「視覚障害者の文化アクセスとソーシャル・インクルージョン促進事業報告フォーラム」に参加して

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 3月12日、エイブル・アート・ジャパン主催の「視覚障害者の文化アクセスとソーシャル・インクルージョン促進事業報告フォーラム」に参加するため日帰りで東京に行ってきました。
 1人で往復したのですが、JRの駅員にお願いすると次々にリレーするようにガイドしてもらえたので、とても楽な旅でした。また、会場は国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟501号室だったのですが、その2階にあるどこか懐しの学食風の食堂で本当に安く、たらふく昼御飯を食べることができました。

 さて、フォーラムは午後1時から5時過ぎまで、全部で7つの報告等が目白押しでした。ほとんど質問時間などが取ってもらえなかったのが残念でした。
 以下、各報告等のタイトルと内容、私の感想などを簡単に書きます。なお、各報告の内容についてはあくまでも私なりの選択と解釈によるものですので、かならずしも忠実・正確に内容を伝えているとはかぎりません。その点はご容赦ください。


◆挨拶: エイブル・アート・ジャパン常務理事 播磨 靖夫 (財団法人たんぽぽの家理事長)
 エイブル・アート・ジャパンについて紹介。1994年6月、障害のある人たちの芸術文化活動に携わってきた人々が集まって「日本障害者芸術文化協会」を設立。1997年と1999年に東京都美術館で「エイブル・アート展」を開催するなど、各地で展覧会やシンポジウム、ワークショップなどを開催。2000年6月、現在の「エイブル・アート・ジャパン」に名称を変更。
 活動のひとつとして、全国の美術館のバリアフリー調査も行ったが、それは各美術館のいわば悪い点をあげつらうのではなく、美術館スタッフと市民が協力してどのようにして美術館を開かれたものにしていくか、美術館の新しいあり方を目指してのもの。
 今回のフォーラムは、これまでエイブル・アート・ジャパンが支援してきた、視覚障害者との言葉による鑑賞ツアーなどの成果の発表の場であり、総まとめのようなもの。。
 見ることは客観的な報告ではなく、想像することであり、どのように感じイメージしたかが大切。とくに、言葉を通しての鑑賞ワークショップから明らかになるであろう「実践知」を強調、このフォーラムではそういう実践知を期待している。既成の美術史的な知識や見方の論理などにとらわれない、人それぞれに異なった鑑賞の仕方が明らかになるのではないか。
 その実践知のいわば集大成として4月に「百聞は一見をしのぐ!?」という冊子を出版するとのこと。
 (私もこの冊子を予約、 4月初めには届きました。また、この冊子のテキストデータは4月末よりネット上でも公開されています。)

*参考URL
 エイブル・アート・ジャパン
 「百聞は一見をしのぐ!?」


1 オープニング・トーク 『視覚障害者と美術、美術館』
  光島貴之(美術作家、ミュージアム・アクセス・ビュー) × 杉浦幸子(ギャラリー・エデュケイター、Arts for All Committee代表、元森美術館パブリックプログラムキュレーター)

 光島さんは、すでにご存じの方も多いと思いますが、独自のイメージと感性と手法で主に平面作品を次々と発表している全盲の作家です。また最近は、見えない人と見える人たちとの言葉を通しての鑑賞ツアーを行う「ミュージアム・アクセス・ビュー」の中心メンバーとして活動するなど、視覚障害者と美術館との新たなかかわりかたを実践している方でもあります。
 また杉浦さんは、六本木ヒルズの52・53階に2003年10月にオープンした森美術館で、視覚障害の人と見えるスタッフたちがグループで会話を通して作品を楽しむ「ヴィジョンツアー」を企画された方です。森美術館ではこのほか、乳幼児とその親がいっしょに鑑賞する「バギーツアー」、小学生対象の「キッズツアー」、手話でコミュニケーションをとりながら鑑賞する「サインツアー」など、多彩なプログラムが用意されています。

 主に杉浦さんが光島さんに、これまで美術や美術館とどのように関わってきたかを中心にインタビューしていました。
 光島さんは幼稚園のころは少し見えていて絵を描いたりしたが、うまく描けていないと回りの子たちから言われて断念。盲学校では粘土。大学卒業後、教壇に立ちたかったが実現せず、鍼の仕事を始める。しかしそれだけではどうしても満足できず、1990年ころ西村陽平さんの主催する粘土を使ったワークショップに参加、粘土による造形を始める。
 平面作品への転機となったのは、1995年、イタリア人でイギリス在住の全盲の石彫作家フラービオ・ティトロ(すでに亡くなっている)との出会い。彼は下絵を細いラインテープを使ってスケッチブックに描いていた。彼は青年期まで見えていて、遠近法も使われていたが、それを触ってけっこう面白いと思えたし、これなら自分にも絵が描けるかもしれないと思った。
 ラインテープやカッティングシートを使った自分の作品は、初めのころは触ってもいいということにしていたが、よく破損し修繕しなければならず、今はほとんど触われないようにしている。写真やポスターにすればもちろん自分でも触われない。
 自分の描いた作品を触われないのは残念ではあるが、他方、見える鑑賞者の説明を聞いているとよく自分の持っていたイメージとのギャップのようなのがあり、そのギャップがとても面白い。それがヒントになって次の新たな作品へと展開されることも多い。 (鑑賞者と対話しながら製作しているようです。)

 次に美術館との関わりについて。
 当初はとにかく触わらせて欲しいと要求したが、実際にはあまり認められず美術館側としばしば緊張した場面もあった。今から思うと、触ることにこだわり過ぎていたのではないか。途中からは見える人たちとグループで言葉を通して鑑賞するようになった。1人でじっくり触る鑑賞から、何人かで共同の言葉を通しての鑑賞へ。
 (私は今も前者の触る観賞の仕方に重点をおいています。言葉を通しての鑑賞ではイメージする力がとても重要ですが、とくに視覚経験のない者の場合、そのイメージする力を育てるにはまず触り体感する経験をできるだけ多く積まなければならないと思うからです。)
 初めて美術館に行く見えない人には、現代アートが適しているのではないか。現代アートの作品には、視覚だけでなく、触覚や聴覚などの感覚にもうったえるマルチなものがあるので、入門には良い。そして、カフェやレストランでいっしょに行った人と会話するのも良い。

 私が光島さんの話でもっとも興味深かったのは、鍼の仕事と作家活動との関係。当初鍼の仕事だけではどうしても満足できず、今のように鍼の仕事と創作活動の両方を続けるようになったが、このやり方は鍼の仕事のほうにもプラスの影響があるようだ。鍼では患者さんから症状や痛みなどの表現を「聞く」ばかり。自分を作品を通して表現しないとバランスが取れないとのこと。私も、回りから受けるだけでなく、自ら表現することは、人間の生活としてとても重要だと思います。

 最後に、光島さんのほうが杉浦さんに森美術館でのヴィジョンツアーの経験についてインタビューしました。
 杉浦さんがヴィジョンツアーを実施するに当たり一番心に懸けたことは、視覚障害者が分かりにくい場所にある美術館までとにかく無事に来られるかということ。展覧会場まで気持ちよく来ていただければ、それはその後のヴィジョンツアーにも好影響をもたらすのではないか。 (このことは「触るミュージアム」でも大切な点だと思いました。)
 また、視覚障害者が展覧会に来る目的も様々(作品に関わるいろいろなエピソードまで知りたいとか、作品よりもとにかく会話するのがたのしいとか)で、そのニーズと説明するスタッフやボランティアとのマッチングが問題。今は視覚障害者がニーズに合せて選べるようにはなっていない。でも、それはそれで仕方がない、良いのでは。

*参考URL
 光島ギャラリー・触覚で世界を描き出す
 視覚障害は光からの解放 光島貴之/盲目のアーティスト


2 レポート1 『視覚障害者に美術を開いたパイオニア「ギャラリーTOM」の取り組み』 岩崎清(ギャラリーTOM副館長) 
 ギャラリーTOMは、視覚障害者が触ることのできる美術館として有名。
 1984年に開館、以来これまでに開催された多くの展覧会について順に紹介。ロダンの彫刻など有名な作品だけでなく、工芸品や民芸品、陶磁器、現代アート的なものなど、また素材も石・木・紙、鋳物など様々、主法も様々、作家も私のよく知らない人たちが次々と登場、とても多彩な展示品をスライドで次々に紹介していました。
 もちろん見えない人たちの触る鑑賞を中心にしている訳ですが、美術に縁遠い人たちにも来館して欲しいと、これまで普通の美術館ではあまり取り上げられてこなかったような作品も多く展示。その中には、ズビネック・セカールなど、日本では初公開のものもかなりあるとのこと。
 また、1986年から隔年で、全国の盲学校の生徒の作品から良い物を選んでTOM賞を贈るなど、見えない人たちの芸術活動も支援。さらに、海外との交流や鑑賞ツアーなど、その活動は多方面にわたっていることが分かりました。
 作品の美術史的な意味よりも、作品そのものの持っている性質を純粋に感覚で直接感じてほしい、また感覚的に快いと感じ取ってもらえるような展示品を取り上げてきたとのこと。
 ただ、私がちょっと気になったのは、「目の見えない人は触り、見える人は見る」と何度も繰り返し言っていたことです。私としては、見える人たちにも、レプリカを使うなど、少しでも触ることができるような工夫をしてほしいと思いました。

*参考URL
 ギャラリーTOM


3 レポート2 『毎回100人以上の視覚障害者が来館する東京都美術館の「障害者特別鑑賞会」』 松木寛(東京都美術館学芸員)
 東京都美術館は、10年ほど前、機構改革により収蔵品をすべて東京都現代美術館に移した。そのため常設展はなくなり、年4回の企画展などが中心となった。
 企画展は、入館者が1日当たり数千人(ときには1万人をこえることもある)もあり、障害を持つ人たちがゆっくり鑑賞できるような状態ではなかった。美術館として障害者にどのように対応したら良いかを、エイブル・アート展で協力していただいていたエイブル・アート・ジャパンに相談。
 その結果、1999年から、エイブル・アート・ジャパンやミュージアム・アクセス・グループMARのボランティアの全面的な協力を得て、企画展を障害者にもゆっくりと安心して鑑賞してもらうことを目的に、企画展中の休館日(月曜日)1日を開放して「障害者特別鑑賞会」を実施。
 障害者特別鑑賞会の様子は、3月7日NHKの番組「スタジオパークからこんにちは」で放映されたビデオで紹介。1人でゆっくり鑑賞する人、車椅子でのぞき込むように鑑賞する人、視覚障害者も、弱視の人は懐中電灯で照らしたり単眼鏡を使ったり、また全盲の人は見えるガイドの言葉による説明を通して鑑賞するなど、様々な鑑賞風景が見られるようです。
 様々な、多数の障害者のそれぞれの鑑賞の仕方は、美術館スタッフにとっても、また一般の見える人たちにとっても、とても新鮮だったようです。そして、毎回百人以上の視覚障害者が美術館を訪れること自体驚きであり、またそこで展開される様々な鑑賞の仕方は、美術館と視覚障害者との関係を考えるうえでとても貴重なものだと言えます。報告者の松木さんは、「このような実践知から再構築したロジックが必要」だと述べていました。

*参考URL
 東京都美術館
 東京都美術館障害者特別鑑賞会

4 レポート3 『視覚障害者の芸術環境を整える韓国の視覚障害者芸術協会の多彩なプログラム』 オム・ジョンスン(視覚障害者芸術協会副会長、アーティスト)
 韓国の視覚障害者芸術協会は、視覚障害者が芸術的な才能を開花させることができる環境を整えるために、若い芸術家や研究者を中心に1997年に設立された団体です。現在会員は約20人。以下に示すように、その活動は多方面にわたり、またかなりシステマティックのようにも感じました。触る研究会にとっても、また触るミュージアムのこれからの活動にとっても、たいへん参考になるものです。

●アートワークショップの実施
 韓国視覚障害者芸術協会が初めに行った事業。芸術家と視覚障害のある学生が共同で進めるワークショップ。これまでに6箇所で実施。
 視覚障害者は自分を表現する欲求お持っており、その場合視覚障害は障害ではなく、かえって新たな創作の環境となる。また、芸術家や研究者にとっても、ワークショップへの参加を通して、自分たち自身のエンパワメントにもなっている。
 ワークショップでは、例えば、共感覚的な体験、歴嗜に関わるイメージ、身体に関わる表現(相手の身体の表現、自分の身体の人形化、弱視の人の場合は見える範囲で相手の身体を描く)、美術館・博物館に出かける、などを行ってきた。視覚障害者は、ふつうは修学前の子供たちでも持っているような(韓国の)歴史的・伝統的なイメージを持っていない、という指摘には、(私もそうなので)なるほどと思いました。

●展覧会「Another Way of Seeing」の開催
 アートワークショップの活動を通して作られた視覚障害者の作品の展覧会。障害者の作品としてではなく、あくまでも芸術作品として展示し評価する。1998年11月ソウルで開催。以後これまでに4回実施。

●「点字触覚アートブック」の製作・出版
 視覚障害児の必要性・ニーズに合せて、視覚障害児向けの絵本を製作してきた。(点字・墨字併記のようです。)
 スケールに対する感覚、動作や連続性に対する感覚、直感力、立体化などのテーマに合せて絵本を作っているようです。例えば、直感力、物の本質をとらえる直感力のためには、点が1つで鉛筆、点が2つで箸、点が3つでフォークを表すような絵本を作ったそうです。

●その他、視覚障害者向け美術教育プログラムの研究・開発や、海外との共同プログラムなど、積極的に活動し、またその成果も着実に出しているようです。これまでに、ギャラリーTOMとの共催事業や、エイブル・アート・ジャパン主催の国際会議などにも何回か参加しているようです。

 最後に、オム・ジョンスンさんは、本来自己中心的なはずの芸術家がなぜこんなボランティア活動をしているのかと問われることがあるが、それにたいしては「アーティストの創造的な活動にとって視覚障害者との活動から得るものがとても大きいから」というように答えているとのこと、とても印象的な言葉でした。


5 レポート4 『市民による視覚障害者との鑑賞グループの立ち上げ』 寺田未緒(静岡アートギャラリー学芸員)
 エイブル・アート・ジャパンでは、2004年秋から全国6都市(仙台、富山、神戸、静岡、福岡、札幌)で、市民のボランティアグループと視覚に障害のある人たちが、言葉で美術鑑賞をするワークショップを開催してきた。(私は、昨年末12月26日に神戸で開催された、折紙作品を見える人と言葉を通して鑑賞し、また実際に折紙を作るワークショップに参加しました。)
 寺田さんは今年1月静岡県立美術館で行われたワークショップニ参加。テーマは「絵は音楽を夢見た」で、音を出して楽しむ作品もふくまれていた。参加者は、視覚障害者8名、晴眼者16名。
 寺田さんはもう1人の見える方とともに、70歳の、数年前に失明した女性と言葉による鑑賞を行い、その時の様子を紹介。
 問題のひとつは、どのようにしてこのようなワークショップの情報を視覚障害者たちに知らせるかということ。結局、かたりべの会などの地元のボランティアグループに呼びかけてもらい、そういうグループと関わりのある活動的な視覚障害者たちが参加したようだ。
 さらに寺田さんは、自分の職場である静岡アートギャラリーで現在視覚障害者との鑑賞ツアーを企画中とのこと。後で電話で問合せてみたところ、今年の8月ころ「エルミタージュ美術館名作展」の鑑賞ツアーを実施するとのことです。

*参考URL
 静岡アートギャラリー


6 スペシャル・レポート 『コミュニケーションの視点から・視覚障害者との言葉による鑑賞』 塩瀬隆之 (京都大学大学院情報学研究科システム科学専攻 助手、工学博士)
 人間とロボットとのコミュニケーション、とくに雑談コミュニケーションに興味のある塩瀬さんは、視覚障害者との言葉を通しての鑑賞からいろいろなヒントを得ているようです。
 公立はこだて未来大学の伊藤精英さん(全盲)とルーブル美術館やオルセー美術館などで鑑賞(一部は触われる物もある)した時のことを例にしながら、視覚障害者との鑑賞だと、とにかく言葉に出さなければならない状況、客観的とか正しいとかに関係なく、とにかく感じたままを話すしかない状況になるとのこと。そして塩瀬さんは、そういう状況でのコミュニケーションの体験から、コミュニケーションの様々なあり方や性質について考えているようです。
 客観的とはなにか、共感覚的な表現法など、塩瀬さんのお話しは面白かったです。
 以下、当日の塩瀬さんのレジュメから一部引用します。
(ここから引用)
 情報学の研究者としていろいろなコミュニケーションをみてきた経験から言えることは、「客観的に伝えようと気負う必要はなく、ありのまま感じたことを言葉にして欲しい」、ということです。
 わたしたち人間は、視覚や聴覚を高度に発達させたことで、今の文明社会を築いたといわれていますが、「やわらかい光」や「あたたかい色」といった表現が多用されることは、そういった視覚経験が日ごろから肌で触れるような別の感覚を呼び起こしながら感じていることが示唆されます。その目や耳で経験したことは、日常的に肌や舌で感じるような感覚的表現を多用し、五感を総動員して全身で感じているのです。
 客観的事実の伝達に必要以上にこだわってしまうと、たとえば絵画の構図や、描かれている登場人物の数など、誰が見ても同じに見える事柄ばかりに固執してしまい、自分の五感が感じたありのままを言葉に表す勇気を無くしてしまいます。嘘や偽りを伝えることは論外ですが、主観的に感じた印象を、五感を総動員してありのままに伝えればこそ、視覚に障害のある方々にとっても感覚を総動員して美術作品を感じるきっかけを提供できるのかも知れません。
 言葉が視覚にとってかわるなどと言いたいのではありません。主観であることを素直に受け入れ、ありのままに感じたことを言葉にするだけです。
 たった一人で絵と向き合う場合とは、また違った出会いになると思います。もちろん徹底した主観的な感覚表現を頼りにしますので、異なるパートナと言葉を交わせば、同一の美術作品であってもまた違った印象を受けると思います。しかし、それもコミュニケーションの本質です。
(引用終わり)

 上の引用文に出てくる「やわらかい光」や「あたたかい色」といった共感覚的な表現は、視覚・聴覚・嗅覚のような遠隔感覚を、触覚(皮膚感覚)や味覚のような接触感覚に置き換えて表現したものです。その他、「あまい声」「すっぱい匂い」などありますが、これらはみな馴染みのある表現であり、ごく自然に受け取れます。これにたいして、接触感覚を遠隔感覚に置き換えるような表現(たとえば「あかるい甘さ」とか)は、ほとんど馴染みがありませんし実際どんな感覚なのかよくわかりません。
 このような事実は、皮膚感覚のような直接身体で感じ取る感覚が、私たちにとって極めて基本的かつ重要なものであろうことを示唆しているように思います。


7 クロージング 中村誠(埼玉県立近代美術館学芸主幹)
 埼玉県立近代美術館では、昨年から常設展の「ミューズ・フォーラム」というプログラムを始めている。これまでは美術館を利用する立場であった外部の人たちと美術館スタッフが共同で、展覧会を企画・運営するという新しい試み。
 以下、当日配布された、埼玉県立近代美術館ニュース「ソカロ」(2004年8・9月号)から引用します。
(ここから引用。[ ]内は私の注。)
常設展 新プログラム「ミューズ・フォーラム」――出会いと創造の広場に向かって
 「ミュージアム」という言葉をさかのぼると「ミューズ(技芸をつかさどる女神たち、美神たち)の館」にたどりつきます。ミュージアムの原型とされる古代アレクサンドリアのムセイオンは図書館・資料館にホールや展示室を備えた、今でいうと情報文化センターのようなものだったと思われます。つまりミュージアムとは、元来さまざまな人が集い出会い、質の高い情報や芸術の刺激を受けながら、明日への魂の糧を得、創造的な活動の契機を生み出していく「広場(フォーラム)」であったといえます。
 21世紀の美術館には、従来の啓蒙主義的な美術史美術館として、価値の規範・源泉となる「名作」を保存し公開する場という以上に、新たな出会いをオーガナイズし、創造的な活動の種子をまく、いわば「ミューズ・フォーラム」としての機能が求められるようになってきました。
 (中略)
 このプログラムは、美術館という場と収蔵品を手がかりに、通常は美術館を利用する側である外部の方々の協力を得ながら、共同で企画・実施するものです。……
 第1回の今回は、エイブル・アート・ジャパンとミュージアム・アクセス・グループMARの皆さんにご協力をいただきました。……[関連事業として、ミュージアム・アクセス・グループMAR」による言葉による鑑賞ツアーも行っている。]
 私たちが、一つの作品から受け取る印象や感じ方、感じたものの表し方は、見る人の感性や経験、そのときの関心の所在によって千差万別、十人十色いや十人百色といってもいいでしょう。一つの見方を強いるのではなく、このような多様な見方が存在し、それが相互に対話し影響を与えあうという点が、アートの楽しさ素晴らしさでもあります。
 今回、常設展示室の小コーナーでは、当館の作品[ロイ・リキテンシュタイン(アメリカの著名なポップ・アート)のドットによる「積みわら 7」]とその作品の体験に触発されて制作された光島貴之さんの作品[線による「ねじれ」]を並べて展示しました。……ゆったりとソファに座っていただくと、この二つの作品を巡って、色とりどりの会話が聞こえてくるでしょう。
 (後略)
(引用終わり)


◆質問とまとめ
 報告は以上の7つで終了。最後に10分くらい質問の時間がありました。

 まず、大阪教育大大学院の学生から、「言葉による鑑賞で得られた作品の印象は残るのでしょうか」という質問がありました。
 これにたいして、光島さんは「ぼくは実際に作品を描いていることも関係しているかもしれないが、十分に印象は残って、それをヒントに自分の作品を考えたりもする」というような内容の答えをしていました。
 光島さんの場合は、これまでに実際に触ることもふくめ多くの経験から、説明されるそれぞれの言葉からかなり具体的なイメージを作ることができるので、このように答えられるのかもしれません。

 次に、ギャラリーTOMの岩崎さんが、「言葉による鑑賞は本当の鑑賞になっているのだろうか。作品にはそれぞれ伝えられるべき意味があるはずだが、それはどの程度伝えられているのだろうか。触ることもなければ……」というような質問をしました。
 この質問にたいして、埼玉近美の中村さんは、「確かに一般のボランティアの説明を聞いていると美術史的に言えばしばしば間違った説明もある。しかし、それでも良いのではないか。人それぞれの見方を認めて行きたい」というように答えていました。さらに、「見えないとつい触われば良いという考えが言われるが、ただ触るだけではたいした鑑賞になっていないのでは」とも言われました。
 中村さんの言うように、美術作品はもちろん人それぞれの見方で鑑賞すれば良いと思いますが、ただ、私のようにこれまで美術にほとんど馴染みのない者にとっては、美術の伝統の中での位置付けや歴史的な背景や技法なども作品を鑑賞するうえで大きな参考になることは確かです。
 中村さんの「ただ触るだけではたいした鑑賞になっていないのでは」という指摘は、まったくその通りです。しばしば見える人たちの中にも、見えない人たちにはとにかく触らせれば良いのだということで、ただ作品に手を触れさせるだけの人もいますが、これではまったく不十分です。確かに触ってみなければ分からないような特性もありますが、視覚に比べて触覚にはいろいろ限界がありますし、また多くの美術作品は視覚的な効果を大いに利用したものなので、そういうことについて言葉による詳しい説明が必要です。触覚中心の鑑賞は、言葉による説明とセットになっていなければなりません。

 最後に私は次のような意見を述べました。
・触覚の印象も確かにそのうち消えやすいものだ。私はできるだけ彫刻などを触った印象を言葉で残そうとしている。そのほうがずっと印象に残りやすい。彫刻などについて、見える人と見えない人がともに触りながら言葉を通しての鑑賞をすれば良い。見える人にとってもいろいろ発見があるのでは。
・絵画などの言葉による説明だけでは、私自身はあまり理解できず、いわゆる作品鑑賞にはなっていないと思う。しかし、中途失明の人、とくに見える時に絵に興味のあった人たちの場合には、言葉による説明でかなりよく類推しイメージできているようで、有効な方法だと思う。説明してくれる人が2人以上いれば、それぞれの人の説明の違いからかえって自分なりに想像したり楽しんだりできる。説明する人が1人だと、説明する人とされる側というような関係になりがちだ。

 今回は、ギャラリーTOMを除いて、美術作品の言葉による説明・鑑賞が中心テーマになっていました。一般の美術館の場合、視覚障害者へのもっともやりやすい解放のしかたがこの方法だと言えるように思います。見えない人といっしょに説明・ガイドしてくれるボランティアの協力が得られればできる方法です。今の美術館を取り巻くきびしい状況からすれば、視覚障害者のために特別にレプリカや模型などを作り、また特別に展示スペースを設けたりスタッフを配置するといったことは、なかなか望み薄のように思います。
 美術館が障害者に広く解放されると言う場合、視覚障害と他の障害の間の違いをしっかり考えておくべきだと思います。視覚障害以外の障害では、とにかく展示作品は直接見えているわけですが、視覚障害の場合は作品は直接見えてはいない、直接感覚器官を通しては観れていないということです。私は、作品の鑑賞には基本的には感覚器を通しての体感ないし感覚印象・イメージが必要だと思っています。このことは、いわゆる先天盲のように、視覚経験が乏しくまた経験した世界も狭い人の場合にとくに重要です。もちろん、視覚経験も含め感覚器を通しての多くの経験を積み重ねている視覚障害の人の場合には、言葉による説明だけでもかなりイメージ化し鑑賞できるでしょう。
 ところで、言葉による説明・鑑賞は、実は視覚障害の人に特有の方法ではありません。見える人たちでも、1人での鑑賞だとしばしばただぼんやりと見てしまうというようなことをよく聞きますが、互いに言葉を通しての鑑賞をすることで、作品をより深く多面的に鑑賞できるようになるでしょう。それは、美術への関わり方、さらにはこれまでの美術館のあり方も変えていくきっかけになるはずです。
 言葉を通しての鑑賞はとくに中途失明の人たちには有効な方法ですし、一般の美術館での視覚障害者の鑑賞方法として今後もっと普及することを願っています。
 それに加えて、私としては、とくに視覚経験の乏しい人たちを中心に、触覚もふくめ視覚以外の感覚で体感し鑑賞できるような様々な場とプログラムがぜひとも必要だと思っています。このような場とプログラムを提供することが、私が構想している「触るミュージアム」の重要な役割の一部でもあります。

(2005年4月30日)