第5章 夕 (4)
上に戻る
第5章 夕 (4)
ケラーは生涯ずうっと戦争には強く反対してきましたが、1941年12月7日、日本人がハワイのオアフ島にあるアメリカの海軍基地真珠湾を爆撃した時には、彼女も他のアメリカ人同様激怒しました。第二次世界大戦では、彼女はなんとしてでも自国の側に加わりたいと強く思いました。
最初のうちは、初老の盲聾の1女性が戦争遂行のために大きな貢献をすることなどできそうにないと思われましたが、しかし彼女は、1943年までには、自分でなければ果たせないようなぴったりの役割を見つけました。彼女は、戦争で盲あるいは聾になってしまった男たちに助言したり勇気付けるために、軍病院を巡回し始めました。
そのころにはもう、ケラーはほとんど伝説になっていたのです。彼女が訪問した先のたいていの男たちは子供のころから彼女のことを聞き知っており、彼女と直接対面することで大きく心を動かされました。エレノア・ルーズベルトが観察して言うには、「彼女がその場に居るということを知るだけで、少年たちは励まされているように思われました」。負傷者へのケラーの訪問は、大統領婦人が付け加えて語るには、「彼らにもたらされ得るおそらく最大の癒し」でした。
訪問はまた、ケラーにとっても同様に〈癒し〉でした。彼女は、「疲労困憊した頭の上にキスをするか手を置くかする」だけでとても大きな効果が得られることを実感して、深く心打たれました。彼女は後に、長く消耗する病院巡回を「私の生涯のこの上もない体験」であったと記しています。
ケラーはこの病院巡回訪問を、1945年に戦争が終わってからも継続しました。彼女はまた、AFB、およびそれから派生したアメリカ海外盲人援護協会(今はヘレン・ケラー・インターナショナルと呼ばれている)と連携した活動も続けました。1946年から1957年の間に、ケラーとポリー・トムソンは 5大陸35カ国の病院や学校等を訪問[18]して、障害者のための計画を組織し推進するのを手伝いました。
[18] 1946年にイギリス・ギリシア・フランス・イタリア・アイルランド・バチカン市国、1947年にエジプト・イギリス・シリア・レバノン・ヨルダン、1948年にオーストラリア・ニュージーランド・日本、1950年にフランス・イタリア(個人的旅行)、1951年に南アフリカ、1952年にエジプト・シリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル・フランス、1953年にブラジル・チリ・ペルー・パナマ・メキシコ、1955年にインド・香港・フィリピン・日本、1956年にスコットランド・ポルトガル・スペイン・フランス・スイス、1957年にカナダ・アイスランド・スイス・フィンランド・スウェーデン・ノルウェー・デンマーク訪問。
アメリカ合衆国においては、ケラーは相変わらず積極的に活動し続けました。[その中でも]彼女にとっておそらくもっとも重要だったのは、彼女自身の苦難を共有する人々[盲聾者]のためにした仕事だったでしょう。彼女に強く勧められて、AFBは、盲聾者――ケラーはそのような人たちを「地球上でもっとも孤独な人間」と呼びました――のために新しい訓練プログラムを作り出しました。
これら二重の障害を負った人々は、以前は教育のしようがないと考えられて、しばしば精神科病院に送られていました。今日では、おおむねヘレン・ケラーの努力のお陰で、合衆国内の多くの学校が盲聾の子供たちのために特別な訓練を行っています。そして彼らが、普通の子供たちに教えられるのと同じ多くの技術を教えることのできる人たちであることが認識されるようになりました。
ヘレン・ケラーの名声はさらに広まり続けました。年を取るにつれて、世界中の国々から彼女に溢れんばかりの多くの賛辞が送られました。彼女は、フランスのレジオン・ドヌール勲章、ブラジルの南十字国家勲章、フィリピンのゴールデン・ハート章、そして日本の勲一等瑞宝章を受けました。
アメリカ合衆国内では、ケラーは様々の民間団体からおびただしい数のメダルを送られました。1964年、リンドン・ジョンソン大統領は、大統領自由勲章という、文民に与えられる最高位の賞を彼女に授けました。ケラーはまた、ハーバード大学[1955年]からばかりでなく、スコットランド、ドイツ、インド、南アフリカの各大学から名誉博士号を授与されました。
1957年にポリー・トムソンは脳出血を起こし、以後完全に快復することはありませんでした。そして、彼女は1960年に亡くなりました。再び、ケラーは、誠実でもはや欠かすことのできない友人を失ってしまいました。彼女は今や80歳になっていて、アニー・サリバンの死の時よりは達観はしていました。
トムソンの兄弟への手紙の中で、ケラーは、「今私は、彼女の居ない椅子の側に座って、困難な仕事に際して私を助けてくれたその真摯さ、そして驚くほどの冒険を一緒にする時のその疲れを知らない快活さを思い出しています。きっと2人は天国で相見え、先生はポリーのことをこれまで以上に誇りにしているはずです。」と書いています。
ヘレン・ケラーの長年にわたる活動は、終息に向かいつつありました。1961年彼女は国際ライオンズクラブからその年の人道主義大賞[19]を受けました。そしてそれが、彼女が公式の場に姿を現した最後の重要な機会となりました。その年の後半に、彼女は軽い発作を起こしました。その時以来、彼女はコネティカット州の自宅に留まっているようになりました。
[19] 1961年6月、ニュージャージー州アトランティックシティで開催されたライオンズクラブ第44回国際大会で、ヘレン・ケラーが人道主義大賞(Humanitarian award)を受ける。なお、ヘレン・ケラーは、1925年オハイオ州セダーポイントで開催された第9回国際大会にゲスト・スピーカーとして招かれ、「暗闇と戦う盲人のための騎士になってください」と訴え、ライオンズクラブが視力関連事業に重点を置くようになるきっかけをつくった。同大会参加者の満場一致で名誉会員として承認されている。
ケラーは、精神的にはなおも活動的で、好きな本――聖書および詩や哲学の著作物――を読んだり書いたりし続けました。友人が訪れて彼女に世界の出来事を知らせ、またAFBの代表者が協会の活動状況について彼女に定期的な報告をするためにやって来ました。
ケラーは、いつでも少なくとも1頭は犬を持ち続けていて、晩年においても犬とともに野外を歩くことを続けていました。ガイドのための手摺が設けられて、彼女が安全に長い距離を歩き回れるようになっていました。彼女は毎朝庭を散歩して、80年前彼女とサリバン先生がタスカンビアでしたように、花を摘んだりしました。
ポリー・トムソンに代わって、秘書兼付添いが付いていました。ケラーは、いつも助力を必要とすることを知っていましたし、またいつもその助力をとても感謝して受け入れました。でも、87歳の彼女は、17歳の時のように、彼女の障害が許す限りなおも自立的であろうとしました。1960年代初めに幾度も軽い発作を起こし、彼女は次第に体力が衰えてゆきました。「かわいそうにもおばあさまは、最後の1マイルをとてもゆっくりと歩いています」と彼女の付添いは、1967年後半に、友人宛に書いています。
ケラーは、1968年6月1日、彼女の88歳の誕生日の数週間前に、しずかに亡くなりました。彼女の遺灰は、ワシントン大聖堂のアニー・サリバンとポリー・トムソンの遺灰の隣りに置かれました。
【キャプション】
・ケラーが、一方の手でラジオの音楽を〈聴きながら〉、もう一方の手で拍子を取っている。彼女は個々のメロディーを認識することはできなかったけれども、振動を通して音楽のリズムを感知することはできた。
・エジプトの盲目の教育大臣[ターハー・フセイン]が、1952年、カイロでケラーを出迎えている。別のエジプトの盲人指導者は、「我が慈悲深き神は、一つの目の代わりにルイ・ブライユを、そしてもう一つの目の代わりにヘレン・ケラーを与え給うた」と語った。
・ケラーが、1946年、第二次世界大戦で負傷した復員軍人を訪れている。彼女は、軍病院の巡回慰問――それはもちろん兵士たちから大いに評価されていた――を「私の生涯の最高の経験」だと称した。
・1955年に極東に向かって出発する前夜、ケラーが、友人のエレノア・ルーズベルトの言うことを、唇に触って読み取っている。元ファーストレディは、彼女のことを「アメリカの世界に向けての親善大使」と称した。
・1955年、ケラーがウェストポートの自宅でオレンジを搾っている。彼女はふつう朝5時に起きて、まず庭から花を摘んで来て、ベッドを整え、散歩をし、朝食の用意を手伝うことでその日を始めた。
・1956年、チェスの対戦で、ポリー・トムソン(左)を窮地に追い込んだことが分かって、ケラーが勝ち誇ったような笑みを浮かべている。特別に作られた盤上で行われるチェスのゲームは、この2人の女性のお気に入りの娯楽だった。
・ヘレン・ケラーの妹ミルドレッド・タイソンが、1960年ブロードウェイで上演された『奇跡を行う人』でヘレン役を演じた女優パティー・デュークと会っている。デュークは、劇中でタイソンを象徴する人形を抱いている。
・コネティカット州ウェストポートのヘレン・ケラーの家は、彼女がそれを所有した時とほとんど変わらない外観をしている。彼女の最初のウェストポートの家は1938年に建てられたものだが、1946年の火事で焼失した。ここに見えている建物は、その後再建されたものである。
・1954年、ダンスの美を〈体感しつつ〉、喜んだ顔のヘレン・ケラーがダンサーたちの一団の中で立っている。(長いガウンを着た)彼女とともにいるのは、振付師のマーサ・グラハムである。
・ケラーは、1968年に亡くなるまでの数年間、会話は生き生きと行っている。生涯を終える直前まで、彼女は、好奇心旺盛で、熱心で、活力にあふれていた。