三内丸山遺跡訪問記

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 私は青森県出身ということもあるのでしょうか、三内丸山遺跡には当初から関心をもっていました。三内丸山には、これまでに2回行きました。初めは、2007年10月5〜6日に青森県立盲学校の創立40周年記念講演会で青森に行ったときに遺跡も案内してもらいました。次が、今年1月29〜31日に行われたある研究会の青森ツアーです(この研究会に私も参加させてもらっています)。とくに今回の青森ツアーでは、遺跡見学だけでなく、遺跡で縄文の笛?を吹いてみたり、土器作りをしたりと、いろいろな体験ができました。
 
◆遺跡見学
 前回も今回も三内丸山遺跡応援隊のボランティアによるガイドで見学しました。前回は10数人のグループだったのにたいし、今回は私をふくめたった3人の小人数ということもあったかもしれませんが、今回のほうが丁寧で1時間くらいかけてゆっくり回ることができました。
 見学コースとして公開されているのは5ヘクタールですが、遺跡全体は38ヘクタールの広さがあるとのことです。今回は長靴を借りて雪道を踏み締めながらの見学でした。
 三内丸山遺跡は、青森駅から車で10分足らずの所で、ちょっとした丘陵地のようです。北東約3キロほどで陸奥湾、東流して陸奥湾にいたる沖立川の右岸(南側)に位置し、東から南にかけては八甲田山系に続いています。地元の人々の間ではここで土器がよく見つかることは以前から知られていましたが、1992年県営野球場建設に先だつ発掘調査で大規模な縄文集落であることが判明、地元は騒然となり、全国的にも注目されました。2000年には国特別史跡に指定されています。
 三内丸山は現在は標高20メートル前後(一番低い所は7メートルくらい)で、海岸からかなり離れていますが、縄文の人々がここに集落をつくっていたころ(5500年前から4000年ほど前)は、いわゆる縄文海進のピーク時(6000年前ころ)を過ぎていたとはいえ、現在よりは海水準が高く、少なくとも三内丸山集落の初期には数百メートルで海に出られたと思われます(海水準5メートル高の海岸線を点図化してもらって確認しました)。遺跡からは、鯛、ぶり、鯖、鰹など50種をこえる魚の骨が出土しているとのことです。また、翡翠(新潟県糸魚川)、琥珀(岩手県久慈)、アスファルト(秋田県)、黒曜石(北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰)等、かなり離れた地域の特産物も多数出土しています。海は豊富な食料源としてはもちろん、交易路としても利用されていたのではと思います(船は見つかっていないそうですが、丸木舟用と思われる櫂は出土しているそうです)。
 また三内丸山の地域はもともとは落葉広葉樹の森だったのですが、集落が作られ人々が定住する過程で、クリやクルミなど以外の樹は伐採されて、人工的な栗林になっていたようです(出土したニホングリのDNA鑑定で、それが栽培種であることが確認されているとのことです)。ヒョウタン、ゴボウ、マメなども栽培されていたようです。出土する動物の骨としては、普通の縄文遺跡では鹿や猪が多いのですが、三内丸山遺跡ではムササビや野うさぎなど小動物が多いとのことで、このことからも周辺の森が栽培植物などの用地としてかなり開発されていただろうことが推察されます。
 
 見学はまず、環状配石墓から始まりました。直径4メートル余で、縦横に規則正しく石を並べているようです(20cmほどの石が「に」の字型に並んでいるとか)。このような墓は村の有力者のものと思われるので、当時すでに身分らしきものに差があったのではと考えられます。
 
 村の中心からは約400メートルくらいの道路が伸びているとのこと。村は区域ごとに用途がちゃんと決まっていて、とくに墓域と住居域は、谷をはさんで東側が墓域、西側が住居域ときびしく分けられていたそうです。そのほか、祭をする場所、土や粘土の捨て場、食物などの捨て場、食料などを貯蔵する場所などもしっかり決まっていました。長い間共同生活を続けていくためには当然なのかもしれませんが、やはりその計画性には感心しました。またこのような土地の使い分けや配置には、彼ら縄文の人たちの世界観が関係しているのかもとも思いました。
 
 大人の墓は、海に向って東に伸びる道路の両側に、両側とも足を道側に、頭を道と反対側に向ける形で並んでいます(250基ほど見つかっているとのことです)。墓穴は楕円形で、大きさから考えて多くは屈葬で、一部伸展葬もあったようです。
 この、海に向って伸びる両側に墓の並んだ道は、外から村に入って来る人たちが通る道、その人たちを迎える道になっていたとのことです。村が生者と死者の両方で成立ち護られていること、ないし生者が死者の世界に護られているといった観念を象徴しているようにも思われます。
 
子どもは、亡くなると、普段使っている大きめの土器に遺体を入れて、住居の近くに埋葬されていたようです。土器は高さ40cm前後の大きさで、入っていたのは乳児だと思われます。中からは丸い石がよく見つかり、またなぜか分かりませんが、その土器の口が割られたり底に穴を空けられていました。縄文の人たちの、子どもたちにたいする想いを感じさせます。このような埋設土器はこれまでに800基も発見されており、それだけ当時乳児の死亡率が高かっただろうことを思わせます。
 
 竪穴住居は約550個見つかっているとのことです。4500年前の、三内丸山の村がもっとも盛んな時期は、竪穴住居約100個、1戸当たり4、5人の小家族として、400〜500人の人口だったのではとのことでした。かなり大きな村ですね。
 復元された竪穴住居に実際に入ってみました。直径3メートル余、地面が30、40センチほど掘り下げられています。中に入ってまず感じたのは、燻したような臭。これは竪穴住居の木が腐らないようにあらかじめ燻したとのことですが、私は、この燻したような臭で、小さいころ住んでいた、囲炉裏しかない、よく薪が燻ぶっていた家を思い出しました。外は雪がちらついていたのですが、竪穴住居の中は暖かく、風など外からの音もほとんど遮断されて、とても落ち着く場所のように感じました。小家族でシンプルに暮らすには、住み心地は良いように思いました。
 復元された大型竪穴住居にも入ってみました。幅約10メートル、長さ約30メートルもあるとのことです。 1メートルくらいも掘り下げられていて、天井も高いようでだいぶ広い感じでした。普通の竪穴住居とは違って、冬は寒々しく底冷えして、一人でながい間居続けるのはつらい感じでした。たぶん囲炉裏が数箇所にあって火を燃やし続け、さらに多くの人々が集まってようやく暖かくもなって居心地がよくなるだろうと思いました。
 次に、これも復元された 6本柱の大型掘立柱建物に入って、直径 1メートルもある栗の木の柱にも触れました。柱は 4.2メートル間隔で(4.2メートルはいわゆる縄文尺=35cmの12倍)、縦3本、横2本と規則正しく配置され、直径2メートル、深さ2メートルの穴の中に直径1メートル、高さ20メートルもある栗の木が立てられていたそうです。そして、6本のいずれの柱も、中心に向って内側に少し傾いて立てられ、どんな建物だったかはよくは分かりませんが、安定した構造物になるように考えられていたようです。
 その他、高床式建物にも入ったりで、狭い場所に多くの建物が復元されているように感じました。
 
 それから、南盛土と北盛土です。盛土は、排土や粘土や使えなくなった土器や石器などの捨て場ですが、それらが大量に積み重なって小山のようになり、それをさらに平らに均して台のようにしていたようです。そこからは翡翠の玉など祭の道具らしき物も見つかっていて、この台の上では祭のようなのが行われていたかも、ということでした。南盛土では高さ2メートル余の垂直の断面が、北盛土では水平の断面が見られ、たくさんの土器の破片などが見えているようでした。
 盛土はいわば不燃ごみの捨て場だといえますが、縄文の人たちはその他ふつうのごみを北側の谷に捨てていました。このごみ捨て場だった谷が、今は考古学のまさに宝の山になっているようです。谷は、水分が多く空気から遮られていたので、土器・石器のほか、普通の環境では残らない木製品や漆器、動物や魚の骨、うろこ、植物の種子、木の実、さらには寄生虫の卵まで、いろいろな物が多数見つかっているそうです。
 
 これで、遺跡はだいたい一順したことになります。狭い場所によくもまあこれだけの建物が林立し、また当時の人々の生活を再現できるような資料が数多く出土したものだと思いました。
 
 今回は縄文自由館の体験工房にも立ち寄り、土偶、玉、組みひも、敷物、小さな編み籠のようなものなどのサンプルにも触れました。小さな編み籠のようなのは、いわゆる「縄文ポシェット」と呼ばれて話題になったもので、表面には漆が塗られかなり頑丈そうで、しっかりと編まれていることがよく分かりました(網代編みになっているとのことです)。また、組み紐は、実際に5本の紐を使って編んでみました。
 
■展示室・収蔵庫体験と土器製作
 今回の研究会の目的の一つは、展示室や収蔵庫で土器をはじめとするいろいろな資料に実際に触れ、その感触からイメージしながら、見えない人たちが各自土器を作ってみることです。
 まず1月29日は、研究会のメンバーだけで、展示室で簡単な解説と触っての見学、触学です。
 初めに遺跡の50分の1のジオラマ。数メートルの大きさで周りの一部しか触れられませんでしたが、これはできればもう一度じっくり触ってみたいものです。何本も溝のようなのがあり、これは何かたずねると、平安時代の遺構だとのこと、三内丸山遺跡は、4000年前から3000年ほどの間はほとんど人が住んだ形跡はないが、平安時代になってかなり多くの人たちが住むようになったとのことでした。その他、5センチくらいの大きさの楕円形の穴がいくつもあり、それは成人の墓だとのこと、その墓が幅10センチ余の道の両側に並んでいるのが分かりました。その道は周りよりわずかに窪んでいて、海に向ってゆるやかに傾斜していることも分かりました。
 その後、いくつかの土器(いわゆる円筒土器と呼ばれるもので、ちょっと縦に長い植木鉢のような形のものが多かった)、泥岩製?の鏃、鹿の角を加工した針、そして大きな翡翠の玉など触りました。中でも素晴らしかったのは、直径7センチくらいもある翡翠の大珠です。表面はスベスベしていて、角張った所がまったくないように磨かれています。持ってみると、ずっしりと重く、手にぴったりの感じでした。中央には、上から下に3ミリくらいの穴が貫通しています。硬い翡翠にどうやって穴を空けるか以前に調べてみたのですが、このような穴は、管錐と言って、竹管の先に水と砂を付けながら回転させて空けたとのことです。原始的な技法ですが、時間をかければ実際にこのようなことが出来るのだと、感心しました。
 また、出土した土器の破片を繋ぎ合せて土器を復元する作業も見学しました。もちろん色や形など目も使うのですが、本当に合っているかどうかは実際に手で合わせた時の感触が大切だということが、自分でも実際にやってみて、よく分かりました。三内丸山の場合は、土器がつぶれた状態で出土することが多く、復元は他の遺跡よりは容易だとのことですが、土器破片は数万箱にもなるといいますから、復元作業はいつ果てるともない仕事のように思えます。
 
 そして次が、今回のツアーの圧巻ともいうべき、収蔵庫で触る体験です。普通は、触察用にあらかじめ用意された物に触るとか、ガイドしてもらいながら触っても大丈夫そうな物に触るのですが、今回は本当に一人で好きな物に好きなだけ触るという、これまで経験したことのないような触体験でした。
 何列も棚が並んでおり、その棚の間に入ると、足元から頭の上まで、どこに手を伸ばしても土器また土器に触れます。各棚にも、奥に向って2、3列土器が隙間ないほどに並んでいます。とりあえず色々な土器に触れてみて、これは、と感じたものを丁寧に、時々は内側もよく触ります。さらにとくに気に入ったものは、注意しながら棚から出して手に持って、何度も丁寧に触ります。普通は、これは良い物だろうと他の人が選んだ物を触ることが多いのですが、自由に触って自分でこれはすごい!と感じ、それを心行くまで手にし触ることができるとは、何と素晴らしいことでしょう。
 さらに、私たち見えない人たちが一心不乱に触っている様子を回りの見える人たちが見て、その手や指のきれいな動きに感心しているようです。見える人たちが、私たちの手や指と復元された土器との共感・対話の様子を興味深そうに観察しているというのも、面白い風景ではありませんか。
 土器は、高さ十数センチのものから40〜50センチくらいのものまで、大部分は全体としては植木鉢を細長くしたような形でした。上の縁が少し広がっていたり、縁の上に2方向あるいは4方向の突起が付いている物もかなりありました。模様は大雑把にいえば似ているともいえますが、細かく触ればそれぞれ色々な違いがありますし、模様の浮出しの程度によってもだいぶ印象が変わります。土器の内側も、凹凸がなくきれいに仕上げられているものや指痕のようなわずかな窪みがあるものなどいろいろです。破片の繋ぎ目は内側から触るとよく分かります。(こんな書き方をしていると、実際の触っている時の感動がぜんぜん表現されていませんが、文章力の無さゆえ、仕方ありません。)
 収蔵庫はかなり広いようで、実際に触ったのは極々一部でしかないのですが、その数の多さ、量の多さには圧倒されました。さらに、収蔵庫の橋の当たりには、棚には入らないような大きな土器や、途中までしか復元されていない土器などもたくさんあり、それらは十分に触っている時間はなくちょっと残念ではありましたが、とにかくこれだけ膨大な量の中でほとんど自由に触ることができたのは、何ともすごい体験でした。
 
 翌日、1月30日は、青森県立盲学校の生徒をはじめ教員や卒業生等20人ほども加わって、土器の触学と製作体験をしました。
まず、三内丸山遺跡出土の典型的な円筒土器10点くらい(一部はレプリカ)に触ります。
盲学校の生徒たちはほとんど土器に触るのは初めてのようで、皆さんとても熱心に触っていたようです。
 その後、その触って得た触感を基に、専門の人の指導で、各自土器を作ってみます。まず直径10センチくらいの底の部分を作り、その上に何本もの紐状にした粘土を重ねてゆく方法です(輪積み法と言っていました)。それから、縄や棒で表面に模様を付けます。
 私は、舟をイメージして土器を作りました。三内丸山ではきっと舟を使った交易が行われていただろうと思うからです。底部は円いですが、上の方は左右に広げて楕円形にし、両端はさらに広げてへさきと船尾とします。へさきには、船の先導役として鳥をとまらせます。側面には、上4分の3くらいの高さまでは縦に縄を転がして模様を付け、その上には水平に 3本の平行線を付けて完成です。少し粘土があまったので、小さな笛(中を空洞にし、いくつか穴を空けたもの)も作りました。どんな風に焼き上がるか楽しみです。
 最後に盲学校の生徒たちの作品を触ってみました。とても丁寧に作っていて、模様などかなり忠実に再現してみようとしているものもありました。かなりの集中力を必要としたように思います。どれもよく出来た作品のように思えました。
 
■縄文の笛?を吹く
 博物館の建物内で土器など遺物にふれていると、つい縄文の気分になってしまいますが、実際の環境は当然かなり違っていたはずです。その一つは音環境だと思います。今は人工音が大部分で普通の生活では自然の音は注意しないとあまり聞こえてこないくらいです。縄文の世界ではたぶんまったく逆で、生活の中では自然の音や人の声がとても重要で、人工的な音は珍しく、特別の意味をもつこともあったかもしれません。
 私はこれまでに、ワークショップで土鈴や弥生の笛?(オーブン粘土を使ったので、弥生とはとても言えませんが)を作ったことはあります。最近、縄文の土笛や磐笛=石笛があるらしいことを知り、興味をもっています。そういうこともあり、1月初めに縄文の土笛というものを購入してみました。
 この笛の製作者は埼玉県の会田さんという方で、縄文や弥生の土器、土偶、埴輪なども作っています。(会田さんのホームページ
 この笛?は、もともとはある農民が畑で仕事をしていて、なにか分からない焼き物の塊を見つけたのがきっかけです。それは、土偶の一種とも言えなくはないようですが、とにかくよくは分からないままだったそうです。1年くらいして会田さんが工夫して吹いてみたら音が出て、もしかするとこれは縄文の土笛ではないか、ということになり、会田さんが製作するようになったとのことです。
 どんな物かよく分からずに購入したのですが、送られてきた物を触ってびっくり!こんな物でどうやって音を出すのだろうと思いました。直径7、8センチくらいの平べったい円い物で、上面と下面に溝があり、その両面の溝を結ぶように小さな穴が貫通しているだけで、オカリナなどのように、音を発生するための空間がどこにもないようなのです。結局、穴の片側を指で塞ぎ、もう一方の穴口に向けてほぼ水平に息を吹きかければよいということが分かりました。初めの間はほとんど音になりませんでしたが、2、3日繰り返して吹いていると、わずかに音が出るようになりました。しかし高い音なので家では練習できず、近くの川原で練習したのですが、土笛から出る高い音がすぐに回りの建物などに反響して、あまりよい耳触りとはいえません。それで、できたら三内丸山遺跡で吹いてみようと思い、青森ツアーに持っていったわけです。
 30日の昼ころ、三内丸山遺跡の雪道を歩きながら、実際にこの土笛を吹いてみました。その日は概して天気は良かったのですが、その時は雪がちらつき、一時的には吹雪のように風が吹き付けたりするような空模様でした。そんななか、かるくガイドしてもらいながら一人で雪道を歩きながら土笛を吹くと、その高い音にたいして 1秒くらい遅れて遠くから弱いエコー音が帰ってきます。そのエコー音を耳にしながら、それに応ずるようにピッ、ピッ、ピーッなど、いろいろに吹き分けながら、たぶん百メートル以上は歩きました。私の頭の中では、土笛の音とエコー音、それに風の音や雪までもが、ちょっとしたオーケストレーションとなり、しばしそれに陶酔しながら吹き続けました。
 この土笛から出る音は、強く高いピーというような音なので、祭などに使うよりも、お知らせ用ないし信号のようなものとして使っていたのではないでしょうか。この音はたぶん数百メートルは届くと思います。音は、木やちょっとした岡などに遮られることなく伝わりますので、信号用としては、直接視覚を使う伝達法よりもかなり優れているように思います。
 
 今回の三内丸山遺跡訪問では、土器体験や製作とともに、個人的には縄文の笛?を遺跡の上で試すことができて、縄文の人たちの生活に少しですが心を寄せることができたように思います。
 
(2010年2月21日)