視覚障害者概論―文化の視点から―

上に戻る


 昨年8月25日〜8月27日、日盲社協主催の「平成16年度点字指導員講習会、第20回点字指導員資格認定講習会」が行われました。
 私は、その講義1「視覚障害者概論」を担当させていただきました。この文章は、その時のレジュメを基に、当日話した内容に、話し切れなかった事柄を大幅に加筆したものです。講義時間は1時間半で、準備した内容の3分の1くらいは話す時間がありませんでした。

目次
1 はじめに
2 私の生活史(誌)の中での「見えないこと」のとらえ方の変化
3 見えない人たちの文化要素
4 見えない人たちの文化と職業


1 はじめに

1.1 私の立場 ← いろいろな視覚障害の中で

 私は、視覚経験のほとんどない全盲の視覚障害者です。
 視覚障害と言っても、多様です。機能別に、視力、視野、色覚に大別してみます。これら視力、視野、色覚それぞれについても、様々な程度・種類の障害があるわけです。

●視力
 全盲、光覚弁、手動弁、手数弁、0.01、……、1.0
 (手数弁50cm=視力0.01。視力1.0では、5mの距離から1.5mmの切れ目を識別できる。これは私にとっては驚異。)

●視野
 周辺視野欠損(網膜色素変性症など)、中心部視野欠損(黄斑部変性症など、中心部が見えず色覚もない)、その他多様な視野欠損(視神経交差部などの圧迫による半盲、視野欠損部があちこちに散在することもある)

●色覚
 赤緑色盲(第1色盲、第2色盲): 日本人などの黄色人種の男性 5%、白人男性 8〜9%、黒人男性 2% (女性の頻度は男性の頻度のほぼ2乗。日本人で約0.02%)
 青黄色盲(第3色盲): 0.001%
 全色盲: 0.003%
 以上は先天的な色盲ですが、加齢や白内障などの病気によっても色覚は変化します(晩年に白内障になった画家モネの場合)。

※法的には、視覚障害は、視力と視野のみで決められている(=身体障害者手帳の交付対象者)。
 視力: 一眼の視力が0.02以下、他眼の視力が0.6以下のもの、または、両眼の視力の和が0.2以下のもの
 視野: 両眼による視野の2分の1以上が欠けているもの

※視力が良くても視野が狭い(10度以内)と、読み書きはできても、歩行など日常行動が難しくなる。逆に、視力が悪くても視野が保たれていれば、読み書きは不自由だが、日常行動はあまり問題ない。

※色盲は、これまでの日常生活のなかでは当人自身色盲であることに気付かないことがあるほどほとんど支障にはなっていなかった。18世紀末、イギリスの物理学者ドルトンが初めて色盲について詳しく論じている。
 色盲を医師などの仕事から排除するようになったきっかけは、1916年石原忍(東大眼科学)が精度の高い「石原式色覚検査表」を考案し、簡単に色盲の人たちを区別できるようになってからのこと(ちなみに、医師法そのものには、盲などによる制限はあったが、色覚については何の条件もなかった)。
 今日、きめ細かな対応・対策の必要性から多数の「○○障害」が新たに分類され判定できるようになりつつあるが、このような流れがまた新たな差別につながらないように注意しなければならない。

 さらに、自分の障害をどのように受け止め、またそれにどのように対応していくかといったことは、現在の障害の状態ばかりでなく、
@障害を何時ごろ受けたか(先天性か後天性か、後天の場合でも、どの教育段階でか、仕事を持ってからか、高齢になってからか)
A障害を受ける以前の記憶(視覚経験の記憶)をどの程度持っているか
によっても、大きく異なります。
 私は、失明時期と、どのような視覚経験の記憶を持ち続けているかをとくに重視しています。

※ 3歳以前の失明だと視覚経験の記憶はまったくあるいはほとんど無くなる。 5歳以前の失明でも、視覚経験の記憶はごくわずかだと言われている。(しかし、視覚経験の記憶をどの程度保持し続けているかは、実際には個々人によってかなり違っているようだ。)
 「先天盲」という場合、幼児期までの失明者もふくめている場合が多い。佐藤泰正は、5歳までに全盲になった者を「早期全盲」と呼んでいる。

 私の場合について、記憶を頼りに言います。
 (記憶のない時期、1、2歳ころ、どの程度見えたかはよく分からない。先天性緑内障と牛眼で、親は生後3ヶ月で私の目の異常に気付く。1歳ころの麻疹でもかなり視力が低下したようだ。)
視力: 明暗の区別、目の前になにか物がありそうだというのが分かる感じ(=光覚、眼前手動弁。物のはっきりした形は分からなかった)
※3歳のとき、仙台にある東北大学付属病院に入院した。そのとき父が夜に病室の窓から花火を見せようとしたがまったく見えなかった。昼間、道路上の自動車をごくぼんやりとだが見たような記憶がある(自動車はそのとき初めて知った。小さな自動車だったように思う)。

視野: とても狭い。
※小学1、2年のころだったと思うが、昼はもちろん、夜でも電燈がついているかは分からない。でも暗室で小さな電球をつけると、そのままではもちろん分からないが、顔をごくゆっくり左から右に動かしていくと、ある1点でだけ電球の光を目に感じることができた。何時ごろ光覚がまったく無くなったかは分からない。私の場合、失明過程はごくゆっくりした自然な過程だった。

色: 赤・青などの個別の色は分からなかったが、なんとなく明るい色と暗い色の違い程度は分かったような気がする(たぶんモノクロの世界だった)。
※5、6歳ころ(盲学校に入る前)、妹や姉と少しクレヨンで絵のようなのを描くまねごとをしたことがある。質の悪いクレヨンだと塗った跡を触ってかなり知ることができた。色を聞きながら少しは塗り分けるなどしたように思う。

 「視覚障害者概論」と言うからには、いろいろな視覚障害者の状態についても網羅して話さなければならないのでしょうが、それは私にはできません。視覚経験の記憶のほとんどない者の立場で話すことになります。
※最近はとくに中高年になってから失明する人が多く、また医学の進歩で幼児期までに完全失明する者は少なくなり、私のようなほとんど視覚経験のない視覚障害者はかなり少数派になってきた。その意味でも、視覚経験のまったくあるいはほとんどない者の立場からの主張は必要だと思っている。


1.2 感覚障害と文化

 視覚や聴覚など、感覚器官に重大な障害があった場合、残存感覚によって把えられる世界は、感覚系に障害のない人たちが把えている世界とは多かれ少なかれ異なっているはずです。普通情報量の8〜9割は視覚に依るとされているので、視覚障害の場合は特にその差が大きいと言えます。
 このような場合、一方では、当然障害された感覚器からの情報が制限あるいはまったく無くなってしまいます。しかし他方では、残存感覚をうまく利用し、ときには一般の人たちがしていないあるいは気付いていないような独自の使い方をしているかもしれません。
 このように感覚系の障害によって世界の把え方が異なるならば、その世界の中で自分をどのように位置付けるか、さらにはどのような仕方で活動し生活していくのかも自ずと異なってくるはずです。広く、ある集団に特有の生活の仕方(その基礎になっている考え方もふくめて)を「文化」と定義するならば、「文化」が違っていると言えます。
 私は、視覚障害などの障害は、特有の〈文化〉と呼べるようなものを形成させる方向にはたらくことが大いにあり得ると考えています。

※この点で、ASL(American Sign Language)やJSL(Japanese Sign Language)のような聾者独自の手話を基礎とする「ろう文化」の主張は興味深い。

目次に戻る


2 私の生活史(誌)の中での「見えないこと」のとらえ方の変化

 この過程は、自分とはなにか、他者との関係で自分をどのように位置付ければいいのか、視覚障害もふくめ自分のアイデンティティ探しでもあると言える。

●背景
 私は、1951年、青森県十和田市の、市の中心から10数kmの谷間の小集落(当時は戸数10軒、現在は5軒)で生まれました。米ばかりでなく多種の作物がつくられ、かなり自給的な生活でした。耕作には馬が使われ、私たちの住んでいる家に直結して馬屋があり、馬はとても大切にされていました。このような生活の仕方はたぶん江戸・明治期から受け継がれてきたものの延長線上にあると言えるでしょう。そして、見えない人たちについてのイメージ・とらえ方についても、その地域での言い伝えや見聞により、当時20代だった私の両親も漠然としたものでしょうが「ボサマ」や「イタコ」のイメージを共有していたのだと思います。

@ごく当たり前のこと
 触覚だけでなく身体感覚をフルに利用して、自分の家、自分の家を中心として近くの家までの道などを身体で覚えていた。自分が見えないということは(記憶のある)当初から知ってはいたが、見えなくてとくに強く不自由だとか感じることはあまりなかった(もちろんぶつかったり、ときには近所の子どもたちから「メッコ」と馬鹿にされることはあったが)。

※ボディーイメージの重要性
 ボディーイメージの基本は自分の身体だが、身体に密着した物や空間にまで拡張されていく。自分の身体の姿勢や身体各部の位置や動きを認知しコントロールできるようになるだけでなく、身に着けている衣服や靴、手に持っている物なども身体の一部であるかのように使いこなすようになる。さらに、身体に密着したごく狭い空間も、排他的な自分の身体の領域の一部として感じられることもある。

 しかし、回りの人たちにとってはかわいそうな、特別な存在(ボサマ)であった。そういう風に見られていることにはなにか違和感のようなのをずうっと持っていた。
 村のいろいろな集まりなど、公的な場には出してもらえなかった。

エピソード: 青森地方では、感情(とくに好・愛の感情)の向かう物になら何にでも「…っこ」を付ける(雪っこなど)。私の名前は二三夫だが、近所の人たちは私をよく「ふみっこ」と呼んだ(母親もしばしばそう呼んでいた)。そして、初めて出来た野菜や果物を「ふみっこに食べさせてくれ」と言ってよく持って来てくれた(他の子どもにもそういうことはあるが、私の場合は特別多かったように思う)。かわいそうだけではなく、なにか宗教的な意味合いさえ感じ取れるかもしれない。

※「ボサマ」は、2つの使われ方をする。広い意味では盲人男性(按摩をしている人たちもそう呼ばれていた)、狭い意味では門付けしながら食物やお金をもらい歩く盲人男性。
 門付けしながら歩き回る盲人は、実際は「ほいと」(=乞食)と同じような境遇であり、「ボサマ」は即「ほいと」を連想させる。
 「ボサマ」は、「坊様」の転訛。見えない男性は座頭あるいは盲僧として僧の姿をしていたので「坊様」と呼ばれたのだろう。
 「ほいと」は、『大辞林』によれば、「陪堂」(ほいとう。禅宗で、僧堂以外の場所でもてなしを受けること)の転、あるいは「祝人(ほぎひと。ことほぐ人)の転とのこと。金品を受けまた授ける行為も、宗教的な文脈で解されていただろうことに注目したい。

※横田全治によれば、ボサマの活躍はすでに室町時代から見られたようで、次のように述べている(『世界盲人百科事典』1972年、日本ライトハウス、p.29)。
 「そのころ文化に遠かった東北地方などでは、座頭は「ボサマ」として親しまれ、年々季節を決めて村々を巡った。そこで「座頭部屋」まで用意している分限者もあって、そこにボサマがつえをおき、琵琶箱をおろすと、多くの人びとが集まり、琵琶に耳を傾けたり、珍しい都や異郷のたよりを聞いたり、また、余興としておもしろおかしく語るボサマの「落し話」に夜のふけるのを忘れるのであった。こうして現在も残っているいろいろな昔話や民間伝承の原型が、かれらによって形作られていったという。後期になって盛んに行なわれた浄瑠璃の原型「奥浄瑠璃」も、また、この時代のボサマたちが残したものといわれる。……かれらは当時の庶民大衆のなかに溶けこんで、なくてはならない芸人としての地位を占めていたのである。」

●回りの人たちの障害者像・障害者観と、障害者の生き方
 回りの人たちの見方で、自分がなにものかを意識する。
 私の場合、とくに両親の言葉・態度などから、自分が他の兄弟たちとは違った特別な存在、それも望まれていない存在であることを感じ、回りの評価とは別に、自信が持てず、否定的な感情が強く、自分の存在にたいする不安がつよかったように思う。

エピソード1: 父親に「ボサマ」と呼ばれる
 6歳で八戸の盲学校に入り、夏休みなど長期の休みにだけ家に帰るようになった。夏休み、1人で家で留守番をしていると、父が数回声色を使って「ボサマいるかあ」と声をかけたことがある。最初は、何を言っているか、誰なのかも分からず、戸口に出てみて父であることに気付いた。その父に「ボサマ」と言われたことに何とも寂しい、どうしようもない悲しさのようなのを覚えた。
 父はなぜこんなことをしたのだろうか。どんなことをしても見えるようにはならず、盲学校=見えない人たちの世界に入らなければならない自分の子どもを、他の兄弟たちとは違った形で、ボサマとして、受け入れなければならないことに苦悩し、またもしかすると私にもそのこと(兄弟とは違ってボサマとして生きて行かねばならないこと)を伝えたかったのかもしれない。
 また父は私が小学校2、3年から中学終わりころまで、私を直接手引するのをとても避けていた。父といっしょに歩くときは、やむなく父の足音や気配を頼りに歩いていた。父が見えない私を受け入れるのにはとても長い時間がかかった。

エピソード2: 母親との対話
 母は、よく私がいつまで生きられるのか、自分が死んだ後どうするのかというようなことを言い、さらに、できることなら自分が死ぬまでに私の命も尽きてほしいようなことをほのめかしていた。私は子どもながらなにか恐怖のようなのを感じていた。
 3、4歳のころ、母が「なんぼ(幾つ)まで生きるのか」と私にきいたことがある。それにたいし私は即座に「百までも二百までも生きる」とこたえた。母は「そら恐ろしい子ども」だと思ったという。
 また、母はよく「罪つくりだ、罪つくりだ」と言っていた。初めはよく意味は分からなかったが、私は次第に自分自身が罪な存在、悪い存在なのではと思うようになった。(母親としてはもちろん自分が見えない子を産んだことについて言っていたのだろうが)。
 私が11歳(数えでは12歳)のとき、両親が次のような話をしてくれた。私が5歳のとき、私の将来のことを心配して占いに見てもらったところ、この子は12歳までしか生きられないと言ったとのこと。両親は私がもう数えで12歳になったので話したのだろうが、私は深い悲しみと不安を覚え、その気持ちは12歳の誕生日を過ぎるまで半年くらい続いた。両親にすればそのようになるかもしれないという一種期待のような気持ちがすこしはあっただろうし、私自身自分を否定的にとらえていただけに、本当にそうなるのではという予感めいたものを持ち続けてしまった。
 私は(観念的ではあったが)生き死ににはとても敏感だったように思う。

A自立を考える
 中学になると、それでもなんとか生きるしかない、私なりに、見えない人としてでも生きるしかないと思うようになった。

・1人歩き
 中学2年のとき、盲学校の寄宿舎から家まで初めて1人で帰った。長期の休みで帰省するときはいつも家に連絡して迎えに来てもらっていたが、まったく連絡せず、八戸の盲学校から十和田市の熊の沢の家まで、バスを2回乗り換え半日ほどかけてようやく帰った。ところが、バスが熊の沢に近付き乗客も少なくなったころ、偶然にもそのバスに乗り合せていた母が私に気付き、驚き(もちろん私も驚いた)、そして怒った――「近所の人に何と言えばいいのか、恥しいことだ」と。しかしその後も、2、3回連絡せずに1人で帰ったら、母は何にも言わなくなった。
 うろうろしながらでも、とにかく人に聞き回ってでも、その気になればなんとか家まで帰れる、なんとか目的の所までたどり着けるのだと、とても自信が持てた。今から思えば自立の1歩だったように思う。

・三療
 そのころには、やはり自分は按摩をするのだと思い定め、中学3年のときには上級生から按摩の簡単な手技を教わり、練習もした。本当にやる気が持てて、それまでは居心地が悪く馴染めなかった盲学校で初めて回りの人たちとの壁のようなものが無くなってきたような感じがした。
 高校はいわば自動的に理療科に入り、高校1年のときは按摩の実習も解剖や生理などの理論も必死に勉強した。また鍼も、ちょっと興味本位だったが、学校で習う前から練習していた。
 ただ、理療科の先生方が私のいろいろな質問に教科書に書いている以上のことはほとんど答えられなかったのは残念だった。かなり勉強への意欲を削がれたように思う。また、鍼の効果についてはよく分かっていたが、自分自身が鍼刺激にとても敏感なこと、実際に人に刺鍼するには私は慎重さにかけるのではと実際の練習を通じて気付き、私には鍼は向いていないのではと思いはじめた。
 それでも高校2年の夏休みには親の紹介してくれた按摩の治療院で1週間余実習した。

・ライトハウス
 高校2年くらいからは、按摩以外で、盲学校を出て生きられないのかと考えはじめた。物理が好きだったので物理の勉強は続けられないものかと、日本点字図書館などに手紙を出したり、物理や数学の本を読んでくれるグループを探してはみたが、専門的な勉強は続けられそうもないし大学へも行けそうもないことが分かった。高3のとき、それでもとにかく盲学校からは出なければと、当時機械工などの訓練を始めていた大阪の日本ライトハウス職業生活訓練センターと、漠然とだがプログラマーはできるのかもしれないと思って東京の日本電子学院とか言う所に申し込んだ。後者のほうはもちろん断られ、ライトハウスのほうに行くことができた。
 とにかく盲学校から出られたという開放感はあったし、また当時のライトハウスには職員と訓練生がともに新たな道を開くというような精神があった。

B有能な社会人? → 障害に囚われない生き方とは?
 当時のライトハウスの訓練生には、私と同じような全国各地の盲学校から来た先天盲もいたが、半数以上は中途失明の方々だった。私がとくに大きな影響を受けたのは、彼ら人生経験豊かな中途失明者からであった。
 彼らからすれば私は見えないことのいわばプロであり〈点字の神さま」とか言われもしたが、私からすればそんなことはまったく取るに足りないことで、彼らとのギャップ、私にはどうしても克服できないような壁のようなのを感じた。それは、どうしようもない深い悲しみとなって長く心に滞留した。
 当時のライトハウスのモットーの1つに「有能なる社会人」という言葉があった。この言葉は、私にはとても馴染めない、居心地の悪いものだった。中途失明者なら、訓練を通じて見えないことから生じる障害を補完するような技術・手段を修得すれば、見える時に身につけていた教育、仕事上のキャリア、多様な経験、人間関係などを手がかりに、いわゆる〈有能なる社会人〉として復帰することは十分可能であろうが、そのような前提の無い私には、1人の人間として一般社会の中で対等に生活出来るとはとうてい思えなかった。
 機械工などのある特定の決められた仕事は練習すれば出来るようになるだろうが、もしそれだけで就職すれば、まったく発展もなくすぐに行き詰まるような気がした。人間として生きて行くためのなにか基盤のようなのが得られるような時間と場が欲しい、その1つとして、回りからの勧めもあり、大学進学を考えた。
 大学では、見えないということには関係なくとにかく自分の興味に合せて勉強したかった。物理が好きだったが、当時はどの学部であれ入学試験を点字で受けるだけでも問題にされる時代で、理工系への進学はほとんど現実味がなかった。やむなく経済学部や社会学部を何回か受験し、1973年ある私立の社会学部に入学した。
 語学の授業だけはテキストを点訳してもらったり、対面で読んでもらって自分で点訳したりしてテキストを用意したが、その他の授業のテキストはほとんど用意せずできるだけ授業に出てノートを取って間に合わせた。空き時間は、生態学や比較行動学や哲学など、自分の興味の赴くままにとにかく本を読んでもらった。前後期の試験やレポートの多くは平仮名のタイプライター(一部英文タイプ)を利用した。
 当時はまだ60年代末の激しい学生運動の名残があり、障害者解放を掲げる学生グループもあった。また、青い芝の会の活動も盛んだった。そういう人たちとの交流もあった(全障連の結成大会に誘われなどもした)が、私の現実と彼らの主張・活動にはあまりにも大きな距離があり、結局私は障害者問題を切り捨てて学業に専心することにした。
 3年生くらいまでは学内の点訳サークルのメンバーや個人的な知り合いの協力で大した支障もなく勉強できたが、専門になるほど、資料を探し読むことのできる有能なボランティアが極端に限られてしまった。(私の専攻は宗教社会学で、ケーススタディとしてはインドの社会と宗教をテーマとした。)大学院では同僚の院生も協力してくれたが、彼らの負担を考えるとこちらから何でもお願いできる状況ではまったくなかった。さらに非常勤講師のような仕事をしながら研究を続けることは、時間的にも体力的にも長くは続けられそうになかった。
 結局、博士課程中退というかたちで、その後主に点字の編集・校正の仕事をしてきた。振り返って考えてみると、見えないという障害も含め自分の置かれている環境ともっとうまく折り合いをつけながら、あるいはさらに利用しながら、研究活動を続けるべきだったと思う。自分の存在の一面である障害を無視するような生き方には当然無理があると言える。

C見えない人たちの文化(=生活の仕方)をはっきりさせる
 点字関係の仕事を生業としながら、他方で私も他の見えない人たち同様漢字の使い方を覚えパソコンを使って普通の文字(墨字)文書を書くようになった。さらに、点字を知らないあるいは自由に使いこなすことのできない見えない人の場合でも、音声情報だけで墨字文書を読み書きできるようにもなった。見える人たちの文字文化を学びそれを通じてその文化に参加していくことの意義を十分認めつつ、自分のしている点字の仕事が、本当に見えない人たちにどれだけ必要なものなのか、またどんな意義があるのか考えさせられることになった。
 また、いわゆる視覚障害者のリハビリテーションや教育課程の中では、十分な理由が分からないまま、ときには見える人たちのやり方が押しつけられるようなこともあった。
 ノーマライゼーションやバリアフリーの流れのなか、見えない人たちが見える人たちの社会に参加しその文化を享受しやすくなったことは確かである。その意義は高く評価できるが、その流れにはやはりメインの社会・文化への統合・同化の方向性が強くはたらいていると言える。このような方向性では、見えない人たち・障害者の心の問題、とくにアイデンティティに関わるような問題はなおざりにされがちのように思う。
 私は数年来、見えない人たちが歴史の中で果たしてきた独自の文化的役割に注目し、また、現代の視覚中心の文明社会において、見えない人たちの生活の仕方(認知と行為のセット)を明確化することを通して、私たちが貢献し得る文化的活動について模索している。

目次に戻る


3 見えない人たちの文化要素

3.1 点字
 点字は、見えない人にとって、手を使って読みと書きの両方を自由に行うことのできる文字。

・仮名文字の世界
 先天盲で初めから点字だけで日本語を学ぶ人と、中途失明で点字を使うようになった人との違い(私はもちろん前者)。
 漢字・平仮名・片仮名の区別があることはほとんど意識しなかった(漢字を意識しはじめたのは高校になってから)。
 それでも、知らない言葉についても、前後の文脈からなんとなく意味を判断し、何度かそれを繰り返すことでその言葉の意味を自分なりに確定していく(国語辞典などは使ったことはなかった)。
 日常ではそんなに不自由ではない。
 さらに点字の利点は、どんな難しい文章(仏教書や古典など)でも、とりあえずは声に出して読むことができること。普通の文字だとこうはいかない。

・思考の道具
 文章を熟読しつつ深く考え、また自分の考えをきっちりまとめたり整理するには、点字のほうが良い。点字は私たちにとって「本当の文字」と言える。
 点字で文章を書く時のほうが、全体として分かりやすく、短めの文で構造も簡単な文章を書く。

●逐次的な情報(ストリング)
 点字は基本的には、音声情報と同様、継時的に順番に1本の紐をたどるように読み取りが行われるストリング情報。

●文脈による推測読み、両手を使う、とくに両手同時読み
 ただ1文字ずつ順番に読み取るだけでなく、文脈から、すでに指の下を通過した文字の読み間違いを修正したり、これから指に触れる文字を推測しつつ読むこともできる。また、両手を効果的に使い頭の中でイメージ化することで、線状の情報から面状の情報へとある程度拡張できる(表やグラフや図の読み取り)。さらに、右・左手でそれぞれ違った場所の点字を読むことで、高速の連続読みやスピーディな検索が可能になる。

3.2 1人歩き
●視覚以外の様々な感覚を利用した環境認知
 足による路面の様子、傾き。杖を通しての触覚・音の情報。顔などによる空気の流れや陽射し。平衡感覚

●言葉によるマップ
 2004年1月、視覚障害者の歩行の自由と安全を考えるブルックの会が、「言葉のマップ―JR大阪駅中央口」を発行
 2004年6月、NPO「ことばの道案内」が、インターネットや携帯電話を活用して、最寄り駅から福祉施設や公共施設・会社などまでの道順を言葉で説明する視覚障害者向けの道案内を開始
 また、名古屋市では全盲の山田弘さんが、名古屋市営地下鉄の100くらいある全駅の「音声ガイドマップ」を作りつつある。

※最近は、GPSによる位置情報、町中に多数配置したICタグ、携帯電話を使ったテレサポートなどを利用して、見えない人たちを誘導・案内するシステムの実用化が研究されているが、これも言葉による説明という点では共通している。

3.3 触察
●視覚と触覚の違い
 遠覚的 <=> 直接的
 全体的 <=> 部分的
 空間特性 <=> 時間特性

●触って分かることの多様さ
 以下に、触覚を利用して知ることのできる属性を示す。
 視覚でも直接はっきり分かるものには◎、視覚では直接分からないものには×、視覚では分かり難いものには△を付した。触って分かることの多さに驚かれるのではないだろうか。
物の形 ◎
大小(体積) ◎
温度 △
堅い・軟らかい ×
重さ ×
凸凹・つるつる ◎
粗さ △
乾いているか湿っているか ×
粘りけ ×
液体の抵抗感 ×
圧力 ×
弾力 ×
内部の様子 ×
 ※例えば、タオルの下の百円玉などは、視覚では分からなくても、だれでも触ってすぐ確認することができる。触って内部の様子を知ることができるということは、按摩や鍼の基礎になっている。

●視覚による触覚の推測
 上のリストで×付きの属性についても、ふつうは、視覚でその物が何であるかを具体的に特定することにより、その物の持っている性質からその属性を関節的に推測している。(もちろん、実際に触ってみると、推測とは違うこともよくある。)

●形状認知
 部分部分の触覚情報の積み重ねで全体を把える。(頭の中でのイメージ化)

●言葉による説明とイメージ化(とくに直接触われない物について)
 美術鑑賞では、名古屋ではYWCAの美術ガイド・ボランティア・グループ、東京では「MAR「(Museum Approach & Releasing)、京都では「ミュージアム・アクセス・ビュー」が活動している。

※直接触われる物についても、言葉による説明はとても大切(ただ1人で触っただけでは、気が付かないこと、理解不可能なことが多い)。適切な言葉による説明と誘導により、個々別々になりがちな触覚印象のそれぞれに確かな意味が与えられ、互いに関連付けられ、全体像のイメージがつくられる。

※触る研究会: 私は、2003年4月より、触って知り触って楽しむための方法を検討し、またそのための環境を整えることを目的に、「触る研究会・触文化研究会」の活動を始めている。

目次に戻る


4 見えない人たちの文化と職業

4.1 伝統的な職業
 主に日本の場合を考える。
 大別して、宗教・芸能的職能と、三療がある。
 いずれも「見えない世界を見る」という点で共通している。(宗教・芸能は心の中、三療は身体の中)

●宗教・芸能的職能
 以下、主に盲人が担い手となってきた宗教・芸能的職能について、『世界大百科事典』(平凡社)より引用する。 (宗教と芸能は未分化な場合が多い)

・盲僧
 おもに地神経(ジシンキヨウ)を読誦し、竃祓(カマドバライ)をして歩く琵琶法師。《平家物語》を語る琵琶法師が〈当道(トウドウ)〉と称し、久我(コガ)家の支配下に自治組織を確立していたのに対し、盲僧は仏説座頭(ザトウ)とも称して中国西部や九州地方に活躍、比叡山正覚院の支配を受けた。外来楽器の琵琶を奏する盲僧は、すでに奈良時代には存在したと思われるが、中世初頭に《平家物語》を語る平曲を表芸とする一団が活躍して地神経や荒神経を読んで地神や竃神(カマドガミ)をまつる盲僧から分離した。筑前琵琶の源流をなす筑前盲僧は、唐から直接日本に伝来した直系を称し、薩摩琵琶は鎌倉時代初期に島津氏に従って薩摩に下った盲僧の系譜を伝える。かつて地鎮祭(ジチンサイ)や荒神祓、土用経(ドヨウキヨウ)にまわった盲僧の姿は、九州一帯や長門、石見、大和などでも見られたが、現在では国東(クニサキ)半島や北九州市、対馬の一部に残るにすぎない。笹琵琶と呼ばれる小型の細目の琵琶で経文を唱えるほか、〈くずれ〉と称する滑稽(コツケイ)譚や、人の興味をひく合戦物語、流行歌(ハヤリウタ)なども演じた。 (山路 興造)

・琵琶法師
 琵琶を伴奏にして叙事詩を語った盲目の法師形の芸能者。7世紀末ころに中国より伝来した琵琶は、管絃の合奏に用いられる一方、盲僧と結んで経文や語り物の伴奏楽器とされた。《今昔物語集》には琵琶にすぐれた宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ゾウシキ)蝉丸(セミマル)が、盲目となって逢坂山に住んだが、そのもとに源博雅(ミナモトノヒロマサ)が3年間通って秘曲を伝授される話を載せる。蝉丸は琵琶法師の祖とされ、醍醐帝第4の皇子という伝承を生むが、一方彼らの自治組織ともいうべき〈当道(トウドウ)〉では、仁明天皇第四皇子人康(サネヤス)親王を祖神とし、天夜(アマヨ)尊としてまつる。散逸した《小右記》には寛和元年(985)7月18日条に、琵琶法師を召して才芸を尽くさしめたことが記されていたといい(《花鳥余情》),《新猿楽記》にも〈琵琶法師之物語〉とあるから、平安時代に叙事詩を語って活躍したことは確かである。鎌倉時代に軍記物語が生まれると彼らは《平家物語》を表芸として語り(平曲),その内容をより豊かにした。《徒然草》には生仏(シヨウブツ)を平家語りの祖と記すが、のちに名人の城一の弟子筑紫如一、八坂城玄が2流をたて、如一は一方(イチカタ)流を、城玄は八坂流を称して芸を競った。〈当道〉では,2月に京都四条河原で石塔会(シヤクトウエ),6月に納涼会を催して祖神をまつり、その出席の席次によって勾当(コウトウ)、検校(ケンギヨウ)と位が進む。中世後期の公家の日記には、弟子の小法師を連れて諸家を訪れる彼らの姿がしばしば登場する。 (山路 興造)

・当道
 日本の歴史的な社会組織。本来は学芸・技芸において、専門とするものについて、みずからいう場合の語であったが、中世以降、狭義には盲人組織をいった。
 盲人の技芸者は、盲僧として宗教組織に編入されていたが、その中から《平家物語》などの合戦譚を琵琶伴奏で語る僧が出現した。その芸能が〈平曲〉としてとくに武家社会に享受され、室町幕府の庇護を受けるに及んで、平曲を語る芸能僧たちは宗教組織から離脱して自治的な職能集団を結成、宗教組織にとどまっていた盲僧と区別して、みずからを当道と呼称した。覚一(カクイチ)検校(1300?-71)の時代に至って、組織の体系化が行われ、当道に属する盲人を、検校、勾当(コウトウ)、座頭などの官位に分かち、全体を職(シヨク)または職検校が統括し、その居所である京都の職屋敷がその統括事務たる座務を行う場所となった。さらに、仁明天皇の皇子で盲人の人康(サネヤス)親王を祖と仰ぐなどの権威づけを行い、治外法権的性格を持つに至った。それとともに内部に派別も生じ、その名による一方(イチカタ)と城方(ジヨウカタ)の別以外に、妙観、妙聞(門),師堂(志道),源照(玄正),戸島、大山などのいわゆる当道6派の別も生じた。室町末期には、その座務が奈良と大津坂本に分かれて行われることもあり、また、天文(1532-55)ころには、〈本所〉ないし〈管領〉と称する後援者の支配権をめぐって、本座と新座の抗争も起こったが、両者の和解後は久我(コガ)家が名目的本所となった。
 江戸時代には全国的に仕置屋敷が設けられ、年寄、座元、組頭などの支配組織も生じた。江戸の仕置屋敷は惣録(ソウロク)屋敷といわれ、その統括者を惣録検校ないし惣検校と称し、一時は職屋敷の支配から独立することもあった。江戸幕府も保護政策をとり、冠婚葬祭に際して徴収した富銀(トミギン)を当道盲人に与えた。さらに盲人の官位の昇進に莫大な官金を徴し、これをそれぞれ盲人を扶持していた大名家などが負担して収めたので、職屋敷およびその分配にあずかった取立検校らは、莫大な収入を得て、高利貸を営む者まで生じた。江戸時代には、平曲のみならず、地歌、箏曲などの音楽芸能も専業とするほか、三療(鍼、灸、按摩)に従事する者もあった。明治維新後,1871年(明治4)に当道組織は解散させられたが、とくに地歌演奏団体において名のみ遺存させて、それらの団体から私的に検校、勾当などの称号を発行することも行われている。 (平野 健次)

・瞽女
 三味線を弾きながら、歌や物語を聞かせて金品を得る盲目の女芸人。盲御前(メクラゴゼ)ともいう。すでに室町時代から知られ、鼓を打って《曾我物語》などを語った。近世に入って諸国を巡り、家々の前に立ったり座敷に招かれたりして、三味線を弾き、民謡や俗曲、当時の流行歌(ハヤリウタ)などを歌って米や金を得ていた。瞽女は地域によって組織を作り、旧幕時代には城下に瞽女屋敷や長屋を与えてその保護に努めた大名もあった。通常、瞽女は3人,5人と群れをなして歩いたが、その順路や日程も毎年定まっていた。新潟県上越市高田の〈高田瞽女〉は各地の瞽女の中で組織の大きさと、最近まで後裔が残っていたことで有名である。その演目は明るい性格のバレ歌もあるが、概して暗く悲しい物語を七五調の曲節に乗せて語り継ぐクドキ(口説)が多く、《葛の葉子別れ》《山椒太夫》《石童丸》などの曲目がよくうたわれた。女性であり、かつ身体障害の苦を負いながら、幼いころから組織の中で厳しい修練を受けて一人前の芸人になるといった境遇が、暗い哀愁にみちた芸風をつくりあげたかと考えられる。広く各地の民衆に支持され、村々の盆踊歌の素材になったり子どもの遊び歌にも転用されたりしているが、各地とも後継者はほとんど絶えた。 (織田 紘二)

・奥浄瑠璃
 仙台浄瑠璃、御国(オクニ)浄瑠璃、御国節ともいう。〈奥〉は奥州の意で、仙台を中心に宮城・岩手県地方に行われた語り物の一種。座頭の坊、ボサマなどと呼ばれる盲人の専業で、幕末から目あきも語ることがあった。最盛期は化政期(1804-30)ころと考えられる。中世末期より語られたらしく、《奥羽永慶軍記》に座頭が〈尼公(アマギミ)物語〉を語った由が見え、また《誹枕》中の寛文(1661-73)ころの句に奥浄瑠璃の名が見える。芭蕉が塩釜の旅宿でこれを聞いたとする《おくのほそ道》の記事は有名だが、南部の人宇夫方(ウブカタ)広隆の《遠野古事記》、菅江真澄の《霞む駒形》《はしわの若葉》などに18世紀中・後期のその様がうかがわれる。19世紀初頭ころまで、江戸から古浄瑠璃正本の刊本が奥州に卸され、奥浄瑠璃の正本とされた(《嬉遊笑覧》《用捨箱(ヨウシヤバコ)》)。今日知られる曲目に〈竹生(チクブ)島の本地〉などの古浄瑠璃物、〈尼公物語〉〈烏帽子折(エボシオリ)〉〈牛若東下り〉などの判官物、〈田村三代記〉〈迫(ハザマ)合戦〉(御伽草子《田村の草子》《もろかど物語》と同材)などの特有物があり、異本を含めて七十数曲が伝えられている。伴奏には琵琶を用いたともいわれるが、古くは扇拍子を用い、宝暦(1751-64)ころから三味線にかけられた。曲節は古浄瑠璃の系統か、平曲、幸若舞曲(幸若舞)の系統か不明。三味線の伴奏法には平曲に類似するところがある。流派に城札(ジヨウサツ)流、かほ一流、重一(シゲイチ)流が宝暦ころに興り、天保(1830-44)ころに城札流から喜右衛門流が興った。大正ころから急速に衰えたが、最近まで一関市の北峰一之進(1889-1973)が伝承した。 (山本 吉左右)

・イタコ
 東北地方の津軽・南部地域で活躍する巫女の名称。多くは盲目の女性で、初潮前の少女期に師匠を決め弟子入りする。修業期間には、経文、大祓の祈祷、筮竹(ゼイチク)による占いなどを習得し、一種の神婚であるカミ憑ケの儀式により自らの守護神・仏を感得し、独立する。イタコはホトケ(死霊)の口寄せをすることに特徴があり、下北半島恐山、津軽半島金木町川倉の地蔵盆や地蔵講はイタコマチと称されて多くのイタコが集まる。また、春秋にはオシラアソバセと称し、村の旧家筋にまつられているオシラサマを両手に持ち、オシラ祭文を語りながら舞わせる。それが終わると村占い、各家別の占いが行われる。各家でまつる氏神も春秋2度の祭りの日にイタコを招きカミオロシを行う。病気祈祷ではその原因になっている霊の種類を占い、オッパライと称してそれを祓うことが行われる。猫・蛇・馬などが複雑に描かれた津軽地方独特の小絵馬はこのためのもので、イタコ絵馬と称されている。 (佐野 賢治)

 広瀬浩二郎は、盲人の宗教的職能者の役割と評価について次のようにまとめている。
「日本の民族社会の中に生きる地神盲僧、イタコたちは、中世以来、盲人のみによる師弟継承により独特の芸能や儀礼、神話的縁起を持ち伝えてきた。その活躍は文化の創造者・伝播者と呼び得るものであり、民族宗教の世界の中でときには民間文芸の担い手として、ときにはシャーマン的呪術者として逞しく生きてきた。
 一方、彼らの組織を支えた村落共同体は、暗黙の相互扶助として障害者に役割と保護を与えてきた。庶民は「目の見えない者はむかしからイタコ(盲僧)をやってきたんだ」という単純な論理の元、貧困と劣悪な自然環境の中にあっても盲人たちの座的結合を支援した。その社会連帯観念の裏には当然、特殊な能力を持った盲人職能者にたいする熱烈な宗教的ニーズがあった。「盲」にたいし一種の神秘性を見て、そのイメージの下に独自の小宇宙を作り上げる営み――盲僧・盲巫女の排他的集団形成は、近代ヒューマニズムの流れからすると極めて非合理かつ非科学的と言える。しかし、障害をプラス志向でとらえるという点では、通俗的因縁論や近代の廃人観念とは異なるユニークな障害者観を提示していると考えられる。」
 (『障害者の宗教民俗学』 1997、明石書店)

※日本における宗教・芸能分野での盲人の役割は、世界に類例を見ないほど文化史的に極めて重要だと思われる。しかし、日本に限らず世界の各文化圏においても、宗教・芸能分野で活躍した盲人の記録は散見される。とくにイスラム圏では、コーランなどの暗唱の能力が重視され、そのような能力に秀でた盲人の活躍が目立つ。知識の伝承が文字ではなく暗唱に基づいている社会・時代のほうが、見えないことが知識の獲得・伝承に障害にならなかったと言える。

●三療
 日本において盲人が按摩・鍼・灸の三療を生業とするようになったのは、17世紀後半、杉山和一が管鍼法という盲人に適した鍼の刺入法を考案し、また幕府が杉山和一の技術を高く評価し厚遇して以降のことである。とくに、杉山和一およびその門下生が、江戸を中心に全国各地に数十箇所の講習所(「鍼治導引稽古所」などと呼ばれた)を設け、盲人に杉山流の按摩・鍼・灸を組織的に教えることにより広く普及するようになった。教科書としてはいわゆる『杉山流三部書』が使われ、カリキュラムも作られていた(ただし、点字など盲人用の文字はなかったので、教授はすべて暗記によった)。一般に近代盲教育は1784年にバランタン・アユイが開設したパリの訓盲院に始まるとされているが、日本ではそれよりほぼ1世紀前から盲人の職業教育が行われていたのである。
 最近では診察において臨床検査の数値や画像・写真などが重視される傾向にあるようだが、本来診察は人間の5感をフルに活用して行われてきた。診察法としては、西洋医学では視診、問診、聴診、触診、打診が、東洋医学では望診(=視診)、聞診(=聴診。音声の力具合を聞き分けたり、口臭や体臭をかぎ分けるのもこれにふくまれる)、問診、切診(=触診。脈診と腹診が重要)が使われてきた。盲人は視覚以外の感覚を利用するわけだが、とくに触診が重要である。皮膚そのものの様子だけでなく、皮膚を通して筋肉や腱や血管などの様子、さらには、ヘッド帯などのように、内臓器の異常が内臓=体性反射を通じて皮膚表面や表在筋に表れる過敏点や硬結などを確認し、また治療点となる経穴(つぼ)の位置を探り当てる。三療の施術では、施術者の手・指と患者の身体とが直接触れ合うことにより(あるいは鍼を通しての間接接触により)、診断と治療とがいわば不即不離の関係で一体的に行われていると言える。三療では、手・指の触覚・触運動的な能力が極めて重要である。
※ヘッド帯: イギリスの神経学者ヘンリー・ヘッド(Henry Head: 1861〜1940)が提唱。特定の内臓疾患が存在すると、内臓=知覚反射によって、ある一定の皮膚領域の知覚過敏となって表れる現象。例えば、狭心症では前胸部とともに左肩や左腕内側に、また膵炎では左胸部、尿路結石では鼠径部に過敏な痛み領域が表れるという。

 江戸時代中期以降、幕府や各藩の特別な保護下であったとはいえ、盲人には、琴や三味線、按摩や鍼、盲僧や瞽女やイタコ、さらには金貸し業、国学などの学問分野にいたるまで、多方面で生計を立て活躍する場が与えられていた。もちろん一般社会とのトラブルや盲人内部の組織対立などもしばしば表面化したが、盲人にいくつかの生きる術が与えられ、その能力が一般社会からかなり認められていたことは、現代の状況と照らし合わせて考えても、注目してよいことだと思う。


4.2 最近の職業、これからの職業
 明治に入って、それまで盲人に与えられていた特権はほぼすべて廃止された。そのような状況下で三療だけは、盲学校における主要な職業教育として採用され、また盲人団体やその関係者の粘り強い運動などによって、盲人の職業としての地位を維持し続けることができた。しかし、社会の近代化・牲欧化の進展もあって、琴や三味線、盲僧・瞽女・イタコといった、以前からの芸能・宗教的職能は衰退していくほかなかった。そして昭和に入ると、盲人=三療というステレオタイプ的な職業観が広く社会に浸透していった。
 三療以外の職業としては、まず音楽がある。早くからいくつかの盲学校に音楽科が設けられ、邦楽中心に養成が行われていたが、戦後はピアノや声楽などにも力が入れられるようになった。最近は、一般の音楽大学や海外の音楽院などで研鑽を積み、ピアニストやバイオリニストとして活躍する人たちも現われてきた。また、そこまでは行かなくても、ピアノ教室を開いたり各地でコンサート活動をしている人たちはかなりの数にのぼるようになっている。
 中途失明者への一般の職業訓練は、昭和10年代にまず失明軍人にたいして試みられた。一般の視覚障害者にたいしては、ようやく1960年代末以降、電話交換や機械工、プログラマーなどの職業訓練が行われるようになった。さらに、一般の大学、公務員試験など各種資格試験が視覚障害者にも開放され、徐々にではあるが職域はひろがりつつある。とくに中途失明の場合には、見えていた時に身に付けた知識・技術・キャリア・人間関係を十分利用することで、以前の職業に復帰したり、また新たな職業に挑戦したりできるようになりつつある。
 このように視覚障害をハンディとせずに自分の望む職業に就けるようになることは極めて重要であるが、私はそれとともに視覚障害の特性も生かすことのできる職業も大切だと思う。その一部は、三療や音楽のように、これまで述べてきたような以前から見えない人たちも活躍してきた職業分野であり、さらには、社会・文化の変化に応じて、視覚障害者がその特性や能力を発揮できるような新たな職業分野が開けてくるはずである。以下に、その例になり得ると私が考えているものを2、3挙げてみる。

●点字関係
 点字は見えない人たちの文字として一般社会からも広く認められ、点字による情報提供の必要性の認識は高まりつつある。統合教育における点字教科書、各種試験の問題やそのための参考書の点訳、職場内の資料の点字化、さらには各種の公報類やお知らせ等の点訳など、点訳の需要は急増している。良質の点訳物を提供するためには、点字に習熟し広範な知識を持った点字の校正・編集者が必要である。また、各種の製品や施設の点字表示、さらに、文字文書だけでなく、図や写真等の点字化・触図化のためには、触覚を通しての認知に精通した要員が求められている。

●ピアカウンセラー
 「ピア」は、「同じ仲間」の意味。ピアカウンセラーは、同じような障害を持つ仲間として、相談を聞き、助言し、サポートする仕事。ピアカウンセリングでは、障害者の経験に根ざした実践的な考えやノウハウが重視されるが、カウンセリングの過程を通じて、障害もふくみ込んでのアイデンティティの再確認→自己信頼の回復→自分らしく能力を発揮して生きる力を引き出すといったことが大切なように思う。また、女性には女性特有の悩みや問題も多くあるので、カウンセラーとしての女性障害者の役割も大きいと思う。
 各地の自立支援センターで視覚障害者もピアカウンセラーとして活動しはじめている。

●ユニバーサルデザイナー
 だれもがアクセスし利用できるサービス(情報提供も含む)・製品・施設(街づくりなども含む)といったユニバーサルデザインの考えは、理念としてはすでに一般に広く受け入れられつつあるが、その実現・具体化となるとなかなか難しいように思われる。多種多様な障害はもちろん、年齢の差、利き手の違い、さらには言語の違いや文化の違いまでふくめて、だれにでも使いやすい理想的な設計は、不可能にちかいのではなかろうか。実際には、より多くの人たちに利用可能な設計と、少数の、様々なニーズに合わせた各種の設計が必要だと思う。
 このような、だれでもが使い得るデザインのためには、実際の様々な利用者のニーズを細かく取り上げ、それらを調整し、技術的に可能にしていかなければならない。この過程には、幅広い知識と視点を持ったいろいろな障害者も積極的に参加しなければならない。すでに玩具会社で共遊玩具の開発に成果を上げている視覚障害者もいるが、各種の製品開発、さらには制度のプランニングまで関与できるようにしたいものである。
※2004年から、日本ユニバーサルデザイン研究機構主催で、ユニバーサルデザインコーディネーター検定が行われている。

 上の例は私が思い付いたものにすぎず、視覚障害の特性も生かし得る職業はまだまだ多くあるはずです。仕事を通して、また仕事の中で、視覚障害文化の継承・創造につながるようなものはないのだろうかと私は考えています。

目次に戻る


◆参考になったURL
色覚の多様性と視覚バリアフリーなプレゼンテーション

ミュージアム・アクセス・グループ MAR

ミュージアム・アクセス・ビュー

名古屋YWCAの美術ガイドボランティア

ブルックの会

ことばの道案内

盲人史 鍼・按摩史 Q&A

日本ユニバーサルデザイン研究機構

(2005年10月15日)