彼女は「この乞食のような生活は、なんとまあ骨の折れる仕事なのでしょう!」と言っています。にもかかわらず、彼女は1927年末―その時にはサリバンはもうきびしいスケジュールをこなせなくなっていました―までAFBのために巡回し講演し書きつづけました。

【キャプション】
 ・英国の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはヘレン・ケラーに無礼に話していることにいまだ気付かずにいたが、彼女は穏やかに微笑んでいる。ショーの友人ナンシー・アスター婦人(右)が、彼の話にショックを受けた。