点字の歴史

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 今年は点字の考案者ルイ・ブライユの生誕200年ということで、フランスをはじめ、日本もふくめ世界各地で記念行事が行われているようです。私も点字の恩恵に大いにあずかっているものの一人として、なにかささやかでも出来ることはないかと思い、
「How Braille Began」(by Paula Kimbrough)
の翻訳をしてみることにしました。原文は
http://www.brailler.com/braillehx.htm
で公開されています。また、この論文は「The Braille Monitor」の2005年7月号にも掲載され、それは
http://www.nfb.org/Images/nfb/Publications/bm/bm05/bm0507/bm050703.htm
で読むことができます(最後に詳しい参考文献が追加されています)。
 
  私はこれまでに翻訳されたルイ・ブライユの伝記を2、3冊読んだことはありますが、なにか物足りない感じでした。今回訳出した論文は、ルイ・ブライユを中心にしながら、歴史を過去と未来にひろげて全体的に俯瞰できるようになっていますし、またルイ・ブライユにかかわる人たちもよく描かれていて、興味深く読むことができました。
  なお、原文では最後の小見出が「Modern Times」となっていて、それまでに書かれた事柄についてその後どうなったかについて書いてありますが、翻訳ではそれを各事項についての注として扱い、編集し直しました。
 
  以下、訳文です。[ ]内は訳者の説明です。
 
 
●十字軍のころ
  点字の誕生は、有りそうにもない出来事の連鎖のように思われるが、もしかするとフランスのルイ9世[在位1226〜1270年]が第6回十字軍[1248年]で壊滅的な敗北を喫した後にまでさかのぼるかもしれない。すでに信仰心の厚かったルイは、神が彼に謙遜を教えるために苦難を与えたと確信してパリに戻り、そのことが彼の慈善絵の関心を強めた。多くの善行の中で、彼は、「カンズヴァン」(英語では15の20倍あるいは300)ホスピスという、盲人のための世界で最初の公の施設の一つに基金を寄付した *1。
  この名前はたぶん最初の住人のことを指していて、それは、十字軍で敗退している間にサラセンによって罰として目を抉り取られた300人のフランスの騎士のことだと言われている。このぞっとするような話は真実ではなく、2世紀後の、ローマ法王への基金募集の手紙に由来している。けれども1499年にこの話が1冊の本の中に書かれると、その後500年間伝説として生き続けることになった。この話は別の最初のこと――人々が近代的と認めるかもしれない基金募集――を記しているのかもしれない。
  カンズヴァンは、盲目のパリ市民のために保護を与え共同生活する唯一の場を提供したのである。この概ね自治的なホスピスは、その盲目の住人に、制服を着た乞食としての免許を公式に与え、健常な詐欺師に「騙し取られる」のではと危惧される世の中で、一種の認定された者たちとしてはっきりと分かるようにした。ここの住人たち(その人数は一度も300人に達することはなかった)は、当時の他の多くの人々に比べて規則ずくめではあるがたぶんより安全な暮らしをしていた。居住者たちは、乞食から得られる幾分かの収益を持ち続けることはできたが、死に際しては、その資産をホスピスに委ねなければならなかった。
  ルイ9世は、もう一度十字軍をという気持ちに抗しきれずに1270年に十字軍[第7回、最後の十字軍]を興したが、チュニスのフランス軍の野営地に熱病が蔓延したとき、赤痢のためにあっという間に死んでしまった。1297年に、教会は彼を「聖ルイ(St. Louis)」として列聖した。いつか、彼の名前にちなんで都市名がつけられるかもしれないし、その市が、奇妙な巡り会わせで、点字の受け入れに重要な役割を果たすことになることもあるかもしれない。
 
●祭のある日
  サントヴィッド[St. Ovid: 紀元前後のローマの詩人]の祭りは、パリのにぎやかな人気のある街中で行われる宗教的な祭りだった。その祭りは、1665年に始まり、毎年8月14日から9月15日まで続き、いろいろな商店、人形芝居、綱渡り、手品、動物の芸、食べ物の屋台が呼び物になった。1770年代までには、祭りの場所は、今日のクリヨ・ホテルの近くのコンコルド広場に移っていた *2。1771年、バランタン・アユイ(Valentin Hauy)という名の青年が、サントヴィッド祭を訪れ、昼食のためにあるカフェに立ち寄った。彼がそこで見たものが、彼自身の人生だけでなく、それ以後、何百万もの見えない人たちの人生をも変えることになるのである。
  その年にだけ現われた民衆を喜ばす仕掛けの一つとして、カンズヴァンから来た8人の盲人のグループ=楽師たちが、多くの他の盲人が実際にやっているような姿を装って、どたばた喜劇を演じていた。彼らはトンガリ帽子[低能者を表す]をかぶり、大きな厚紙の眼鏡をかけていた。赤い服を着てロバの耳を着けた9歳の男の子は、クジャクのような形のとまり木につかまって、天井からぶら下がって拍子をとっていた。〈楽師たち〉は、歌ったり、調子はずれの旧いヴァイオリンをギイギイ鳴らしたりして群集のためにおどけてみせていた。
  この出し物は大当たりだった。数年後に出版されたある年鑑には、「こんな笑いの種になるようなものがもたらした成功をだれが思いつくことができるだろう」と書かれている。しかしアユイは「まったく別の感情」にとらわれ、この演技によって気分を悪くして、昼食を食べることができないほどだった。
  バランタン・アユイは 1745年に織工の家族に生まれた。父は終日機織りの仕事をし、また、副業として近くのプレモンストラン修道院のお告げの鐘を鳴らす仕事もしていた。バランタンおよび後に科学者になったルネ=ジュスト[Rene Just Hauy: 1743〜1822年。鉱物学者として有名で「結晶学の父」と呼ばれる]という才能ある兄の二人は、この修道院で修道士から教育を受けた。バランタンは、現在使われている10の言語に加え古代ギリシア語とヘブライ語を話す語学の達人になった。1783年に彼は王付きの通訳者に任命された *3。
  アユイは最初の聾学校(これもパリにあった)の創設者であるド・レペー神父(Abbe de l'Epee)[Charles Michel de l'Epee: 1712〜1789年。1760年パリに聾学校開設]と知り合いになり、指文字を習得した。アユイの理想主義的な活力は非常に旺盛だったようで、それが当初彼の運につながったのかもしれない。1784年の春、パリの別の場所を歩いていた時、彼は完璧な生徒にめぐり合ったのである。
  もっとも流布している話では、1784年、アユイは、ミサの後サンジェルマン・デ・プレ教会を出た所で、その教会の玄関近くで物乞いしている盲目の少年の手の中に 1枚の硬貨を押し付けた。するとその少年はその硬貨の額を大声で言ったので、アユイは彼に与えた額がつい多くなり過ぎたと思った。そのときアユイは、盲人は、たぶん触覚を使って読むことさえできれば、非常に多くのことを学ぶことができるはずだ、という驚くべき洞察を得たのである。〈貧民外から〉摘まみ出されたようなみすぼらしい浮浪児についてのこのような話は、ある著者が言うように、本当の話ではないかもしれない。この若い物乞いが、アユイが盲人の教育に興味をもっていることをうわさに聞き、何らかの方法で自分をうまく売り込んでその機会を得ることができたということについては、いくつか証拠がある。
  ともかくも彼らは出会い、17歳のフランソワ・ルシュール(Francois Lesueur)がアユイの最初の生徒になったのである。フランソワはすでに幼少期に失明しており、両親と5人の兄弟姉妹を養うために、これまでの短い人生の多くを路上で物乞いして過ごしてきた。アユイは、フランソワが勉強している間に物乞いをして得られるはずの収入を埋め合わせ、木製の文字を使ってそれを単語のつづりに合わせて動かしていって、彼に読み方を教えた。彼はとても覚えが早く、また新しい重要な洞察を与えてくれた。アユイの机の上で何か探し物をしていて、フランソワは1枚の葬義カードにさっと手を走らせた。そのカードには「o」の文字が非常に強く印刷されており、触って判読できるほど十分に浮き出していた。6ヶ月で彼は初頭教育の基礎的な部分をマスターし、アユイが彼を王立アカデミーに連れていって実演させた時には、その成果にフランスの一流の学者や科学者は言葉が出ないほどびっくりした *4。
 
●盲人のための学校
  アユイは、当時の著名人、例えばピアノの天才として国際的に名声を博していた若い盲女性マリア・テレジア・フォン・パラディス(Maria Theresia von Paradis)のような人たちから援助を請うことで、大きな成功をおさめることができた。彼女は、針先を使った筆記法をはじめとする彼女自身の読み書きの方法を提供してくれた。マリアはまた、彼女が文通しているワイセンビュルグ(Weissenbourg)という名のドイツの才能ある盲学生のことについてもアユイに語った。ワイセンビュルグは、家庭教師クリスチャン・ニーゼン(Christian Niesen)の豊富な教材を通して、相当程度の教養を身に付けていた。ニーゼンの考案した教材には、針金を曲げて作ったアルファベットや厚紙の上に絹糸で刺繍して作った触地図があった。彼はまた、ニコラス・ソーンダーソン(Nicholas Saunderson)の計算板と類似の板も使った。ニコラス・ソーンダーソンはイギリスの盲目の数学者で、複雑な計算をやりこなすために独自の板を考案していた。ソーンダーソンは、不幸にも、その計算板をどのように使うのかについての手引を残していなかった。彼の死後、家族の者は、彼の最後の本を出版するためにその板の使い方について彼の同僚に尋ねなければならなかった。
  アユイは当初自宅で教育活動を始めたが、生徒が増えてきたので、活動を拡大するための援助を王室から十分得られるようになった。彼は学校を最初はコキリエール通りに移転し、それからノートル‐ダム・デ・ヴィクトワール通りに移転した。間もなく生徒は男女合わせて48人になった。その生徒集団の中で結局14組の夫婦が結ばれることになった。2年もしないうちに、音楽院が学校のために慈善コンサートを後援してくれるようになり、他方アユイは、生徒たちをベルサイユに連れていって、クリスマスのとき王に読みや算数や触地図を実演して見せ、王室から基金を継続して得られるようになった。学校には当初から浮出し文字の本を作るために生徒たちによって運営される印刷所が設けられており、アユイは生徒たちに宮廷の貴族たちのための特製の〈サンプル〉版を作らせた。そのテキストが、アユイ自身の記念すべき本「盲人教育論」["An Essay on the Education of the Blind" 1786年。初めての浮出し文字による本]であった。このような宮廷での催し物の一つに、パリの東にある小村=クーヴレー村の貴族オルヴィリエ侯爵が出席していた。
 
●70番入学
  それから20年以上後に、クーヴレー村で、鞍作り職人の第4子として、ルイ・ブライユ(Louis Braille)が生まれた *5。1812年、3歳のとき、ルイは、父親の道具で遊んでいて事故で目を傷付けてしまった。地元のある言い伝えによれば、ナポレオン軍がフランスを離れてロシアに向けて破滅的な遠征をするというニュースを聞いてルイの父親が上の空になって仕事台を離れてしまい(よちよち歩きの幼児には危険な物だらけの所に)ルイが一人で放っておかれたからだという。
  村の治療師である老女に最初ルイの傷付いた目を百合水で処置してもらい、また近くの町の目医者に処置してもらったにもかかわらず(あるいはたぶんそれゆえに)、感染が始まってしまった。下剤である甘汞[塩化第一水銀]錠もふくめ、感染性の処置が引き続き行われた。翌年にかけて、感染は他眼にも広がってしまった。こうしてルイ・ブライユは次第に視力を失っていった。
  ブライユ家のこのような厄介事に加えてさらに、ナポレオンと他のヨーロッパ諸国との絶え間ない戦争のために、ブライユたちの町は各国軍――退却してくるフランス軍ばかりでなく、敵軍、プロシア軍とロシア軍によって踏みにじられてしまった。1814年から1816年までの2年間、ブライユのつつましい3室だけの家も、次々と流入してくる兵たちの宿所にされ続けた。食料、動物、住処を求める兵たちの要求はけっして止むことはなく、そのために町全体が非常な困難におちいってしまった。1816年までに、戦争による疲弊のために住民の健康は損なわれてしまい、天然痘が流行し始めた。ルイの父をふくめ人々は政府が宣伝するワクチンを信じず、そのため町の多くの者が罹患した。
  幸いなことに、同じころ、クーヴレー村に新しい人たち――司祭のジャック・パリュイ神父(Abbe Jacques Palluy)と学校長アントワーヌ・ベシュレ(Antoine Becheret)がやって来た。 2人は、ルイのことをよく知るようになり、さらに、ルイを普通の学校に通わせるという画期的な考えに思い至ったのである。ルイの両親はともに読み書きができ、また彼の兄姉もみな同じ学校に通っていた。ルイは学校でよく出来たので、政府が新たに出した地域の学校についての法令でルイの教育を続けるのが妨げられるかもしれないと危惧されるようになったとき、ベシュレとパリュイはその地方の貴族に援助を打診してみた。
  その貴族とは、少し前に流行した天然痘を生き延びたオルヴィリエ侯爵であり、何年も前にアユイの生徒がベルサイユで行った演技を見ていた彼は、現校長のセバスチャン・ギリエに手紙を書くことを承諾した。ルイの両親は当初はパリの学校に行くことを良い考えだとは思えなかったが、結局は説得を受け入れ、ルイは奨学金を受け取った。1819年2月、ルイと彼の父親はパリに向けて4時間の駅馬車の旅をした。
  ルイはその学校の最年少の生徒となり、70番が割り当てられて、藁布団製の彼のベットにも、ロッカーにも、さらには彼が着た新しい制服のバッジにもこの番号が貼り付けられた。30年前のバランタン・アユイの下でのより幸せな時代以来、学校に起こった変化は、このような厳格な個人識別だけではもちろんなかった。
  革命の後、以前学校を援助してくれた貴族たちの多くは、殺されたり、投獄されたり、あるいはフランスから逃亡してしまった。しばらくの間、学校は次々と場所を移転し、結局は放棄された修道院を聾学校と共用することになり、不幸な結果に終わった。盲生徒たちは、最終的にはむりやりカンズヴァンに入れられてしまった。カンズヴァンはいまや人員過剰となり、大混乱し、最後の手段として年長者の盲乞食のための施設が住処とされた。
  ギリエ博士(Dr. Guillie)(ルイの入学が認められた時の盲学校長)は、パリに最初の眼科医院を設けた専門の眼科医だった。彼はその後、フランス革命から、ナポレオン時代、そしてブルボン維新[1814〜30年のブルジョワ主義政治革命。1830年の七月革命で倒される。ギリエは1814〜1821年盲学校長]にいたる統治組織の多くの変化を生き延びた。
  王が権力の座に帰り咲くとすぐに盲学校を再興しようというギリエの利害関心には、人道主義的な面はごくわずかしかなかった。というのも、彼はもっとも有望な生徒だけをカンズヴァンから矯正ししばしば生徒たちを極めて疑わしい医学実験に使ったからである。彼はまた、建物についても致命的な選択をしてしまった――サン-ヴィクトール通りにあるかつてのサン・フィルマン神学校を選んでしまったのである。
  この古い神学校は、その当時でも建られてからもう500年にもなり、とりわけ、サン・ヴァンサン・ドポール(慈善会の守護聖人)によって創設された孤児院として長く黒使され続け、悪評の高い建物だった。フランス革命期の最悪の時代には、新政府に忠誠を誓うことを拒否した、非協力的な司祭たちおよび旧制度と結び付をもった人たち(簡単に言えば、バランタン・アユイ自身の兄もこの中にふくまれる)の監獄として使われていた。数日間も続いた組織的な大虐殺で、投獄されていた司祭たちが1792年にこの場所で殺された。建物の内部は、じめじめして狭苦しく、ほとんど修繕されていないままで、階段は狭く、部屋は小さく、壁は触るとべとべとしていた。建物はかび臭く〈腐敗臭がただよって〉いた。
  にもかかわらず、ギリエにとっては、サン・フィルマンには一つの際立った魅力があった。それは、この建物の間取りだと男女を厳しく完全に分離できるということであり、そのことが彼にとっては非常に重要なことだった。彼は女生徒を監督するために新たに厳格な女性校長を任命しさえした。
  ギリエは、学校運営における多くの管理的な仕事についてばかりでなく、彼の多くの個人的な考え方についても同様に、慎重に記録を付けている。ルイ・ブライユが入学した年、ギリエは盲人ついて、とりわけ、「この地上で無為に過ごすことを余儀なくされている、低級な存在」だと言及している。
  ギリエの在任中には、だらだらと無為に過ごしてばかりいることはできない状態になったが、それはもっともありそうな理由からだった。生徒たちの作った品物はパリの店で売られ、それは不可欠の歳入源となった。こうして最初の授産所が創設されることになった。ギリエは、生産性を押し上げるために厳しいスケジュールと規律を策定した。生徒たちの技能にはいろいろあるが、とくに彼らは自分たちの制服の生地――必要に応じて、青または黒のもの――も織った。彼らはまた、スリッパ、馬車のむち、漁網、椅子の藁製の座面も作った。さらにギリエは、盲学校がパリの全公立病院のシーツを織るという大きな契約を手に入れさえした。この仕事の規模の大きさは、これらの病院の中で最大のラ・サルペトリエール病院の収容人員が 1万人だったという事実に照らしてみれば明らかである。
  教育のためには、ギリエは、年長の生徒たちが個人指導の教師としてあるいは〈留年生〉として年少の生徒たちに言葉で教える役を果してくれることに大きく依存していた。〈留年生たち〉は知らないことだったが、ギリエは学校のための政府支援を再び得ることに幾分か成功し、年長の生徒たちの指導時間にたいする小額の俸給も受け取っていたが、それを彼は自分のポケットにしまい込んでいた。
  〈生徒たち〉は、本質的には、ディケンズの小説にあるどの作業所にも劣らぬほどわびしい作業所の中に閉じ込められていた。1日13時間の厳格な予定表の中に授業と作業がびっしり詰め込まれていた。生徒たちは入浴は月1回で、暖房はめったに無く、食料も貧しくて、大豆とかゆ状の物が主だった。学校の泥臭い飲み水は濾過されないままのもので、セーヌ川から直接引いたものだった。なにもつけていないパンだけの食事(最長2日間続けて1人だけ部屋に監禁された状態で食べさせられた)が、規則違反にたいする普通の罰則だった。ギリエはこのような自分のやり方をすぐれて啓蒙的なものだと説明した。なぜならば、「盲人はみな、自立と自由を頑固なまでに好んでいる。しかしながら、彼らはただ甘え悪用するためにものごとを使うだけで、そんなやり方ほど彼らの本当の利益と正反対のものはない。それゆえに、そんな彼らをあつかう方法は、彼らに満足していると思わせるのではなく、彼らを満足させない状態おくことにある」からである。
  ギリエの学校管理には、一つだけ明るい点があった。彼は明らかに音楽が個人的に大好きで、そのため、音楽の授業がすべての生徒に強制された。ギリエは食料や暖房については切り詰めていることを大いに誇りにしていたが、学校の楽団のために楽器を見つけまた地域の音楽のプロの中から優秀なボランティアの教師を求めることには努力を惜しまなかった。生まれつき才能のある生徒にとっては、このことが彼らの学校生活でたぶんもっとも幸せなことだったろう。
  ルイ・ブライユは学校での生活にすぐに適応して、そこで多くの友人を得、中でも1歳年長の学友ガブリエル・ゴーティエ(Gabriel Gauthier)とは生涯友誼を結ぶことになった。
 
●盲人読者のための最初の本
  以前からの幾人かの裕福で有力なパトロンたちがしばしば学校と作業所を参観したが、その参観のハイライトは生徒たちが数冊の浮出し文字の本を読むことだった。浮出し文字の本を作るアユイの方法はまず、水に浸した紙を浮き出した文字の形にぴったり合わせる。その結果、紙が乾くと、特別に作られた大きな丸く曲がった文字が触って分かる形になって残る。それから、紙の裏面同士を糊付けして、両面が浮出し文字になった紙を作る。こうして出来る本は、もちろん、作るのにとてつもなく時間がかかりまた難しい――また、各文字の形は個々別々に跡が付けられていたので、読むのにも同じくらい時間がかかり難しかった。完成した本は、しばしば、年少の生徒が持ち上げることができないほど重かった。ルイ・ブライユの入学当時、学校は、創立から30年以上経っていて、生徒は100人なのにたいし浮出し文字の本は全部で14冊だけだった。(バランタン・アユイの印刷された浮出し文字は、広いスペースを取り、また装飾体を使っていた。)
  ギリエ博士の記録によれば、当時学校は内務省に選ばれた委員会の統制化にあり、1党派の貴族たちによって支配されていた。ギリエは性の力を恐れていたが、そのことが実際正しいということが、生徒たちがしたことからではなかったが、明らかとなった。彼は自分自身、女性校長との情事(彼女はそれで妊娠したかもしれない)を起し、そのために内務省によってあっけなく解雇されてしまった。
  新しい学校長アンドレ・ピニエ(Andre Pignier)は、その老朽化した建物に震え上がり、ただちに状態を改善しようと決心した。まず、1週間に2回外出することとし、生徒たちが机や仕事台を離れて、新鮮な空気を吸いまた幾分かでも運動できるようにした。生徒たちは、1本の手引き用のロープに全員つかまって、市内を巡り歩くようになり、日曜日にはサン・ニコラス・ド・シャルドネ教会のミサに出席し、また木曜の午後には植物公園まで遠足に行くようになった。(生徒たちが通ったサン・ニコラス・ド・シャルドネ教会は、今でも同じ場所にある。)
  ピニエのもう一つの改革は、創立者のバランタン・アユイを迎えて、学校の歴史を公的に祝う式典を挙行することだった。今では老人になったアユイは、もう何年も学校の中に足を踏み入れていなかった。革命の影響で学校を運営することができなくなったので、アユイは個人で生徒への教育活動をなんとか続けまた小額の年金でなんとかしのごうと努力した。ついに1802年アユイはナポレオンによって解任されてしまい、彼は、もっとも有望な生徒の 1人アレクサンドル・フルニエ(Alexandre Fournier)を伴って、フランスを去った。彼ら2人は、10年以上も流浪の身で他のヨーロッパ諸国の盲生徒たちとともに活動して過ごした――その中には、ロシアで盲学校を始めようとしてその地に長期のなんとももどかしい滞在をした期間もふくまれる。盲人のための学校という考え方がちょうど明確になってきた時期で、リバプール(1791年)、ウィーン(1804年)、ベルリン(1806年)、アムステルダム(1808年)、ドレスデン(1809年)、チューリッヒ(1810年)、コペンハーゲン(1811年)と、アユイの多くの考えや方法を利用して、矢継ぎ早に盲学校が現われた。フランスに戻った時[1817年]には、アユイはすっかり疲れ果て、極貧で、さらに失明に近い状態になっていたが、そういう彼にたいしてギリエは冷淡にも彼が学校に来ることを禁じた。
  アユイを記念する式典の日、12歳のルイ・ブライユは、数人の生徒たちとともに、学校創設当時からの歌の音楽プログラムに出演し、また当初の浮出し文字の本を使って読みの実演をした。その日のいつか、いまや76歳になったアユイと若きルイ・ブライユが直接対面したかもしれない。その翌年、ルイ・ブライユは、盲学校からの小グループの一員として、アユイの貧相な葬式に参列した。
 
●砲兵隊にとっては難しすぎたかも?
  その後間もなく学校を訪問した別の人が、ルイ・ブライユの将来に同様に大きな影響をあたえることになった。シャルル・バルビエ・ド・ラ・セール(Charles Barbier de la Serre)は、フランスを飲み込んだ政治的騒動をうまく機転を利かせて生き伸びたもうひとりの人だった。彼は王の農場の管理者の息子で、1782年に王立の陸軍学校に入学した。彼は、アメリカ合衆国でインディアン居住地域の土地測量者としてしばらく過ごすことで、革命から逃れ、1808年までにはフランスに帰ってきた。フランスでは彼はナポレオン軍に加わり、“expediography”という速記のための表を刊行し、さらに 1年後には、1つのメッセージを同時に複数部書く方法について述べた本を出した。
  早く、秘密が漏れないように書くことにたいするバルビエの関心は、彼の戦争体験に根ざしたものだった。ナポレオン旗下のフランス軍は、結局最後にはワーテルローで1815年に打ち負かされてしまうが、それ以前は、ヨーロッパをほとんど征服し、敵軍からさえ世界で最強の砲兵だと思われるほどだった。バルビエはかつて、1通の伝言を読もうと灯りを点けたために自分たちの位置が敵に漏れてしまって、前線にいた軍が殲滅させられたのを見たことがあった。メッセージを授受するために触覚を使う方法は、夜間だけでなく、砲兵部隊に特有の恐しい状態を伴う戦闘中に伝達手段を確保するのに役立つはずである。一寸先も見えない濃い煙と雷のような大音響によって、地獄のような混乱状態がもたらされる。大砲を運んでいる馬が射たれると、砲と馬具とさらには死んだないし瀕死の馬がごっちゃにもつれ合ってしまい、生き残った隊員はどうにも動きようがなくなり、弾丸が飛び交うなかまったく逃げることもできない状態になる。
  バルビエと盲学校の生徒たちは、たぶん最初、ルーブルにあった科学産業博物館で彼らがともにその伝達方法を展示していた時に互いに出会っていただろう。バルビエは暗闇のなかでメッセージを作成することを可能にする装置を展示し、生徒たちはアユイの浮出して印刷された文字の本を読んでいた――ふつうは痛ましいほどゆっくりとしか読めなかったが。
  バルビエは砲兵隊の暗号である自分自身の点と線に基づく〈夜間書法〉を王立盲学校に導入してもらおうと決心し、そして新しい校長のピニエが彼の方法に関心を示した。ピニエは実演の場を設け、生徒たちに数枚の点が打ち出された紙を回覧した。
  ルイ・ブライユは、夜間書法のサンプルの点に初めて触った時、雷に打たれたほど驚いた。彼はそれまでに夏休みにクーヴレー村の家で時々手触りで書くまね事をして遊んだことがあったからである。近所の人たちは後に、子どものころルイは、革を様々な形にしようとしたりさらには押しピンをいろいろなパターンに並べるまでして、成功はしなかったが、実際に触って分かる伝達方法を見つけたいと望んでいたようだ、と回想している。
  一度バルビエの点を触っただけで、ルイは自分の方法見つけたと思い、バルビエの〈定規〉(それはもっと複雑な今日の点字板にとても似ている)をすぐに使いこなした。ルイ、彼の友達のガブリエル、それに学校の他の少年たちは、メッセージを書いて互いにやり取りしながら、この暗号を教え合った。
  ルイはまた、軍隊では一度も実際に使われることのなかったバルビエのこの方法のもっている問題点にもすぐに気付いた。ソノグラフィー[バルビエが自分の方法に付けた名前。原義は「音で記録する術」]の1マスは、指先でカバーできる範囲よりもずっと大きかった。各マスは、文字ではなく、[フランス語の]36の基本音を表していた。横6マス、縦6マスの大きな専用の板は、音記号を書くために使われるものだった。句読符も数字も音楽符号もなく、点に加えて水平なダッシュがあった。
  ルイがバルビエ大佐に会って、その暗号を改善すべく自らの考えについて話してみると、今では50代半ばになった大佐は、とても若く、未熟で、さらに盲目でもある人から自分の案に異議をとなえられたことに、たぶん最初のうちこそ懐疑的であったが、その後はすっかり腹を立ててしまった。いまやナポレオンの軍事征服の冒険は終わってしまったので、バルビエは、盲人たちに採用されればとまで思って長い間努力してきた自分の工夫にたいして、何らかのかたちで政府からの公認が得られればと望んでいたようだ。
  バルビエが怖くなって、ルイは彼に相談することはきっぱりと止めてしまい、そのかわり、独力で記号体系についていろいろ試み研究するようになった。それにしてもルイには空き時間がほとんどなかった。彼はその学期、地理・歴史・数学・ピアノで賞を取り、またたほうでは学校の授産所のスリッパ作りの作業長として働いていた。[学校では]夜遅くまで、そして夏の間はクーヴレー村の自宅で、ルイは、1本の指先で読むのに適した独特の文字体系を可能にすべく様々の修正を試みた。
  1824年の10月、学校が始まった直後、15歳のルイが、彼の新しいアルファベットを公表した。彼は 1マスに6点使うと63通りの組み合わせがあることを見つけていた――まだダッシュ[水平の線]はふくまれていたが。彼の新しい文字を他の生徒たちおよびピニエ校長は大いに歓迎した。そしてピニエは、ルイがバルビエ大佐の原型から設計した特別の点字板を注文した。
  ルイの工夫が有用で好評だったことは明らかだが、そのことが生徒たちの他の生活部面をもっと楽にするということはなかった。フランスでは1825年は苦境の年で、そのため学校への燃料の割当量が縮減され、また、すでに切り詰められていた食事はパンとスープだけに減らされてしまった。目の見える教師たちは、新しい文字体系にたいして腹立たしく思っていた―その理由には暗黙に彼らにとってまったく未知なものを覚えなければならなくなるということもあった。自分たちの仕事が邪魔されるからと、彼らは点字を打つ音でクラスが騒がしくなることに不平をいった。学校はようやく内務省からの政府給付金でそれなりの財政的安定を得たが、1826年には学校の帳簿係が年予算の半分に相当する額を横領して逃げてしまった。
  ピニエは、その後何年も、内務省に繰り返し老朽化した建物を改修するか建て替えることを訴えた。彼の要求は普通は無視された――1821年と1828年の2回医療調査官が学校を訪れ、「生徒たちの死亡率が高い」と律儀ではあるが功を奏することのない報告をしたことはあったが。
  ピニエは、ルイがある地元の教会のオルガン研究生になるよう手配してくれた。盲学校には優れた音楽訓練の伝統があり、現代に至るまで、多くの一流のプロのオルガニストを輩出している。ルイのころまでに、50人以上の卒業生がパリ周辺の教会で演奏していた。ルイは音楽家として並外れた才能を示して、その名はフェリックス・メンデルスゾーンにも聞え(そして賞賛され)、数年後には、いくつかある仕事の第一のものとして、教会オルガニストの仕事に就いた *6。
 
●最初の点字の本
  ピニエはさらに、ルイのためにもう一つの機会をつくってくれた。ルイを学校で初めての盲人の見習い教師に任命したのである。彼は、代数、文法、音楽、地理を教えた。忙しいスケジュールの中でも、彼は点字の研究をあれこれと続けた。1828年までに、彼は新しい文字体系で楽譜を書く方法を見つけ、またダッシュ[水平な線)を排除していた。
  1829年、20歳の時、ルイは、彼の新しい文字体系についての最初の完全な本『点を使ってことば、楽ふ、かんたんな歌を書く方法―盲人のためにつくられた盲人が使う本』を出版した。数年後、ルイ、ガブリエル・ゴーティエ、およびもう一人の盲目の友人で以前生徒だったイポリット・コルタ(Hippolyte Coltat)が、学校で最初の盲人の正教師になった。正教師になることで、彼らは、許可を求めなくてもしばしば学校から出ることができ、自分自身の部屋を手に入れ、制服に階級章として金モールを追加された。新しい3人の教師はみな、授業で新しい文字[点字]を使った。
  同年、ルイ・ブライユは、彼の父によって募兵局で徴兵できるものとして記録された。この偶然の国勢調査記録からは、ルイは、彼が盲目で、その結果として「読み書きができない」ために徴兵免除されていたが、だれかが、ルイは十代から読み書きという大問題の一つを概ね解決してしまっていると皮肉にも注書きしていたことがわかる。
  生涯の大部分を不健康な学校の建物の中で過ごし、また貧しい食事ばかり食べて生きてきたため、ルイは20代半ばに結核を発祥した。その診断にルイはたぶん驚きはしなかっただろう。もう何年にもわたって、仲間の生徒たちは病気になる者が多く、ある訪問者が生徒たちはみな咳をしゼーゼー息を切らしながらかろうじて細々と生き長らえているだけだ、と不平を言うほどだった。
  それ以降の人生では、ルイは、健康で活力ある時期の間に何度となく恐ろしい喀血と瀕死の状態に見舞われた。病気、担当の授業時間、およびオルガニストとしてのいくつかの仕事があるにもかかわらず、彼は点字をさらに洗練する研究を続けた。フランス語では「W」の文字は使わないが、ルイは、あるイギリスの生徒、英国王室付きの肖像画家ジョージ・ヘイター卿の全盲の息子の要望で後に Wの文字を加えた。彼はまた点字楽譜の研究も熱心に続けたが、これはおそらく、彼自身の音楽的能力によってだけでなく、彼の友人たちの能力によっても促進されただろう。ガブリエル・ゴーティエは作曲家でもありオルガニストでもあった。彼はゆくゆくは、最初のころの点字の音楽の本の中で彼自身の作品を制作することになる。
  ルイは、時間とお金の両面で生徒たちに寛大な、人気のある教師だった。彼は、生徒たちが暖かい衣服やよりましな食べ物を買えるように、自分の少ない給料から個人的にたくさん贈り物をしたり貸し出したりした。また彼は自分自身でピアノを買えるだけのお金を貯め、そうして、自分がしたいときにはいつでも練習できるようにした。生徒たちはだれしも、見える教師に代筆してもらう以外郷里の家族に手紙を書く方法はなかったので、ルイは「ラフィグラフィ」[raphigraphy: 原義は「針で書く法」。一種の点線文字]という方法を考案した。それは、点の組合せからなる大きな活字でアルファベットを表す方法である。ラフィグラフィは非常に手間がかかった――「I」1文字だけでも16点打たなければならなかった。盲人の発明家のピエール・ふーこー(Pierre Foucault)は、以前盲学校の生徒で、当時はカンズヴァンに戻っていた。1841年彼は学校に舞い戻ってきて、ルイ・ブライユがしていることを見、点で描かれる文字[ラフィグラフィー]をちゃんと打出す「ピストン・ボード」と呼ばれる器具を考案した。さらに彼は1847年には、盲人が見える人たちに黒字で書くことを可能にする「キーボード・プリンター」(本質的にはタイプライターと同じもの)を考案することになった。ルイ・ブライユはそれを使って、クーヴレー村にいる母に手紙を認めた。
  皮肉なことに、実際に使えるタイプライターは、ある盲目の伯爵婦人が見える人たちに判読できる文字を書けるようにと、1808年にすでにイタリアで作られていたが、1870年代まではタイプライターはまったく市販されていなかった。その間は、このピストン・ボードだけが(高価ではあったが)ヨーロッパ中で普通に使える装置だった。
  1834年に、ピニエは、世界中から人々が訪れるパリの産業博覧会でルイが彼の文字体系を実演できるよう手配した。フランスのルイ=フィリップ王がショウの開会を主宰してルイと彼の発明について話しさえしたが、盲学校を監督する内務省の高官もふくめ、他の参会者同様、自分が見たものにどんな意味があるのかは理解していないようだった。
  ルイは1837年に自分の点字に関する本を改訂した。そして同年には、盲学校の生徒たちは世界で最初の点字の教科書である 3巻本のフランス史の本を出版した。そのとき学校の印刷所はアレクサンドル・フルニエが指揮していた――彼は、30年以上前バランタン・アユイがフランスからの逃避行にいっしょに連れ出した生徒だった。
 
●何が一番善いのか――そしてだれがそれを決めるのか?
  盲生徒たちは、多くの見える人たちと同等ないしそれ以上のスピードと正確さで初めて読み書きできるということに気付いて電撃に打たれるほど感動したはずだし、またそれを観察することはスリリングなことに違いない。この十分な大勝利は、しかしながら、その時代の権威者たちにはまったく理解してもらえないことだった。ルイの本も新しい点字のフランス史の本も、1837年当時の学校ではもっとも先進的な出版事業ではなかった。
  以前は地理の教師で今は副校長のP.アルマン・デュフォー(P. Armand Dufau)が、『盲人: その身体的・道徳的・知的状態に関する考察、指導と作業を使って彼らを改良するのに適した方法の完全な記述』という本を出版した。このデュフォーの本は、前年にはアレクシス・ド・トクヴィルにアメリカに関する周智の本で賞を与えたフランス学士院から、権威ある賞お勝ち得た。
  デュフォーは、頑強な点字反対論者で、点字は盲人を〈自立させすぎる〉と思い込んでおり、彼のこの本の中でもルイ・ブライユの革新については一言もふれていない。学士院からの賞を得たことで、デュフォーは自分の運勢が急上昇しつつあることに気付き、ついには学校のためにより良い建物を得ることにその新たな影響力を多少なりとも行使したのかもしれない。1838年、詩人で歴史家でもあるアルフォンス・ド・ラマルティーヌが学校を見学し、その汚らしさ・みすぼらしさにぞっとした。彼はフランス下院議会にに新しい建物の必要性について力強く訴えて、「この建物が本当にどんなものであるかはとうてい言葉では言い表せません。それは小さく、汚く、薄暗いです。もったいをつけて作業場とか教室とか呼ばれているものは通路をそれぞれが箱になるように仕切っただけのものです。階段は入り組んでいて虫食いだらけです。……議場の皆様全員が今から立ち上がって大挙してこの場所に行くことができたなら、この法案はかならずや満場一致で可決されるでしょう。」と宣言した。こうしてようやく、町の向こう側に新しい学校を建てる計画が動き出した *7。
  ルイの健康が衰えてゆき、ついに、クーヴレー村で元気を取り戻すために長い休暇を取った。その間に、デュフォーは内務省で役人たちと陰謀をめぐらし、ピニエを校長の座から引きずり降ろしてしまった。
  ルイが学校に戻ってみると、彼はさらに悪い知らせをいろいろ知った。今や校長になったデュフォーは、次々と変更を始めた。まず、カリキュラムの中から歴史・ラテン語・地理のような〈つまらない〉科目を削除した。デュフォーは公的な支持を十分得て学校のための予算を大きく増やし、これまでの学校の標準的な読の方法を根本的に変えることを決定した――それは、点字を使うのではなく、グラスゴー盲学校のジョーン・アルストン(John Alston)が考案した英国式を採用するものだった。触って分かる別の浮出し文字だが、アルストンの書体は、巻きや飾りのない極めて単純化された文字を使うという点でアユイの書体と異なるもので、現代の[IBMの]オレイター・タイプライターのフォントと類似したものだった。アルストンはこの新しい文字体系を使って数年前聖書の完全版(全19巻)を印刷しており、デュフォーはこれに非常に感銘を受けたのである。
 
●本の焼き捨てとそれにたいする反抗
  デュフォーは、この新しい文字体系を強制するために、アユイが始めたやり方で作られた多数の浮出し文字の本、およびルイの点字で印刷あるいは手書きされたすべての本――すなわち学校の図書室のものすべてと50年近くにわたって作られてきた物――を焼いてしまった。さらに、点字が学校で二度と使われないことを確実にするために、点字板や鉄筆など点字を書く器具を押収した。
  これに激怒して、生徒たちは反旗を翻した。デュフォーのいない所で、生徒たちは点字板なしでも点字を書いた。彼らは、縫い針やフォークや爪を使って意思を伝え合いまたこっそり日記を書き続けた。点字を使ったことへの罰としてデュフォーは打ったり食事を抜いたりまでしたが、そうした罰はまったく効果がなかった。年長の生徒たちは秘密裏に年少の生徒に点字を教えた。そして点字をいったん習得したならば、それを抑圧することは不可能だということがはっきりと示された。
  ようやく、デュフォーの明敏なアシスタント[副校長]であるジョーゼフ・ガデ(Joseph Guadet)が生徒たちの様子をよく観察し続けて、点字の熱心な支持者となり、点字の読み書きを独学した *8。ガデはデュフォーを次のように説得したに違いない――生徒たちが団結してデュフォーの権威を自発的に無視しているということがもしも政府の要職にある人々の耳に入るならば、彼の職務は危うくなるかもしれない。けれども、ある生徒が素晴らしい発明をしたとなれば、学校は信用を得、それは学校長の名声を高めさえするかもしれない、と。
  そうして、1843年11月、学校が新しい建物に移転した時には、P.アルマン・デュフォーは別人になっていて、すべての生徒に点字板を配った。点字の禁止を打ち破ったことに生徒たちは有頂天になって、盲人のための真のコミュニケーション手段を可能にしたということでルイ・ブライユをレジオン・ド・ヌール候補に推薦する請願書を作りそれを政府に送った。けれども、その請願は無視されてしまった。
 
■運命の逆転
  翌年2月の新しい建物の落成式で、ついにルイの勝利が周知のものとなった。でゅふぉーは、浮き出した点で書くルイ・ブライユの新しい文字体系について、生徒たちに実演までさせながら、顔を紅潮させて熱心に説明した。観衆の中にいたある役人が、それはトリックだ、点字を書いている子どもとそれを読み直しているもう 1人の子ども(その子は書き取りの間部屋の外にいた)とは前もって原文を記憶していたに違いない、と叫んだ。それに答えて、デュフォーは、その男にポケットの中から何でもいいから印刷物を見つけ出させ(それは劇場の入場券であることが分かった)、それを点字を書く生徒に読ませた。その女の子は原文を点字で写し、別の子が、例の男が自分の席に戻るよりも早く、その文をすらすらと完璧に読み直した。観衆はみな納得し、6分間も割れんばかりの拍手が続いた。
  ルイ・ブライユは、その生涯の最後の8年間は、衰えてゆく健康と闘いながら、しばしば教え、また学校の図書館のために点字の本を書いて過ごした。この点による文字体系を、人々は彼の名に因んで「Braille」と呼び始め、世界中から学校に届く点字についての研究の数も増えていった。デュフォーは、1850年に彼の影響力のある本の第2版を出版した時、点字の文字体系について数ページを心から捧げた。ルイ・ブライユは、1852年1月6日、43歳の誕生日まで後わずか2日というときに亡くなったが、パリの新聞は一紙として彼の死去を伝えるものはなかった *9。
  彼の文字体系は生き伸び、1854年、フランスは盲人のための公式の通信システムとして点字を採用した *10。ブライユの友人で以前生徒であった人たちが、点字の新しい使い方について精力的に発展させた。ヴィクトール・バリュ(Victor Ballu)は、音に基づく速記法を試み、また、早くも1867年には、ルヴィット(Levitte)と協力して、両面印刷の方法を使った。1880年、ルヴィットは、6つの点の位置に私たちが今なお使っているのと同じ数字を当てる方法(「a」の文字を 1の点と呼ぶなど)を使って点字の手引を出版した。さらに、1880年代後半までには、バリュは両面印刷を真のインターポイントで行う方法[表の点と点の間に裏の点が入り込む方法]を考案した。
  ルヴィットは学校の愛される管理者[校長]になったが、不幸にも、1883年突然亡くなった。当時生徒で、後に有名なオルガニストになったルイ・ヴィエルヌ(Louis Vierne)は、校長を選ぶ方法はまったく気まぐれだったと苦々しく当時を回顧し、ルヴィットの後継者は、「自分の本来の役割の何たるかをまったく理解しない、うぬぼれの強い愚かなけだもののような人だった。彼は私たちを囚人のように取り扱い、ただ私たちをどれだけ侮蔑しているかをいつも誇っているような人だった」と書いている。
  点字は間もなくスイスには広まったが、しかし他の諸国では恐ろしいほどの抵抗に出会った。そしてそれは、しばしば、点字が活字との類似性を欠いているために見える人たちには意味のわからないものとしてしか思われなかったという同じ理由からだった。盲人が、他の人たちが書いたものを読むだけでなく、彼ら自身何か言いたいことを持っているがゆえにもしかすると書きたいと願っているかもしれないという事実は、信じられないことだが、盲人を教育する多くの人たちにはけっして思い浮かばなかったことのようである。書きの要因――点字は簡単に手書きできるが、浮出し文字の形を書くのはほとんど不可能だ――は、その利用者の心に永続的な場を確実ならしめるのに極めて大きな要因であった。
  後の点字利用者であるヘレン・ケラーは、「点字は多くの点で私にとってとても貴重な補助具です。それが、私が大学に行くことを可能にしました――講義のノートを取ることのできる唯一の方法は点字によってでした。私の試験問題はすべて、私のために点字で作られました。私は、あたかもクモがそのクモの巣を使いこなすように、点字を使っています――スピーチやメッセージや草稿のために、私の心をよぎる様々な思想をつかまえるのに点字を使います」と書いている。もしもルイ・ブライユに、いろいろな問題を解決し、困難に対処し、そして挫折を繰り返しながらも目的を貫くということについて自分自身の考えを書き留めておく余裕があったとすれば、その言葉を伝える手段がどんなものであろうと、それが十分読むに値するものであっただろうことを否定するような人はほとんどいないだろう。
  不思議なことだが、盲人の多くの教育者は、その実用的な意義はほとんど考慮せずに、互いに相反する記号体系を考案することに強い個人的使命を感じてきたように思われる。普通は潜在的読者から何の情報提供も得ないまま、それらの記号体系をめぐって、互いに各自の正当性を主張する激しい争いが繰り広げられた。
  英国が、一つの輝かしい例外であったように思われる。裕福な外科医で自身視力[低下]の問題と闘っていたトーマス・ローズ・アーミテージ(Thomas Rhodes Armitage)が、様々な記号体系を評価し、そして英国にとって一番良いと思われる記号体系を決めるために「少なくとも3つの浮打しの文字体系について知識を持ち、そのどれとも財政的利害を持っていない」盲人たちの委員会を招集した。2年間にわたって委員会は慎重に審議し、数十人の盲人読者についても調査を行った。2年後の1870年、点字が勝利を得た――それが十分に実施されるまでにはなお多くの年月を要したが。
  19世紀後半には競合する記号体系の多くがまだ出揃ってはおらず、それに引きつけられた革新者たちはしばしば点字出版を思いも付かないような方法で前進させた。ニューヨーク盲学校長のウィリアム・ベル・ウェイト(William Bell Wait)は、1868年、「ニューヨークポイント」と呼ばれる、今ではほとんど忘れられてしまった記号体系を精力的に推進した。ニューヨークポイントは、1マスの縦は2点だが横幅は自由に変化するもので、何年もの間、本や雑誌の製作に使われた。
  ニューヨークポイントは結局は点字に凌駕されてしまったが、もっと[今日まで]永続することとして、ウェイトは上院の教育委員会で説得力のある議論をして1879年盲人用の本のために政府からの最初の補助金を獲得するのに貢献した。こうして、アメリカ合衆国では盲人用の出版のための重要な財政的経路が確保されることになった。
  アメリカで点字を最初に採用した施設は、皮肉なことに、セントルイス――フランスの十字軍の王・ルイ9世にちなんで命名された市[1764年にフランスの毛皮商ピエール・ラクリードが先住民との毛皮交易所を設け、ルイ9世に因んで Saint-Louis と命名]――にあるミズーリ盲学校であった。その学校の委員会のメンバーであるサイモン・ポラック博士(Dr. Simon Pollak)は、以前フランスを旅行して、点字に大いに心を動かされていた。なにか未知の方法で、盲学校の生徒たちは点字を自主的に習得して、放課後に互いに点字を教え合い、それを使ってメモを回したりして見える教師たちを当惑させていた。
  当初ミズーリ盲学校の校長は、点字は「目に心地よくない」と言って、点字の使用に抵抗したが、彼の反対は長続きしなかった。学校は、1860年点字を公式に採用した。 *11
 
 

*1 カンズヴァンは今日もなお存続していて、今は先端技術の眼科専門病院であり、また盲人のための宿泊施設でもある。
 
*2 サントヴィッド祭に使われた木製の屋台やベンチは、1777年の火災で焼失した。1793年までには、ギロチンだけがそこでの唯一の見世物となった。ルイ16世とマリー・アントワネット女王もふくめ、1000人以上の処刑がそこで執行された。
 
*3 バランタン・アユイは、偉大な人道主義者たち(その中にはとりわけ、アブラハム・リンカーン、アッシジの聖フランシス、フローレンス・ナイチンゲールも入る)の 1人であって、ニューヨーク市のリヴァーサイド教会を飾る石の彫刻に不朽の名声を残している。彼の生涯と仕事については、今日パリのデュロック通りにある博物館でも回顧できる。開館時間は火曜日と水曜日の午後2時半から5時までで、毎年7月1日から9月15日までは閉館している。入場は無料。
 
*4 物乞いで、アユイの最初の生徒であったフランソワ・ルシュールは、盲学校で印刷工、先生、さらに後には財務担当者になった。
 
*5 ルイ・ブライユの文字体系は結局世界中に広まり、そしてもちろんそれは彼の名[Braille]でもって知られるようになった。面白いことには、ルイの父が引き具や鞍を作る馬具職人であったことを考えてみると、英語には、帆走のときに使う綱を表す「brail」という語があり、これは「ストラップ」を意味する15世紀のフランス語「braiel」に由来する。このように、名字(ファミリーネーム)が先祖の類似の職業に由来しているかもしれないことに考えをめぐらすことには、道理があるように思われる。
 
*6 盲学校の初期の卒業生で新機軸をなしたのは、ルイ・ブライユただ一人ではない。1830年、クロード・モンタル(Claude Montal)[1800〜1865年]が、古いピアノを調律する技術を独学し、盲学校の1生徒であった者がついには、他の生徒たちにこのお金になる技術を教えるための、非常にうまくいったプログラムを始めた。彼は、1834年までに、「自分のピアノを自分で調律する方法」を出版し、さらに彼自身の店も開設した。盲学校はまた、世界的に有名なオルガニストを先例のないほど次々と送り出し、ルイ・ヴィエルヌ(Louis Vierne)[1870〜1937年。セザール・フランクの弟子で、パリ音楽院やスコラ・カントルムなどの教授を歴任。サン・シュルピス教会やノートルダム大聖堂のオルガニストでもあった]、アンドレ・マルシャル(Andre Marchal)[1894〜1980年。パリ音楽院でオルガンをウジェーヌ・ジグーに師事して1913年に首席となり、1917年にはジョルジュ・コサードの対位法のクラスで最優秀賞を受賞。パリ盲学校でオルガン教師を務める。1915〜1945年サン・ジェルマン・デ・プレ大修道院、1945〜1963年年サントゥスタシュ教会のオルガニスト。1960年レジオン・ドヌール勲章、1965年芸術文化勲章]、ジャン・ラングレ(Jean Langlais)[1907〜1991年。ポール・デュカスに師事。パリ盲学校、スコラ・カントルム教授。サン・ピエール・ドゥ・モンルージュ教会、サント・クローチルド・バシリカ教会などのオルガニスト。多作の作曲家として知られ、「フレスコヴァルディへのオマージュによる主題と変奏」、「三つのグレゴリオ風パラフレーズ」などが有名]をふくめ、それは、今日に至るまでずっと続いている。ジャン-ピエール・ルゲー(Jean-Pierre Leguay)[1939〜。リテーズらにオルガンを、パリ高等音楽院でオリヴィエ・メシアンに作曲法を学ぶ]は、現在ノートルダム大聖堂のオルガニストの 1人だが、彼も盲目である。
 
*7 サン-ヴィクトール通りにあるかつてのサン・フィルマン神学校は、1930年代にようやく取り壊されるまで、兵舎および倉庫として使われていた。ルイブライユが知っていたはずの最後の建物(そこで彼は亡くなった)はアンヴァリッド通りにあり、今日もなお盲学校はその場所にある。1843年に建てられた学校は、本通りに面して高い窓のある、大きな、堂々とした3階建ての建物である。
 
*8 ジョーゼフ・ガデは、「盲人の教師」というタイトルの雑誌を創刊・編集・出版し、また盲学校の歴史をふくめ数冊の本を書いた。けれども、彼の第一の使命はいつでも、ルイ・ブライユの文字体系を推進することだった。彼は、よく知られているように、ブライユは自身「あまりにも謙遜な人なので、盲人の生活において点字が占めるべき十分に正当な位置付けについてなんら主張していない。我々は彼のためにそれをしなければならない」と明言した。
 
*9 死の 1週間足らず前に公証人に口述筆記してもらったルイ・ブライユの遺言には、彼の家族へばかりでなく、部屋を掃除する使用人、診療所の看護助手、さらに学校の夜警への遺産分配がふくまれていた。彼の衣服や私物は、形見として、彼の生徒たちの元に分け与えられた。彼は一つの奇妙な頼み事をした。それは、彼の部屋にある小さな箱を開けないで焼くように友人たちに指示するものだった。ルイの死後、彼らは覗き見の誘惑に抗しきれず箱を開けてみると、寛大な先生からお金を借りた生徒たちの点字で書かれた借用書がいっぱい詰まっていた。その証書は、結局、ルイの意志を守って焼かれた。
  ルイ・ブライユの死に際して、イポリット・コルタが遺言執行人として奉仕して、彼のピアノを相続し、また困難な遺産整理に尽力した。学校で追悼式が行われ、そこで先生や友人たちによるブライユについての心温まる思い出が、彼の最初の伝記として捧げられた。ガブリエル・ゴーティエは、ルイよりほんのわずかの時間しか長生きできなかった。彼も結核で亡くなった。
 
*10 クーヴレー村(ユーロディズニーからわずかしか離れていない)にあるブライユの家は、博物館になっている。ルイ・ブライユは、当初、彼の故郷の小さな共同墓地内の簡素な墓に埋葬された。1952年、彼の死後百年の記念の年に、フランスの国民的英雄たちが埋葬されているパリのパンテオンに彼の遺骸を移すべきだ、という一般の人たちの感情が高まった。クーヴレー村の長官は、ルイ・ブライユはこの地区の真の子であり、彼の遺骸のいくぶんかは故郷の村に残すべきだ、と異議を唱えた。彼の手はその腕から切り離されてクーヴレー村に再び埋葬された。 ヘレン・ケラーをふくむ世界中の権威者が列席するソルボンヌでの大々的な公式行事の後、彼の遺体の残りの部分がパンテオンに葬られた。ニューヨークタイムズの伝えるところによれば、ヘレン・ケラーは〈文法的に間違いのない〉フランス語でスピーチをして、「私たち盲人は、人類がグーテンベルクに恩恵を受けているのと同様、ルイ・ブライユに恩恵を受けている」と宣言し、出席していた数百人の盲人読者からはわれるような拍手がわき起こった。
   その棺がパンテオンに向かってパリの通りを運ばれていく間、その後ろには、読み書きや出版できることに自身の幸いを見出している人たちの、数百本の白杖が[路面を]とんとんたたきながらの行列が続いた――タイムズ紙はそれを「風変わりだが、堂々とした行列「と呼んだ。パンテオンはパリの第5区にあり、旧い盲学校からはわずか数ブロックしか離れていない。
 
*11 点字が活字とは[形が]いまなお似ていない(今日でもそういう不満は聞かれる)という事実にもかかわらず、点字は地球上のほとんどすべての言語で採用され、依然としてどこでも盲人の読み書きの主要な手段であり続けている。点字は見える人たちが習得するにはちょっと〈難し過ぎる〉という神話の虚偽性を暴くことになるのだが、目の見える点訳者が長らく盲学生のためのテキストの第一の提供源になっている。これら何千人もの点訳ボランティアは趣味として点字を習い、台所や寝室などどこででも、ほとんど目立たずに、1マスずつこつこつと点訳して本を多数仕上げていった。彼らボランティアの努力は、アメリカ合衆国では、コンピュータ時代が到来し盲生徒が一般の学校に入ることが普通になった最近10年ほどの時代になっても、なおも続けられている。
   ソフトウェアを使った[自動]点訳であろうと直接入力による点訳であろうと、点字が、その簡潔さと効率性のゆえに、コンピュータを利用した製作に極めてうまく適合していることが明らかになった。コンピュータの[画面の]文字をリアルタイムでガイドし読むための点字表示装置は、どんどん手頃な価格になりまた信頼し得るものになっている。コンピュータ時代は、世界中のほとんどの国々で、点字で出版され読める量を先例のないほど飛躍的に増加させた。
 
 
(2009年5月7日)