懐かしの母校

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 *この原稿は、2007年11月末にはほぼ書いていたのですが、ホームページにアップするのを忘れていて今日になってしまいました。三内丸山遺跡についても少し書いていましたが、本年1月末にまた三内丸山遺跡を訪問できたので、改めて書き直してアップすることにします。
 
 2007年10月5、6日、青森県立盲学校創立40周年記念講演会のために、青森に行ってきました。
 青森県立盲学校は、昭和42(1967)年4月、県内に3校あった盲学校(青森盲学校、弘前盲学校、および八戸盲学校の高等部。八戸盲学校は、小中学部だけですが、今日も存続しています)を統合して創設された学校です。
 私は昭和33年に八戸盲学校に入学しましたので、統合の時は高校1年でした。統合とはいっても、当初は新校舎ができておらず、青森県立盲学校の青森校舎・弘前校舎・八戸校舎というかたちで、これまで通りの場所で勉強していました。新校舎がそれなりに完成し、実質的に統合したのは、昭和43(1968)年10月、私が高校2年の2学期の時でした。
 ですから、私が統合された新しい学校で過ごしたのはわずか1年半の期間です。私にとって母校というと、青森県立盲学校とともに、 6歳の時から10年余過ごした八戸盲学校のウェイトも大きいのです。
 
 今回の青森訪問では、校長先生はじめ盲学校の先生方には本当にお世話になりました。 5日の午前中は教頭先生の案内で校内を見学し、午後は記念講演会、夜は先生方や同窓生との交流会、そして 6日は校長先生と理療科のM先生の案内で「三内丸山遺跡」と「みちのく北方漁船博物館」を見学しました。
 以下、校内見学と記念講演会について紹介します。
 
1 校内見学
 教頭先生の案内で1時間余校内をあちこち見学しました。先生としては何とか私の記憶にあるような場所を見つけてやろうとしていたようですが、かなり増改築されまた内装も変っていたようで、はっきり思い出せるような所はほとんどありませんでした。
 何よりも私が感じたことは、各種の施設・設備がとても充実しているということでした。統合当時は、校舎だけは新しくても、グラウンドなどはまだ整備されておらず、理科室などがあったかどうかさえ記憶にありません。生徒数は統合当時の80人くらいから30人弱まで減りましたが、設備面での改善は大いに進んだようです。
 解剖室では、全身の骨格模型はもちろん、脳、上半身(表面からはずしていって内臓を順次触れるようになっている)、腕(骨・筋・血管・神経などがすべて揃っているもの)等、多種多様な模型がありました。私にとっては、終日でも触り続けていたい場所でした。
 理科室はやはり私の気に入った場所でした。眼や皮膚の模型、花の構造模型などのほか、とくに私の興味をひいたのは、発生の模型でした。人の胎児の初期・中期・後期の模型(後期では頭が子宮口の方を向いているのが印象的でした)、哺乳類・鳥類・爬虫類・両生類等の発生途上の形が比較できるようなセットがありました。
 また、臨床実習室は、私のころとは比べ物にならないほど整備されていました。受付も治療室も広く、治療室にはとても清潔そうなベッドが6、7台くらいは置かれ、治療器具もかなり揃っているようです。完全予約制だとのことですが、診療時間は午前中だけで、施術に当たる生徒も少ないということもあり、やむなく断ることも多いということでした。
 寄宿舎も案内してもらいましたが、こちらはすっかり建替えられていて、個室中心で、清潔そうな感じを受けました。
 以上のように、生徒の人数は、統合当時の80人くらいから30人弱(幼稚部・小学部・中学部は合わせても10人にも満たず、大部分は中途失明者のようです)とかなり減りましたが、施設・教育環境面では格段に改善されているように思いました。
 
 
2 記念講演会
 午後は記念講演会でした。生徒や職員、さらに卒業生や地域の人たち・保護者も参加してくださり、合わせて百名を超えていたようです。
 私は1時間余話し、その後会場からの質問を受けました。
 以下に、その時の講演要旨、および質問・答えの要旨を記します。
 
◆講演要旨
私の40年――見えないことを生かして――
 
1 私の仕事と活動
 
●仕事
 日本ライトハウス盲人情報文化センター(2008年8月より「日本ライトハウス情報文化センター」と改称)の嘱託職員
 日本ライトハウスは視覚障害者のための総合施設。盲人情報文化センターは図書館部門。
 私は、点訳相談、 点訳本の2校のデータ修正、校正などをしている。一般の学校に行っている全盲の児童生徒の点字教科書の校正もしている。
 
●活動
 6、7年前から《触って知る》ことに注目。触る研究会の活動、触文化、「触るミュージアム」の必要性、さらに教育の場における触ることを中心とした体験の重要性などについて、文章や講演などで主張。
 
 
2 私のあゆみ
 
●盲学校入学まで
 目が見えないということで、他の兄妹等とは違って特別扱いされていた。それでも、近所の子どもたちとはいっしょによく遊んでいた。
 その中でとくに良かったことは、手を使って自分で物を扱っていたこと。(釘を打つ、金槌でクルミを割り実を釘を穿り出す、泥や砂や雪を固めて簡単な形にまとめたりなど)
 食器洗いなど、わずかでも家の中での役割があったことも良かった。
 
●盲学校時代
良かったと思う教科・教材
 理科: 地形模型、実験報告の作成
 美術:粘土を採取して人形を作る、彫刻、絵を描く(遠近法などについての説明)。美術の先生が制作した女の横顔の石膏像を触って、初めて「美しい」と感じた。
 
●統合のころ
 明治24年創設という伝統のある八戸の盲学校では同窓会を中心に統合にたいしてかなり反対運動があった(そのためなのか、小・中学部は八戸に残った)。
 3校がいっしょになることで、新たにいろいろなタイプの生徒や先生方と出会え、かなり刺激的だった。また、生徒会活動などでは主導権争いのようなこともあり、緊張感もみなぎっていた。
 私は、一時は好きな物理の勉強が続けられないかと思い日本点字図書館に問い合わせてみたりしたが、大学に行って勉強し続けるようなことは夢のような話であることがわかった。それでも、盲学校以外の所、理療以外のことで生活はできないのだろうかと思い迷っていた。
 プログラマーがどんな仕事なのかよくは知らなかったが可能性はあるかもしれないと思い、東京の日本電子学院とかいう所に願書を出した。また、大阪の日本ライトハウスが機械工など新職業の訓練を始めていることを知り、そのための試験も受けた。前者は丁重に受験を断わられ、日本ライトハウス職業生活訓練センターに行くことになった。
 
●盲学校卒業後
 ライトハウスの訓練センターでは、社会経験をつんだ多くの中途失明者と出会い、自分(初めから見えず盲学校で暮らしてきた自分)との違い、自分の限界のようなのを強く感じた。技術を身につけ機械工などとして仕事はできるかもしれないが、今のような自分がそのような中でずっと生活できそうには思えなかった。周りの人たちの勧めもあり、すぐに仕事を目指すことは止め、大学に行こうと思い始めた。
 当時は大学の入学試験を受けられるかどうかがまず問題で、私は結局なにも配慮はしない(国語の漢字や漢文の問題はすべて減点、大学に入って以降の教科書については大学はなにも責任をもたないなど)の条件で受験した。
 大学に入ってからはとにかく本を読んだ(読んでもらった)。教科書は語学の教科書だけは点訳してもらうようにした。英語の点訳は日本点字図書館の点訳者で青森に住んでおられたねいちれいこさんという方に点訳してもらった。(とても正確で速い点訳だった。青森に帰省した折りに1、2度お会いした。畑仕事の合間に点訳しておられた)
 
 
3 《触って知る》ことの大切さ
 現代は視覚に偏重した社会。見える人たちも、本来人間に備わっている視覚以外の感覚をも大いに活用すべき。
 見えない人たちは、視覚情報にアクセスし利用できるようにすることも大切だが、それとともに、自分たちの持っている視覚以外の感覚・能力に気付き発展させることも大切。
 視覚以外の感覚では、私はとくに広い意味での触覚を重視している。
 広い意味での触覚: 身体感覚、皮膚感覚、手を使っての触知覚
 触知覚のためには、手で触れた部分部分の情報を頭の中で全体に組み上げたり、手の動きを頭の中で描くなど、イメージする力が必要。
 イメージする力が育てば、言葉による説明だけで、頭の中でいろいろな物を思い浮かべ、操作できるようにもなる。
 また、触覚を通して、視覚では分からないようなことも知ることができる。例えば、皮膚を通して皮膚の下、身体内部の様子をうかがい知ることができる。
 
 
4 自立のために
 自立の基本は仕事を持つこと。(もちろん仕事を持たなくても自分の意志で自律的に生活することも可能だが、仕事を持てばつねに社会と繋がりまたその中での自分の役割のようなのを感じることもできる)
 
●1人歩き
 社会活動の基本はそれなりに安全に歩けるようになること。人の援助もフルに活用する。
 
●点字の修得
 本を熟読し、また十分に考えて文章を書いたりするためには、点字が不可欠。
 
●漢字などの能力
 見える人たちとのコミュニケーションのためには漢字の知識、墨字の文章を扱えたほうが良い。
 自分の名前は自書できたほうが良い(今のところ、自署できないといろいろな手続きに困る)。
 
●能動的になる
 見えないとどうしても受け身になりがちだが、自分のしたいこと、して欲しいことをはっきり言えるようにする。
 そのためにも、好奇心を大切にしたい。教育の中でも、好奇心を育てまた応え得るような機会をできるだけ多く提供するようにしてほしい。
 
●見えない人たちの適職は?
 視覚以外の能力を使う仕事。
 理療は、《触って知る》ことに基くもの。とくに、目では見て分からない人体の内部の様子を触って知ることができる。
 
 
◆質問と答え
Q: 知らない所に一人で出かける時は、どのようにしているか?
A: よくしていることは、目的地の施設などに電話し、できるだけ詳しく最寄り駅からの道筋を説明してもらう。目が見えないことを言って、方向や距離、交差点がいくつくらいあるか、目的地の近くの目立つ建物などについてたずねる。最寄り駅に着いたら出口を出る時駅員に目的地の方向を確かめ、さらにできれば、数分ごとに自分の向っている方向が正しいか回りの人たちにたずねる。
 
Q: 無人駅の場合はどうしているか?
A: たまにそういうこともある。駅を出て近くの店に聞いたり、その辺の人に聞いたりする。でも、ときには回りにほとんどだれもいないこともある。このようなことは青森のような地方ではよくあることだろうし、都会でも郊外ではしばしば体験する。私は待っていてもぜんぜん人をさがせないので、走っている車を止めてたずねたことも数回はある。そういう場合はあまり無理しないでタクシーなど利用したほうがいいだろう。安全が第一だから。
 
Q: 一般の学校に通っている見えない子どもたちの教科書の費用はどうなっているのか?
A: 今は基本的には無料。一般校に通っている子どもたちの教科書は今もボランティアが主にしているが、数年前からその費用は、例えば1ページ当たり何百円とかいう計算で、国費から出ることになっている。
 
Q: 日本ライトハウスの訓練センター時代に、中途失明者と先天盲とのギャップを感じたと言うが、それは具体的にどういうことなのか?
A: とくに私の場合といったほうが良いかもしれないが、常識的なこともふくめ広い知識のなさ、人とのかかわり方、コミュニケーション力など。
 
Q: 大学時代、どのようにして試験を受けたか?
A: 試験問題は読んでもらって、答えは主に平仮名のタイプライターで書いた。ただし、タイプライターで書いたのを自分では読んだり確かめたりできないので、頭の中で答えの文章を終りまで作ってから、一気に書き上げるようにしていた。英作文などでは英文タイプも使った。中には口頭試問でも良いという先生もいたが、できるだけタイプライターを使うようにした。
 
Q: 触察について、ポイントなどを指導してから触ってもらったほうが良いのか、まず触ってもらって触った印象を大切にし、それから説明したほうが良いだろうか?
A: 触知覚では何といっても自分で能動的に触ることが大切で、とにかく触る経験を積んでほしい。低学年では、まずとにかく触ることから始めるほうが良い。「これ何だろう」と思い、そして触った印象を言葉に出してもらえれば、その言葉に合わせて説明を加えていくようにする。実際には触り残しも多いので、そういう所に誘導して触ってもらい説明する。このような説明ではしばしば断片的になるので、もう一度全体が分かりやすいように説明し直しても良い。ポイントは、触った印象を言葉に出してもらうこと。そのためには先生からの誘導的な言葉かけも大切。
 高学年、触ることにも慣れ触経験の豊富な人の場合には、最初に全体的な説明をしてから触ってもらっても良い。
 
 
(2010年2月10日)