点字からひろがる世界 ―― 触る文化・触る世界への招待 ――

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 4月22日、岡山盲ろう者友の会の総会後、標記のタイトルで公開講演会をさせてもらいました(会場は、岡山駅近くの、きらめきプラザ4階 401会議室)。
 私はこれまで盲ろうの方とはほとんど接したことはありませんでした。今回は、岡山で活動している点訳者で、盲ろう友の会の点字資料なども作っておられる方の紹介で、このような機会を得ることができました。
 事前に、当日司会をしてくださったAさん(盲ベースの全盲ろう)からは少しゆっくり話してほしいと助言をいただきました。それでもちょっと不安な気持で講演会に臨みました。でも、私の話をいろいろな仕方で通訳する方々のはたらきによって、私の伝えたかったこと、点字の大切さや触ることの意義など、かなりよく皆さんに分かってもらえたように思います。私は、時々ブリスタの音が途切れかかるのを参考にしたりしてゆっくり話したつもりですが、つい早口になってしまって、これはいけない、としばしば思いながらの講演でした。
 講演会の参加者は、盲ろう者8人、視覚障害者4人、そして友の会の会員や一般の方々(中にはろう者の方も数人おられたようです)、さらに通訳者等スタッフも合わせると計70〜80人くらいでした。
 盲ろう者8人は、全盲ろう2人、弱視ろう4人、全盲難聴2人で、それぞれに2人が付いて交代で通訳します(音声通訳の場合は1人)。全盲ろうのうち1人はブリスタ、もう1人はブリスタと手書き文字です(ブリスタはドイツ製の点字タイプライターで、紙テープに連続して点字を打ち出すことができます)。弱視ろうのうち2人は触手話、1人は近くで手話、もう1人は2メートルくらい離れて手話(視野が狭いためだそうです)です。全盲難聴の1人は片耳に、もう1人は両耳に補聴器を付け、補聴器を通しての音声通訳です。
 ろうの方も数人おられるので、このほかに、全体にたいして、要約筆記通訳5人(大きなスクリーンに発言内容・状況を映す)と手話通訳2人もおられたとのことです。このように、本当に多くの方々の協力があったわけです。(盲ろう者のコミュニケーションについて詳しくは、 を参照してください。)
 
 講演会が終わってからは、スタッフの方々をはじめ十人余の人たちとお茶会を共にさせてもらいました。お茶会では、盲ろうの方と通訳者を通してお互いに会話ができましたし、また少しですが私自身指点字を使って盲ろうの方とコミュニケーションしてみたり、触手話も体験させてもらいました。皆さんとの会話では、話がゆっくりしたペースで進み、快く感じました。とくに指点字では、話しているのがだれなのかを必ず最初に書いたり、人の出入りなどの回りの状況まで説明されていて、見えないだけの私にとってもこんなサポートがあれば良いなあと思うほどでした。もしかすると、盲ろうの方々に対するサービスは、人に対する究極のサービスなのかも知れません。
 
 以下に、当日のレジメに加筆・訂正して講演内容を紹介します。(なお、3の「漢字との出会い」については、時間の関係上当日はまったく話していません。私は今年の初めから何回か、地域で活動している点訳ボランティアを対象に、点字の大切さや触って知ることの必要性について話していて、そのさいには、漢字や漢点字のことについても話しています。)
 
 
1 生い立ち
 青森県十和田市の、市街から10km以上離れた、戸数10個の山間の集落に生まれる。後3ヶ月で両親が目の異常に気付く。半年くらいの時には手手遅れだと言われるが、その後もいろいろと治療は試みる。そのために、家はますます貧乏になる。
 どのくらい見えていたかははっきりとはしないが、記憶にあるのは、明暗やぼんやりと物がある感じくらいで、色やはっきりとした物の形の像は知らない。それでも、時々ぶつかりながらよく走り回っていたし、子どもたちともよく遊んでいた。見えないということでたまには残酷な扱いも受けたが、ビー玉などのようにそれなりに工夫して遊んだことも多かった。オニグルミの堅い核を金槌で割り、中の実を釘でほじくって食べたり、兄たちの真似をして、のこぎりなどを使ってそりを作ろうとしたり、時計の中がどうなっているのだろうと、柱時計を壊してしまったりなどと、手を使っていろいろと試みた。両親は、あぶないと言っていろいろ止めたりはしたが、私のすることは何でも多めにみてくれて、兄弟の中では特別に甘やかされていた。
 私も、回りの子どもたちと同じように、学校に行く、盲学校にも行きたいと言って、八戸の盲学校に入ったが、そこはいわば収容施設のような所で、私のそれまでの勝手気ままな行動はすべて抑えられ禁止されてしまった。すっかりおとなしい、物言わぬ子供になり、夜尿や吃音に悩まされた(みんなで一緒に食事をする時「いただきます」が言えずに何分も食べられずにいたこともある)。盲学校入学前と後とは対照的で、明るくのびのびした世界から暗くしずんだ世界に行ってしまったように感じた。
 
 
2 点字との出会い
 
●点訳されていれば、どんな難しいものでも読むことはできる
 6歳で盲学校入学。ふつうにじっと座って、授業を聞いていることはできなかった。点字も学校ではあまり身につかず、1年生の冬休みに点字をわずかしか読めない私を心配して独学で点字を覚えた父が作った点字文を読んで、力をつけることができた。
 その後は濫読。でも盲学校の図書室には数百冊しか点字本はなく、小学4年ころ、間違えて源氏物語を読んだりした。点字の本は、総ルビ付きの本のように、どんな難解な本でも、意味は分からずとも、読むことだけはできる。
 
●図書館が役立ったこと、役立たなかったこと
 小学高学年から、日本点字図書館など数館の点字図書館を利用(郵送による貸し出し)。日本点字図書館からは、点訳グループ・点訳者を紹介してもらったこともある(ほとんど点訳はしてもらわなかったが、点字の手紙のやり取りをし、盲学校外の世界と接することができた)。
 大学受験、および大学での勉強では点字図書館はほとんど利用しなかった。個人的に紹介してもらった点訳グループや大学の点訳サークル、友人にお願いした。
 それでも利用した例:マックス・ウェーバーの伝記の音訳を頼んだ。1年近くかかって出来上がったが、そのころには関心は別に移っていた。また、レポートを書く時には、直接必要な文献は点訳・音訳ではなかったが、日本点字図書館の目録から関連のありそうな本をピックアップし、一度に何十冊も借りて利用した。
 
●こんな読書環境があれば……
 中学の終りから高校にかけて、私は物理が好きになっていて、弱視の生徒が本屋に行く時に一緒に付いて行って本を見てもらおうとした。その弱視の生徒ももちろん自分の好きな本をあれこれ立ち読みしているので、私はその間数時間待ち、ようやく最後の10分くらい、あわただしく理科関係の本のタイトルや目次などを見てもらった。それだけ待ち続けても、なんとか自分にも分かりそうな本が欲しかったし、できれば読みたかった。
 一般の書店や図書館のように、まず点字本が大量にある場所があれば良い。そういう場所で好きなように本をあさって読みたい。(日本ライトハウスの訓練生だった時には、図書館部門の書庫に入り込んで何時間も手当たり次第に本を読むことができた。これは懐かしい思い出。)
 点字の本(点訳データ)とともに、必要に応じて墨字のデータ(テキストデータ)も欲しい。
  テキストデータのメリット:出版社がテキストデータを提供してくれるならば、活字本とほぼ同時にテキストデータの本を読むことができる。スキャナで読み取って修正や手入力する場合も、点訳よりは速くデータが仕上げられ、また、そのような作業をするボランティアも、点訳の場合よりは幅広く得られやすいと思われる。人名など、漢字を知るのにも役立つ。
 点訳のメリット:正しい読みで読めるし、図や表や数式についても、とてもスムースに読み理解できるような形式で提供できる。また、図については、テキストデータでは言葉による説明だけになるが、点訳では点図なども添えてより具体的に理解し実感できるようにして提供できる。
 
●点字の役割
 最近は、見えない人たちは、点字を知らなくても音声で情報を得、また、音声のガイドを受けながらパソコンで直接墨字を書くこともできる。しかし実際に見えない人たちが、すらすら読み書きでき、また自分の書いた物を自分で簡単に確認できるのは、点字だけ。
 とくに、文章を熟読しつつ深く考え、また自分の考えをきっちりまとめたり整理するには、点字のほうが良い。点字は私たちにとって「本当の文字」と言える。自分で使いこなすことのできる文字は欠かせない。
 また、点字は見えない人たちの社会参加の手段として、さらには権利行使の手段としても重要。例えば、公務員試験や各種の資格試験、投票や請願や陳情書など。その他、公共の場での点字の表示。
 
●教科内容・教具のユニバーサル化
 一般の学校で学ぶ見えない子どもたちにも点字教科書が国費で提供されるようになったことは大きな前進だが、理科や社会の教科書をはじめ多くの教科書で、しばしば視覚を使わなければ理解・処理し切れない内容があって、これが見えない子どもたちの学習の困難さをもたらしているように思う。ほぼ同じ学習内容を、視覚以外の感覚でも理解し確認し処理できるような選択肢も加えていってほしい。
 また、実際に体感でき手で操作できるような教具もそろえ活用できるようにしなければならない。
 
 
3 漢字との出会い
 
●漢字を知らなくてもおおよその意味はわかる
 私は高校の終わりころまでは、漢字についてはほとんど知らなかったが、意味がどうしても分からなくて困ったようなことはそんなにない。前後でなんとなく想像はつくし、とりあえずは分からなくても、何度かその言葉に出会っているとなんとなく意味が分かってくる。(大学時代、対面で本を読んでもらっていて、ボランティアが読み方が分からないときに、私はしばしば前後の文章からその言葉を言い当てることができた。)
 日本語は、文字で記されれば表意文字だが、実際に話されている日本語では表音的で、日本の仮名点字はその表音的な面を活かしたものだと言える。
 
●正確な意味をとらえるには漢字が分かったほうが良い例
 反ユダヤ主義、反共産主義、汎スラブ主義、汎ゲルマン主義
 高校の世界史で上記のような用語の「はん」の意味がどうしてもとらえられず疑問のままだった。当時私が知っていた「はん」は、「反」と「半」くらいだったので、「はんげるまんしゅぎ」などはどうしても意味が取れなかった。大学時代に「汎神論」という言葉に出会って、「汎」の意味が分かり、それまでの疑問が解決した。
 今は見えない人たちがパソコンで墨字の文章を書くのが普通になりつつあるが、正しい文章を書きこなすには漢字の知識が必要。
 
●自分で読み書きできない文字は身につかない
 私は、18歳の時、漢字を数百字覚え、実際に点線でマスが示された用紙を使って家族に手紙も書いたことがある。しかし、自分で書いた字を自分では確認できず、また、普通の本で漢字を読むことができなかったため、結局は身に付かず、漢字の勉強を止めてから半年もすると、ほぼ完全に忘れてしまった。
 それから10年ほどして、漢点字を勉強し、これは、点字なので、自分でも確認でき、ある程度は身に付いた。それ以降、墨字の文章を書くのには主に漢点字を使っている(読むのは仮名の点字)。
 
 
4 図や絵との出会い
 
●触覚の印象だけでは絵は描けない(平面と立体について)
 小さいころ、回りの子どもたちの真似をして、地面に棒で線をいろいろ描くと、その跡が触っても少し分かった。
 小学校1年のころ、妹たちと絵を描くことになって、私は触って形を知っているスコップや木を描いてみた。私の描いた木は、太い縦棒の途中からいくつも斜めに枝の線を描いたものだったが、それを見た妹が「それは木ではない」と言った。そして私の手を取って木を描かせたが、それはまず大きな円を描いてその中に細かくいろいろ線を描くようなもので、私の触って覚えている木とはまったく違うものだった。見える人たちがなぜそんな絵を描くのか、私なりに理解できるようになったのはようやく中学の終わりころになってからだった(枝の先端を結んで、物理的には存在しない全体のおおまかな輪郭を描いているのだ!)。
 小学校6年ころ、算数の教科書にバケツの点図が載っていた。それは、台形の上下に細長い楕円がくっついたようなもので、触った時の丸い印象とはまったく異なるものだった。その台形については、半日くらい考えて、バケツを縦に真っ二つに切ればその形になることに気付いたが、どうして楕円形になるのかが分かるまでには1年以上、たぶん2年くらいはかかった。光(平行光線)に対して、円の角度を変えていくと、面に写るその形が、円から次第に楕円に変わり、最後には一直線になることが、頭の中の操作で分かった。
 ふつうの絵を描くためには、頭の中で視覚ではどのように見えるかを想像することが必要。でもそれは、私のように視覚的に形を見たことがない者にはとても難しいことだ。
 
●触図は世界をひろげる
 私は、小学4年ころ初めて触地図を触った。概略図のようなものだったが、日本や世界の国々について、かなり具体的なイメージが持てるようになった。今でもその触地図のイメージが頭の中にかなりしっかり残っている。
 平面図形は触図に適している。地図も、拡大率をいろいろに調整すれば、触ってよく分かるし、立体物もできるだけ平面の形に変換して示せば触ってもある程度は理解できる。
 
 
5 美へのあこがれ
 
●アートに触れる
 中学のとき、1年間だけ非常勤の先生が担当した美術(教科名は技術家庭だったような気がします)の授業で、初めて美に触れたように思う。この授業の特徴は、美術以外の事も含め、授業時間中に生徒が何をしてもいい、ということだった。この先生は噂では日展の審査員もしたこともあると言う彫刻の専門家で、おそらく見えない人にははじめて出会ったようで、試行錯誤の何でもありの授業に私はどんどん吸い寄せられていった。(もちろん、そういうことに興味のない生徒は、自由に本を読んだりなどしていた。)先生の作った女の横顔の石膏像を触って、きれいにカールした髪の毛一本一本など、そのリアルな表現に感動したり、先生の描いた油絵を触って丁寧に説明してもらったりした(こちらのほうは、あまりよくは理解できなかった)。また、初めは石鹸で、次には木で彫刻をしたり、粘土を校外に取りに行って(実際はほとんど泥でしたが)、なんとか人の像を作ったりした。
 さらに、絵を描いてみようということになって、まず、紙に絵の具を適当に垂らして紙を二つ折りにして開いて、それが何に見えるか先生に言ってもらったりした。それでは物足りなくなって、先生に点で輪郭線を描いてもらって、その点線に沿って先生に言われた色を塗ったりして絵を描いてみた(手前に田んぼや道が広がり、遠くに少し雪を頂いた山が見えるような絵だった)。この時、初めて遠近法の説明を聞いて驚いた(同じ物が、遠くにある時と近くにある時とで大きさが異なるとは!)。また、ほぼ水平に広がっている田んぼの上に、垂直方向にあるはずの山をこれまた同じ水平な面に続けて描くのにも驚いた。
 盲学校卒業後、あるデパートで偶然仏像に触れる機会があって、本当にきれいだなあと思い、それ以後仏像にあこがれるようにもなった。
 
●自然の中の美しさ
 中学3年の終りころ、理科の先生が『数式を使わない物理学入門――アインシュタイン以後の自然探求』(猪木正文著、光文社、1963年)という本を、授業時間に読んでくれた。この本で、原子や宇宙、量子論や相対論にとても興味を持つようになった。これらの世界はいずれにしても直接には目には見えない世界で、私も頭の中で自由にイメージし想像し、なにかそこには美しさのようなのがあるように感じた。
 その後物理の勉強をしようと、教育テレビの大学講座の物理を聞いたり、数冊物理の本を買ったりなどそれなりに努力はしたが、まったく点字では勉強は続けられず、大学に行って勉強することも夢物語で、諦めるざるを得なかった。ただ、石をはじめ自然のはたらきによる産物にはその後も興味を持ち続け、今でもたまには地層を触りに行ったり、鉱物や化石にはよく触っている。
 
 
6 視覚と触覚の違い
 まず、見える・見えないに関わらず、触覚はすべての人に備わっている感覚であって、とくに見えない人のほうが敏感だなどとは言えない。見える人の場合には、とくに意識しなくても視覚の助けで触覚や手の器用さが発達することがある(例えば、慣れた人は、手元をそんなに見なくても線切りができるし、視力がかなり衰えても針穴に糸を通すこともできる)が、見えない人の場合は意識して訓練しないと手の動かし方などを身に付けることが難しい場合もある。見える人たちも触覚を意識し、実際にいろいろな物に触ってみると、視覚で得られる情報に加えて多様な情報が得られるはず。
 
●能動的と受動的
 触覚による観察では、自分から意識して触らない限りよくは分からない。見えていれば、偶然にちょっと見ただけでも大まかな形や色などは十分に分かると思うが、触覚だけでは、偶然手が何かに触れたくらいではその物が何であるかなどはほとんど分からない。注意をその物に向けて、手指を系統的に動かしてみなければならない。
 また、だれか他の人に自分の手を動かされて物にむりやり触らされても、ほとんど分からない。自分で考えながら感じながら、物といわばコミュニケーションするようにして、触っている。
 
●部分的と全体的
 指先で極小部分ずつを認知し、それを頭の中で順番に結び付けていって全体的な図をイメージする。
 (ちょうど、皆さんが直径1cmほどの筒を通して図を見た場合を想像してみてください。図全体を理解するには、その筒を左右上下に動かしながら、その像を頭の中で合成しなければならないはず。)
  触っている所しか分からない。そのため、見落としが多い。点字では、行頭が空いていて行末に数文字書かれているような場合。図では、メインの図部分から離れて右下などに小さく描かれている場合。
 
●触覚で分かることの多様さ
 視覚だけで直接分かるのは形や色くらいのようだが、触覚では、形だけでなく、物そのものが持っている様々な性質(表面の手触り、硬さ、重さ、暖かさ、中の詰まり具合など)も分かる。とくに、表面がある程度軟らかい物の場合は、触覚によって、表面を通してその内部の状態を知ることができる。(視覚でも、例えば物の硬軟などをよく推測しているようだが、それを確かめるには直接触らなければならない。)
 見える人たちも、実際に物に触れてみることによって、物の様々な性質を確かめることができるし、そういう手掛かりもふくめもう一度観察し直してみると、新たな発見があるかもしれない。
 とくに、内部の様子まで観察できることが触覚の特徴。
 
●多方向から触る
 視覚ではふつうはある決まった方向から見ていることが多いようだ。ということは、見えていない部分があるということ。触覚を使った観察では、物の内側や裏側など普通に見ただけでは見えないような部分もふくめ、可能ならばあらゆる方向からあらゆる部分を触ろうとする。そのため、触察によって、しばしば、視覚では気付かないようなことまで明らかになることがある。
 
 
7 触ることから始まる世界
 
●言葉も体験も大切
 見えない人たち、とくに初めから見えない人たちは、具体的な事物と明確な結び付きを持たない言葉の世界にとどまりがちと言われる。私も日常生活では最低限しか触っていないし、ごく日常的なものでもそんなにはっきりとはイメージできない物がいろいろある。
 できるだけ多くの物に触って体験できる場が必要だし、また意識して丁寧に触るようにしなければならない。それとともに、触った印象を頭の中で整理し記憶するためにも、触った物について言葉にできることも大切。
 
●直接的な触覚印象からイメージへ
・ヘレン・ケラーの触る世界
 ヘレン・ケラーの多くの知識・関心は、様々な触る体験にも基いている。ヘレンが最初サリバン先生から言葉を教えてもらう時は、一つ一つ両手で物に触りながら、その名前や使い方を覚えていった。
 ヘレン・ケラーは、13歳の時シカゴで開かれた万国博覧会を見学。長文の引用になるが、その時にどんなに多くの物をどのように体験したかを読み取ってほしい。とくに、引用文の最後の部分:「それまで御伽噺と玩具ばかりを面白がっていた幼い私が、万博で過ごした3週間の間に精神的に大きく成長し、現実世界の真実と重みを理解できるまでになったのである。」は、触ることを通して得られる体験が、盲聾の人たち、盲の人たちにどれだけ重要かを端的に示しているように思う。(引用は、ヘレン・ケラー著『奇跡の人 ヘレン ケラー 自伝』小倉慶郎訳、第15章より。一部訳文を変えている。私は原文を、 The Story of My Life で参照した。)
 
(以下引用)
 1893年の夏、サリバン先生と私は、アレクサンダー・グラハム・ベル博士とともにシカゴの万国博覧会へ行った。この、少女時代の無数の空想が美しい現実となった日々を思い返すと、純粋な喜びにひたることができる。毎日、想像の中で世界一周旅行をし、世界の最果ての地の驚くべき事物を見た――度肝を抜かれるような発明品、工業製品や職人芸、人間のありとあらゆる活動を、指先で感じ取ることができたのである。
 私は、見世物がひしめく、賑やかな大通り「ミッドウエイ・プレザンス」へ行くのが好きだった。まるで「アラビアン・ナイト」だ。珍しくて面白い物ばかり。ここには、本で読んだインドがあった。風変わりな市場が開かれ、ヒンズー教のシバ神や象神がいる。ピラミッドの国もあり、模型のカイロの町には、イスラム教寺院やラクダの行列があった。その向こうには、水の都ベニスのラグーン(潟湖)がある。夕方、会場と噴水がライトアップされるころになると、毎日そこで舟に乗った。この小舟からそれほど離れていない所には、バイキング船が浮かんでいて、それにも乗った。以前、ボストンで軍艦に乗ったこともあるが、このバイキング船では、むかしは船乗りが大活躍していたことを知り興味深かった――嵐も凪も勇敢に乗り越え、「おれたちは海の男だ!」という雄叫びに言い返してくる者がいると、だれかまわず追い駆けて行く。知恵と腕力だけで戦い、頼りにするのは自分だけ。今の船乗りのように、おろかな機械に任せっ切りということはなかった。「人間ほど面白いものはない」という言葉は、いつの時代も真実なのである。
 このバイキング船から少し離れた所に、コロンブスがアメリカ大陸発見の時に乗っていたサンタ・マリア号の巨大な模型があった。この船も探検してみた。船長がコロンブスの船室まで案内してくれ、砂時計の置いてある机を見せてくれた。私が一番関心を持ったのは、この砂時計である。行けども行けども、大陸が見つからなかったコロンブスは、砂粒が落ちるのをながめながら、うんざりしていたに違いない。その時、やけっぱちになった船員たちは彼の命を奪おうと企んでいたのだった……。
 シカゴ万博の総裁、ヒギンボサム氏は好意的で、私が展示物に触れることを許可してくれた。そこで、インカ帝国を侵略したピサロが、飽くなき欲望で財宝を奪ったように、私も、万博の宝物をむさぼるように手にしたのだった。「ホワイト・シティ」と呼ばれたシカゴの万博は、まるで手に触れられる万華鏡のようだった。すべての物に魅了された。中でもフランスのブロンズ像は特別だった。まるで生きているよう。天使をつかまえた芸術家が、地上の作品に仕立て上げたようだった。
 アフリカ大陸南端の、喜望峰の展示では、ダイヤモンドの採掘作業について多くのことを学んだ。可能な限り、動いている機械にも触ってみた。原石の重さを量り、カットし、研磨する工程をよく理解したかったからだ。私は、選鉱の中からダイヤの原石[洗鉱物の中からダイヤモンドの原石]を見つけたが、「それは、アメリカで見つかった唯一本物のダイヤモンドだよ」とからかわれたのだった。
 ベル博士は、どこへ行くにも私たちに付き添い、面白おかしく、興味の尽きない展示品の説明をしてくれた。電気館では、電話、自動演奏機、蓄音機などの発明品を見学した。ベル博士は、距離と時間を飛び越え、電線を通って声が伝わる電話の仕組や、ギリシア神話のプロメテウスのように、天から火を手に入れる方法について解説してくれた。人類館にも行ったが、そこでは、古代メキシコの遺跡から出土した粗末な石器が、私の注意をひいた。石器は、原始時代の唯一の記録であることが多い。私は指で触れながら、太古の人々が残したこの素朴な遺産は、王や賢者の記念碑が崩れ塵となっても消えることはないだろうと思った。エジプトのミイラにも興味がわいたが、さすがに手で触れる気はしなかった[エジプトのミイラもあったが、ミイラに触るのには後込みしてしまった]。この時、歴史上の遺物から、人類の進歩について学んだことは多い。その後、現在にいたるまでに得た知識の量を凌ぐほどの事を知ったのだった。
 こうして、大量の新しい言葉が私の語彙に加わった。そして、それまで御伽噺と玩具ばかりを面白がっていた幼い私が、万博で過ごした3週間の間に精神的に大きく成長し、現実世界の真実と重みを理解できるまでになったのである。
(引用終わり)
 
 ケラーは、3度の来日時にも、奈良の大仏をはじめ、塙保己一の胸像、渋谷のハチ公の像、宿泊したホテルでは尾長鶏に触るなど、各地でいろいろな物に触っている。
 また、1948年の来日時には、広島、さらには長崎を訪れて、如己堂で白血病で臥せっていた永井隆と邂逅しており、その時の様子を永井隆は次のように書いている。(『いとし子よ』の中の「あたたかい手」より)お互いに手を触れ合うことで、互いの気持ちと心が深く交流していることがよく分かる。
 
 「身体の不自由な、他人の手を借りねば動くことのできぬ二人の人間が、お互いに相手の身体をいたわり合い、呼び合いながら、相寄ろうとしていた。……私は敷居の際まで1メートルの距離をようやく這い出し、何とかして座ろうとするけれども、心臓が苦しくなったので、手だけ伸ばして待っていた。ケラーさんの手がトムソンさんの手に支えられ、空気の中をしきりに私の手を捜し求めながら近付いてきた。それは青い鳥のはばたきのように見えた。
 ――とうとう届いた。手を握り合った!あたたかい愛情が、電流回路を閉じた時のように、瞬間に私の母体へ流れ込んだ。
 “私の心は、すべて今あなたの上に注がれています”
 ケラーさんは、直訳すればこうなる言葉を、まず私に語った。それは言葉だけでなく、本当に、原子病の私の身の上を、一心になって同情しているのがよく感じられた。ただ、この一言を親しく私の耳に入れるために、この69歳のおばあさんは、不自由な身体をもいとわず、地球の向こう側のアメリカから、日本のこの長崎の原子荒野の如己堂まで運んで来られたのだった。――ああ、何という真実の愛であろうか!」
 
 なお、当時ヘレン・ケラーはアメリカ政府の特使のような役割だったため、公的な場では率直な発言はしにくい状況にあったが、私信(ネラ・ブラディ・ヘニー宛の手紙)では広島を訪れた時の感想を次のように書いている。(キム・E.ニールセン著『ヘレン・ケラーの急進的な生活 「奇跡の人」神話と社会主義運動』中野善達訳より)若いころからの平和主義の精神が貫かれていることが分かる。
 「かつては舗装されていた街をがたがたさせながら、私たちは車である墓地――一面灰だらけ――を訪れました。1945年8月6日午前8時30分ごろのこと、9万人の男性、女性、子供が瞬時に殺害され、15万人が損傷を負い、他の人々は彼らに降りかかった一面の惨事がはたして何であったのか、その瞬間には分からなかったのでした。……多数の死をもたらした閃光。その地獄の結果として、20万の方々がいまや亡くなり、原子力の熱で引き起こされた苦難に合い、他の負傷者は数え切れないほどなのです。ポリーは、福祉担当者の顔面の火傷の痕も見ました――なんともショッキングなながめでした。彼は私に自分の顔を触らせ、あとは黙ったままでした――苦しんでいる人々は、彼らの生涯にわたる損傷について何も語らないのです 。」
 「私は、真の勝利の輝きは広島に属するものであって、アメリカに属するものではない、という悔悟の気持ちを抱きながら広島を離れました。」
 
・私の母の例
 昨年末、母は急に肝膿瘍をはじめ全身の細菌性の感染症に罹り、視神経も炎症で侵され、わずか1日の間にまったく見えなくなってしまいました。80代半ばの本人にとっても、また回りの人たちにとっても、病状の急変に驚き慌てたようです。感染症のほうは次第に落ち着いてきましたが、目のほうは回復のしようがなく、看病を続けている妹からどのように対応したら良いのか相談がありました。急なことだったので私も困りましたが、とりあえず二つのことを言いました。一つは、本人の回りの様子、病院内がどんな風になっているかとか病院の窓からどんな風景が見えるとかを説明するように。もう一つは、先生でも看護師さんでも見舞い客でもだれでも、まずは手を握らせてほしいと。このうち、手を握らせるというアドバイスはとても良かったようです。母は相手の手を握ると、その人がどんな感じの人なのか、元気そうだとかをただちに察知するようで、ごく自然にその人に話しかけていました。
 手を握って相手の身体の調子とかを感じ取る力は私よりもかなりあるようです。長年農作業で手を使って仕事をしてきたので、手から様々なことを受け取る力が自然に備わってきたのでしょうか。手を握ることで、これほどまでに相手の様子を読み取ることができることに改めて感心しました。
 
・ザッキンの彫刻を触った時の感想
 もう10年ほど前、兵庫県立近代美術館に行って学芸員のEさんの案内で彫刻を触った時の感想です。私はふつう、作品のタイトルや解説を聞く前にまず触ってみます。(「美術の中のかたち」展を観る より)
 「それは、両手を高く空に突き上げ、顔を空に向けて何かを訴え叫ぶかのように口を大きく開き、鼻らしき物が直角に大きく上に突き出し、胴体の真中にえぐれたような穴があるといったようなものでした。私の口からはつい「何か爆撃されたような、衝撃を受けたような……」と言葉が出ました。それを聞いてEさんは「ああ、やはり分かるのだなあ」とちょっと感激っぽく言いました。Eさんによれば、その作品は「破壊された町」と言う題で、ロシア生れでフランスで活躍したザッキンという人が、第2次大戦中ドイツ軍に爆撃されたオランダのロッテルダムを表すための記念として創ったそうです。私のまったく知らなかった作者が彫刻に込めた意図と私が触角から得た想像力とが符合したのには、一つの出逢いを感じました。」
 
●触る文化の復権
 今日の社会では、実際に物に触るなどしなくても、主に視覚を使って、理解できる、あるいはそう思えるようにしている。現代社会、現代文明は、安全や衛生、快適で楽な生活、明るさを求めて、危険が伴うかも知れないような、触るなどの体感的な行為や暗闇をできるだけ避けようとしているように思う。しかし、生物としての人間は本来、実際に自分で生きていくためには、危険やリスクを自分で考え操作し現実を切り開くことが必要ではないか。
 
●触るミュージアムをもとめて
 次第に一般のミュージアムでも、触ることもふくめ体験型の展示や企画が増えている。それでも美術系では、まだまだ実際に見えない人たちが鑑賞できる場は極めて少ない。
 現在「触るミュージアム」設立を目指して「カグヤプロジェクト」が活動中。見えない人たちにも美術作品を鑑賞してもらうことを主な目的にしているが、さらに、美術系の展示を中心にして、触る文化の可能性を見える人たちもふくめて体感できるようにしたい。
 6月初めに日本点字図書館でプレ展示会を開催(瑪瑙のカメオ彫刻家アレイ・ドーマーさんの作品、高松塚古墳壁画を石創画で再現した江田挙寛さんの作品、世界の名画を浮出しや立体的に表現した彫刻家柳沢飛鳥さんの作品、砂絵の技法を応用した高橋りくさんのSunae等)。
 
●見えない人たちの表現方法と場
 見える人たちは、簡単に自分のイメージを絵などで表現できるが、見えない人たちも、ただ触ったり言葉による説明を聴くだけでなく、そこから出来てくるイメージ・自分のイメージを表現する様々な方法があれば良い。また、そのような作品を見える人たちにも広く体感してもらえる場があれば良い。
 
 
8 ボランティアへのお願い
 
●日本語の新たな側面の発見
 点訳も音訳も表音式に置き換えること。ふだんはとくに読み方が分からなくても意味がそれなりに分かることで満足しているだろうが、点訳・音訳を通して表音式の日本語の特徴・世界を知ってほしい。
 表音式だと例えば同音異義語が問題になるが、実際には前後の文脈で同音異義語の区別がつくことも意外と多い。また、点字=表音式で分かりやすい文章は、一般の人たちにも分かりやすい文章になっている。表音式のメリットも知ってほしい。
 
●触る文化、触る文字の文化
 点字はできるだけ墨点で読み、さらに実際に点字を触ってみることもしてほしい。点図も触ってほしい。見えない人たちに説明する時には、自分でも実際に触ってみて、触覚的な印象も確かめてほしい。見ただけの印象とは違うことをしばしば発見するはずです。
 
●言葉による説明
 本の中には、写真や図や表など、単純に点字や音声に置き換え羅れないものが多くふくまれている。それらをどのように見えない人たちに伝えるのか、とくに言葉(文字)でどのように説明すれば簡潔・的確に伝えられるのか。そのためには関連知識も必要。(点字書の場合には点図にできることもあるが、その点図がどれだけ理解してもらえるかは、その図の解説文の善し悪しにしばしば大きく影響される。)
 また、言葉による説明は、見えない人たちのガイドなど、見えない人たちとの直接のふれあいにもとても大切。
 
 
◆略歴
 1951年、青森県十和田市に生まれる。
 1958年、青森県立八戸盲学校入学。
 1970年、青森県立盲学校高等部理療科本科卒業、日本ライトハウス職業生活訓練センター入所
 1973年、関西学院大学社会学部入学。
 1981年より、日本ライトハウス点字出版所で校正の仕事を始める。(1983年『新コンサイス英和辞典』全100巻、1996年『デイリー・コンサイス独和辞典』全56巻、盲学校用の点字教科書など)
 2001年より、日本ライトハウス情報文化センター点字製作係嘱託職員。
 2003〜06年、「触る研究会・触文化研究会」主宰。
 2008年10月より、石創画を始める。
 これまでに、近畿地方をはじめ全国の100以上のミュージアムを訪問。その訪問記や「見えない人たちにも利用しやすい全国ミュージアムリスト」等をインターネットで公開。
 URL: http://www5c.biglobe.ne.jp/obara/
 
(2012年9月11日)