今年は、8月13日から15日まで十和田市の実家にいました。ちょうどお盆の期間で、ゆっくり過ごしました。さすがに80を越える母はすっかり腰が曲がり、歩くのがつらそうでした。それでも、農作業は相変わらず続けていて、日中の陽射しの中でもしっかり仕事をしています。これには驚くばかりです。
14日には、妹と母といっしょに近くの民俗資料館に初めて行き、また15日には妹と久しぶりに奥入瀬渓流に行きました。以前は渓流沿いを3時間近くかけて歩いたこともありますが、今回は車で行きました。石ヶ戸(いしげど)の近くでは大きな岩を割り裂くように根付いている木を触ったり、渓流に入って冷たい水に手を入れて好みの石を探してみたり、滝のすぐ近くまで連れて行ってもらってしばらくその飛沫で涼んだりしました。
14日に行った十和田市十和田湖民俗資料館は、思いのほか良かったので以下に紹介します。
家からは車で15分くらい、十和田湖温泉郷付近の国道102号線にある「旧笠石家住宅」の表示を頼りに行くと着くようです。この資料館は、1976年にこの地に旧笠石家住宅が移築復元された時に、地域の人たちが使っていた農耕具や生活用具などを展示するために建られたものだとのことです(当時は十和田湖町。2005年に十和田市と合併したため、現在は十和田市の管理)。
資料館に入ると、とても感じのよいやや年配の女の方が出迎えてくれました。気さくな方で、母はずうっと帰るまでその方と昔を懐かしみながら話していました。(資料館のスタッフは非常勤の方2人で、交代で案内と管理をしているとのことです。)
資料館の中はいろいろな物が所狭しと並んでいて、そのどれにも自由に触ってみて良いとのこと、早速妹の案内でいろいろな物に触りました。もちろんスタッフの方も適宜解説をしてくれます。その中には、私の小さいころの記憶にある物もかなりありました。例えば、千歯扱(せんばこき。これ以前は、竹を縦に二つに割ってその間に稲穂を通す物が使われたとのこと)、足踏み脱穀機、唐箕(とうみ。手回しで羽根車のようなのを回して、その風で脱穀した後の穀物から籾殻やごみなどを吹き飛ばして穀物だけを選別する道具)、むしろ打ち機、縄綯い機、とな切り(「とな」は馬草=馬の飼料のことで、大型の幅広の刃でとなを数センチに切る道具)、馬橇(私が乗ったりした馬橇の倍ほどもある大きなもの)、行灯、ランプ、えんつこ(赤ちゃんを入れておく藁製の円形の籠のようなもの。私もこれに入っていた)などです。
私が知らなかった物としては、車力(人力で荷物を運ぶ車。私が触ったのは車輪も木製)、木摺臼(きずるす。木製の臼が2段に重なっていて、上の臼に籾を入れて回すと、上の臼と下の臼の噛み合わせの部分からモミ殻と玄米に別れて出てくる。この玄米はさらに水車を使って精米したとのこと。木摺臼は古くから使われていたもので朝鮮から伝わったものではないかとのこと)、馬の水飲み用の桶(丸太を縦に切りその平たい面の側から大きく抉り取って桶のようにしたもの。妹は知っていました)などがありました。
さらに、日常着や正装着などもいろいろ展示されていましたし、また野良儀など「ぼど」(使い古してぼろぼろになった布切れ)をを縫い合わせて作った品々もありました(母もよくぼどを使ってこたつがけなどを作っていました)。その他、糸巻きや機織気などもありました。なんか昔の生活が蘇ってくるようです。
資料館は30分くらいで一回りし、それからすぐ近くにある旧笠石家住宅にスタッフの方と一緒に行きました。家の保存のために毎日午前中に竈に火を入れているということで、スタッフの方は火を起こし時々火を見ながら私たちに説明してくれました。(柱や梁や茅葺の天井裏は確かに煤で黒光りしているとのことです。防虫・防腐など効果はあるのでしょう。)
旧笠石家住宅は、約250年ほど前、江戸時代の宝暦年間に建られたと推定されるこの地方に典型的な農家だそうです。(私が小さいころ住んでいた家は、ごく一般の農家だというこの家に比べると少し小さいしやはり貧弱でした。)当時の様子を多くとどめているということで1973年に国指定重要文化財に指定され、その後この地に移築復元されました。全体の大きさは、はっきり確かめたわけではありませんが、4間半×9間半くらいのようです。まや(馬屋)、だいどこ(台所)とにや(荷屋。作業場として使われる)、じょい(正式の居間のようなところ)とねどこが、真っ直ぐ並んだ直屋(すごや)という形式です。南部地方では曲屋(まがりや)が有名ですが、この辺りでは直屋が普通で、盛岡のほうに行かないと曲屋はあまり見られないとのことです。復元した建物の部材の一部には原家屋の材料も使われていて、床板や柱の中には当時のまま手斧(ちょうな)の削り跡がはっきり分かるものもありました。床は硬くてつるつるしていて、聞いてみると毎日拭き掃除をしているそうです。また、土台は用いず、礎石に直接柱を立てて作られているとのことです。
まやはかなり広いようですが、中には馬に引かせる農耕具や馬車、縄綯い機、とな切りなどいろいろな道具が入っていました。だいどこには、囲炉裏や竈、水瓶などがあります。囲炉裏の上には鍋を適当な高さに吊るす自在鉤があり、さらにその上にはいぶして燻製などにするための四角い棚があります(この棚に松の根を置いて乾かし、それを削って火種にしたとも言います)。竈では毎日、保存のために、杉葉と薪だけを使って火を起こしています。荷屋の前の部分は障子戸ですが、その一部は蔀戸(しとみど)になっていて、内側に引き上げて上から下がっている止め具で固定できます。そうすると、2メートル弱四方くらいの空間ができ、風通しがとてもよくなります。竈で火を燃やしていても家の中はまったく熱くありません。また、この広い空間からは、玄関から出し入れできないような大きな荷や道具などを出し入れできて便利だとのことです。(それにしても、こういう構造だとやはり冬は寒そうです。)
この資料館と旧笠石家住宅は、非常勤の職員によってとてもよく管理されていますし、また資料には自由に触れることができ丁寧に解説もしてもらえます。十和田市の実家のすぐ近くに、こんなに優れた資料館があるとはちょっと驚きでした。
(2011年9月12日)